2009年02月21日 18:35
フルトヴェングラー「ベートーヴェン:交響曲第三番《英雄》」フルトヴェングラーのマイ・ベスト・アルバムです。文化と言語。アラヴィンド・アディガ「グローバリズム出づる処の殺人者より」
ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」
グローバリズム出づる処の殺人者より
先日より、頭がとてもクラクラして、向精神薬の影響と思っていたのですが、昨日、酷い寒さと身体のだるさを感じて、熱が図ったら37度少しあったので、風邪みたいです。風邪で頭がクラクラしていたのかも知れないので、申し訳ありません。風邪薬、以前出してもらったPL錠があるのですが、これ含めて、一日に数えてみたら朝昼夜寝る前で20錠飲んでいるので、大丈夫なのか心配になってきました。うつ病治療の初期からSSRIで胃腸の調子がおかしく、それを押さえるための胃腸薬と下剤を飲んでおりますので、全部が全部、向精神薬ではないです。あと、SSRIは飲まないと生存が不可能(今も飲み忘れるとひどい状態になり何もできなくなります)なので、副作用として胃腸の調子がおかしくなる及び食欲、性欲などの睡眠欲以外の欲望減退(SSRIは飲むと眠くなるので、睡眠欲は増幅する感じです)、性機能障害がありますが、それでも、とても大切なお薬です。薬の話ばかりながながと書いてしまい申し訳ありません。音楽の話をしようと思います。後、言語と小説の話をしようと思います。
頭がぼんやりするなか、先日「証言・フルトヴェングラーかカラヤンか」を読了しました。本書においてベルリン・フィルの団員のお方々の証言が、フルトヴェングラーの音楽スタイル(フルトヴェングラーはレコード化・アルバム化の為のセッション録音演奏よりライブ演奏を重視する、カラヤンはレコード化・アルバム化して録音を残すセッション録音演奏を重視する)の方に親近感を覚えているような感じでした。僕としては逆に、ライブに行った人しか分からない音楽よりも、アルバムで聴く音楽の方が身近なので、団員のお方々とは逆にカラヤンの音楽スタイルの方に親近感を覚えるので、その点については、ベルリン・フィルの演奏をライブで聴きにゆくことのできない極東の島国の貧乏人の僕と、ベルリン・フィルの演奏家のお方々では、感覚に違いがあるのだなあと読んでいて思いました。
ライブの一期一会を大切にするということは、幸運にもそのライブに参加できるお方々のみに得られる特権であるので、僕としては、万人に開かれたセッション録音演奏もカラヤンのように大切にしてもらえると、多くの人々、世界中の人々に演奏が伝わり、その方が、僕としては嬉しいことだなあと思いました。
それと、ライブ演奏にしか一期一会がないというのは誤りだと僕は思います。僕は、始めて音楽アルバムを聴くときは、その音楽アルバムに集中できる姿勢で、眼を瞑って、全身全霊を込めて聴いています。それで、音楽アルバムの中に、まさに一期一会、これは素晴らしいアルバム、真剣に何度でも聴く価値のアルバムだと感じましたら、その演奏の記録をノートにメモしています。逆に、特に一期一会を感じないアルバムであれば、特に何度も聴きかえすということはありません。
僕がフルトヴェングラーの演奏で、一期一会、演奏家と聴き手(僕自身)が全力で対峙していると感じられ、胸が一杯になるような感動を覚えたのは、フルトヴェングラーのライブ録音演奏ではなく、セッション録音演奏です。1952に録音されたフルトヴェングラーのベートーヴェン交響曲第三番《英雄》です。始めて聴いたとき言葉に尽くせぬ感動し、胸が一杯になり、何度聴いても、素晴らしいという感嘆のみが溢れ出る、フルトヴェングラーの最高のアルバムだと思います。僕にとってフルトヴェングラーのマイ・ベスト・アルバムです。一期一会はセッション録音演奏の中にもあるということを、フルトヴェングラー自身がひしひしと聴き手に感じさせてくれる、音楽史上に残る名アルバムと僕は思います。
以下、本CD(フルトヴェングラー「ベートーヴェン:交響曲第三番《英雄》」1952セッション録音演奏)のライナーノーツより引用致します。
僕は上記の文章に完全に同意致します。このアルバムはフルトヴェングラーの演奏したベートーヴェンの交響曲第三番の最高峰であり、なおかつ現存する全てのベートーヴェン交響曲第三番の演奏の中で、最高峰に位置する現在における極限的な名演奏であると僕は思います。少なくとも、21世紀中にこの演奏を超える交響曲第三番は出てこないのではないかと思うほど、数百年に一度レベルの名演奏であると思います。万人の皆様方にお勧めできる名盤だと僕は心から思います。セッション演奏録音のなかに、一期一会はあるということを音楽を通して伝えてくれる素晴らしい名盤と思います。
ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」
話は変わりますが、世界中で多数の言語が滅び、また滅びの危機に瀕する中、日本で幾つもの言語が危機に瀕しているそうで、危機に瀕している言語は絶対にあらゆる努力をして守った方がいいです。言語というのは根本文化であり、その文化に属する人の思考をその人自身の制御を超えたところで定義するものであり、言語が失われるというのは、根本文化の絶滅に等しいこと、悲しむべきことです。例えば、僕は日本の東京で生まれ育ち、東京弁及び標準日本語(主にテレビで使われる言語です)で思考が定義されています。それは僕の意識的な制御を超えたところにあります。僕の外国語語学力は低い(広く浅くという感じで、英語、ロシア語、中国語が少しだけできます)ので、その他の言語を基底として思考することはできません。英語、ロシア語、中国語などの原書を読むときは頭の中で外国語を日本語に変換して読みます。原書のまますらすら読むことは僕はできません。だから読むのにとても時間が掛かります。
余談ですが、僕はブッカー賞受賞作が好きで、ブッカー賞受賞作の方が、ノーベル文学賞受賞作よりも娯楽性に富み、なおかつ文学としてもより優れていると思うのですが、ノーベル文学賞受賞作は日本語に邦訳されますが、ブッカー賞受賞作は邦訳されないことが多いので、邦訳されていない場合は原書(英語以外の言語で書かれていた場合は英訳書)で読むしかありません。2008年度のブッカー賞受賞作「THe White Tiger」を頑張って原書で読んでいたら、あっという間に先月(2009年1月)、邦訳版(題名「グローバリズム出づる処の殺人者より」アラヴィンド・アディガ著)が出て、原書じゃなくて邦訳版で先に読了してしまいました。僕はお金ないので、原書も邦訳も本読むときは図書館です。なんとも、こんなはやく邦訳が出るなら、原書で読む必要がなかったです。原書で読むと邦訳の百倍以上読むのに時間が掛かるので、図書館の返却期限もあってなかなか読みきれません。この小説はエンタテイメントとして抜群に面白く、心からお勧め致します。下記の文章(冒頭)に引かれるものを感じられるお方は、きっと楽しめる、小説の大傑作だと思います。ブッカー賞受賞作の中でも娯楽性が抜群に富んでいる、エンタテイメント小説として最高に面白い小説です。小説の冒頭の数ページを引用致します。小説の一番初めの出だしからです。
冒頭からこんな感じです。ちなみに「ホワット・ファッキング・ジョーク」の意味は、意訳するのがかなり難しいのですが、「超クソッタレ過ぎて笑える」を千倍ぐらい下品にして性的な要素を混ぜたようなニュアンスと考えてよろしいかと思います。僕はここで大いに笑ってしまいました。非常にシニカルでブラックなユーモアに富んだ小説(日本の作家に例えると筒井康隆のブラックユーモアに近い鋭い切れ味があります、小説全編が物凄いエネルギーに満ちていて飛ばしまくりです)であり、ユニークかつ直接的な形でインドの在り方や国際社会の在り方の批判、グローバル経済化の批判にもなっています。インドに抱いているイメージが一変する大傑作だと思います。ブッカー賞に選ばれましたが、ブラックユーモアに満ち溢れているのでどう考えてもノーベル文学賞は無理な作品です。それは政治的な問題です。
本作は文学作品としての質自体は僕はノーベル賞級を凌駕していると思いますが、作品内でインドに対する辛らつな皮肉風刺が一杯で、中国にも「自由を愛する国」とかしょっぱなから皮肉風刺をばんばん飛ばしていますので、強力な権力を持つ諸外国間の政治権力ロビー闘争によって受賞が決定するノーベル文学賞の受賞はどう考えても無理な作品です。逆に言えば、政治的にあたりさわりのないノーベル賞受賞作と違い、とても面白く素敵な文学作品、僕の大好きなタイプの文学作品です。作者のアラヴィンド・アディガさんは物凄くレジスタンスの意志、抵抗意志というものを持っているインドの作家さんで、娯楽小説としても抜群に面白い大傑作です。僕としては皆様方にご一読をぜひお勧め致します。インドに抱いていたイメージが変わると思います。
グローバリズム出づる処の殺人者より
閑話休題して話を戻しますと、上記の小説でも取り上げられていますが、言語は文化の根底にあります。強力な支配力のある文化が他の文化を根底から滅ぼすという弱肉強食の闘争的事態が起き、それが支配力のある文化が勝利するというとき、滅ぼされた文化の言語は消えてしまうのです。言語は思考を定義し、文化の根底にあるということは、よく考えられるべきことだと思います。僕は、言語は多様性を尊重して絶対に守るべき重要な存在であると思います。
言語が思考を定義することについては、長らく絶版だった重要文献、I・イリイチ、B・サンダース「ABC―民衆の知性のアルファベット化」が岩波モダンクラシックスで再刊されましたので、言語が思考を定義することについて専門的なご興味がおありのお方には、ご一読をお勧め致します。
最後に、生活が困窮おさまらず、そんななか、ギフト券・アフィリエイトでお助けくださったお方々に心から感謝致します。今も借金状態(クレジットで実質の財産がマイナス状態)で非常に厳しい状態なのですが、なんとか生きのびられていることを、皆様方に心から感謝致します。本当にありがとうございます。命を助けてくださっていること、深く心から感謝致します。ありがとうございます。
参考作品(amazon)
ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」
グローバリズム出づる処の殺人者より
証言・フルトヴェングラーかカラヤンか (新潮選書)
ABC―民衆の知性のアルファベット化 (岩波モダンクラシックス)
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グローバリズム出づる処の殺人者より
先日より、頭がとてもクラクラして、向精神薬の影響と思っていたのですが、昨日、酷い寒さと身体のだるさを感じて、熱が図ったら37度少しあったので、風邪みたいです。風邪で頭がクラクラしていたのかも知れないので、申し訳ありません。風邪薬、以前出してもらったPL錠があるのですが、これ含めて、一日に数えてみたら朝昼夜寝る前で20錠飲んでいるので、大丈夫なのか心配になってきました。うつ病治療の初期からSSRIで胃腸の調子がおかしく、それを押さえるための胃腸薬と下剤を飲んでおりますので、全部が全部、向精神薬ではないです。あと、SSRIは飲まないと生存が不可能(今も飲み忘れるとひどい状態になり何もできなくなります)なので、副作用として胃腸の調子がおかしくなる及び食欲、性欲などの睡眠欲以外の欲望減退(SSRIは飲むと眠くなるので、睡眠欲は増幅する感じです)、性機能障害がありますが、それでも、とても大切なお薬です。薬の話ばかりながながと書いてしまい申し訳ありません。音楽の話をしようと思います。後、言語と小説の話をしようと思います。
頭がぼんやりするなか、先日「証言・フルトヴェングラーかカラヤンか」を読了しました。本書においてベルリン・フィルの団員のお方々の証言が、フルトヴェングラーの音楽スタイル(フルトヴェングラーはレコード化・アルバム化の為のセッション録音演奏よりライブ演奏を重視する、カラヤンはレコード化・アルバム化して録音を残すセッション録音演奏を重視する)の方に親近感を覚えているような感じでした。僕としては逆に、ライブに行った人しか分からない音楽よりも、アルバムで聴く音楽の方が身近なので、団員のお方々とは逆にカラヤンの音楽スタイルの方に親近感を覚えるので、その点については、ベルリン・フィルの演奏をライブで聴きにゆくことのできない極東の島国の貧乏人の僕と、ベルリン・フィルの演奏家のお方々では、感覚に違いがあるのだなあと読んでいて思いました。
ライブの一期一会を大切にするということは、幸運にもそのライブに参加できるお方々のみに得られる特権であるので、僕としては、万人に開かれたセッション録音演奏もカラヤンのように大切にしてもらえると、多くの人々、世界中の人々に演奏が伝わり、その方が、僕としては嬉しいことだなあと思いました。
それと、ライブ演奏にしか一期一会がないというのは誤りだと僕は思います。僕は、始めて音楽アルバムを聴くときは、その音楽アルバムに集中できる姿勢で、眼を瞑って、全身全霊を込めて聴いています。それで、音楽アルバムの中に、まさに一期一会、これは素晴らしいアルバム、真剣に何度でも聴く価値のアルバムだと感じましたら、その演奏の記録をノートにメモしています。逆に、特に一期一会を感じないアルバムであれば、特に何度も聴きかえすということはありません。
僕がフルトヴェングラーの演奏で、一期一会、演奏家と聴き手(僕自身)が全力で対峙していると感じられ、胸が一杯になるような感動を覚えたのは、フルトヴェングラーのライブ録音演奏ではなく、セッション録音演奏です。1952に録音されたフルトヴェングラーのベートーヴェン交響曲第三番《英雄》です。始めて聴いたとき言葉に尽くせぬ感動し、胸が一杯になり、何度聴いても、素晴らしいという感嘆のみが溢れ出る、フルトヴェングラーの最高のアルバムだと思います。僕にとってフルトヴェングラーのマイ・ベスト・アルバムです。一期一会はセッション録音演奏の中にもあるということを、フルトヴェングラー自身がひしひしと聴き手に感じさせてくれる、音楽史上に残る名アルバムと僕は思います。
以下、本CD(フルトヴェングラー「ベートーヴェン:交響曲第三番《英雄》」1952セッション録音演奏)のライナーノーツより引用致します。
フルトヴェングラーによるベートーヴェンの《英雄》交響曲の録音は、ライブ録音を含めると現在10種類以上が知られているが、レコードのためにセッションを組んで録音されたものはたった2種類しか存在しない。そのひとつは1947年にフルトヴェングラーが戦後初めてウィーン・フィルを振って録音したもので、こちらも名盤として知られているが、残るひとつが1952年に同じくウィーン・フィルを指揮して録音したこのCDに収められた演奏である。
フルトヴェングラーが死の2年前に、ウィーンの楽友協会大ホールで録音したこの《英雄》はゆっくりしたテンポによる非常にスケールの大きな演奏で、セッション録音にもかかわらずライブを思わせるような緊張感に満ち溢れている。それはウィーン・フィルが全力でフルトヴェングラーの要求に応えているからで、オーケストラにフルトヴェングラーの魂が乗り移ったかのような錯覚を聴き手にもかんじさせるほどである。
セッション録音ゆえに演奏の完成度、録音状態もフルトヴェングラーの《英雄》の中では最もよい。フルトヴェングラーの《英雄》への最終回答となったこの演奏は、この世紀的巨匠の最高の《英雄》と言ってよいだろう。いや、それだけではない。数あまたある古今の《英雄》の名演の中でもひときわ高くそびえ立つ、極めつけの名盤と言っても過言ではないだろう。
(音楽評論家高木正幸。(フルトヴェングラー「ベートーヴェン:交響曲第三番《英雄》」1952セッション録音演奏盤ライナーノーツより)
僕は上記の文章に完全に同意致します。このアルバムはフルトヴェングラーの演奏したベートーヴェンの交響曲第三番の最高峰であり、なおかつ現存する全てのベートーヴェン交響曲第三番の演奏の中で、最高峰に位置する現在における極限的な名演奏であると僕は思います。少なくとも、21世紀中にこの演奏を超える交響曲第三番は出てこないのではないかと思うほど、数百年に一度レベルの名演奏であると思います。万人の皆様方にお勧めできる名盤だと僕は心から思います。セッション演奏録音のなかに、一期一会はあるということを音楽を通して伝えてくれる素晴らしい名盤と思います。
ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」
話は変わりますが、世界中で多数の言語が滅び、また滅びの危機に瀕する中、日本で幾つもの言語が危機に瀕しているそうで、危機に瀕している言語は絶対にあらゆる努力をして守った方がいいです。言語というのは根本文化であり、その文化に属する人の思考をその人自身の制御を超えたところで定義するものであり、言語が失われるというのは、根本文化の絶滅に等しいこと、悲しむべきことです。例えば、僕は日本の東京で生まれ育ち、東京弁及び標準日本語(主にテレビで使われる言語です)で思考が定義されています。それは僕の意識的な制御を超えたところにあります。僕の外国語語学力は低い(広く浅くという感じで、英語、ロシア語、中国語が少しだけできます)ので、その他の言語を基底として思考することはできません。英語、ロシア語、中国語などの原書を読むときは頭の中で外国語を日本語に変換して読みます。原書のまますらすら読むことは僕はできません。だから読むのにとても時間が掛かります。
余談ですが、僕はブッカー賞受賞作が好きで、ブッカー賞受賞作の方が、ノーベル文学賞受賞作よりも娯楽性に富み、なおかつ文学としてもより優れていると思うのですが、ノーベル文学賞受賞作は日本語に邦訳されますが、ブッカー賞受賞作は邦訳されないことが多いので、邦訳されていない場合は原書(英語以外の言語で書かれていた場合は英訳書)で読むしかありません。2008年度のブッカー賞受賞作「THe White Tiger」を頑張って原書で読んでいたら、あっという間に先月(2009年1月)、邦訳版(題名「グローバリズム出づる処の殺人者より」アラヴィンド・アディガ著)が出て、原書じゃなくて邦訳版で先に読了してしまいました。僕はお金ないので、原書も邦訳も本読むときは図書館です。なんとも、こんなはやく邦訳が出るなら、原書で読む必要がなかったです。原書で読むと邦訳の百倍以上読むのに時間が掛かるので、図書館の返却期限もあってなかなか読みきれません。この小説はエンタテイメントとして抜群に面白く、心からお勧め致します。下記の文章(冒頭)に引かれるものを感じられるお方は、きっと楽しめる、小説の大傑作だと思います。ブッカー賞受賞作の中でも娯楽性が抜群に富んでいる、エンタテイメント小説として最高に面白い小説です。小説の冒頭の数ページを引用致します。小説の一番初めの出だしからです。
アラヴィンド・アディガ「グローバリズム出づる処の殺人者より」
初日の夜
自由を愛する国、中国の首都
北京
首相官邸内
温家宝閣下机下
インド
バンガロール
エレクトロニクス・シティ・フェイズ1(ホスール・メイン・ロードからすぐ)
世界のテクノロジーとアウトソーシングの中心に住む
企業家にして思想家
ホワイト・タイガー拝
拝啓、首相殿
首相殿もわたしも英語を話しませんが、世の中には英語でしか言えないこともあります。
そのひとつをわたしは、雇い主だった故アショク様の元奥様、ピンキー奥様に教わりました。
で、きょうの午後十一時三十二分、いまから十分ほど前ですが、国営ラジオで「中国の温首相が、来週バンガロールを訪れます」というニュースを聞いたとたん、それを口にしました。
というより、あなたみたいなえらい人がこの国にやってくるたびに、それを口にしています。
別にえらい人に反感をいだいているわけではありません。わたしも自分なりにあなたがたの仲間だと思っていますから。
でも、この国の首相が名高い取り巻き連中とともに黒塗りの乗用車で空港に乗りつけて、テレビカメラの前であなたみたいな人にナマステをしてみせ、インドがどれほど精神的で高貴な国かを語ると、わたしはその英語を口にせずにはいられなくなるんです。(中略)
十四平米の部屋にシャンデリアがついているなんて、バンガロールでここだけです!
とはいっても、やはりせまくるしいし、ここでわたしは夜通しおきていなくてはなりません。
起業家の宿命です。つねに事業を見守っていなければならないのです。
さて、扇風機のスイッチを入れて、シャンデリアの光を部屋に撒き散らすとしましょう。
わたしは楽にしますから、あなた(首相)もそうしてください。
では、始めましょう。
その前にひとつ。わたしの雇い主だった故アショク様の元奥様、ピンキー奥様に教わったその英語というのは――
ホワット・ファッキング・ジョーク、です。
冒頭からこんな感じです。ちなみに「ホワット・ファッキング・ジョーク」の意味は、意訳するのがかなり難しいのですが、「超クソッタレ過ぎて笑える」を千倍ぐらい下品にして性的な要素を混ぜたようなニュアンスと考えてよろしいかと思います。僕はここで大いに笑ってしまいました。非常にシニカルでブラックなユーモアに富んだ小説(日本の作家に例えると筒井康隆のブラックユーモアに近い鋭い切れ味があります、小説全編が物凄いエネルギーに満ちていて飛ばしまくりです)であり、ユニークかつ直接的な形でインドの在り方や国際社会の在り方の批判、グローバル経済化の批判にもなっています。インドに抱いているイメージが一変する大傑作だと思います。ブッカー賞に選ばれましたが、ブラックユーモアに満ち溢れているのでどう考えてもノーベル文学賞は無理な作品です。それは政治的な問題です。
本作は文学作品としての質自体は僕はノーベル賞級を凌駕していると思いますが、作品内でインドに対する辛らつな皮肉風刺が一杯で、中国にも「自由を愛する国」とかしょっぱなから皮肉風刺をばんばん飛ばしていますので、強力な権力を持つ諸外国間の政治権力ロビー闘争によって受賞が決定するノーベル文学賞の受賞はどう考えても無理な作品です。逆に言えば、政治的にあたりさわりのないノーベル賞受賞作と違い、とても面白く素敵な文学作品、僕の大好きなタイプの文学作品です。作者のアラヴィンド・アディガさんは物凄くレジスタンスの意志、抵抗意志というものを持っているインドの作家さんで、娯楽小説としても抜群に面白い大傑作です。僕としては皆様方にご一読をぜひお勧め致します。インドに抱いていたイメージが変わると思います。
グローバリズム出づる処の殺人者より
閑話休題して話を戻しますと、上記の小説でも取り上げられていますが、言語は文化の根底にあります。強力な支配力のある文化が他の文化を根底から滅ぼすという弱肉強食の闘争的事態が起き、それが支配力のある文化が勝利するというとき、滅ぼされた文化の言語は消えてしまうのです。言語は思考を定義し、文化の根底にあるということは、よく考えられるべきことだと思います。僕は、言語は多様性を尊重して絶対に守るべき重要な存在であると思います。
言語が思考を定義することについては、長らく絶版だった重要文献、I・イリイチ、B・サンダース「ABC―民衆の知性のアルファベット化」が岩波モダンクラシックスで再刊されましたので、言語が思考を定義することについて専門的なご興味がおありのお方には、ご一読をお勧め致します。
最後に、生活が困窮おさまらず、そんななか、ギフト券・アフィリエイトでお助けくださったお方々に心から感謝致します。今も借金状態(クレジットで実質の財産がマイナス状態)で非常に厳しい状態なのですが、なんとか生きのびられていることを、皆様方に心から感謝致します。本当にありがとうございます。命を助けてくださっていること、深く心から感謝致します。ありがとうございます。
参考作品(amazon)
ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」
グローバリズム出づる処の殺人者より
証言・フルトヴェングラーかカラヤンか (新潮選書)
ABC―民衆の知性のアルファベット化 (岩波モダンクラシックス)
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