2008年11月08日 20:52
薩長閥と軍閥と東大(旧帝大)閥と同人誌即売会と、システムについて
ぼくんち (ビッグコミックス)
はれた日は学校をやすんで (双葉文庫)
先から風邪が治らず、音楽も聴けずに寝ていて「音なくも死の声発す夢見かな」(自作)といったように、頭の中で句を読んだりしています。うつと風邪で寝たきりなのですが不眠症状がでて、ときどきやっと少しだけうとうとできるくらいなので、熱特有のけだるさのなかで辞世の句を幾つか頭のなかで作ったりするくらいしか病床のなかで生ける楽しみがありません。「誰かこの苦を助けて呉れるものはあるまいか。誰かこの苦を助けて呉れるものはあるまいか」(正岡子規)と、頭の中で呟いています。今すぐではないにせよ、数年といった近年的スパンの間に自らの病死・貧困死などの死を予感して、ひどく悲観的な気持ちです。せめて、今のうちに、僕の知りえることを、必死でキーボードを叩いて、皆様方に伝えたいと思います。
文学系・思想系の同人誌即売会について、先に触れましたが、今回はそこに、強力強大な資本的出版社と友敵理論に基づく資本的アカデミズムが進入しているので、それについて、歴史的に少々述べたいと思います。
日本が明治維新後、薩長閥の支配下に置かれたのはご存知の通りです。特権階級が支配する封建的かつ、軍事的経済的には活力のいる近代国家というモデルを日本はドイツを参考にしながら維新後、構築してゆきました。
そのモデルの目指す目的は、上位を専制資本主義的な安定システム、下位を自由資本主義的な闘争システムにして、下位が上位に上がれないように、上位のエスタブリッシュメント層を永遠の支配層として保護することです。
その為に、様々な手法が使われましたが、特に大きかったのは、富によって、軍閥及び学閥に階級を作り、富による格差を利用して軍におけるエリート層をエスタブリッシュメント層から輩出する、学閥もまた、富による格差を利用して、帝国大学(現東京大学)におけるエリート層をエスタブリッシュメント層から輩出するという形で、この二つが、大勢の下位の人々に対する飴と鞭になりました。飴が、大学の真のアカデミズム層(帝国大学)として、大衆を権威によって宥め、鞭が、云うことをきかない人々を抹殺する軍として機能しました。
この体制が、GHQに利用され、戦後も維持されてしまっているという、日本の大勢の人々にとって不幸な現実があります。旧軍は戦後は人々を弾圧する力を失いましたが、旧帝国大学である東京大学の役割は変わっていません。それは、戦前から続く支配システムの維持と管理です。東京大学出身者の全てがそうではありませんが、一部は、大衆へのガス抜き、つまり、一見リベラルを装いながら、実際は、現権力の為の提灯学者として働いている人々、そうやってエスタブリッシュメント層を手助けすることで、準・エスタブリッシュメント層(上流アカデミズムの人間)として動いている人々がいます。
そういった旧帝大閥・東大閥出身のアカデミズム上流の人々は、上位は専制的でありながら、下位には競争主義を持ち込みます。それを支えるものは、先日書いた通り、権威・権力に弱い、その力の前に畏怖し支配されてしまう人間の心理です。
非常に、穏健な云い方で、こういったことを、一般には変わり者と見られている在野の孤立したアカデミシャン(呉智英さんや副島隆彦さんなどの人々)が指摘していますが、アカデミシャンのほとんどはこのシステムに封殺されており、このことを指摘する声はその声を聴いて欲しいほとんどの人々に届きません。それは戦前と似たようなところがあります。アカデミズム上流は、戦前は軍閥と協同的関係でしたが、戦後は軍の力が後退し、軍に代わって、マスメディア・出版界とアカデミズム上流が協同的関係になったからです。血縁と富の階級維持を東京大学とマスメディア・出版界が手助けすることで、彼らは準・エスタブリッシュメント層として準・支配層の地位に付くのです。例えば、戦前も戦後の今現在も「甘粕人脈」と呼ばれるものは続いています。それは戦前は軍を機軸としていましたが、戦後は東京大学を機軸としたものとなりました。
甘粕人脈などの、社会を分割隔離して支配する「階層性の壁」の力は、戦後は東京大学において大きく発揮されました。その力は学界・マスメディア・財界・政界などと融合しています。
これはほんの一例に過ぎません。こういった例がごろごろしていて、日本は社会を階層的に分割管理されています。例えば、僕は昔、霞ヶ関でアルバイトをしている時に国家公務員の人から聞きましたが、国家公務員は、人事院が行う一次採用試験(テスト試験)の後、テスト試験の成績をチェックする人事院が警察庁のデータベースで合格者を照会して本人・家族をデータチェックされ、問題があると判断された場合は一次採用試験の段階で落とされるそうです。例えば、犯罪者の子供等は、幾ら成績が良くても国家公務員になれないのです。現代の日本は下位の人々には見えない差別の壁、階層性の壁が大量に張り巡らされています。西原理恵子が描く「ぼくんち」のようなところに生まれてしまったら、本来ならあってはならない、とてつもないハンディキャップを背負うのです。
そしてその一つとして、アメリカのハリウッドが「アメリカンドリーム」という実体なき夢の幻想ショーを催して、貧困層を実体なき希望に縋らせて、結果的にエスタブリッシュメント層を保護するように、日本でもアカデミズム上流が、先の引用した文章で呉智英さんが指摘しているように、現状の格差肯定論をマスメディア資本を使って強力に唱えることでそれ(エスタブリッシュメント層の保護)を果たしているのです。これらの提灯アカデミシャンは、現状肯定論により、大勢の人々を最も自由と遠いシステムに送りながら、自由を僭称します。そして、下位を争わせ、自らはそれによる特権を享受する、このシステムは大同小異あれど、戦前も戦後もあらゆる場所で繰り返されております。それは、今回の催しが受ける進入にもいえることと僕は思います。
僕は、自ら考える力のある人々に、アカデミズムの富裕サロンのお喋り的理論ではなく、『下流社会』の更に下にある『貧困社会』のことを考えて欲しいと思います。貧困層の実態、社会の下位というものの深度ある考察に、どうか、多くの人々が眼を向けて欲しいです。西原理恵子さんが描いた「ぼくんち」のような貧困環境は、偽ではなく真に存在します。なぜそのような環境が存在するのか、根本から考えて欲しいと願います。大勢の人々が一部の特権階級・準特権階級の手によって、友敵理論で支配される、貧困層にとって、どんなに頑張っても絶望しかない現在の関係システムに多くの人々にとっての救いはありません。
例えば、今回の催しに進入してくる巨大出版社(巨大資本)は、大学アカデミズムを支えとして、まさしく闘争の友敵理論の導入として催しに進入してきます。それは権威・権力によって催しを一変させる、催しを破壊か、もしくは資本化する力として進入してきます。このような友敵理論の実践によって政治経済が支配される現代、貧困層に救いはありません。階層性の壁を越えて多くの人々がお互いに支えあう、お互いに大勢の人々が相互扶助してゆく政治システム、そして専制的な特権層・エスタブリッシュメント層のいない関係システムに、少しずつでも社会を変えてゆかねば、日本の未来は、大勢の人々にとって、とても暗いものになると思います。以前も書きました様に、自らの幸せだけを考えると、友敵理論を上手に使った現在の下位における破壊的競争=闘争の関係システムに取り込まれてしまうのだと今の僕は思います。それは、最終的に、少数の人々を特権化し、大勢の人々の不幸を増幅させる道行きと思います。自らの幸せと共に、人々の幸せを考えることが大事だと今の僕は心から信じています。先日書いたように、抽象的・観念的理論に耽るのではなく、食べ物が皆に行き渡ることを考える、社会の人々が互いに支えあう、そういった相互扶助の関係システムに日本社会が少しずつ変わってゆくことを、僕は心から願っております。
参考作品(amazon)

ぼくんち (ビッグコミックス)

はれた日は学校をやすんで (双葉文庫)

人間臨終図巻〈1〉 (徳間文庫)
人間臨終図巻〈2〉 (徳間文庫)
人間臨終図巻〈3〉 (徳間文庫)

下流社会 新たな階層集団の出現

マンガ狂につける薬 下学上達編 (ダ・ヴィンチブックス)

預金封鎖―国はタンス預金を狙っている (祥伝社黄金文庫)

預金封鎖 実践対策編 (祥伝社黄金文庫)

だれが「本」を殺すのか〈上〉 (新潮文庫)

だれが「本」を殺すのか〈下〉 (新潮文庫)

政治的なものの概念

病牀六尺 (岩波文庫)
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はれた日は学校をやすんで (双葉文庫)
先から風邪が治らず、音楽も聴けずに寝ていて「音なくも死の声発す夢見かな」(自作)といったように、頭の中で句を読んだりしています。うつと風邪で寝たきりなのですが不眠症状がでて、ときどきやっと少しだけうとうとできるくらいなので、熱特有のけだるさのなかで辞世の句を幾つか頭のなかで作ったりするくらいしか病床のなかで生ける楽しみがありません。「誰かこの苦を助けて呉れるものはあるまいか。誰かこの苦を助けて呉れるものはあるまいか」(正岡子規)と、頭の中で呟いています。今すぐではないにせよ、数年といった近年的スパンの間に自らの病死・貧困死などの死を予感して、ひどく悲観的な気持ちです。せめて、今のうちに、僕の知りえることを、必死でキーボードを叩いて、皆様方に伝えたいと思います。
文学系・思想系の同人誌即売会について、先に触れましたが、今回はそこに、強力強大な資本的出版社と友敵理論に基づく資本的アカデミズムが進入しているので、それについて、歴史的に少々述べたいと思います。
日本が明治維新後、薩長閥の支配下に置かれたのはご存知の通りです。特権階級が支配する封建的かつ、軍事的経済的には活力のいる近代国家というモデルを日本はドイツを参考にしながら維新後、構築してゆきました。
そのモデルの目指す目的は、上位を専制資本主義的な安定システム、下位を自由資本主義的な闘争システムにして、下位が上位に上がれないように、上位のエスタブリッシュメント層を永遠の支配層として保護することです。
その為に、様々な手法が使われましたが、特に大きかったのは、富によって、軍閥及び学閥に階級を作り、富による格差を利用して軍におけるエリート層をエスタブリッシュメント層から輩出する、学閥もまた、富による格差を利用して、帝国大学(現東京大学)におけるエリート層をエスタブリッシュメント層から輩出するという形で、この二つが、大勢の下位の人々に対する飴と鞭になりました。飴が、大学の真のアカデミズム層(帝国大学)として、大衆を権威によって宥め、鞭が、云うことをきかない人々を抹殺する軍として機能しました。
この体制が、GHQに利用され、戦後も維持されてしまっているという、日本の大勢の人々にとって不幸な現実があります。旧軍は戦後は人々を弾圧する力を失いましたが、旧帝国大学である東京大学の役割は変わっていません。それは、戦前から続く支配システムの維持と管理です。東京大学出身者の全てがそうではありませんが、一部は、大衆へのガス抜き、つまり、一見リベラルを装いながら、実際は、現権力の為の提灯学者として働いている人々、そうやってエスタブリッシュメント層を手助けすることで、準・エスタブリッシュメント層(上流アカデミズムの人間)として動いている人々がいます。
そういった旧帝大閥・東大閥出身のアカデミズム上流の人々は、上位は専制的でありながら、下位には競争主義を持ち込みます。それを支えるものは、先日書いた通り、権威・権力に弱い、その力の前に畏怖し支配されてしまう人間の心理です。
非常に、穏健な云い方で、こういったことを、一般には変わり者と見られている在野の孤立したアカデミシャン(呉智英さんや副島隆彦さんなどの人々)が指摘していますが、アカデミシャンのほとんどはこのシステムに封殺されており、このことを指摘する声はその声を聴いて欲しいほとんどの人々に届きません。それは戦前と似たようなところがあります。アカデミズム上流は、戦前は軍閥と協同的関係でしたが、戦後は軍の力が後退し、軍に代わって、マスメディア・出版界とアカデミズム上流が協同的関係になったからです。血縁と富の階級維持を東京大学とマスメディア・出版界が手助けすることで、彼らは準・エスタブリッシュメント層として準・支配層の地位に付くのです。例えば、戦前も戦後の今現在も「甘粕人脈」と呼ばれるものは続いています。それは戦前は軍を機軸としていましたが、戦後は東京大学を機軸としたものとなりました。
「大杉栄」(38歳で死亡)
大正十二年大震災後の九月十六日、無政府主義者大杉栄は、妻の伊藤野絵とともに、大森の実弟大杉勇を震災見舞いにゆき、同僚に預けられていた末妹の子で七歳になる橘宗一を連れて、午後六時ごろ新宿柏木の自宅近くまで帰り、ある果物屋で果物を買っているとき、数名の憲兵に勾引された。
その隊長は憲兵大尉甘粕正彦で、彼はかねてから社会主義者を「国賊」としてダカツのごとく憎み、特に大胆不敵で戦闘的な大杉に眼をつけて殺意をいだいていたものであった。
二台の車に分乗させられて、麹町平河町の憲兵隊本部に連行された大杉は、一人だけ一室に入れられ、憲兵曹長森慶次郎に尋問されていた。
午後八時二十分ごろ、そこへ音もなくはいっていった甘粕大尉は、声もかけずにその背後から大杉ののどに右腕をまわして締めつけた。大杉は両手をあげて苦しんだ。
そこへ音もなくはいっていった甘粕大尉は、声もかけずにその背後から大杉ののどに右腕をまわして絞めつけた。大杉は両手をあげて苦しんだ。
甘粕は右ひざがしらを大杉の背にあてて、十分ばかり締めつづけて、こときれた大杉をさらに麻縄で絞めてとどめをさした。ついで甘粕は別室に向い、伊藤野枝、少年宗一も絞殺し、屍体は憲兵隊の古井戸に投げこみ、古煉瓦や石やごみで埋めた。
もう少し生かしておきたかった快男児の一人である。
この虐殺をあえてした甘粕は、わずか二年十ヶ月で釈放され、満州に渡り、やがてそこの実力者となった。
(山田風太郎「人間臨終図巻」)
甘粕人脈などの、社会を分割隔離して支配する「階層性の壁」の力は、戦後は東京大学において大きく発揮されました。その力は学界・マスメディア・財界・政界などと融合しています。
ここでいう「下流」は、「下層」ではない。「下層」というと、これはもう本当に食うや食わずの困窮生活をしている人というイメージがする。たしかにそれに近い困窮世代も増えているらしい。しかし本書が取り扱う「下流」は、基本的には「中の下」である。食うや食わずとは無縁の生活をしている。しかしやはり「中流」に比べれば何かが足りない。
(三浦展「下流社会」)
三浦展『下流社会』を読み始めてショックを受けた。冒頭に出てくる「下流度チェック」の十二項目中、予想を超える八項目に私は該当し、見事下流人間となってしまったからである。(中略)
(日本の下流社会の人々、低収入層は)彼らは精神的には(希望がなく)追いつめられ無気力になっている。現代の日本における社会格差は、単なる経済上の格差なのではなく、それも含んだ文化的格差であり生活意識の格差なのである。(中略)
ここ十年ぐらい流行の「ゆとり」だの「まったり」だのと(下流社会の人々は)呼応している。
ところが、「まったり」を唱え(仕掛け)「不良女子高生の援助交際をあれだけ煽った」某大学助教授は、「東大名誉教授の娘にして日本女子大卒の、いまどき珍しい純潔な二十歳も年下の女性」と結婚した。この大学助教授は「一族みな東大、祖父も東大教授で昭和天皇に御進講をした生物学者」である。本人も、東京港区の私立中間一貫校から東大に進んでいる。「階層性の壁」は、黒澤明の『天国と地獄』の四十年前とはちがって、このような形で社会を分割隔離している。
(呉智英「マンガ狂につける薬 下学上達篇」)
日本政府は「国民の持ち金」の検査を急速に始めている。
前著(副島隆彦「預金封鎖」)で指摘したが、国民すべてをコンピュータで管理しようとする「個人情報保護法」と「住基ネット」を連動させようとしているのである。これは総務省の主導による。
総務省は省庁再編により、旧自治省と旧郵政省が合併して誕生した。郵政省が郵便貯金の管掌官庁であったことは言うまでもない。そして自治省の前進は(日本国民を徹底管理した)旧内務省(The Department of the Interior)である。内務省は、戦前の日本の中央官庁でいちばん威張っていた。警察の他に土木・地方行政・社会衛生まで担当し、「国家の神経」と呼ばれていたのである。
この内務省が敗戦後、GHQによって解体され自治省となったわけであるが、内務官僚達は内務省の復活(国民の徹底的な管理)を密かに目論んでいる。
そしてこの総務省(内務省)による「国民情報管理および郵貯・地方税管理」と、財務省の「国税徴収」が互いに協力しつつある。
(副島隆彦「預金封鎖 実践対策編」)
現代という時代のそこに流れる微弱電流を肌で感じ取り、それを本というオブジェのなかにつくりこむことができていると自信をもっていえる編集者が(現代に)何人いるだろうか。(中略)
彼ら(現代の編集者、大手出版関係者)は再販制と委託制という(国家による)手厚い保護政策のなかで、人もうらやむような高禄を食んでいることに無自覚すぎる。彼らは読者の財布のヒモを開かせるのがどんなに難しい仕事かということに思いを馳せたことがあるのだろうか。ときどき、彼らには世間というものがないのだろうか、と怪しむことがある。(中略)
(角川書店が始めたメディアミックスによって)角川商法が文庫本をブームのなかにたたき込むことで空前のベストセラーをつくりだした反面、(じっくり考えて読むタイプの)夥しい数の文庫本を絶版に追い込み、結局、「本」を殺す結果になったことを、われわれは忘れるべきではないだろう。(中略)
こうしたタイプの編集者(人々の市井の生活を敏感に拾い上げることのできる編集者、ベストセラーでなくとも、きちんと考えて読む本をじっくり作る編集者)は、なぜ、絶滅状態になってしまったのだろうか。
(大手)出版社が偏差値の高い(=主に富裕層出身の)学校秀才ばかりを集めた結果だと、私は考えている。
(佐野眞一「だれが『本』を殺すのか」)
これはほんの一例に過ぎません。こういった例がごろごろしていて、日本は社会を階層的に分割管理されています。例えば、僕は昔、霞ヶ関でアルバイトをしている時に国家公務員の人から聞きましたが、国家公務員は、人事院が行う一次採用試験(テスト試験)の後、テスト試験の成績をチェックする人事院が警察庁のデータベースで合格者を照会して本人・家族をデータチェックされ、問題があると判断された場合は一次採用試験の段階で落とされるそうです。例えば、犯罪者の子供等は、幾ら成績が良くても国家公務員になれないのです。現代の日本は下位の人々には見えない差別の壁、階層性の壁が大量に張り巡らされています。西原理恵子が描く「ぼくんち」のようなところに生まれてしまったら、本来ならあってはならない、とてつもないハンディキャップを背負うのです。
そしてその一つとして、アメリカのハリウッドが「アメリカンドリーム」という実体なき夢の幻想ショーを催して、貧困層を実体なき希望に縋らせて、結果的にエスタブリッシュメント層を保護するように、日本でもアカデミズム上流が、先の引用した文章で呉智英さんが指摘しているように、現状の格差肯定論をマスメディア資本を使って強力に唱えることでそれ(エスタブリッシュメント層の保護)を果たしているのです。これらの提灯アカデミシャンは、現状肯定論により、大勢の人々を最も自由と遠いシステムに送りながら、自由を僭称します。そして、下位を争わせ、自らはそれによる特権を享受する、このシステムは大同小異あれど、戦前も戦後もあらゆる場所で繰り返されております。それは、今回の催しが受ける進入にもいえることと僕は思います。
僕は、自ら考える力のある人々に、アカデミズムの富裕サロンのお喋り的理論ではなく、『下流社会』の更に下にある『貧困社会』のことを考えて欲しいと思います。貧困層の実態、社会の下位というものの深度ある考察に、どうか、多くの人々が眼を向けて欲しいです。西原理恵子さんが描いた「ぼくんち」のような貧困環境は、偽ではなく真に存在します。なぜそのような環境が存在するのか、根本から考えて欲しいと願います。大勢の人々が一部の特権階級・準特権階級の手によって、友敵理論で支配される、貧困層にとって、どんなに頑張っても絶望しかない現在の関係システムに多くの人々にとっての救いはありません。
ここで問題なのは、擬制や規範ではなく(現実に存在する)この[友・敵]区別としての存在としての現実性の現実的可能性なのである。
(カール・シュミット「政治的なものの概念」)
例えば、今回の催しに進入してくる巨大出版社(巨大資本)は、大学アカデミズムを支えとして、まさしく闘争の友敵理論の導入として催しに進入してきます。それは権威・権力によって催しを一変させる、催しを破壊か、もしくは資本化する力として進入してきます。このような友敵理論の実践によって政治経済が支配される現代、貧困層に救いはありません。階層性の壁を越えて多くの人々がお互いに支えあう、お互いに大勢の人々が相互扶助してゆく政治システム、そして専制的な特権層・エスタブリッシュメント層のいない関係システムに、少しずつでも社会を変えてゆかねば、日本の未来は、大勢の人々にとって、とても暗いものになると思います。以前も書きました様に、自らの幸せだけを考えると、友敵理論を上手に使った現在の下位における破壊的競争=闘争の関係システムに取り込まれてしまうのだと今の僕は思います。それは、最終的に、少数の人々を特権化し、大勢の人々の不幸を増幅させる道行きと思います。自らの幸せと共に、人々の幸せを考えることが大事だと今の僕は心から信じています。先日書いたように、抽象的・観念的理論に耽るのではなく、食べ物が皆に行き渡ることを考える、社会の人々が互いに支えあう、そういった相互扶助の関係システムに日本社会が少しずつ変わってゆくことを、僕は心から願っております。
それはわたしがちいさかったころ
まだいえのまわりには
たんぼや畑がいっぱいあったころ
私はいっぴきのくろいこねこをひろいました
ひみつでかうことにしたそのねこの
名前を何とつけたかは
もうおぼえていませんが
それは私に
生まれて
はじめての
たからものでした
しばらくして私は
そのねこに母親が
いることに気ずきました
母ねこはくるった
ように子供を
よびます
でも私は
そのこねこを
てばなすことが
できませんでした
そうしてこねこは
日に日に弱り
やがて
うごかなくなりました
どうする事も
できなかったわたしは
何時間もなき
つづけ
そのねこを
野原に
うめました
ごめんなさい
ごめんなさい
といって
泣きながら
うめました
(西原理恵子「はれた日は学校をやすんで」)
参考作品(amazon)

ぼくんち (ビッグコミックス)

はれた日は学校をやすんで (双葉文庫)

人間臨終図巻〈1〉 (徳間文庫)
人間臨終図巻〈2〉 (徳間文庫)
人間臨終図巻〈3〉 (徳間文庫)

下流社会 新たな階層集団の出現

マンガ狂につける薬 下学上達編 (ダ・ヴィンチブックス)

預金封鎖―国はタンス預金を狙っている (祥伝社黄金文庫)

預金封鎖 実践対策編 (祥伝社黄金文庫)

だれが「本」を殺すのか〈上〉 (新潮文庫)

だれが「本」を殺すのか〈下〉 (新潮文庫)

政治的なものの概念

病牀六尺 (岩波文庫)
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