2008年11月03日 01:15

更新もままならず、アクセス数が減っていて、本当に申し訳ありません。いつも暗いことしか書けずごめんなさい。うつ病と愛情と猫について。

「裸のサル」の幸福論 (新潮新書)

うつが酷くて更新頻度が下がり、アクセス数が急激に減っていて(ブログのランキングが、どんどん下がっているので、表面的と分かりやすく現れています)、アフィリエイトも減少し、以前書いたように、一日百数十円の確保も難しくなっており、以前のエントリで取り上げた「日本円にして、ほんのわずかのゼニがあれば、彼女は生き地獄から抜け出せるのである。彼女の幸福は、ほんの数百円のゼニにかかっているのだとさえいってよい(青木雄二)」というような状態で更新できず、本当に申し訳ありません。

うつが酷くて現在、頭が鈍って分析する力もなく、今回は極私的なうつ病の病状について書かせて頂きたく思います。

心身症の症状として疲労感と痛みが身体にあり、精神的には、いつも苦しく、皆様方のご善意ご慈悲に触れたとき、嬉しさを感じます。ただ、どうしても、全体的に陰鬱で、以前感じられたような、幸福感、恍惚感の幸福感情のようなものが完全に失われています。

以前は、現実的なパートナーがいなくても、ファンタジーの世界で性的な幸福感みたいなものが、僕の中にあったりしたのですが、うつ病にかかってから、性的欲望が消失し、現在服用しているうつ病の薬(SSRI)自体も、性欲や食欲を減衰させ、欲望を減少させる効果が副作用としてあるため、非常に毎日が、世界情勢が暗く、そして自身の将来的展望も暗く、非常に暗澹とした苦しみのなかにあります。

生活無能力者である僕が、生きてゆけるのは、ギフト券を贈ってくださるお方、アフィリエイトでお助け頂けいているお方々のおかげで、ご善意ご慈悲を持ったお方のおかげで生きていられて、とても感謝しております。それがなんとか、崩壊しそうな僕の心を繋ぎとめてくださっている感じです。ありがとうございます。

昔の僕にはオタク的パラノイア的なところがあって(ディレッタンティズムなオタク趣味に耽溺する)、それが幸福としてひとときの喜びを齎してくれましたが、現在、その幸福を感受する能力が消えて、それ以外の幸福も感じられず、僕のような生活無能力者が生きていることに対する罪悪感を感じます。僕を生かして下さるお方々への感謝の気持ちのおかげで、なんとか生きていられます。心からに誠に感謝致します。

僕は、デズモンド・モリスという動物行動学者の著作が好きで、昔からよく読んでいました。彼の有名作としてはベストセラー「裸のサル」があります。彼は人間を動物行動学的に分析する人間行動学の専門家で、人間を行動学的に分析しており、人間において、幸福とはなんであるかということを書いた著作があります。邦訳名「『裸のサル』の幸福論」という本です。

デズモンド・モリスは、以前僕が感じていたような幸福、オタク的パラノイア的幸福は、こだわりの幸福、神経症的幸福と定義しており、この神経症的な部分が反転した状態(欝状態)においては、幸福感が消失することを分析しています。まさにそのような状態で、暗い知識に押し潰されそうな心境がずっとずっと続いています。薬学治療を受けていますが、抗うつ剤の方も僕は抗うつ剤ジェイゾロフトを100mg出して頂いておりますが、先生から、100mgがお薬の処方最大量でこれ以上だせないので、なるべく休養して、あまり神経質にならないようにするようにご指導をお受けしています。

ただ、どうしても、暗いことばかり考えてしまい、世界情勢が厳しいので、生活無能力者の僕個人にも非常に暗澹とした未来しか予想できず、非常にどうしても悲観的になってしまっております。以前のオタク趣味だったときのような、何か、自分の楽しめるものにこだわることで、幸福を感じる能力が完全に喪失しているように感じます。前述のデズモンド・モリスの著作から引用いたします。

10:こだわりの幸福(ヒステリック)
これは自分の身を取り巻く日常の恐怖を(何かに耽溺することでひととき忘却し)無視することで成り立っている幸福です。

欝に沈んでいる人々(上記の能力、耽溺する能力が失われている人々)は、正しい光の下に世界を見ているのは自分たちだけで、幸福な人々(喜びに耽溺できる人々)はこの世の問題や苦しみに気づかない――あるいは無視している――と(極度に悲観的に)信じ込んでいます。彼ら(欝病患者などの極度に悲観的な人々)には、人々が束の間の幸福(こだわりの幸福)を楽しんでいられることが理解できません。飢えに苦しむ人々、刑務所の拷問、動物実験、環境汚染、その他さまざまな災厄があるというのに。

こうした考え方に取り憑つかれた人々の中には、幸福をあまりにも残酷な表現で定義した人たちがいます。「豚小屋の理想だ」と言ったのはアインシュタインその人です。この年老いた天才の悲しげな顔を写した写真を眺めれば、彼が本当に(心底からの喜びとして)笑っていたことは一時もなかったことが理解できるでしょう。彼はあまりにも(暗いこと、悲観的なこと)を知りすぎてしまい、ほんのわずかの間ですら、のしかかる(暗い、悲観的な)知識の重みから逃れられることができなかったのです。
(デズモンド・モリス「『裸のサル』の幸福論」)

アインシュタインと同じようなことを述べた厭世主義的な言葉としてはボルテールとショーペンハウエルの言葉が有名です。引用いたします。

「幸福とは夢に過ぎず、哀しみは現実である」(ボルテール)

「幸福とは奇怪(非現実的)な妄想で、苦しみこそ現実である」(ショーペンハウエル)

今の僕はこういう感じで、非常に胸が痛く、幸福を感じるという、人間にとってとても大切な能力が喪失されたような状況です。いつも暗い考えが頭を渦巻き、酷い心身的苦しみがずっと続いています。

うつの調子が良くなったり悪くなったり変動するのですが、なんとか、寝込みながら、先日取り上げたアルヴォ・ペルトなどの静かな音楽を聴いているときに、一時的に、何も考えない、ただ音楽だけに意識が集中する静かな状態になりますが、これは喜びの幸福というより、死の静寂に似ていると、デズモンド・モリスは述べており、僕自身もそう感じることをどうしても否めません。

11:静寂の幸福(瞑想者)
これは、世界から身を引き離して、黙想に耽ることで得られる幸福の形です。(中略)この領域(欲望が絶たれた領域)では心は(欲望なき)平穏を見い出し、ニルヴァーナの状態にあります。(中略)しかし、(こだわりの幸福などのような)幸福の絶頂を経験した時に我々が経験するような強い喜びを(欲望を絶った静寂の幸福が)長い間維持出来るかどうかとなると、疑わしいと思います。静寂の幸福(欲望が喪失した状態の静けさ)とは、(生命へのこだわりを失い、落ち着いて死に行く人の)死に伴う不快をともなわない「死の平穏」に似ているように思えます。
(デズモンド・モリス「『裸のサル』の幸福論)

「グリーン・ヒル」という漫画があり、生活費に困って売ってしまって手元にないんですが、希望がない若者達の生活をデフォルメして描いた傑作ギャグ漫画で、ギャグ漫画なんですが、希望のない暗さと、僅かな救いとしての人と人との絆(愛情・友情)が描かれていて、僕のとても好きな漫画です。その漫画に正確な台詞か覚えていませんが、「人間は生きながらにして腐ってゆく」という台詞があって、それを思い出すような状況です。

喜びと幸せの心(脳の感覚)が腐って死んでしまったかのような状況で、僕のような貧しく無能な生活無能力者が生きていることに、深い罪悪感を覚えて、臓腑が酷くしくしく痛みます。アクセス数が減少するなか、それでも、僕を見捨てずに、僕を生かしてくださっているお方々には感謝のしようもありません。本当にありがとうございます。

最後に、いずれ僕が消えた後、世界において、「競争の幸福」(競争原理によって強者が弱者を支配する弱肉強食のサディズムの幸福、自由資本主義がまさしくこの形態の幸福の追求です)だけではなく、「協力の幸福」(人々が相互に助け合う幸福)が、だんだんと人間社会において、大切にされてゆくことを望みます。今のような競争だけの社会では、いずれ人類全体の破滅が免れないと思います。デズモンド・モリスが述べておりますが、我々は全ての生命種を滅ぼし尽くす科学力まで現状で達成しているので、この状態で現状のような競争だけに異常なほど特化した社会(無制限な自由資本主義社会)の状態が続くことは、競争社会の中で無限に格差が広がり、人間だけでなく、あらゆる生命種の終焉を齎す可能性が高いです。競争と調和のバランスが取れた、人間が、人間らしく生きてゆける社会がいずれ訪れること、それが僕の懸命な願い祈りです。

現代の政治・経済の根本にある(理想的な)夢は個人の自由と富裕を(競争と調和のバランスによって)万人に(人間的な生活を)保障することにある。
(デズモンド・モリス「舞い上がったサル」)

進化論の立場からモリスは、人間生活のさまざまな面が今なお動物的な基盤(弱肉強食の競争原理)の上に築かれていることを解明し、この事実を無視して人間が(競争原理・弱肉強食によって)暴走すると、(軍事的科学力の発展ゆえに)どんな悲劇的結果になるか危惧する。
(デズモンド・モリス「舞い上がったサル」訳者後書き)

3:協力の幸福(助ける者)
これは(競争相手を蹴落とし支配する)「競争の幸福」のコインの裏側です。我々は常に競争と協力を調和させなければなりません。(中略)

「(他者に)勝ちたい」というやむにやまれぬ欲求(他者を支配して自分の力を増大させる権力への意志)だけではなく、私たちにはそれと同じく「助け合いたい」という本能的な欲求(他者に愛情を与えたいというエロス・アガペーの欲求)があります。(中略)

これ(競争の欲求、他者に対する勝利への欲求)と正反対なのが、「他人と協力しあいたい」という原初的な欲求を満足させることで得られる幸福です。(中略)パートナーや子供や孫に愛を与えることは、強い幸福をもたらします。しかし、愛や家族に恵まれなかった人には、一見この喜びが存在しないように見えます。こうした場合は、何かの代わりとなるものに愛を与えることがそれと同じ喜びをもたらします。犬や猫のようなペットが多くの(孤独な)人の(愛情を与えたいという)空白を埋め、子供の代わりを果たしています。

ペットは、愛を与える対象が見つけられずに苦しんでいたかも知れない人々に、「協力の幸福」をもたらす大きな機会を提供しているわけです。ペットはあくまで「代わり」ゆえ、自分のペットを「ウチの子」などと言う人は(競争の幸福などのその他の幸福に満たされている人々から)しばしば滑稽扱いされますが、それは思慮を書いた、アンフェアな対応なのです。

「協力したい」という(他者に愛情を与える幸せの)欲求のはけ口には、(競争の幸福とは正反対の幸福である)数々のチャリティ活動も挙げられます。病気の人や恵まれない人、飢えた人などは助けを求めていますから、彼らよりも恵まれた人々の協力欲(愛情)を容易に満たしてくれるでしょう。

悲しいことに、人間であれ動物であれ、(競争の原理の敗者となって)助けを必要としている個体には事欠きません。わずかばかりの(他者への愛情、思いやりを持つという)努力をすれば、協力の幸福が増幅されるような環境(社会)に身を置くことは、難しいことではないのです。
(デズモンド・モリス「『裸のサル』の幸福論」)

僕は猫が大好きで、貧しいですが、猫だけは僕みたいに不自由させないように、僕の出来る限りを持って、可愛がって飼っているので、上記はとても体感的によく感じられる記述であります。

「喜びを勝ち取ろうとするものはみな、それを分け合わなければならない」(バイロン)

「幸福とは、他者も同じく幸福な様子を眺めることに、自らの身を委ねることである」
(バートランド・ラッセル「幸福論」)

皆様方に、生命種にどうか、幸福があることを、僕は一生懸命、願い祈っております。

参考作品(amazon)
「裸のサル」の幸福論 (新潮新書)
「裸のサル」の幸福論 (新潮新書)
裸のサル―動物学的人間像 (角川文庫)
裸のサル―動物学的人間像 (角川文庫)
舞い上がったサル
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マンウォッチング〔文庫〕 (小学館文庫 モ 1-1)
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ウーマンウォッチング
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裸の眼―マン・ウォッチングの旅
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ラッセル幸福論 (岩波文庫)
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