2009年03月28日 00:32

お気遣い頂き、本当にありがとうございます。日本の社会保障問題がILOより指摘されました。公正を目指して。

私には夢がある―M・L・キング説教・講演集

お気遣い頂き、本当にありがとうございます。心から深く感謝致します。先日より非常に耳鳴りが酷く、病院に行ってきました。お薬を出してもらったんですが、頭が痛いです。病院に来ている人々が多くなっており、先のNHKのうつ病についての特集効果があるのかもしれませんが、今年度になって以降、精神の病を抱えたお方々が増えているように感じます。大勢のお方々の生活が大変になってきているというのはあると思います。生活保護は、生活保護申請を助けてくれる福祉団体等に相談しておりますが、かなり難しいみたいです。

先日、日本の社会保障問題が、ILO(国際労働機関)から指摘されました。僕も失業手当不受給者で、公的な援助は障害者自立支援法と障害者手帳以外何もないので、これをきっかけに、少しでも、日本の社会保障問題が、改善されてゆくことを望みます。

<失業手当>不受給77%…日本は先進国中最悪の水準 (毎日新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090325-00000033-mai-bus_all
【ジュネーブ澤田克己】国際労働機関(ILO)は24日、経済危機が雇用に与えた影響についての調査報告書を発表し、失業手当を受給できない失業者の割合が日本は77%で、先進国中最悪の水準にあると指摘した。2番目に悪い水準のカナダと米国(同率の57%)を大きく上回っているとしている。

他の先進国は、英国40%、フランス18%、ドイツ13%で、日本は受給できない人の割合が際立って多い。

日本の場合、失業手当受給に必要な保険料納付期間(1年)の制約のために受給できていない非正規雇用労働者が多いことなどが反映したとみられる。

報告書は特に、日米カナダの3国を列挙して「受給要件が(他国より)厳しいため、手当を受け取っていない失業者が半数を超えている」と指摘した。

失業手当を受給していない失業者の人数は、米国630万人、日本210万人、英国80万人、カナダ70万人、仏独がそれぞれ40万人で、人数でも日米が突出している。

また、先進7カ国で、今年初めまでの12カ月間に失業した人の数は、米国が410万人でもっとも多く、日本は2番目で29万人、3番目がカナダの20万7000人だった。

一方、途上国では、都市部だけで制度が運用されている中国で、都市部の失業者の57%が手当を受け取れていない。全国規模に換算すると84%近くが受給できていないと推定された。ブラジルも、失業者の93%が手当を受けていないという。

『国際労働機関(ILO)は24日、経済危機が雇用に与えた影響についての調査報告書を発表し、失業手当を受給できない失業者の割合が日本は77%で、先進国中最悪の水準にあると指摘した。』僕もこの一人(失業手当不受給者)です。現代日本の政治的方向性として、『働けざる者は須らく食うべからず』としか言い様のない、政界の与党自民党と財官学界の新自由主義主義者ら(竹中平蔵氏ら)が掲げ動かしてきた社会保障削減の大きな方向性(新保守主義)があり、その流れの結実ともいえる極めてよくない結果であると思います。

こういった流れを少しでも、押しとどめなければならないと思います。そのためには、よくないことはよくないと、不公正はおかしいと、きちんと、一人一人、声をあげないと、いけないと思います。僕もその僅かな一助になれれば幸いです。

既存の不公平な体制に、弱い層が異議申し立てをすることを、「ルサンチマン充」とか訳の分からない造語を唱えて否定してくる人々がいますが、ルサンチマンとは、哲学者のフリードリヒ・ニーチェが、神学的な既存体制(ルール)に対して、それの根拠のなさを明らかにしたときに使ったことで有名になった言葉であり、既存の体制に反逆する言葉です。力(権力の諸関係)を、善悪とは切り離してみるという考え方が根本にあり、例えば、ニーチェは日本の武士を称揚していますが、「道徳の系譜・善悪の彼岸」などを読めばわかるように、決してルール的(規範的)な「武士道」を称揚しているのではありません。ニーチェは武士を海賊と並べています。善悪の彼岸において、ニーチェは武士の野蛮な強さを力として肯定しています。そして、その野蛮な強さがどこからでてくるのかということで、きちんと、憎しみや怒りといったルサンチマンも挙げています。(先の「道徳の系譜・善悪の彼岸」「生成の無垢」等)。

例えば、明治維新時、その圧倒的な猛々しき人斬りの実践的強さで他流派の人々を恐怖させ、明治維新の原動力の一つとなった剣法「示現流」について、漫画家の平田弘史氏は島津藩と示現流の詳細な資料に当たり、『怨念の剣法ゆえ、恐ろしく強い』ということを作品に描いています。(平田弘史「薩摩義士伝」)。黄民基氏の文章が簡約かつ詳しいので引用してご紹介致します。

劇画家平田弘史の真面目を表した作品の一つに「薩摩義士伝」があろうかと思われる。(中略)そこには主家への「忠義の情」といった武士道のロマンチシズムはひとかけらも認めることができない。武士とは名ばかりの極貧の暮らしに縛られ、しかも上士(城士)−下士(郷士)の厳格な身分階級制に繋がれた郷士たちの怨念によって平田は「薩摩士魂」を浮かび上がらせている。

たとえば、「示現流」だ。凄惨な差別と貧困のもとでいつしか心の底に憎悪の鬼神を宿していった郷士らの、毎朝のように猿にも似た奇声を発し木々に木剣を打ち込んでは憎悪の感情をぶつける光景が登場するのだが、藩支配層がこれを「武道の鍛磨、不満の解消の一石二鳥」とみなして義務付け、さらには「示現流」を島津家の「家流」にしていくというくだりが実にドラスティックに表現されているのである。

「ひえもん(生臭いもの)とり」という当時の薩摩藩の秘話も披露している。「東西両軍に別れて死罪人を馬にのせて放ち、これの生肝を争奪するという実戦さながらの風習あり…」。朝夕の木剣の打ち込みだけではもはや鬱憤が晴れぬようになっていた郷士たちに、「古来よりの薩摩隼魂」注入の場としてこの慣わしを用い、彼らの不満解消をはかるとともに、国の気風を実戦さながらに培おうという、薩摩藩特有の軍法であったそうだ。示現流の由来といい、「ひえもんとり」というエピソードといい、他の時代劇画はいうに及ばず、時代小説も含めてここまで薩摩武士道の様を描いた作品はそう見当たるものではない。

簡略ながらこう説明していくと読者諸賢はお気付きになられるだろう。平田作品の醍醐味は緻密な時代考証がベースとなっている。平田の僚友、桜井昌一が「平田は、劇画家になって、連日のように天理図書館に通った。時代ものの資料を漁り、また、古文書の解読に興味をそそられて、当て字に悩まされながら、自己流の辞引などを作成していた」とふりかえっているように、創作にあたるたびに、平田は史書、古文書の類を懸命に紐解いたことだろう。京都三十三間堂の「通し矢」の由来を描いた「弓道士魂」、剣豪男谷精一郎の生き様を蘇らせた「オタニ伝」など、平田作品には、そうした彼の時代劇に寄せられる姿勢がうかがえる。
(黄民基「勝者の虚しさ」)

既存の体制を変えてゆくものとして、弱者の怒りの発露があり、その怒りを抑圧する体制側の決める善悪観こそは、体制側のルサンチマンであるということをニーチェは述べています。彼は、「強者は守らなければならない、なぜなら強者は少数であり弱いからだ」ということも述べています。強いと弱いの価値観がそこで逆転されています。きちんと不公正なことに対して、怒りを発露できるのが、公正なことであり、それができない一極的な支配(絶対的な支配)は否定されています。

僕は、今の時代にあった、公正な立場を求めて、不公正を是正してゆくことが必要だと思います。その為に、声を上げてゆく行為は大切と思います。僕は平和的(非暴力主義)で法を守った変革を望みます。少しずつでも、歴史を、公正さを持って、人々の幸せの為に進めてゆくことが大切と思います。

1963年6月23日デトロイト
コーボー・ホール解放大会演説
M・L・キング
「どうか南部全域のどの共同体でデモ行動に参加している人々も、暴力に訴えているなどと誰にも思わせないようにしてほしい。そんな人はほんの少数しかいない。というのはわれわれは非暴力の力を理解しているからである。われわれはこの方法が弱々しいものではないと理解している。なぜなら反対の只中で立ち上がることができる人は、つまり暴力が自分の上に加えられる只中で立ち上がり、しかも自らは暴力で仕返しをしない人は、強い人であるからだ。(拍手)

ご承知のように、この方法は敵対者を武装解除するやり方である。それは相手の道徳的防衛感覚を露にする。相手の士気を弱め、同時に相手の良心に働きかけて、自分でどうしてよいか分からなくしてしまう。もし彼があなたを打ちのめさなければ、それは結構なことである。だがもし打ちのめすようなら、あなたは報復することなしに、それを受け入れる静かな勇気を発揮するのである。もし彼があなたを投獄しないようなら、それは結構なことである。普通の感覚を持っている人なら、だれでも監獄など行きたくないのだから。だがもし彼があなたを投獄するなら、あなたは入獄して、そこを恥の地下牢から自由と人間的尊厳の港に変えるのである。(拍手)

そしてたとえ彼があなたを殺そうとしても、あなたは死に値するような何か高貴なもの、何か永遠に真実であるものがあることを信じられるような、内的確信を開発するのである。(拍手)

ここで私は申し上げたい。もし人がそのために死ぬような何かを発見しないとすれば、彼は生きるに値しないのだ、と。(拍手)

この方法は奇蹟を生み出してきた。たとえば非暴力的フリーダムライド運動の結果、公共交通における人種隔離は南部ではほとんど完全に消えてしまった。ランチカウンターにおける座り込み運動の結果、南部では285以上の都市がそのランチカウンターを統合してしまった。このように、この方法には力があるのだ。(拍手)

さらにこの方法に従うことによって、今勃興しつつある新しい時代に、われわれが正しい態度で臨んでいけるように導いてくれるだろうと、私は考えている。なぜなら非暴力は、その信奉者に外的肉体的暴力を避けるように呼びかけるだけでなく、精神の内的暴力をも避けるようにと呼びかけるからである。それは信奉者たちに、愛と呼ばれる何ものかに参与するように呼びかけている。それはしばしば難しいことであることを、私は知っている。だが、この時点で私が「愛」と言う時、それは好きになる感情といったものではない。

抑圧されている人々に向かって、彼らの抑圧者を感情的に好きになれと言っても、それはナンセンスである。私が言っているのはもっとずっと深い事柄である。それはある種の英知であり、万人に対する創造的な、贖罪的な善意のことである。(拍手)」(後略)

エドワード・M・ケネディ
われわれは雇用差別を終わらせ、共同体のあらゆる人々に仕事が行き渡るようにしなければならない。また最低賃金は労働する男たちと女たち、そしてその家族たちの生活レベルを十分に高めるものでなければならない。それゆえわれわれは、キング博士が語ったと同じ希望と愛と誇りをもって、正義と平等のために戦い続けていかなければならない。キング博士の夢はわれわれの夢でもある。彼の感動的な言葉はわれわれに、暗黒の昨日を輝かしい明日に変えようとした基本的使命感を保ち続ける新しい力を与えるであろう。

(公民権および経済的権利を生涯にわたって擁護し続けてきたエドワード・M・ケネディは、1962年以来マサチューセッツ州選出の民主党上院議員である。)
(M・L・キング「私には夢がある M・L・キング説教・講演集」)

僕はキング牧師の上記の非暴力のくだり、彼が亡くなった後もずっと引き継がれているくだりがとても好きです。『抑圧されている人々に向かって、彼らの抑圧者を感情的に好きになれと言っても、それはナンセンスである。私が言っているのはもっとずっと深い事柄である。それはある種の英知であり、万人に対する創造的な、贖罪的な善意のことである。』このセンテンスがとても好きです。彼はここで、最も気高いものについて述べていると思います。

色々と書きたい想いはあるのですが、疲労が酷く、文章書くのが限界で、ここで筆を置かせて頂きます。申し訳ございません。ギフト券、アフィリエイト、ご慈悲ご支援頂けるお方々いらっしゃいましたら、心から深く感謝致します。

皆様方の未来に平安あることを祈っております。

参考作品(amazon)
薩摩義士伝 (1) (SPコミックス―時代劇シリーズ)
私には夢がある―M・L・キング説教・講演集
キング牧師―人種の平等と人間愛を求めて (岩波ジュニア新書)
小型聖書 - 新共同訳
聖書名言辞典

amazonトップページ

Archives
livedoor プロフィール

ねこねこ

記事検索
  • ライブドアブログ