2008年10月26日 09:25

うつが酷く、頻繁に悪夢を見て寝るのが辛いです。フェルナンド・ペソア「不安の書」ブルックナー「テ・デウム」手塚治虫「シャミー1000」猫になりたいです。

不安の書
ブルックナー:宗教曲集
SFファンシーフリー (手塚治虫漫画全集 (80))

うつの調子が酷く、不眠と、眠れたとしても悪夢を見ることが頻発し、特に今日の明け方の悪夢は酷かったです。うつ病に掛かる前の僕は悪夢を見ていると、「これは不条理すぎるから悪夢だな」って分かって、夢の中の自分に大声を出させるとかの方法で、悪夢から目覚めることができたんですが、うつ病に掛かってから、夢の中の自分をコントロールできなくなって、地獄そのものとしかいい得ない悪夢が延々と続き、起きたと思っても、また悪夢の中にいることの繰り返しで、地獄の合わせ鏡の中にいる苦しみで、起きた後も死にたくなります。

ただ、猫と一緒に寝てるので、僕が起きて、猫がすやすや可愛い寝顔で眠っているのを見ると、心が励まされて、ほんの一筋、救いの光射すのを感じます。猫がいなかったら、とっくに自殺しているような感じです。

うつの調子は悪く、うつ病に掛かり、失業もして、うつ病に掛かる前に比べて生活も困難化しているのが大きいのかなと僕は思います。以前は色々、明るい催し、好きな催し、楽しい作品を鑑賞したりして、気晴らしができたのですが、うつ病に掛かってから、気力がなくなって、そういったことが出来なくなりました。

先日より取り上げております様に、重いクラシック音楽は何とか聴ける感じで、今は僕の好きなブルックナーの宗教曲集を聴いています。ブルックナーは重厚で悲劇性と崇高さを持つ宗教合唱曲の創り手の名手で、僕はその中でも「テ・デウム」がとても好き、一番大好きで、昔からよく聴いていたので、なんとか今も聴ける感じです。

主よ、御身に依り
頼りしわれらに、
お哀れみをたれ給え
(ブルックナー「テ・デウム」)

また、本は、読む気力が沸かない辛い状態ですが、なんとか少しずつ読める本を先日より見つけました。フェルナンド・ペソア「不安の書」です。これは絶望を遥かに超えた絶望、世界と人間と己に対する強烈な不安に彩られた哲学的詩的断片集です。ニーチェの哲学書から生命力を奪い、うつ病にしたような、シオランの哲学書から、土着性を抜いて、普遍的な絶望を更に深めたような、とても暗い、暗澹とした書物です。ニーチェの哲学書のように、断片から構成されているので、どこからでも読むことが出来、中身は非常に陰鬱で絶望的なので、今の僕が読める唯一の書です。昔大好きだったニーチェの著作は生命力が強すぎ、明るすぎるので、今はとても読めません。ニーチェと同じく大好きなシオランの著作も、彼の著作は土着性が強いので、疎外感を覚えてしまい、読むことが出来ません。

ただ、唯一、ニーチェの断片のように普遍的で、シオランの書のような絶望と陰鬱に満たされた、フェルナンド・ペソア「不安の書」だけが、読むことが出来ます。パラパラと捲って、時々少しずつ読んでいます。どのような感じか、少し引用いたします。

心のごみ捨て場から流れ出る恥辱であり、誰もあえて告白しようなどとは思わない、汚い亡霊や抑圧された感性の粘々したものや脂じみた膿疱のように眠られぬ夜を悩ます、あのような凡俗な夢は別にして、心は、難なくというわけではないが、いかにばかげたものでも、いかに恐ろしくて言葉にできないものでも、その片隅に受け容れることができるのだ!

人間の心は戯画的人物の住みついた精神病院だ。既知のあらゆる恥辱より深い羞いをかなぐり捨てて、心が真実あらわにされるなら、真理について言われているように、それは井戸であろう。しかし卑しい生き物、生命のない粘々したもの、存在のないナメクジ、主観性の鼻糞が住む、ぼんやりと反響する不気味した井戸であろう。(中略)

月並みな人間はいかに生活が厳しくとも、生活を考えないので少なくとも幸せだ。猫や犬のように時間の流れにそって外面的に生活を送る ―― 一般的な人はこのようにし、猫や犬のような満足を確保するには、このような生活を送るべきだ。

考えるなら、ぶち壊しになる。それは、考えるのは分解することになるので思考の過程そのものに固有なことなのだ。もしも人が人生の謎について瞑想する方法を知っていたなら、もしもそれぞれこと細かな行動をしているときの心を窺わせるありとあらゆる複雑なものを感じる方法を知っていたなら、けっして行動せず、生きることさえしないだろう。翌日ギロチンにかけられないように自殺する人のように、怯えるあまり自殺するだろう。
(フェルナンド・ペソア「不安の書」)

こういった形で、延々と哲学的詩的な断章が、延々と続く、存在論的不安に彩られた断片集です。ひっくり返ったニーチェやハイデガーのような感じです。

ニーチェは世界に意味と希望(人間の知的な生命力、権力への意志)を抱いていますが、フェルナンド・ペソアは世界に無意味と絶望(人間の知的な生命力、権力への意志が人々を更なる疲労と苦悩と絶望へと導く)を抱いています。

ハイデガーは存在論(存在論的認識・死の先駆的了解)に意味と価値を認めていますが、フェルナンド・ペソアは存在論(存在論的認識・死の先駆的了解)こそが、人間を疲労と苦悩と狂気に追いやる悪夢的思考の極致として、反・存在論的な立場に立脚しています。

フェルナンド・ペソアは一切の知的世界・哲学的世界・システム的現世界に完膚なきまでに絶望しきっており、一切の救いをなくしたグノーシス、一切の救いをなくした仏教のような、独特の極めてネガティヴな暗澹たる無常の世界観を持っています。今の僕は非常に彼に共感するものを感じます。「不安の書」から伝わる彼の考え方・思考方法・世界観が今の僕に非常に似ています。手塚治虫さんの作品の一部にも共通するところがある、知性・知性的合理性に対する深い絶望感です。

フェルナンド・ペソアは猫を気に入っているようで、そこも僕に似ています。猫の単独狩猟動物としてのかって気ままで本能的なところを愛しているようです。ここは、僕や、手塚治虫さんの一部の作品の感性に似ているなと感じさせるところです。手塚治虫さんの「シャミー1000」を彷彿とさせます。

手塚治虫さんの作品に猫と人間との愛を描いた「シャミー1000」(三味線のもじり)という作品があります。その作品では、地球とは別の星で、知的合理性が世界を支配し、潤いを失った星で、その星の人間は猫を飼うことを唯一の心の潤いにしていました。しかし、その星の人間は猫をも改造して、猫に高い知性を与えてしまったことにより、猫と人間の関係が逆転して、猫が支配する星となりました。けれども、高度知性を持った猫が創る世界も、以前のその星の人間の世界のように知的合理性の支配する世界であり、潤いがないのです。その星の猫達は、文献などで「愛情」という潤いが過去にあったことを知り、それを探しに各地の星々に行き、その一つが地球なんですが、結局、個的愛情というものは、社会的な知的合理性システムと結びつかない(知的合理性による生権力と個々の愛情は相容れない)ので、地球の人間との愛情を手に入れたその星の個的な猫は、高度知性を手に入れた猫の社会システムの知的合理性(生権力)によって排除(処刑)されてしまうという悲劇的作品です。手塚治虫全集「SFファンシーフリー」に収録されています。

シャミー1000(高度知性を持つ猫種)
「(人間の体は)ひどく原始的でみにくいからだ。でもこのからだにだかれているとすごくくつろいだ気持ちになるのはなぜだろう?」(中略)

高度知性を持つ猫種の地球調査隊
「シャミー1000 シャミー1000 反逆者シャミー1000!!命令(地球での愛情の調査とその記録を持っての本星への帰還)に違反して愛を独占しようとする裏切り者!!われわれはあと二時間で東京に着く。すぐにおまえたちを探しだしともに処刑する。…逃げてももう無駄だ…」
シャミー1000
「四村くん、四村くん、起きて!!お別れよ」
四村
「ど、どうした急に…」
シャミー1000
「私たちを殺しに仲間が来るのよ」
四村
「なんだ、ネコが人間を殺してシャミセンの皮にでもするのか?」
シャミー1000
「ちがうの。(帰還命令に背いた)制裁なの。処刑なんだわ」
四村
「きみのトバッチリをうけるわけか。ネコと心中はごめんだぜ」
シャミー1000
「シンジュウって何?」
四村
「なんでもいい、とにかく命あってのものだねさ」
シャミー1000
「私のことはかまわないで…」
四村
「ばか、逃げのびるんだよ」
アパートの家主
「ちょいと台風がくるってのにどこへ行くのさ」
四村
「あ…あの、ネコを捨てに行ってくるんだ」
アパートの家主
「あ、そう、さっさと捨てといで」
シャミー1000
「捨てる気…?」
四村
「捨てるもんか、やっかい者の子ネコちゃん。こうなったらおれたちの間は死ぬまでいっしょだぜ」
(手塚治虫「シャミー1000」「SFファンシーフリー」より)

僕はうつ病に掛かってから先行き悲観的な傾向が酷く、疲労が酷く、身体的にも何もしていない時でも腹痛や頭痛、肩に重いものが乗っているような、精神的な心身症の症状がでております。世界情勢・国内情勢・自分の状況から、今後の暗い先行きが見えて(何十パターンも予見しますが、皆暗い先行きです)、生きているのが辛いです。猫になりたいなと、寝ている猫を見ながら思っているので、「不安の書」の次の文章などは深い共感を覚えました。猫になりたいです。

とりわけ私の感じているのは、疲労であり、存在しているという事実以外に存在理由がないときの疲労と双生児である、あの不安なのだ。私はすべき身振りを心深く恐れ、言うべき言葉に知的に怯える。すべてはあらかじめくだらないように私には思われる。(中略)

人生はもしもそれを意識するなら、耐えられないものになろう。幸いなことにわれわれはそうしない。動物と同じく無意識で、同じように無益に無駄に生きているし、さらに、確かではないが、動物は予想しないと想像される死を我々が予想するするとしても、何度も失念したり、何度も注意散漫や脱線に陥ったりしつつ予想するので、死を考えていると言うにはあたらないのだ。

我々がこのように生き、自分たちが動物より優れていると判断する根拠は乏しい。我々が動物と異なる点は、話したり書いたり、具体的思考力を持っているのを娯しめる抽象的思考力を持っていたり、不可能なことを想像したりするというまったく外面的な事柄にある。しかしながら、それはすべて、我々の基本的有機体にとって二次的なものだ。話したり書いたりしても、どのようにすべきか知らずに生きるというという我々の根源的本能に何ら影響を及ぼしていない。我々の抽象的な思考力は、動物にとっては日向にいることに相当する、制度か半ば制度的な考えを作るためにしか役立たない。不可能なことを想像する我々の力はおそらく固有のものではない。というのは、猫が月を眺めているのを見たことがあり、猫が月を欲しがらないかどうかは分からないからだ。

世の中全体、生活全体は個人の意識を通じて機能する無意識の広大な体制だ。ふたつの気体が電流を通すと液体になるように、ふたつの意識――我々の具体的存在の意識と我々の抽象的存在の意識――は、生活と世の中を通すと、より高度の無意識になる。

したがって、(人生の未来を思考によって)考えないものは幸せだ。なぜなら、我々全員が(思考という)回り道をして、本来的でない運命か、社会的な運命かによって実現しなければならないことを、本能と持ち前の運命によって実現するからだ。動物にもっともよく似ている者は幸せだ。なぜなら、われわれ全員が苦労してそうあることに、労せずにしてなっているからだ。(動物は)樹のように根を下ろし、風景の一部となり、したがって美の一部となり、我々のように(思考が創り上げる未来や死後という)束の間の神話、無益と忘却からなる肌色の衣装を着た端役ではないからだ。
(フェルナンド・ペソア「不安の書」)

参考作品(amazon)
不安の書―リスボン市に住む帳簿係補佐ベルナルド・ソアレスの
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SFファンシーフリー (手塚治虫漫画全集 (80))
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ブルックナー:宗教曲集
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