2022年02月

2022年02月25日 10:16

タコピーの原罪12話を読了。今回も素晴らしく面白かったですね。特に、舞台が高校になったことで急激に性愛的な要素がクローズアップされてきたのが面白い。特に、まりなちゃん、東くん、しずかちゃんの三角関係に、フェティシズム的性愛と人格的な性愛のすれ違いが起きている悲喜劇が見事ですね。ただこの辺は事前に知識が必要なので、今回はそれを簡単に説明したいと思います。

タコピーの原罪、東くんの目が12話ラストでハートになっていることから、明らかに彼はフェティシストなので、まず、その辺を簡単に説明しますね。フェティシストとはフェティシズムを持つ人のこと。フェティシズムとは、性的愛着の対象が通常の性的象徴から逸脱した肉体的特徴や物品や行為に固着していることを示す言葉。フェティシストとして有名な漫画のキャラクターではジョジョの奇妙な冒険の吉良吉影がいますね。

フェティシズムの種類はハヴェロック・エリスらにより分類され、分類の中にはタコピーの東くんのフェチである、髪や瞼もある。東くんはストレート黒髪の二重フェチですね。フェティシストの男女比の割合は男性が極端に多いとされ、原因は不明です。その為、女性には中々理解されずらい特殊な性癖とされています。

なぜ、フェティシスト(比率的には男性が圧倒的)が、靴とか、毛皮とか、通常の人にとって性的愛着の対象にならないものに対して性的愛着を抱くのかは、実はよくわからないのですが、仮説としてフロイト心理学では幼少期や少年期の性的固着に失敗することが関係するとしている。吉良吉影のモナリザのエピソードはこれを完全に下敷きにしていますね。

吉良吉影「わたしは子供のころ...レオナルド・ダ・ビンチの「モナリザ」ってありますよね...あの絵...画集で見た時ですね。あの「モナリザ」がヒザのところで組んでいる「手」...あれ...初めて見た時…なんていうか…その…下品なんですが…勃起…しちゃいましてね…」(荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険」)

この吉良吉影のエピソード自体が、三島由紀夫の聖セバスチャンの絵でオナニーしたエピソードをモデルにしていると思われます。三島は、仮面の告白や金閣寺など、フェティシズムに囚われた男性を描き続けた作家です。彼自身も、聖セバスチャンの絵などでマゾヒズムを目覚めさせられたと語っていますね。フェティシズムとマゾヒズムは関連性が強い性的倒錯だといわれています。

「その絵を見た刹那、私の全存在は、在る異教的な歓喜に押しゆるがされた。私の血液は奔騰し、私の器官は憤怒の色をたたえた。この巨大な張り裂けるばかりになった私の一部は、今までになく激しく私の行使を待って、私の無知をなじり、憤ろしく息づいていた。私の手はしらずしらず、誰にも教えられぬ動きを始めた。私の内部から暗い輝かしいものの足早に攻め昇って来る気配が感じられた。と思う間に、それはめくるめく酩酊を伴って迸った」(三島由紀夫「仮面の告白」)

上記は吉良のエピソードのモデルとなった箇所ですね。タコピーの原罪の東くんの場合も、吉良吉影と同じく、幼児期の性的固着に失敗したケースかなと考えています。

「他の如何なる形の性的倒錯にもまして、フェティシズムは、体質の先天的状態によって条件付けられることは最も少なく、明らかに偶発的な結びつきや早期のショックによって最も決定的に引き起こされる(略)「フェティシズムは、感じ易い、神経質で小心な、早熟な人間のうちに、即ち、多少とも神経症的な人間のうちに現れやすい傾向(略)(多くは)生涯の初めのうちの性的な何かの挿話のうちに決定的な出発点」(ハヴェロック・エリス「性心理研究」)

タコピーの東くんの中でも、東くんママの外見と東くんの性愛との関係において、何らかのエピソードが発生してしまった可能性が高いと思われますね...

フェティシズムの大きな特徴は、何らかの特徴、物品、行為に対する愛好であり、それは人格に対する愛ではないということですね。つまり、東くんが好きなのは、黒髪ストレートの二重であって、その特徴を持つ人間全体ではないということです。これはタコピーを読む上で理解しておく必要があると思います。

タコピーの原罪の東くんは、『可哀想な女の子』が好きなのであって、その女の子自体が好きなのではないと考えられます。なのでまりなちゃんと恋人関係になった。しかし、それ自体(=可哀想な女の子という属性が好き)なのも一種のフェティシズムであり、『黒髪ストレート二重の女の子』に対するフェティシズムの方が可哀想フェチよりも圧倒的により強かったのが12話ラストの描写でしょうね。

まりなちゃんやしずかちゃんの愛が、人格的な愛(相手を人間として愛している愛。しずかちゃんはチャッピーへの愛なので人間ではないですが...)なのに比べると、東くんの愛がフェティシズムの愛(愛好する象徴だけを愛する愛)なのは、上手い描写ですね。後者なので、しずかちゃん(=黒髪ストレート二重)を見ただけで、ずっと付き合ってきたまりなちゃんを簡単に忘れてしまえる訳です。

フェティシズムがなぜ男性に多いのかはいまだによく分からないんですが、男性の性的処理はかなり単純な起こしやすいもの(男性器に肉体的刺激を与える)なので、逸脱した空想から起きる一種の刷り込みが起こりやすいのではないかという説もありますね。創作においてフェティシズムを愛と勘違いするのは、悲喜劇として面白いテーマですね。

東くんのフェティシズムの愛と、まりなちゃんの人格的な愛が、すれ違いを起こしているのは人間社会において凄くありがちな悲喜劇(女性のフェティッシュな属性の部分しか愛せない男性と、その男性全体を愛している女性のすれ違いの悲喜劇)なので、これを確り描けるところに、タイザン5先生の凄みを感じますね。




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2022年02月18日 01:33

タコピーの原罪11話読了。これは素晴らしい。今までの展開を全てひっくり返す見事な展開。まりなちゃんとタコピーが2022年に先に出会っていたことも驚かされますが、自分が一番、感銘を受けたのは、しずかちゃんと、しずかちゃん父の描き方ですね。

タコピーの原罪は人間は多面的な存在であり、ある人にとって愛の対象が、別の人にとって憎悪の対象であること、またそれはひっくり返ることを上手く描いている。人間は統一的な存在ではなく分裂的な多面性の存在であるということですね。下記とか分かりやすい。

「私の心と私の言葉の間には、決してうめられない溝がいくつもあって、それと同じくらい、私の文章と私の間にも距離があるはずだ。

でも一般にみんな、日記に向かうとき素直になっているような気になっている感じがして、気持ち悪いから何となく日記は気取っていて、いやなのだ。
 
本当に人を救う尊い仕事をしている男が、ある朝交差点で世にもHなお姉さんの後ろ姿に勃起し、さらにその日のうちに幼い娘に八つ当たりし、妻と話しあって高次の愛に接したら、それはみんなその人で、その混沌が最高なのにみんな物語が好きだから、本人もそうだから、統一されたいと願ったり、自分をいいと思ったり悪いと思ったり、大忙しだ。
 
変なの。」(吉本ばなな「アムリタ」)

人間は分裂的な揺れ動く存在であり、統一的ではないということですね。しずかちゃんと、彼女の父親の関係はそれを上手く描いている。

10話までのしずかちゃんはチャッピーのことを第一に考え、チャッピーに依存しているように見え、確かにその側面はあったでしょうが、11話でしずかちゃんのチャッピーに依存する気持ちは吹っ飛んでしまった。しずかちゃんは自分の父親が、自分の異母弟妹を愛しており、しずかちゃんのことは路傍の石としか見ていないことを知り、チャッピーへの依存の気持ちは吹っ飛んでしまった。

しずかちゃんの中にあるのは、父の愛を独占する自分の弟妹に対する激しい嫉妬と憎悪。そして自分を捨てた父に対する憎悪です。その嫉妬と憎悪から彼ら(父方の家族)をハッピー道具を使い亡き者にして破滅させる為に、『自分の弟妹がチャッピーを食べた。だから彼らの胃を開く』という滅茶苦茶な理屈を組み上げている。

この理屈は、しずかちゃんは未成熟なので、チャッピーへの思いを遥かに超える自分の中の憎悪と嫉妬を言語化できないゆえに、代替的な理屈が働いていることを示している。極めて文学的、純文学的な描写で素晴らしい。ドストエフスキーとか彷彿とさせますね。

また、これはしずかちゃんパパにも言えて、ツイッターなどは、しずかちゃんパパを非難する囂々たる声で溢れていますが、タイザン5先生は、しずかちゃんパパは、しずかちゃんの異母弟妹、自らの家族(しずかちゃんとその母以外の家族)に愛を注ぐ、裕福で満たされた幸せな男性であり、幸せな愛に溢れた家庭を築いていることをしっかり描いている。これにより、しずかちゃんの行おうとしている憎悪と嫉妬に塗れた残虐な復讐、その為にタコピーすら手に掛ける行為こそが真の邪悪そのものであるという描写を意図的に行っている。これが素晴らしい。

人間というのは、悪の塊とか善の塊みたいなものではなくて、ある人にとっては、善き人であり、愛に満ちた関係である人が、別の人にとってみれば、悪しき人であり、憎悪に満ちた関係であるということは、往々にしてある訳です。

これは、古代から芸術、特に文学の大きなテーマですね。ドストエフスキーの罪と罰のラスコーリニコフもマルメラードフも一概に悪人とは言えない訳です。少年ジャンプの世界だと夜神月なんかもそうですね。ミサミサや夜神粧裕にとって彼はかけがえのない良き恋人であり、良き兄な訳です。同じことがしずかちゃんパパにも言える。

少年漫画では、極度の単純化が行われ、人間を悪の塊とか善の塊みたいな統一的なものとして描くことが多いですが、タコピーの原罪のタイザン5先生は全く逆の描き方をしている。これは、極めて純文学的で、素晴らしい作品だと感銘を受けておりますね...

「(どんなに純粋無垢な子供ですらも)もしかすると、僕たちは悪い人間になるかもしれないし、悪い行いの前で踏みとどまることができないかもしれません。人間の涙を嘲笑い、ことによると、さっきコーリャが叫んだような『僕は全ての人々の為に苦しみたい』という人たちを意地悪く嘲笑うようになるかもしれません」
(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」)



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2022年02月04日 13:43

タコピーの原罪9話を読んでぶっ飛びました。しずかちゃんが完全なる悪、純粋な悪、自らの利益の為に自らの意志で男性を惑わせて破滅させる純然たる悪のファム・ファタールになっている。以前、本ブログにて、しずかちゃんは、邪悪なファム・ファタールではないということを書きましたが、訂正しなくては…。しずかちゃんは近代的な邪悪なファム・ファタール存在ですね…。

この物語(タコピーの原罪)の上手いのは、意図的にしずかちゃんの内面を描くことを徹底的に避けているので、タコピーにも読者にもしずかちゃんの内面は分からない。その為、いつからしずかちゃんが邪悪なファム・ファタールとして覚醒したのかは不明ですがが、現行の9話でしずかちゃんが完全なる邪悪として描かれたことで、タイトルであるタコピーの原罪の意味、キリスト教モティーフは、とても分かりやすくなった。

しずかちゃんの身体にタコピーが乗っていつも一緒に描かれていた意味。それは、しずかちゃんが、リリスであることを示している。ジョン・コリアの「リリス」を見ると一目瞭然です。人類に原罪を齎したアダムの最初の妻リリスは西洋美術において、蛇をまとわり付かせたファム・ファタールなのです。タコピー=蛇、しずかちゃん=リリスで作中のメインとなる全ての意匠(しずかちゃんにタコピーが乗っている姿)の謎が解けましたね。

ジョン・コリア「リリス」(1887作 パブリックドメイン)
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しずかちゃんが邪悪なファム・ファタールとしていつから覚醒したのかは現状では不明ですが、私は、タコピーによるまりなちゃんの殺人を「魔法」としてしずかちゃんが肯定した時からではないかと思います。「魔法」のシーンでは、しずかちゃんは何も実際の行動はしていないから罪はないという意見が多かったですが、キリスト教は内面、すなわち心の罪を重視する宗教です(「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」マタイ福音書)。タコピーの原罪は題名や上述の意匠のように、キリスト教を極めて強く意識した作品ですので、まりなちゃんの殺害を心の中で肯定したとき、しずかちゃんは完全な悪の存在になったとキリスト教的には考えられます。

しずかちゃんは、その悲惨な境遇から、無垢な善に近いヒロインとして好意的な目線で見ている読者(私も含まれます)が多かったですが、これは、サロメの逆パターン(聖書に記述されるサロメはヨハネを積極的に害そうとしたのではなく、母のメッセンジャーをしたにすぎなかったが、様々な芸術のモティーフとして取り上げられる中で鑑賞者から悪のイメージを付与されてゆき、それがオスカー・ワイルドの戯曲にて結実した)なのかもしれません、すなわち、悲惨な境遇にある美少女は善性を持っていてほしいという読者(鑑賞者)の先入見を裏切ることのできる、邪悪な存在としてしずかちゃんはタイザン5先生により最初から造形されていたのかもしれません。

また、東くんは救われてほしいという意見が多いですが、それも次の二つの理由により、ないと考えます。

まず一つは、キリスト教は情欲に惑わされることに対して非常に厳格な宗教であることです。純然たる悪のファム・ファタールしずかちゃんの色仕掛けに引っかかって簡単に悪の片棒を稼ぐような男性(東くん)には、色欲に惑わされて篭絡されて悲惨な最期を遂げたホロフェルネス(ユディト記)のような運命が待ち受けているだろうと考えます。特に東くんは彼自身の内面(観念)がしずかちゃんの悪(盗みの唆し等々)に落とされているわけで、単純な肉体的魅力に篭絡されるよりも、キリスト教的には遥かにより救い難い感じですね…

吉本隆明「(キリスト教の特徴は)姦淫することなかれというような、そういう律法、ないしは掟に対して、非常に観念的な、大変観念的な領域にまで拡張しまして、つまり、心の中で色情を抱いて異性を見たらもう姦淫したんだという風に言っているわけです(略)そういうものが、キリスト教時間的には、あるいは空間的に、地域を越えて、一地域を越えて、やはり何と言いますか、生きさせてきた根本にある問題だと思われます」(宗教と自立)

もう一つは、こちらの理由の方が物語論的には大きいですが、タコピーの原罪9話で、カインとアベルをやる為の背景を丁寧に描写していることです。カインとアベルは、創造主の愛を巡るカインとアベル兄弟の嫉妬が人類最初の嘘と殺人に発展する訳ですが、創造主とは、子供にとって親な訳です。カインとアベルは、タコピーの原罪においては、東くん兄弟の親の愛を巡る兄弟の争いとして描かれている訳ですね。9話ではそれがはっきりと描かれている。東くんは、創造主、すなわち東くんママの愛を独り占めする潤也くんのことをカインのように憎んでいる訳です。

9話からは、カインとアベルの悲劇を見事に再現する以外の何ものも見えない。いまだに東くんが救われることを願う人々の願いを美しく裏切り、そして深読みする人々の期待に応え、おそらく10話は東くんが想像を絶する破滅を迎える素晴らしく美しき悲劇の地獄となるでしょう。それを読むときのこと、そして愛する登場人物(東くん)が滅び行く姿を見る読者皆のカタルシスの喜び(アリストテレスは、優れた悲劇の条件として、悲劇的運命を迎えて破滅する人物が、鑑賞者から愛される人間、すなわち極悪人などではない、善良さを持つ人間であることを挙げた。そのとき、カタルシスの条件たる恐れと哀れみが誕生する。ゆえに極悪人のまりなちゃんよりも善良な東くんの破滅の方がより優れた悲劇的)を思うと、まさに、「偉大なる劇作家と歴史の目撃者に!!」という感興になりますね!なんと…なんと素晴らしい…



小型聖書 NI44 (新共同訳)
日本聖書協会
1988-10-01






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