2008年08月16日 23:03

うつ病と眩暈と離人症の症状と、音楽と魂の再生させる真の秘薬

先々日より、激しい眩暈(椅子に座っていても横に倒れ込んでしまい、寝ていても転がってしまい、立ち上がることができない眩暈)の症状が起きていて、これはうつ病とは関係なく、ずっと以前から起きている症状で、耳鼻科で検査してもらったところ、僕は耳石という耳のなかにある石が剥離していて、それが三半規管の中を移動することで起きる眩暈で、治療方法はない(自然に耳石が元に戻るのを待つしかない)とのことでした。身体、特に頭に非常に強い衝撃を受けたときに、耳石が剥離するそうでして、僕は以前、交通事故で大怪我していまして(青信号歩いていたら信号無視の車に轢かれました。100:0で車側に完全な事故の責任が認められました)、そのなかに全身打撲も入っておりまして、それからしばらくしてから、この症状が出始めたので、多分それが眩暈の病因だと思うんですけど、相手側の入っていた保険会社との示談は症状発生前にもう終わっていますし、もうどうしようもないという感じです…。示談は今後、障害が発生しても因果関係が完全に立証されない限り責任を負わないという形ですし、耳石剥離での事故との因果関係の完全立証は不可能に近い形です。

それで、これはうつ病と関係のない眩暈だから、いたしかたないとして、アフィリエイト収入が以前に比べて激減していて、ギフト券とアフィリエイトが僕の今の最後の命綱なので、頑張って更新しなくてはと思って、一生懸命文章書こうとしても、書こうとしている最中に眩暈が起きて椅子から転げ落ちたり、なんとか椅子に座れても、パソコンが僕の周りをぐるぐる回っている(眩暈で世界がぐるぐる回って見える)ので、更新できなくて、アクセス数が十分の一以下になった上、昔みたいな元気のいい文章が書けないからか、アフィリエイト収入も減っていて、うつ病で無職で、高齢の両親に世話をかけていて(両親も裕福ではなく、それに更に僕が負担を掛けています)それで、今後、どうやって生きればいいのかわからなくなって、今日、症状が一番悪くなりまして…。

僕は青木雄二さんのことをとても尊敬していて(「ゼニの人間学」とか素晴らしい名著です、一読お勧めいたします。)これまで、一度も借金したことはないんですね。それだけは自負としてあって、どんなに苦しくても、自分のお金でやってきました。それが今は親に迷惑を掛けている(看護してもらっています)、それが苦しくて、ただ、医療費とかはきちんと自分で出しています。ただ、もう本当に生活苦で、それでも借金は絶対にしないつもりなんですね。僕自身から借金の申し込みをしたことは一度もありません。僕の貧窮を知っていて、お金を貸そうかと云ってくる友人もいますが、返済できる見込みもないゆえ、利息が無限に膨れ上がっていくだけなのは目に見えていますし、そしてそれが友人だからこそ(僕はそう思っています)、決して借りないつもりです。ただ、貸すんじゃなく、皆様の贈ってくださるギフト券と同じく「お見舞だよ」って云って、お金を贈ってくれた友人が一人いて、そのときは涙がでました。金の貸し借りをやったら、人間関係が終わりだって知っていて、贈与してくれたんですね。皆様の贈ってくださるギフト券も、本当に先の友人と同じように、本当に心底から、涙がにじむほど言葉でつたえきれない感謝を致しております。

僕(青木雄二さん)の大好きなドストエフスキーは、『死の家の記録』の中で、「金は鋳造された自由である」と書いている。カネというのは、持っていれば、それだけで自由(生活行動が可能)になるものなのだ。逆に、持っていなければ、どこまでも不自由(生活行動が不可能)になってしまう。借金ともなれば、その不自由さは、手足に重い鎖を嵌められてしまったのと同じ。なにひとつ自由にはならなくなってくる。

誰だったか忘れたが、こんなことを言っている人もいた。
「カネのない不幸より、カネのない不幸のほうが、よほどましである」
これも真実や。カネがあってもなくても、不幸な人はいる。けど、カネのある不幸に比べると、やっぱり、カネのない不幸は悲惨や。そこから抜け出す術がない。カネのある不幸なら、なんとか抜け出せても、カネのない不幸の行き着く先は、地獄しかない。(中略)

友達に借金を申し込まれたときに、どう対応するかという問題がある。貸すべきか貸さざるべきか。(中略)(友人に金を貸すという人生相談などの答えは)僕に言わせたら、答えはまるで違っている。
だいたい、借金を申し込んでくるというのは、本当の友人ではない。まず、その点をはっきりさせておくべきだろう。本当の親友なら、「カネを貸してくれ」とは言えないものだ。(中略)
本当の親友なら、借金が元で関係が悪くなるのはいやなはずだ。(借金にはサイン(誓約書)による返済義務があるので、友人が債権者、自身が債務者となり、友人に自由を奪われ支配される力関係が出来てしまって友人関係が壊れてしまう)
「お前しか頼む奴がおらんのや。親友やと思うなら貸してくれ」
こんなこと、ほんまの親友に対して言う言葉か。違うやろ。(中略)

『(まだほんの少し生活に余裕がある)貧乏のうちは、持って生まれた感情の高潔さというものを保っていられるが、素寒貧となると、もう人間社会から棒で叩きだされるだんではなく、箒で掃き出されてしまいますよ。つまり、ひとしお骨身にしみるようにね。しかし、それが当然な話で、素寒貧になると、だいいち自分の方で自分を侮蔑する気になりますからな。そこでつまり酒ということになるんですて!』(ドストエフスキー「罪と罰」)

この酔っ払い親父(マルメラードフ)のように、人間はビンボーになると、自分で自分を軽蔑しはじめるものだ。自分を卑しめ、貶め、社会から弾き飛ばされた人間だと考えるようになってしまう。本当のビンボーの惨めさというのはそういうものだ。
得をする側の人間が太ってゆけば、損をする側の人間はさらにビンボーになっていく。世の中に、自分を軽蔑する人間が増えてしまう。自分を軽蔑する人間は、未来に希望を抱かない。明るい未来、希望のある未来を想像し、自分の力で創造してゆけるのは、あるていど、生活に余裕のある人間である。マルメラードフのように、奥さんの靴下まで酒に換えて飲んでしまう人間には、明るい未来を想像することなど、まるで不可能なのだ。
(青木雄二「ゼニの人間学」)

僕はうつ病に掛かるまで働いていたので、ここまで生活に困窮したことがこれまでないので(病気で無職になって働けず、収入がなくなると毎日がこんな状態になってしまうのかと、衝撃でした)、このまま、貯金がなくなって(障害者自立支援法の上限負担額の限定とあわせて生活費を計算すると少しずつ最大限節約して生活すればまだなんとか数ヶ月くらいはもちそうです、そうしたらその間に精神障害者保健福祉手帳が発行されると思うのですが、この手帳は税金免除くらいしか付与された権利がないので、無年金障害者かつ収入がない僕には意味がないです…。今、一番辛い出費が病院に行く往復交通費千円なのですが、その交通費がこの手帳では割り引かれません。身体障害者の方の手帳と違って、こちらは割り引いてくれません)、完全に生活に行き詰まって、それでもしもそれでも生活保護を申請しても受けられず、精神科医の先生や、病院のソーシャルワーカー(精神保険福祉士)さんに相談しても道が見つからず、生活苦で借金してしまうくらいなら、尊敬する江藤淳さんのような道を選ぶ覚悟、もはや生活する余裕を完全に失ったら(もはや音楽を聴くことすらできないような、生きるには借金するしかない何一つない状態になったら)、社会や大切なかけがえのない人々に迷惑をかけないよう配慮して、形骸たる己を自ら確実に処断する覚悟を決めようと思っています。

僕はマルメラードフのようになるよりは、ソクラテスやセネカやローマのカトーや江藤淳さんの覚悟を選びたいと、うつ病でも、その意志だけはしっかり持っています。それだけが、ストア哲学者達やシオランらが云うように、全てが失われた人間にとっての最後の誇りある自由だと思います。うつ病の症状もあると思いますが、酷い生活苦で、先行き悲観的にしか考えられなくて、辛くて辛くて、他の色んな不安も膨らんで、どんどん酷い状態に昨日ぐらいからなっていってしまいました。昨日はまだマシだったんですが、今日がとても酷く辛かったです。

――不安の最高潮が我々にこの夢を破ることを強いるときに。
(ショーペンハウエル)

僕のうつ病の症状は、抗うつ剤が効き始めてから、完全な暗黒のうつ(うつ病発症時の最悪の状態)に戻ることはないんですが、抗うつ剤を使っていても調子に波があって、波のどん底にいくと、感覚とか感情とか何も感じられなくなっちゃうんですね。自分が動くだけの機械になって魂が消えてしまった感覚です。先生のご診断では、僕に起きている症状は離人症の症状ということで、それが継続的に続くと大変ですが、僕の場合はうつ病の波が、回復傾向になるとまただんだん感覚が戻ってくるので、うつ病の病変の一つとして、離人症の症状としてあるということみたいです。

今日は、その離人症の症状が午前中に起こりまして、これが起きると、例えばオリンピックを見ていても何も感じられないんですね。昨日は、柔道で男子も女子も日本を応援して、「頑張れ〜」って声援送っていて、男子は金、女子は銀、女子は最初はリードしていて、リードしたまま後、残り十数秒くらいで一本決められちゃってほんとに惜しくて悔しいなみたいに感情が生きているんですが、離人症の症状が起きると、これが、何にも感じられなくなって、例えば、レスリングで日本が出ていて頑張っていても、昨日みたいな気持ちが何も沸かないんですね。完全に無感動で、感情が死んでしまう、止まってしまうみたいになって、しかも、それを認識できているから、それが辛くて苦しいんですね。何にも感じられない、それ(感じられないこと)が苦しみとして、身体中を縛っているような、そんな認識になるんですね。非常に辛い状態です。

ただ、離人症の症状が出ていても、行動ができないわけじゃないので、猫の世話とかはできるんですが、やはり何も感じられなくて、凄い辛いです。僕はうつ病に掛かってから、性欲・性的感覚がなくなって、うつ病の治療を始めてからそれが加速している感じですが(抗うつ剤の副作用として、性欲の減少・消滅などがあるようです、うつ病時から今日まで数ヶ月、性的興奮を感受できず、性的行為を一切行っていません)、性欲がなくなっても、この世には性欲抜きで美しいもの、愛するものが沢山あるので、うつ病発症時の暗黒を思えば、性欲・性的感覚がなくなったこと自体は特に大問題としては感じないです。むしろ、美に対しての感覚は、性欲がなくなったことで、以前よりクリアに感受できる感覚です。例えば、裸にエロティックを感じない分、女性の裸は美しい、それはその女性にとても似合った格好の美しさとはまた別に、根源的にとても美しいとして感じます。けれど、離人症の症状が出ると、そういったこと、女性の裸は美しいとか、猫は可愛いとか、そういった感覚の感受ができなくなってしまい、それが物凄い認識のみの苦しみとして襲ってきます。

ただ、この症状、これでうつ病の治療を始めてから起きるのがこれで三回目なんですが、美しい音楽だけは、何も感じられない世界で、唯一の実感できる存在として感じられます。音楽とは、最も根源的に美しい、胸に響くものなのであると、うつ病になって心から思いました。特に静かなピアノの音色は、何も感じられず、空っぽになってしまった中空の魂の中に入ってきて、中からその響きで僕を満たしてくれるような感じで、とても助けられます。

離人症の症状(うつ病治療中のどん底)が出たときは、頓服用の抗不安剤を何錠か飲んで寝込みながら、ショパンのピアノ協奏曲第2番とか、バッハのゴールドベルク変奏曲のアリアとか、シューマンの予言の鳥(森の情景)とか、後は、ベスト・ピアノ100のディスク3リラクシング・ピアノとか、100曲ピアノのディスク8ゆったりピアノとか、ひたすら美しくて穏やかで優しいピアノ曲を聴きつづけています。これが僕にとって、離人症の症状から回復する最も良いやり方であるように、感じます。ゆっくり美しい音楽に魂を委ねていると、魂が再生してくるようです。酷い生活苦でお金ないですが、色々な所有物を売り払って生活費を工面していったとき、クラシックCDのコレクションだけは売らなかったのと(音楽が聴けなくなったらお終いだという感覚が直感的にありました、ただ、僕の持っていた他の品々、オタク的な品々含めてほとんど全て売ってしまい、今もそれを思うと、胸やお腹が痛みます)、図書館で音楽CD借りられるので、美しいクラシック・歌曲借りられて、とても助けられています。

また、不思議なのは、人間の声とかに対しても完全に無感動状態で、通常のJ-POPみたいのは、離人症の症状のときは辛くて辛くて完全に聴けない(聴いてもなにも感じられないのが辛い)のですが、ボーイ・ソプラノだけはピアノ曲と同じように聴くことができます。アンソニー・ウェイの透明な歌声とか、感覚が感じられないなかでも、感じられる、美として感じられます。心が静けさのなかで、戻ってくるような感じです。

アンソニー・ウェイが歌う、アヴェ・マリアの歌詞を引用致します。僕の感覚では、大人の歌声はどんなに優れていても、離人症の症状発生時にはどうしても耐え難いものを感じさせます。特に大人の男の歌声を聞くと頭痛が走ります。また、女性の歌声は男性よりはずっと楽ですが、それでも辛いです。私は邦楽の歌手では鬼束ちひろさんの歌声がうつ病になる前からとても大好きなんですが、それでも、離人症症状時には辛くてどうしても聴けません。そんななか今、ただ唯一つ聴ける歌声、優れたボーイ・ソプラノの歌声は逆に心に美しく響き渡り、優れたピアノ曲と同じく、天上の至宝、魂を再生させる真の秘薬であるように感じます。

「ボーイ・ソプラノの世界」より「アヴェ・マリア」

アヴェ・マリア、恩寵に満ち満ち、
主は君とともに在ります
君はこの上なき恩寵に恵まれたる乙女
恵まれてイエスを
身ごもりたまえり。

聖きマリアよ 聖きマリアよ
われらのために、われら罪深きもののために祈りたまえ、
今もこの後も、
死の時にも……
聖きマリアよ
アーメン

離人症の苦しみの中でも、美、至上の天からくる美を感じます。ベネディクトゥス(モーツァルト「レクイエム」)を感じます…。

モーツァルト「レクイエム」より「ベネディクトゥス」

Benedictus qui venit in nomine Domini.
Osanna in excelsis.

神の御名において来たるものに栄光あれ
いと高きところにホサンナ

僕はキリスト教徒ではありませんが、もはや最後の覚悟、自身の処断を行わなければならないところに追い詰められたら、その時は、美に殉じたい。最後の刻は美しい音楽を聴きたい。生活の中で音楽が聴くどころではないような赤貧状況で大切な人々に迷惑を掛け、借金取りに追い詰められる、そんな道は絶対に選びません。もしも、この地獄そのもののような貧困の地獄のその更に下にしか生の道がないとき、マルメラードフのような生の無限地獄に行く前に、そのような世界を拒否し、誇りを持って、自身を自ら一人で処断したいと思っています。最後に、マルクス・アウレリウスの自省録から引用させて頂きます。

『寿命ということ―ーたとえそれがどんなに長いものであろうと―ーは真の人間として問題にすべきことではない。生命に執着すべきでなく、これを神に委ね、女たちと信をともにして、「なんびとも自己の運命を避けることはできない」と考え、自分の生きるべき時をどういう風にしたらもっとも善く生きることができるか、これを考慮すべきである。』
(マルクス・アウレリウス「自省録」)

参考作品(amazon)
ゼニの人間学 (ハルキ文庫)
ショパン:ピアノ協奏曲第1番&第2番
バッハ:ゴールドベルク変奏曲(1981年デジタル録音)
シューマン:子供の情景/森の情景
ベスト・ピアノ100
100曲ピアノ
ボーイ・ソプラノの世界
自省録 (岩波文庫)
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