2009年02月19日 10:49

「ヴィヴァルディ&ピアソラふたつの《四季》」音楽の変化とアートの公共性について。

ヴィヴァルディ:協奏曲集「四季」
証言・フルトヴェングラーかカラヤンか (新潮選書)

心痛が辛く、また今飲んでいる向精神薬が極めて強力なため、頭がふらついて、なかなか文章が書けず、唯一の収入であるアフィリエイト収入も減りとても疲れていますが、文章を書かないと収入がゼロになってしまい、生活ができなくなってしまうので、頑張ります。メンタル面と肉体両方の調子が甚だしくよくなく、文章もあまり書けない形で申し訳ありません。

今日は先日に引き続き、音楽の話と、後は村上春樹さんのエルサレム賞スピーチについての話を書こうかと思います。とても良い音楽CDが以前は三千円で売られていたのが、千円にまで下がっているので、ご紹介致します。「ヴィヴァルディ&ピアソラふたつの《四季》」です。amazonだとリニューアル版(内容は同じ)の同CDのタイトルは「ヴィヴァルディ:協奏曲集「四季」 [Limited Edition] 」になっております。このCDの原題(元外国のCDです。外国版で買うといまだ三千円近くするので千円の日本盤の方がお得です)は「Vivaldi and Piazzolla: Eight Seasons」なので、「ヴィヴァルディ&ピアソラふたつの《四季》」の方が原題の訳に近いと言えると思います。

この音楽CDはとても面白い試みが行われているCDです。このCDはヴィヴァルディの「四季」とピアソラの「ブエノスアイレスの四季」をイタリア合奏団がカップリングして弾いているのを収録しており、古典クラシックの四季(ヴィヴァルディ「四季」)と近代音楽の四季(ピアソラ「ブエノスアイレスの四季」)を聴き比べることができる、とても良い意味でユニークな聴き応えがある音楽CDで、僕のお勧めの一枚です。

古典クラシックのヴィヴァルディ「四季」の春夏秋冬の各楽章は極めて調和とバランスの取れたシンメトリックな耳に心地よい反復を重視しているのに比べ、ピアソラの「ブエノスアイレスの四季」はその対極に位置し、計算された優れた不調和、反復不可能な混沌を春夏秋冬の楽章として演奏し、全く対極にある四季が両方とも聴けるというとても面白い聴き応えのある良い音楽CDだと思います。

また、ピアソラの「ブエノスアイレスの四季」はヴィヴァルディの「四季」を意識して書かれたと言われており、またピアソラ自身もヴィヴァルディについて語っておりますが、これがまた短いながらもとても的確な批評で、僕もピアソラに全く同感に思います。幾つか引用致します。

それ(チャイコフスキー、ジョン・ケージ、武満徹などの「四季」)に比べ、ヴィヴァルディとピアソラの四季は、春夏秋冬の四つの(季節を象徴する)独立した曲がひとつのセットになった連作として極めて近い関係にあるといえる。

それにピアソラはヴィヴァルディの《四季》を充分意識したからこそ、《ブエノスアイレスの四季》を作曲したらしい。(中略)ヴィヴァルディはイタリア人だったわけだが、ピアソラもイタリア系――祖父がイタリアからアルゼンチンに渡ってきた移民――であり、南米のなかでも季節がはっきりしているアルゼンチン(出身)であることも(四季の作曲に)無関係とは言えないにちがいない。

余談だが、南米だから雪は降らないなどと先入観はもたないほうがいい。この国(アルゼンチン)は(日本と同じように)かなり南北に長く伸びている複数の風土が共存しているのだ。イギリスと起こしたフォークランド紛争(アルゼンチンではマルビナス紛争という)で少しは映像も移ったフォークランド=マルビナスにはペンギンが歩き回っていたし、ピアソラが最後に関わったフェルナンド・P・ソラナスの映画「ラテンアメリカ 光と影の詩」(原題、EI Viaje ――旅)では、雪に覆われた街の学校が冒頭のシーンを飾っていた。

ただちょっと気をつけるべきなのは、アルゼンチンは北半球(イタリア)と季節が逆になっているということだ。つまり、イタリア(というよりヨーロッパやアメリカ、日本)で春ならば南米では秋、前者が夏なら後者は冬といったぐあいである。それがどうしたと言われればそれまでだが、ヴィヴァルディとピアソラがおなじように四つの季節を扱いながらも、こっちが秋と言っているのに向こうが春だったりするというのは、時間的にねじれていて(曲の季節のモティーフが反転していて)それなりに面白いと感じるのは筆者だけであろうか。
(「ヴィヴァルディ&ピアソラふたつの《四季》」ライナーノーツより)

上記のライナーノーツで書かれている面白さが僕としては本音楽CDには間違いなくあって、とても良い意味でユニークで面白い音楽CDです。また、ピアソラ自身がヴィヴァルディについてこう語っていて、僕も全く同感に思います。アストル・ピアソラの言葉です。

「ヴィヴァルディって奴は千回も同じ曲を書いたが、俺は全部好きだよ」
(アストル・ピアソラ)

僕もヴィヴァルディの音楽には同じように感じます。ヴィヴァルディの音楽は極めてシンメトリックに秩序だった調和的な音楽で、同じ形式の反復なのですが、それでも聴いていて全く飽きずに、ずっと聴いていられる、優れた持続性の見事さがあると思います。イタリア音楽の明るさが調和にとても相性よく合わさっているところにヴィヴァルディの音楽の歴史的にこれからも聴き続けられてゆく見事さがあると思います。

ピアソラの「ブエノスアイレスの四季」も、これはいかにもアルゼンチン音楽という感じで、良い意味で南米的なカオスが感じられて、とても優れた近代音楽であると思います。本CDはヴィヴァルディとの聴き比べなので、実に面白いです。聴き比べといっても、どちらも比較不可能なよさがあって、どちらが上下というものではないです。ベルリン・フィルのヴァイオリニスト、バスティアーンの言葉通り、極めて優れた音楽は、比較不可能な領域に達しています。バスティアーンの言葉を引用致します。

「音楽は、恒久的なものではなく、常に変化していくものです。だから(優れた演奏に上下をつける)比較はできない」
(バスティアーン。「証言・フルトヴェングラーかカラヤンか」より)

ある一定の域を超えた優れた音楽に、上下の評価はできない。これは当たり前のことだと思います。普遍的な優れた芸術は、比較優劣を超えた公共的な価値を持っています。その公共性を担う宿命を、優れた作品は否応無しに持たされる、それが優れた芸術の運命です。

村上春樹さんがエルサレム賞のスピーチで、イスラエルのガザ攻撃を批判しましたが、僕はこれは村上春樹さんの置かれた公共的な立場を考えるに、受賞拒否もしくは受賞時に批判をするのは、その公共性の責務を果たすという点で、その責務を果たしたと思います。もし受賞してなおかつ当たりさわりのないことを言っていたら、世論の批判は免れなかったでしょう。それは、普遍的な優れた芸術の創造者は、それに従った公共性の責務も負うからゆえです。

村上春樹さんは政治的なスピーチをするべきではなかったとか、芸術家の政治的スピーチは偽物の運動とか、意味不明なことを言っているイスラエルシンパの人々が、芸術はあらゆる政治性から解放されている、芸術の価値は商業性にあるとか言っていますが、そんなことがあるはずがありません。商業性が支配する芸術には芸術の進歩を阻む困る点があるのです。なぜなら、商業性が芸術を支配すると困ります。とても分かりやすい例で言えば、お金持ちがフェルメールの絵画とかを物凄い金額で買って、美術館に貸し出しせず、『これは私の所有物だから私以外の誰にも見せない』とかいうことになったら、人類の普遍的財産であるべき優れた普遍的芸術が一部の人間だけに独占支配されてしまうからです。クラシック音楽の原譜にも同じことが言え、先日挙げましたように、ショパンの作品70の1の原譜を個人所有者が公開していてくれれば、ルービンシュタインなどは、原譜を改変したフォンタナ版ではなく、原譜で作品70の1を弾くことが出来たわけです。ショパン好きにとって、複写されていない原譜の公開が遅れたり、作品70の3のように複写されていない原譜が失われてしまっているということは、痛恨の極みです。普遍的な価値のある芸術は人類の普遍的財産であるという意識が商業意識より遥かに大切なことだと僕は思います。

例えば、優れた世界的な絵画の個人所有者で『この絵画は私の所有物だから私以外の誰にも見せない』という所有者がいたら、美術館長さん達や国家のお偉いさん達や学者さん達がその所有者のところにいって、『その芸術はとても優れた普遍的価値を持つ芸術、人類の公共的な普遍的財産であって、個人が独り占めしていいものではないのです』って一生懸命説得して、お金と保険と厳重なセキュリティを沢山かけて、懸命な説得の上、やっと貸し出してもらうわけです。でも、『絶対にどうしても貸さない』という人がいたら、貸し出してもらえず手の打ちようがないのです。これは、芸術の進歩ということについて、商業主義(金銭による所有権独占主義)が齎す巨大なマイナスであると思います。優れた芸術作品を所有者だけが独占していたら研究も出来ないわけです。絵画の場合は絵画研究ができませんし、音楽の複写されていない原譜に至っては、原譜がない故に優れたピアニストがオリジナルを弾くことができないというとても残念な事態が起きてしまいます。

世界的に高い評価を受ける普遍的芸術は、否応なく公共性を担うとはこういうことです。村上春樹さんも、ノーベル文学賞候補者の筆頭の一人で、世界的に大きな影響力を持つ作家であるがゆえ、その言動は否応なしに公共性を持たずにはおれないのです。そこで、その公共性の責任を放棄せず、普遍的な原則(個々の人権)に沿った公共的なスピーチを行ったことは、世界に大きな影響力を持つ普遍的芸術の創り手としての公共性の責務を果たしたといえると思います。

最後に、本CDでヴィヴァルディ、ピアソラが気に入ったら、それぞれボックスセット(「Vivaldi Masterworks」「アストル・ピアソラ メンブラン10CDセット」)聴き比べてみるのも面白いと思います。古典クラシックと近代音楽が深い基底で繋がっているのが感じられると思います。

参考作品(amazon)
ヴィヴァルディ:協奏曲集「四季」
Vivaldi Masterworks
アストル・ピアソラ 【メンブラン10CDセット】
証言・フルトヴェングラーかカラヤンか (新潮選書)

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