2022年02月18日 01:33
タコピーの原罪11話。しずかちゃんの反転する愛と憎悪。人間の多面性を描く傑作。
タコピーの原罪11話読了。これは素晴らしい。今までの展開を全てひっくり返す見事な展開。まりなちゃんとタコピーが2022年に先に出会っていたことも驚かされますが、自分が一番、感銘を受けたのは、しずかちゃんと、しずかちゃん父の描き方ですね。
タコピーの原罪は人間は多面的な存在であり、ある人にとって愛の対象が、別の人にとって憎悪の対象であること、またそれはひっくり返ることを上手く描いている。人間は統一的な存在ではなく分裂的な多面性の存在であるということですね。下記とか分かりやすい。
人間は分裂的な揺れ動く存在であり、統一的ではないということですね。しずかちゃんと、彼女の父親の関係はそれを上手く描いている。
10話までのしずかちゃんはチャッピーのことを第一に考え、チャッピーに依存しているように見え、確かにその側面はあったでしょうが、11話でしずかちゃんのチャッピーに依存する気持ちは吹っ飛んでしまった。しずかちゃんは自分の父親が、自分の異母弟妹を愛しており、しずかちゃんのことは路傍の石としか見ていないことを知り、チャッピーへの依存の気持ちは吹っ飛んでしまった。
しずかちゃんの中にあるのは、父の愛を独占する自分の弟妹に対する激しい嫉妬と憎悪。そして自分を捨てた父に対する憎悪です。その嫉妬と憎悪から彼ら(父方の家族)をハッピー道具を使い亡き者にして破滅させる為に、『自分の弟妹がチャッピーを食べた。だから彼らの胃を開く』という滅茶苦茶な理屈を組み上げている。
この理屈は、しずかちゃんは未成熟なので、チャッピーへの思いを遥かに超える自分の中の憎悪と嫉妬を言語化できないゆえに、代替的な理屈が働いていることを示している。極めて文学的、純文学的な描写で素晴らしい。ドストエフスキーとか彷彿とさせますね。
また、これはしずかちゃんパパにも言えて、ツイッターなどは、しずかちゃんパパを非難する囂々たる声で溢れていますが、タイザン5先生は、しずかちゃんパパは、しずかちゃんの異母弟妹、自らの家族(しずかちゃんとその母以外の家族)に愛を注ぐ、裕福で満たされた幸せな男性であり、幸せな愛に溢れた家庭を築いていることをしっかり描いている。これにより、しずかちゃんの行おうとしている憎悪と嫉妬に塗れた残虐な復讐、その為にタコピーすら手に掛ける行為こそが真の邪悪そのものであるという描写を意図的に行っている。これが素晴らしい。
人間というのは、悪の塊とか善の塊みたいなものではなくて、ある人にとっては、善き人であり、愛に満ちた関係である人が、別の人にとってみれば、悪しき人であり、憎悪に満ちた関係であるということは、往々にしてある訳です。
これは、古代から芸術、特に文学の大きなテーマですね。ドストエフスキーの罪と罰のラスコーリニコフもマルメラードフも一概に悪人とは言えない訳です。少年ジャンプの世界だと夜神月なんかもそうですね。ミサミサや夜神粧裕にとって彼はかけがえのない良き恋人であり、良き兄な訳です。同じことがしずかちゃんパパにも言える。
少年漫画では、極度の単純化が行われ、人間を悪の塊とか善の塊みたいな統一的なものとして描くことが多いですが、タコピーの原罪のタイザン5先生は全く逆の描き方をしている。これは、極めて純文学的で、素晴らしい作品だと感銘を受けておりますね...
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タコピーの原罪は人間は多面的な存在であり、ある人にとって愛の対象が、別の人にとって憎悪の対象であること、またそれはひっくり返ることを上手く描いている。人間は統一的な存在ではなく分裂的な多面性の存在であるということですね。下記とか分かりやすい。
「私の心と私の言葉の間には、決してうめられない溝がいくつもあって、それと同じくらい、私の文章と私の間にも距離があるはずだ。
でも一般にみんな、日記に向かうとき素直になっているような気になっている感じがして、気持ち悪いから何となく日記は気取っていて、いやなのだ。
本当に人を救う尊い仕事をしている男が、ある朝交差点で世にもHなお姉さんの後ろ姿に勃起し、さらにその日のうちに幼い娘に八つ当たりし、妻と話しあって高次の愛に接したら、それはみんなその人で、その混沌が最高なのにみんな物語が好きだから、本人もそうだから、統一されたいと願ったり、自分をいいと思ったり悪いと思ったり、大忙しだ。
変なの。」(吉本ばなな「アムリタ」)
人間は分裂的な揺れ動く存在であり、統一的ではないということですね。しずかちゃんと、彼女の父親の関係はそれを上手く描いている。
10話までのしずかちゃんはチャッピーのことを第一に考え、チャッピーに依存しているように見え、確かにその側面はあったでしょうが、11話でしずかちゃんのチャッピーに依存する気持ちは吹っ飛んでしまった。しずかちゃんは自分の父親が、自分の異母弟妹を愛しており、しずかちゃんのことは路傍の石としか見ていないことを知り、チャッピーへの依存の気持ちは吹っ飛んでしまった。
しずかちゃんの中にあるのは、父の愛を独占する自分の弟妹に対する激しい嫉妬と憎悪。そして自分を捨てた父に対する憎悪です。その嫉妬と憎悪から彼ら(父方の家族)をハッピー道具を使い亡き者にして破滅させる為に、『自分の弟妹がチャッピーを食べた。だから彼らの胃を開く』という滅茶苦茶な理屈を組み上げている。
この理屈は、しずかちゃんは未成熟なので、チャッピーへの思いを遥かに超える自分の中の憎悪と嫉妬を言語化できないゆえに、代替的な理屈が働いていることを示している。極めて文学的、純文学的な描写で素晴らしい。ドストエフスキーとか彷彿とさせますね。
また、これはしずかちゃんパパにも言えて、ツイッターなどは、しずかちゃんパパを非難する囂々たる声で溢れていますが、タイザン5先生は、しずかちゃんパパは、しずかちゃんの異母弟妹、自らの家族(しずかちゃんとその母以外の家族)に愛を注ぐ、裕福で満たされた幸せな男性であり、幸せな愛に溢れた家庭を築いていることをしっかり描いている。これにより、しずかちゃんの行おうとしている憎悪と嫉妬に塗れた残虐な復讐、その為にタコピーすら手に掛ける行為こそが真の邪悪そのものであるという描写を意図的に行っている。これが素晴らしい。
人間というのは、悪の塊とか善の塊みたいなものではなくて、ある人にとっては、善き人であり、愛に満ちた関係である人が、別の人にとってみれば、悪しき人であり、憎悪に満ちた関係であるということは、往々にしてある訳です。
これは、古代から芸術、特に文学の大きなテーマですね。ドストエフスキーの罪と罰のラスコーリニコフもマルメラードフも一概に悪人とは言えない訳です。少年ジャンプの世界だと夜神月なんかもそうですね。ミサミサや夜神粧裕にとって彼はかけがえのない良き恋人であり、良き兄な訳です。同じことがしずかちゃんパパにも言える。
少年漫画では、極度の単純化が行われ、人間を悪の塊とか善の塊みたいな統一的なものとして描くことが多いですが、タコピーの原罪のタイザン5先生は全く逆の描き方をしている。これは、極めて純文学的で、素晴らしい作品だと感銘を受けておりますね...
「(どんなに純粋無垢な子供ですらも)もしかすると、僕たちは悪い人間になるかもしれないし、悪い行いの前で踏みとどまることができないかもしれません。人間の涙を嘲笑い、ことによると、さっきコーリャが叫んだような『僕は全ての人々の為に苦しみたい』という人たちを意地悪く嘲笑うようになるかもしれません」
(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」)
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