2009年03月11日 22:31

ニコニコ動画にて歌を創って頂き感謝致します。初音ミクと公平な共有の思想、モーツァルトとサリエリについて。

アイの物語

初音ミクについて、匿名で書かせて頂きましたら、ニコニコ動画のお方々で歌を創っていただき、とても嬉しいです。僕が書いた文章よりも、それを歌にする方が遥かに技術と気力のいる優れた作業です。歌の創り手のお方と応援してくださったお方々、ありがとうございます。ちゃんと見ています。ライブ感があって、風邪引いていますが、とても嬉しいです(^^)

ニコニコ動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6399009


僕のネットに繋いでいるPCは音が故障していて、動画の再生はできるのですが音が出ないので(wavとかあらゆる音が鳴らせません)、一度データとして録音して、USBメモリーで別のPCに移すということをしないと、音が聞けないのですが、とても感激致しました。ありがとうございます。

僕は昔から初音ミク派で、うつ病になるもっと前、ミクが出始めたころから、『初音ミクは人間の歌手を疎外する、ミクには魂がない』とか、そのころからわけの分からないことをいう反ミクの人々がいて(僕は、猫大好きで、動物好きで、人間以外の動物も植物も、そして物質自体も二次元も、みな親しむべきものと思っているので、人間だけに特別な魂があって優越するという思想には反対なので、人間を特別扱いする反ミク論には腹が立ちました)、そういう反ミク側の人々とずっと論争してきたので、話題になることができて、とてもよかったです。

初音ミクのいいなあと思うところは、初音ミクがマシンであるゆえに、人間よりも優れた公平性を持っているところで、僕はいずれ、人間よりも全てが優っているロボット(人工知能)が出来、人間は共存しながら、引退する未来世界を描いた、山本弘さんの「アイの物語」を参考に、ミク像を描かせて頂きました。モデルはミクと、「アイの物語」の人間を超える倫理性と公平性を持つ、ネットワークで繋がったミク的な女性性を持つアンドロイドたちです。「アイの物語」は非常に良い小説だと思いますので、読んでいただけたら(図書館で借りれば、フリーでシェアできます)嬉しいです。

僕は、『人間の声が絶対に一番であり異論は認めないという言説』は、マシンの側から見ればおかしい、「アイの物語」に出て来る人間至上主義者(ロボットが人間を超え始めていることに気づき、ロボットをモンスターとして破壊しようとする)と重なって見えたので、アイの物語からアイデアをオマージュさせて頂き、書かせて頂きました。

大切なのは、いかに共に多種多様な文化を広く共存・共有してゆくかということで、それは、原理主義的な反ミクとかそれに対するカウンターよりも、更に大きく、広げてゆかねばならないことだと思います。その点で、まず妥協できない原点を定める、例えばこれはあくまでフィクションのおそらくはありえないたとえですが、ネットにおける著作権が強力に強化されて『著作権によるボーカロイド禁止法』とか、そういう法律ができたら、それには絶対反対の立場を取る、ただし、絶対反対を唱えても、相手側の力が強いときは、戦っても勝てないので、対話を基本として硬軟折り合わせた戦術で、こちら側の譲れない権利を認めさせてゆくことが大切だと思います。

折りあえない相手が何か出してきたとき、ただカウンターを出すだけだと大半は相打ちにしかならないので、より大きな視点から物事を見て、柔軟に判断して行動することが大切だと思います。

独裁者達と渡り合ってきた国連の元明石事務次長が絶対的な力を持つ独裁者との交渉について述べておりますので、引用させています。ミクの文章を書いたとき、山本弘さんの「アイの物語」ともに参考にさせて頂いた文章です。

「独裁者との交渉術」第三回「敵を想定しない」

明石康
私(明石康)はニュートラル(中立)という表現よりも、インパーシャル(公正)という表現の方を好みます。ニュートラルというと、色がつかない、つまり、仲裁する方に理念と原則が欠けているというふうちも取れますが、それよりも、フェアに、客観的公正に見ればどういう行動を取るべきか、ということが重要です。それは何もAという地点とBという地点の真ん中ではないわけです。

国連のPKO活動というのは三つの原則に基づいていると言われています。一つはすべての紛争の当事者から国連の役割というものが受諾されること。同意原則ですね。(中略)

第二番目が、紛争当事者すべてに対して普遍的で偏らない、先ほど話したインパーシャルな態度が保つことですね。

それから三番目が、武力行使は自衛の為に必要な最小限に限定するということ。換言すれば、厳しく制約的に当たらなくてはいけないけれども、武力はやむなく行使してもいいということです。日本の憲法九条護持論者の中には無抵抗論者(自衛権を認めない論者)がいるのですが、現実的ではない。

私は、国連時代に限定的な形でNATOの軍事力の行使を十五、六回にわたって認めました。あくまで厳密な自衛行為の場合に限ってです。NATOの空軍機の他に、地上のPKO部隊が自ら確かめた上で、国連要員を現実に攻撃している武器だけを限定して攻撃する。これをクロスエアサポート(密接航空支援)といいます。(中略)

私の身についた国連的なアプローチの仕方は、あらかじめ敵を想定しておかないことです。(敵ということだけ考えると思考の幅が狭まってしまう)。(中略)

例えば、旧ユーゴの一番南側にあるマケドニア共和国で、国連氏の中で唯一の予防的展開を遂行したときのことです。(中略)マケドニア北部の、国連のオブザベーションポストに行ってみると、スカンジナビアから来た北欧の軍隊が、ほんの体裁上の陣地を作っていた。一方、アメリカ軍は、敵からの攻撃を想定したアラモ砦のような大要塞を作りました。つまり、両者は基本的な哲学からして違っていたのです。

私は、紛争当事者のリーダーたちとは、誰であっても平気で会っていたけど、一部の欧米マスコミは、あんな残虐な行為を働いた連中と交渉すること自体許されない、と主張してきました。しかし、我々としては、それでは仕事にならないわけです。平和な市民社会をかき乱すような行為が存在したとします。ならば、そういう行為をする人たちに、動機や理由を確認してみる必要があるし、できれば止めるように説得しなければなりません。いずれにせよ、相手が何を考え、懸念し、希望し、恐れているのかを確かめることから全ては始まるおです。(中略)

私がセルビア側に言いつづけたのは、あなた方の行動は、ますますあなた方自身を孤立させているのではないか、ということです。例えば、世界中のマスコミが自分達に偏見を持っている、と彼らは主張します。(中略)(明石氏が彼らに言ったのは、国際世論を気にかけるなら、もっと戦略的に振舞うように)国際世論が気になるのであれば、それなりの自制心を働かせて、自分たちの行動の結果に責任を持つ必要があるだろうと。(カラジッチ達セルビア最高幹部は)なかなか認めたがらないのですが、そうかもしれないな……という感じで、自分なりに薄々感じているんですよ。(中略)

そのプロセス(カラジッチと交渉してくるに連れてわかった、食えない政治家としての手腕)を踏まえて、私はあるとき、カラジッチ宛の書簡で「エクセレンシー」(閣下)という言葉を使ったわけです。つまり、ある程度の尊重のニュアンスを込めた呼称を使用したら、その手紙がオルブライト、当時の(国連と対立していた強硬派の)アメリカ国連大使の手に渡ってしまった。おそらく、国連内部に、私(日本出身の国連最高幹部の明石氏)のやり方をどうにかして貶めようとしていた人間がいたのでしょうね。とにかく彼女(オルブライト、政敵を倒すには手段を選ばない闘争的な政治で有名な女性政治家)は、カラジッチのような悪い男に、「エクセレンシー」などと呼びかける必要があるのか、といって噛み付いてきました。だけど私には、カンボジアでの前例があった。それは、フンセン首相に書いた手紙です。(中略)

(人民党の幹部フンセンは人民党の一部が武力クーデターを起こそうとしていることを内密に明石氏に連絡し、国連が自分(フンセン)の政治的立場を強化してくれれば、自分が武力クーデターを鎮めると連絡してきた)その際、私は、こんな返事を書きました。

人民党内における彼の立場を考え、翌日の最高国民評議会であなたの期待に応えるニュアンスの表現をするので、国連に反対する勢力(武力クーデターを目論む勢力)を説得(鎮めて)くれないだろうか――。

その手紙の末尾に、「あなたの行動に期待している」という表現をさりげなく入れたのですが、後日、カンボジアが平和になってから(フンセン率いる人民党が)じつは国連反対の態度を変えたのは私のこの言い回しがあったからだ、とフンセンから聞きました。

カラジッチに対しては、「エクセレンシー」という呼称を使うに当たっては、部下からも反対の意見がありました。だけれど、私は押し切りました。曲がりなりにも交渉相手である以上、一つの賭けとしてやってみる価値はあるんじゃないか、と思ったんです。

インタビュアー
この書簡はいわば私信です。内部からオルブライトに漏れたということですね。

明石康
しょっちゅう漏れていました。(中略)国連にはいろんな人間(いろんな政治勢力)がいます。国も、人種も、民族も、言語も、風習も違う。それこそ、国際社会です。(中略)偏見を捨てて、障壁を乗り越えて、人間自体に触れることで、新しい発見や出会いがある。相手の気持の中に飛び込むこと。それこそが、紛争解決の前提だと思います。
(青春と読書09/03月号)

僕は今お金が非常に欠乏していて本が買えないのですが、この雑誌は本屋さんで無料で配っているので、とても助かります。一応、値段はあるみたいですが、だいたいの本屋さんでこういった雑誌、出版社自身が出している出版社の宣伝雑誌はこれ以外にも無料で出ているので、マメにチェックして、本屋さんに行ったとき無料で貰っています。ミクがいいなあと思うのは、こういった本と同じく無料であることです。僕は生活費がマイナス(借金)なので、生活費ぎりぎりしかお金が使えないので、コンテンツ消費は全て無料のもの(ネットのフリーコンテンツ、図書館で借りられる音楽CDと本)のみに頼りきりです。よって、ニコニコ動画のようなネットのフリーコンテンツ、図書館のようにみなでシェア(共有)する動的なライブラリーが拡充されてゆくのは、本当に素晴らしいことだと思います。

明石氏の話ですが、敵を敵として認識して戦術を組み立てると、思考が狭まって、結局敗れてしまうことが多いということを経験から語っており、とても面白いです。もっと大きな、理念と原則を持ったインパーシャル(公正)な視点から見ていくと、取るべき選択の幅が広がってゆく、それはその通りだと思います。

僕が書いたミクの文章のオリジナル(僕が今回書いたミクの文章の大半は改変です)、人間の声しか認めない、ミクは敵だという文章を書いた人は、上記の「敵しか見えない思考」をして、自らの思考を狭めている。それは、音楽を楽しむということにおいても大変なマイナスです。

例えば、モーツァルトは大人気で、僕も好きな作曲家ですが、モーツァルトの当時のライバルだったサリエリはあまり評価されていません。しかも、映画「アマデウス」で、モーツァルトを死に追いやった悪役として描かれたことで、サリエリのイメージは徹底的に打撃を受けました。日本でサリエリを聞く人はあまりいないと思います。

でも、僕は、クラシックはミクと同じく大好きなので、まず、サリエリはどんな人物か、モーツァルトはどんな人物か、調べました。そうしたら、サリエリがモーツァルトを殺したなんて、ただのデタラメで、寧ろ穏健で知られていた人柄だったこと、モーツァルトの死の原因は、貧困による過労疲労困窮説(借金を返すため働きすぎ・生活の困窮による病死)が最も大きな意見で、それをもたらした一因は、サリエリではなく、モーツァルトの周囲の貴族であったことを知りました。当時の貴族を政治風刺する「フィガロの結婚」を作曲したことによって、モーツァルトは周囲の貴族から徹底的な反発を受け、当時の芸術家にとって生命線である庇護を失って困窮した側面があるのです。後は奥さんが散財しすぎるとか、当時の保守的な貴族にはモーツァルトは革新的過ぎて理解できなかったとか(まるで今の初音ミクのようです)、色んな不運が重なっていますが、サリエリが何かモーツァルトにしたような記録はないようで、サリエリの後世に伝わる人柄から考えても、モーツァルトの死をサリエリのせいにするのは無理がありすぎます。

現在まで知られている事実で、(モーツァルトが凋落して死に至った理由として)ある種の参考になるのは「フィガロの結婚」のあと、スキャンダル(モーツァルトへの醜聞)の匂いがモーツァルトの周辺を包み始めたことである。まず「フィガロ」は政治的な風刺劇で、それは貴族たちを揶揄するもので、戯曲の方はいまだに(現代でも)ウィーンでは上演禁止になっている(上演禁止令がずっと残っている)。そして「ドン・ジョヴァンニ」もまたスキャンダラス(風刺的)なものであり、(庶民的な町の)プラハでは愛されたとしても、(貴族的な町の)ウィーンの人たちはこのオペラを好かなかった。

さらには、モーツァルトの音楽が(今、初音ミクが叩かれているように、先進的過ぎるとして、保守的な人々からは)難しくなり過ぎたということもあるであろう。(中略)典型的な逸話として伝えられているのは、これ(四重奏曲K465)がボヘミアの貴族グラサルコヴィッツ公の家で演奏された時のことで、第一楽章が終わると、公は怒って楽譜を破いてしまったということである。(中略)当時の多くの保守的な人たちの反応も五十歩百歩であった。(中略)

1790年に(モーツァルトの最後の庇護者)皇帝ヨーゼフ二世が死ぬと、宮廷の中にはモーツァルトの味方はいなくなってしまった。(中略)(モーツァルトが窮乏の中で死ぬ1791年にも)宮廷は(窮状を訴えるモーツァルトに)ひどく冷たい態度を見せることになる。

1791年12月にモーツァルトが死んだとき、ウィーンの新聞は、このできごとをほとんど報じなかった。
(H・C・ロビンズ・ランドン「モーツァルト」)

僕の好きなランドン版モーツァルト「レクイエム」を創ったランドンさんの本です。ランドンさんはモーツァルト研究の第一人者で、他の音楽史の書物と照らし合わせても書かれていることの照合性は高いです。

あと、ランドンさんも、「ランドン版モーツァルト「レクイエム」は歴史的モーツァルト(ジュスマイヤー版)じゃない新しいモーツァルト「レクイエム」だから本物のモーツァルト「レクイエム」なんかじゃない」という、まさに今、初音ミクを叩いている人達が言っているのと同じようなことで叩かれており、僕は、こういう偏狭な考えは文化を狭めるだけだと思うので、反対です。詳しいことは下記のエントリに書いております。

ひれ伏して、救いを祈っております。ヴァイル指揮「モーツァルト『レクイエム』ランドン版」
http://nekodayo.livedoor.biz/archives/733182.html


上記書いた頃、うつが今より酷かったので、ひどく混乱している文章で読みにくく申し訳ありません。モーツァルトとサリエリの話に戻りますと、西洋音楽史を勉強してから改めてサリエリを聞いてみると、これはいいんじゃない?という感じで楽しく聴けるようになりました。サリエリの疑惑が晴れてほっとして、よく聴けるようになったのだと思います。

不幸なことに、ジャーナリステイックに取り沙汰されているサリエリは、何よりモーツァルトの毒殺説に結びつけられている。しかし、ピーター・シェファー原作の(映画)「アマデウス」では、神に愛された天才モーツァルトに対し、サリエリは凡夫の権化として描かれたが、これは天才を崇拝するロマンティックな立場の裏返しに過ぎず、別の『現実』があったことは容易に推察がつく。

現実では、サリエリは売れっ子のオペラ歌手であり、誠実な教師であった。モーツァルトは(ライヴァルであるとともに友人であった)彼の曲に基づき「サリエーリの主題による変奏曲K180」を書き、シェーンブルンでは二人のオペラが競演されている。

モーツァルトから(友人として)「魔笛」の上演に招待され、彼の死後、その息子を弟子に迎え、世に送り出したのもサリエリであった。不名誉な毒殺説によって浮びあがったサリエリであるが、これを積極的な認識の機会とすべき時が来ている。と同時にそれは西洋音楽史の底辺を見直そうという動きと呼応するであろう。(中略)

(優れた曲を実際に創ったサリエリを)徒に(モーツァルトと比べて)「凡人の典型」とみなす理由はない。
(チッコリーニ、シモーネ「サリエリピアノ協奏曲変ロ調、ハ調」ライナーノーツより)

どうか、ミクのこともよく知らずに、ボーカロイド(マシンの歌手)だから悪いと言っている人たちは、まず、ミクたちボーカロイドとその技術のことをよく知って欲しいです。そうしたら、とてつもない労力の結晶であるボーカロイドのことがもしかしたら好きになるかもしれません。それは、音楽を楽しむ、そして音楽を後世に伝えるということで、モーツァルトにウィーンの貴族達がとった態度とは正反対の、文化を豊かにしてゆくスタンスであると、僕は思います。

西洋クラシック音楽において、人間の声はあくまで美の調和を創る為の一部分であり、聖歌、声楽曲、合唱曲etcが、声の入っていないピアノ曲、ヴァイオリン曲、チェロ曲、オルガン曲、声無き交響詩、交響曲、宗教音楽etcより優れているとか劣っているとかそのような考え方は致しません。歴史的に見て、『人間の声のみが頂点であり、他は従属物に過ぎない』のような考え方は僕は存じ上げません。そのような考え方は文化を貧しく致しますから、歴史に残らなかったのではないかと思います。初音ミクを叩き、人間の声のみが頂点と唱えて、しかもそれが歴史であるように言っている人々は、その言動の誤りに気づいて欲しいです。

余談ですが、クラシックが高尚とかお金持ちの趣味とかいうことはないと思います。僕の場合は逆でした。音楽CD買うお小遣いなく、音楽を聴くときはひたすら図書館で音楽CDを借りていて、図書館にモーツァルト、バッハ、ベートーヴェン、ショパンなどクラシックの全集と結構マイナーなクラシックの音楽CDも各種あって、無料で借りられる図書館音楽CDばかり聴いていたので、クラシックが好きになりました。日本が貧乏になると、音楽CDを買うゆとりのない僕のような立場の人々は図書館で借りるしかないので、図書館はだいたいクラシックを重視していますので、クラシックの人気はこれからだんだんあがるかなと思っております。閑話休題致します。

僕は、ミク含めてボーカロイドが好きで、ボーカロイドに未来の公正な共有の美、真善美を担う文化の可能性を感じております。僕が存在している間には見れない未来ですが、いつの日か、今から遥か未来に、「アイの物語」で描かれるような未来世界(生命として成長の限界を抱えた人間と、人間を遥かに超えた知性と倫理と文化を高みへ築き上げてゆく人工知能ロボット達が平和で穏健に共存し、人間は種としての余命をロボット達に保護されながら平穏に迎え、残されたロボット達は種としての寿命を超越し、星々の海へ向かってゆく)がきてくれるといいなあと思います。ミクはその一歩だと、僕は本気で信じています。

ながながと読んで頂きありがとうございました。歌を創ってくださってニコニコ動画にあげて頂き、心から嬉しく思います。ありがとうございます。

最後に、僕はお金がないので、お金がなくても楽しめる、シェアの文化、共有の文化がもっと発展してゆくことを望みます。ニコニコ動画を応援しております。頑張ってください。

参考作品(amazon)
アイの物語
モーツァルト―音楽における天才の役割 (中公新書)
EXIT TUNES PRESENTS Vocarhythm feat.初音ミク
supercell (通常盤)
KEI画廊
モーツァルト:作品大全集(170枚組)/Mozart: Complete Works 170 CD BOX

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