2009年03月24日 01:54

学生の頃読んで、今になって意味が分かる本「日本社会と法」法における公平な平等の公共性。教授の思い出。

日本社会と法 (岩波新書)

僕が前回書いたエントリですが、公平な一票の平等を重んじる民主主義が人権を基底としている、というのは、僕が自分で考えたことではなくて、僕は法学部に通いましたが、そこで習ったことです。この分野では、有名な本(法と法における公平な平等の関係を書いた本)では、「日本社会と法」という本(岩波新書)がありまして、僕が講義を受けた法学部の教授がサブテキストとしてお薦めしてくれた本で、僕が法学部一年の頃に読んで、今になってやっと意味が分かる感じです。自分の愚かさが身に染みます。

以前は持っていた本でしたが、本は以前に生活費捻出の為に売り払ってしまったので、昨日、図書館で借りてきました。外は凄い風でした。本書の最も重要な要点の一つを引用してご紹介致します。一般のお方々向けに書かれた読みやすい新書(岩波新書)ですが、基本的に法学を学ぶ書なので、新書の中でもかなり硬い文体ですが、どうか読んでくださると幸いです。

今日の行政は、目的、内容及び手段を組み合わせて多様な姿をとっているとはいっても、その姿は、市民それぞれが持っている国家や行政についての考え方の違いによって、あるいは特権的立場にいる人たちが、その時々に抱く国家や行政についての考え方によって、どのようにでも決めることができ、かつ変えられてよいというものではない。

少なくとも、私たちが民主主義国家を自認するならば、憲法の基本的原理を否定または無視して、憲法の枠組の外で「自由」に行政の姿を構想し、それを実現することができるわけではない。日本国憲法は、その前文で、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」とうたっている。

これは、国民の「福利」すなわち国民の権利・利益ないし人権と保障と実現のために仕えるところに、国政の一環である行政の存在理由=公共性があることを示している。このことを否定する行政は、どんな姿をとるものも認められない。(中略)

社会保障行政や環境行政のように、それにかかわる法律の趣旨、目的のなかに憲法に定められた人権が盛り込まれており、生存権や環境権という人権の優越性が明確な場合には、行政による人権保障の具体的内容は、比較的容易に判断できる。他方、経済行政のように、法律の趣旨・目的には、憲法上の人権との関係が具体的に書かれておらず、価値序列が一義的に明確でない場合には、行政の公共性とそれに基づく施策は、多様で相互に対立する内容をもつことさえある。この場合、明確な価値序列化はできないにしても、そこで保障・実現されるべき適切かつ総合的に考慮して評価することが必要になる。複雑に対立し絡みあう権利、利益の調整と、公正な立場からの行政を通して、公共性とは何かということを、民主主義の実現という視点から明らかにすることが求められるのである。

ここでいう民主主義の視点とは、一言でいえば、国民あるいは社会的弱者である民衆の立場から公共性の中身を問い直すということである。より具体的には、次の三つの原則が大切である。

第一に、行政と市民との間に対立がある場合には、強大な権力を背景にして活動する行政と、財力、知識及び時間的余裕など全てにおいて行政にはまったくかなわない市民との間に、できる限り対等・公正という原則が貫かれるようにすることである(行政と市民の非均衡性を公平に是正する)。

第二に、市民相互間、とくに巨大な力を持つ大企業(資本)と、力をもたない一般市民との間に対立がある場合には、両者の対等性を積極的に実現することである(資本と市民の非均衡性を公平に是正する)。

そして第三に、これらを実現するために、行政情報と企業情報を市民に公開させ、またそれを前提とし、それと結びつけて、市民が行政施策の形成・決定過程や執行過程に積極的に参加することである(市民の公的参加)。

さて、このような原則を前提として、民主主義憲法(現日本国憲法)の価値序列の要請に従った公共性のあり方について考えてみると、何よりも、市民の生存権(人権)を保障することこそが、実質的意義における公共性の中身であると見ることができよう。これを、ここでは「市民的・生存権的公共性」(公平性の公共性)と呼ぶことにする。

ところが、資本主義国家(現日本国)の現代行政の実態は、市民の利益ではなく、国家の利益(国益)を担うものとして現われる。そこでは、形式的に「公共」という衣をまといながら、実質的内容は、大企業の担い手(資本家)やそれと結びついた特権的階層(政治家・官僚等)など一部の人たちを守るものとなっている。

今日、日本の政治でもっとも問われている、政官財界の癒着構造といわれるものは、官=行政が、政と財の橋渡しをし、「公共」=「国益」の名において、一部の指摘利益の追求を助けるメカニズムであることは明らかであろう。このような、公共性自体が歪曲されている現実の行政は、「国家的・特権的公共性」(不公平性の公共性)と呼ぶにふさわしい。

こうしてみれば、「市民的・生存権的公共性」と「国家的・特権的公共性」という二つの公共性(「公平を志向する公共性」対「不公平を志向する公共性」)が、現実には対立して、せめぎ合っているということがわかる。(中略)

(〜1990年代までの日本の政治経済の流れの)以上を要約すれば、「市民的・生存権的公共性」と「国家的・特権的公共性」とのせめぎあいのなかで、とくに1990年代に入ってからの行政は、国際貢献(軍事的貢献)を軸とする大国主義的かつ大企業本位の行政の方向を一方的にあらわに示し、市民の生存権を基礎とする公共性の論理自体を放棄しなくてはならないものとなっている。

現在(本書が執筆された1994年)、私たちの目に見える形であらわれているさまざまな改革の方向――経済改革の名による規制緩和やコメ自由化を含む自由化路線、税制改革の名による直間比率見直し路線、(富者に有利で貧者に不利な逆累進性を持つ)消費税率の大幅アップ、年金改革による国民年金の65歳支給などはこのことをはっきり示している。

いずれも「市民的・生存権的公共性」からの撤退であり、究極において弱者の切捨て路線であることは明らかであろう。
(渡辺洋三・甲斐道太郎・広渡清吾・小森田秋夫編「日本社会と法」)

渡辺洋三・甲斐道太郎・広渡清吾・小森田秋夫(敬称略)の四氏はいずれも法学界の優れた大物学者です。僕含めて生徒達にこの本をサブ・テキストとして薦めてくれた教授は、眠くならない教授として有名でして(僕は昼間働きながら夜間に通ったので、夜間だと仕事で疲れてて講義中眠くなります。毎日朝6時前にでて、帰宅が11時過ぎ、土曜も講義の為に大学へ、日曜日だけお休みという生活でした)、いろいろ雑談するんですが(面白い体験的な雑談してくれる教授のほうが、パターン化されたことしかいわない教授より人気があります)、その時にいつも怒り出す先生でした。

怒ると言っても、生徒に怒っているんじゃなくて、日本のあり方に怒っていて、先の「日本社会と法」で書かれたような、法的な公平性の欠如を具体例を挙げて雑談しながら怒って、こういう不公平を、公的な市民としての自覚を持って、君たち一人一人で正してゆくことを望みますって、最後の講義のときに言っていました。

今思えば、全ては教授の言ったとおりだったなあという気持ちで一杯です。教授は、このままでは法が蔑ろにされ社会がどんどん不公平になってしまう、それを君たち一人一人が止めなくては大変なことになると、いつも講義中に言っていましたが(僕が講義を受けていたのは1990年代です)、十年経って、教授の言った通りになってしまいました。社会は、不公正の塊になってしまい、生存権は機能しなく、僕のような貧困層にとって日本社会の全ては崩壊しています。生存権を定めた法が機能しなくなっています。

僕が授業受けていたとき、既にかなりご高齢(60近く)だったので、今、ご達者でいらっしゃれば、70近いと思うのですが、きっと、日本の現状に、心を痛めていらっしゃるだろうなあと思います。僕が若いときは、教授が一生懸命、社会の法的な公平性がなしくずしの不公平性の流れによって脅かされていると言っていたのが、よく分からなくて、ユニークな熱血漢の先生だなあという印象で、好きな先生でしたが、社会が脅かされているということについては当時、すっと流してしまった形で、今になってみれば、もっと真剣に聴いて考えるべき事柄だったと、後悔しています。

社会がこれ以上、不公平になるのを、なんとかして押しとどめなければ、僕のような貧しい層も、そしておそらくは多くの中間層も、生き残れません。そのことを考えて、どうか、皆様方には、行動して頂きたく、心から願います。

「日本社会と法」は現在話題になっている様々な具体的問題、貧困問題(富の不均衡問題)、在日外国人問題、男女差別問題、公的教育問題、貿易問題などを、『日本国憲法に則した法的公平性』という観点から分析して、問題点を洗い出し、日本を法治的な公平な社会にしてゆくにはどうしたらいいかを考えている本です。法学関係のお方々だけではなく、万人の皆様方にお勧めできる良書と思います。よろしければ、ご一読をお勧め致します。

とても疲労していて、これ以上、更新できそうになく申し訳ございません。お助けしてくださるお方いらっしゃいましたら、心から感謝致します。

少しずつでも、日本国が、公平な社会、市民的・生存権的公共性を守る社会に変わってゆくことを、心から望みます。最後に、本書から、もう一回だけ、引用させていただきます。下記は、法的公平の立場から、簡潔で綺麗な論理で新自由主義に対して反論しています。下記の引用の論理的な意味を、どうか皆様方に考えて頂ければ、心から幸いに思います。

(第一に)市民法の競争(自由市場)から生まれた独占体・寡占体は、その母胎である市民法(万人の法の下での公平)の原則(公平原則)を掘り崩す傾向を孕んでいる。そこで、個人ならば市民法に基づいて負わなければならないのと同じ責任を、これらの独占体・寡占体(法人)にも負わせること、その意味で市民法的な公正原則の回復をはかることが必要である。市民法的な公正原則(万人の法の下での公平)は、今日ではともすれば忘れ去られがちであるが、この原則を、「再発見」することは重要な意味を持っているように思われる。

第二に、独占体・寡占体は労働者・農民・中小企業に対して優越的な力を振るっているが、両者の関係は多くの場合、市民法的な自由、平等という形式(契約など)によって包まれている(公平性の偽装)。

しかし、実質的に不平等な立場にある者のあいだでは、形式的な自由(契約等)は、優越した力をもつ側がその意志を相手側に押しつける自由に転化している。

そこで、この領域においては、社会的に不利な力関係のもとに置かれている勤労者(働く市民)の生存・生活を擁護するという観点から、形式的な自由(たとえば解約の自由)の乱用(雇用切りの乱用等)を制限することによって、実質的な自由・平等を達成しようとする社会法の法理に生かしてゆく必要があろう。

このことは第三に、企業(=法人)と個人、勤労者との間にあらゆる領域にわたって存在する支配=従属関係や格差を無視して、両者の関係を自由放任に委ねようとする新自由主義・新保守主義的な企業国家の姿勢が現実(守るべき法の公正)から遊離したものであることを明らかにし、これを克服することと結びついている。

今日の国家は、右のような支配=従属関係や格差を直視し、これを働く市民の側に立って是正するという役割を担うものでなくてはならない。
(渡辺洋三・甲斐道太郎・広渡清吾・小森田秋夫編「日本社会と法」)

失業して生活が困窮した今になって、やっと学生時代、先生が講義のとき、何に怒っていたのか分かって、自らの愚かさ、気づくのが遅すぎた後悔の気持ちで一杯です。皆様方が僕のような轍を踏まないことを、心から願っています。

参考作品(amazon)
日本社会と法 (岩波新書)
反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)
現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書)

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