2008年12月28日 18:50

本日からコミックマーケットという催しが行われます。僕は心身の酷い苦痛と生活困窮で全日行けませんが、参加されるお方々の幸運を祈っております。皆様方の平安を祈っております。祈りについて。

仏教とキリスト教(新潮選書)
不安の書

先日より、心身の状態が酷く、胸から不安感が離れずに苦しく、収まっていた頭痛がまたぶり返してきて、心身の酷い苦痛に悩まされています。何か、良いことを書ければと思うのですが、申し訳ありません。本日からコミックマーケットという催しが行われます。僕は心身の酷い苦痛と生活困窮で全日行けませんが、参加されるお方々の幸運を祈っております。

また、現在、人ごみなどにでると、出た後、酷い反動でうつのショック状態になってしまうのが数ヶ月前起きて、調子が悪いときはあまり人ごみなどには出ないよう先生からご指示頂いております。後、外にでる気力がどうしてもわかなくて、外になかなか出られない状況です。いつも胸が暗い気持ちが離れず、ずっと巣くっていて、それが腹痛を呼んで苦しいです。

僕の現在の状況はきわめて酷く、不安と心痛が胸からずっと離れない形で、頭の中がとても苦しいです。言葉で言い表せないくらい辛いです。表現に絶する苦しみというのは本当にあるんだというのを感じます。うつ病の初期の頃に戻ったような苦しさです。猫と一緒にいることが心の慰めです。フェルナンド・ペソア「不安の書」から引用致します。

自分の惨めな状態を引きずっているこうした街路、自分の寒さに身を縮め、自分の襤褸をとおして夜の手を感じるこうした階段、こういうすべてはいつ終わるのだろう?もしもいつか神が迎えにきてくれて、家に連れていってくれ、温もりと愛情をくれたなら……。時おりこう考え、そう考えることができると考えて嬉し泣きする……。しかし風が外の街路をゆっくりと通り過ぎ、木の葉が歩道に落ちる……。目を上げると、何の意味もない星が見える……。そしてこうしたすべてから、どんな〈愛〉も養子に欲しいと思わず、どんな〈友情〉も遊び仲間に欲しいと思わなかった見捨てられたかわいそうな子供、わたしだけが残る。

あまりに寒気がする。見捨てられてこれほど疲れている。
(フェルナンド・ペソア「不安の書」)

だんだんとこのブログのアクセス数は減っていっており、僕は失業しており、ギフト券とアフィリエイトが生活の糧なので、疲れています。

ギフト券で施ししてくださった心優しきお方々に、心から感謝申し上げます。生きて2009年が迎えられることを、心優しきご慈悲ある皆様方全てに深く心全てから感謝致します。ありがとうございます。

慈悲の「慈」の原語は、サンスクリットの”マイトレーヤ”であって、この言葉は、”ミトラ(友)”という語からつくられたものです。特定の人間に対してではなく、すべての人に対して最高の友情をもつのが「慈」であります。一方、「悲」のほうは、原語はサンスクリット語の”カルナー”であって、「呻き」といった意味です。わたしたちは人生の苦しみのなかで呻き声を発します。この呻き声を発した者のみが、よく他人の苦しみを理解できるのです。そして、他人の苦しみをともに苦しむことができます。そのともに苦しむ行為が、「悲」なのです。

したがって、仏教でいう「慈悲」は、わたしは、他人を理解し、他人と共感することだと思います。人間は孤独です。孤独のうちに苦しみ、呻吟しているわたしたちに、もし理解者が現われ、その人がともに呻き声を発してくれたなら、わたしたちはどれだけ救われるでしょうか……。それが、慈悲なのです。(中略)

キリストは、不幸な同胞たちにたいする施しは、それがなおさずキリストその人に対する業にほかならない(「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわちわたしにしたのである」――「マタイによる福音書」第25章)といっています。つまり、施しは、キリストに対する信仰表明とされているのです。

このように考えれば、仏教の布施も、キリスト教の施しも、つまるところは同じになるのではないでしょうか……。
(ひろさちや「仏教とキリスト教」)

「兄弟愛が保たれるように。[旅人への]もてなしを忘れてはならない。それによってある人たちは気づかないで御使いをもてなしたのだから。獄の人々のことを[想い起こしなさい。自分たちも]共に獄に繋がれているつもりで[そうしなさい]。虐待されている人々のことを想い起こしなさい。自分たちも[同じく]体においてあるのだから。」
(ヘブル書13-1〜3)

まず、「兄弟」(男女の同信徒)に対する愛の勧め。(中略)
次に、「旅人へのもてなし」の勧め。(中略)
最後に、迫害を受けて「獄」にある人々、「虐待されている人々」への思いやりが勧められている。想像力(共感)により彼らと共に苦しむことによって――。
(聖書名言事典)

本当に、僕を助けて頂いた皆様方に、心から感謝致します。真剣に、皆様方の平安と幸せを祈っております。祈りだけが、僕に残された全てです。

(宗教の)最初は、病気を治してくださいという要求でもって、仏教やキリスト教に入信します。そして、そのために祈ります。すると、祈っているうちに、祈りそのものの大事さに気づくのです。その結果、(それが人間の手によっては覆すこと叶わない必然としての定められた運命ならば)病気は治らなくともよい。神は(仏は)、わたしに祈りをさせるために、わたしを病気にさせたのだ――と考えるようになります。これが「価値の革命」です。まさに逆転が起きているのです。このようなあり方が、キリスト教や仏教の信仰だと思います。
(ひろさちや「仏教とキリスト教」)

皆様方に平安があることを、心から祈っております。良き平安が皆様方にあることを心から祈っております。

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