2022年01月21日 10:36

タコピーの原罪、タコピーの告解。まりなちゃんママの罪と赦しと愛。

タコピーの原罪 上 (ジャンプコミックス)
タコピーの原罪7話「タコピーの告解」読了。キリスト教における原罪の位置づけ、原罪と赦しと告解の関係、そして回心を凄く上手く描いていると感心しましたね。

まりなちゃんママ「お願いします。まりなを返してください。どこの誰だか存じませんが、まりなはお腹を痛めて産んだ大切な娘なんです。まりちゃんごめんね。いいママじゃなかったよね。でも大好きだからお願い帰ってきて…」
(タコピーの原罪 7話「タコピーの告解」)

ただ、ジャンププラスのいいね順コメント欄では、まりなちゃんママは救い難い根っからの悪党、自己の現世的利益しか考えておらず、タコピーの正体を看破したのも、罪を悔いてまりなちゃんを返してと嘆願するのも、単に自分の利益だけを考えた結果であるという意見が圧倒的に強い。私は、タコピーの原罪がキリスト教をバックボーンにしていることから、こういった意見は誤った解釈だと思うので、その辺を少し解説させて頂きますね。

キリスト教が世界宗教となった要因の一つとして挙げられるのは、キリスト教が現世救済的な、現世の利益に物事を還元する宗教というよりは、もっと精神的な、心なる心の回心と救済を重視する宗教であったからとされています。キリスト教では、外的な振る舞いよりも、本心からの信仰が重視されていて、自らが原罪を持つ罪人であると認め、それを虚心坦懐に悔いる告解が、神の赦しに繋がるとして、根幹的に重要視されているんですね。キリスト教の精神性を示す言葉としては、イエス・キリスト自身の言葉であるとされている、「全て自分自身を高くするものは低くされるだろう。しかし、自分自身を低くするものは高くされるだろう」の言葉とか有名ですね。

「(ファリサイ人は)週に二度断食をしており、十分の一税を払っていることを神に誇示した。それに対して徴税人は、自分が罪人であることを認め、神に慈悲を乞うていた。イエスは、自分が義人であると自認し、他人を軽蔑している幾人かの聴衆に向かい、徴税人の方がファリサイ人よりも神に義とされて家路につくであろう、と言い、その理由として冒頭に掲げた言葉を語っている」
(聖書名言辞典)

キリスト教では、良きものは、現世利益的な地上の横のルートではなく、魂への呼びかけとして超越的な天上のルートから垂直に来ると考えるんですね。なので、天上とのルートが開かれていることが大切で、天上の神を人間が欺くことはできないので、本心から相対することが求められます。そこにおいて自らの罪を心から認め告白する告解は、地上の人を天上と繋ぐものであり、自らの罪を認めない人々(全てを現世的な外形的行動で判断する人々)よりも、天上と相対して罪を認めて悔やむ人々の方が天上に近いとされるんですね。

この現世的なものを越えた垂直なルートの最も根幹となるものが、罪を認めて告白して悔やむ告解と、そして他者への愛(≠自己愛)だとされていて、タコピーの原罪7話は、このキリスト教的な精神を凄く上手く描いているなと。まりなちゃんママは、まりなちゃんを失うことで、まりなちゃんを本当に心から愛していたことと、自らの罪(虐待)に気づき、タコピーに告解する、そしてタコピーがそれ(まりなちゃんママのまりなちゃんへの愛)を目の当たりにすることから、タコピー自身も自らの罪に気づき、天に告解するという流れが美しく素晴らしい。

この流れに対し、まりなちゃんママは根っからの悪党で、ただ自己利益だけ考えているとか言って非難するのは、流石にうがちすぎではと思いますね。こういった非難からは、先のイエスの言葉を思い返せば分かるように、原罪と告解と愛、心が相対することを重んじるキリスト教的な精神性が全く無いことが分かります。

まりなちゃんママは自分のことを考えているだけとして非難する、ジャンプラいいねコメント欄的な流れは、悪い意味で俗流ニーチェ主義というか俗流フロイト主義で、なんでもかんでも現世的な打算に還元する流れですね。でも、キリスト教って、そういう現世的打算を超える他者への愛の精神性があるということを示す宗教であるんですね。だからこそ、世界宗教になったと考えられる。タコピーの原罪7話での、まりなちゃんママとタコピーの告解は、そういった精神性を示していると考えますね。だからこそ、タコピーの原罪7話「タコピーの告解」は、残酷な事象の中にあっても美しいし、心を打つんですね…

「イエスが十字架に掛けられたのは偶然ではない。彼は命を奪われる運命だった。現代であってもそうなったであろう。イエスは、万人の中で一番過激な革命主義者だったのだ。彼は達しがたい泉なのだ。その固い大地の裂け目より革命が迸るのだ。彼はカエサルに向き合い、そのカエサルが誰であっても、その不当なる『権力』に対する精神の不服従の永遠なる原理なのだ」
(ロマン・ロラン「クレランボー」)

あと、「まりなはお腹を痛めて産んだ大切な娘なんです」という台詞も重要と考えられ、母子関係に、自己利益、即ち現世打算的なものを越える、天上的な他者への愛の結びつきを見るというのもキリスト教、特にマリア信仰に見られるものでありますね。まりなちゃんの名前は、象徴的にマリアと掛けてあるんでしょうね…。

まりなちゃんママを必要以上に悪として捉えるネットの風潮には、母子関係に対する妬みや憎しみ、異性を嫌悪して、異性の持つ聖性は決して認めないネット特有のミソジニー的なものもあるのかなと感じますね。でも、そういった憎悪の概念に囚われている限り、天上的な善、美、愛は決して理解できないと思いますね。

ロマン・ロラン「人類みなが持つ悲惨さについて考えよう。敵はいない、悪人はいない、いるのは惨めな人々だけだ。そして持続可能な唯一の幸せは、理解しあうこと、愛を持つことなのだ」

母子関係の聖性、その愛を重んじるマリア信仰は、キリスト教よりも更に以前の地母神、女神信仰とも結びついていると言われており、母子関係に現世利益的なものを越えた他者への愛を見るのは、人類の普遍的構造としてあるのかもしれませんね…。以下、最後にマリア信仰を描いたヤコブ・プロトエヴァンゲリオン(ヤコブ原福音書)より引用。出産と母子を讃えている。

「直ちに雲は洞窟から引き、大いなる光が洞窟の中に輝き、私達の眼には耐えられないほどでした。そして少し経つとその光は消え、遂に赤ちゃんが見えました。赤ちゃんは母マリアに近寄ってその乳にすがりました。すると産婆は叫んで言いました。「今日という日は私には大いなる日、かつてないこの見物を見たからです」」
(ヤコブ原福音書)



小型聖書 NI44 (新共同訳)
日本聖書協会
1988-10-01


聖書名言辞典
講談社
2004-07-10








ジャン・クリストフ 全4冊 (岩波文庫)
ロマン・ロラン
岩波書店
2003-09-09


amazonトップページ

Archives
livedoor プロフィール

ねこねこ

記事検索
  • ライブドアブログ