2010年05月

2010年05月26日 21:51

チェーザレ 破壊の創造者(1) (KCデラックス)
雪の峠・剣の舞 (アフタヌーンKCデラックス)

先日ヒストリエを読了したので(http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1180322.html)、ネットでヒストリエ感想をチェックしていたら、僕そのものな読書傾向について書いているツイッターのつぶやきがあって吹きました。

http://twitter.com/whowilwin/status/14701654422
持ってる漫画はチェーザレとヒストリエとヴィンランドサガとテルマエロマエとセンゴクとギャグマンガ日和です!とか言いそうな要はそんな感じの。

全て僕の大好きな持っている漫画で、あまりにも的確すぎて吹きました。あと付け加えるなら連載中の作品では「舞姫テレプシコーラ」「ベルセルク」「ラブやん」が好きで単行本で持っており、新刊発売を楽しみにしています。、ここ数年で完結した作品では「ヘルシング」「もっけ」「ジパング」「DEATH NOTE」あたりはとても好きでしたね。

僕は物凄い貧乏で、全くお金がないので、基本的に本は図書館オンリーなのですね。図書館で本を借りると、自分の趣味でなさそうな本も「趣味じゃないけど勉強になるかもしれないし、新しい面白さが開けるかも知れない、一応借りてゆくか」という感じで借りて読むことになるので、ありとあらゆるジャンルを濫読する物凄く雑多で分散した読書傾向になるんですが、漫画の場合は違いますね。

漫画の場合は図書館で借りれないので、自分で買うしかない。そうなると、よほど自分が大好きな作品しか買わないことになるので、自分の趣味性が思いきり出ますね。どうも僕は、好きな漫画の傾向として、世界観や登場人物が精緻に組み立てられて、それらが三人称的な距離を持って描かれている、群像劇タイプの作品が好きなのだなあと感じます。総領冬実さんの「チェーザレ」は、「ヒストリエ」とならんで、そういったタイプの歴史漫画として最高に好きですね。また、物語を、ユーモアやギャグでずらすことで笑いを生む作品(テルマエ・ロマエ、ギャグマンガ日和、ラブやんetc)も好きです。

自分の持っている漫画を見ると、互いの価値観がぶつかり合って互いに相対化される群像劇が好きなのだなあと感じますね。人間は世界の中に在ることを強いられる限界のある存在、世界の中で消し去ることのできない他なる苦痛と向き合わされる弱い存在であり、自由を得ることはできず、苦しみから逃れることもできないと僕は感じるので、そういった僕の世界観に共鳴する世界の在り方・登場人物が出てくる作品などは、非常に好きですね…。「チェーザレ」のミゲルの台詞「自由などどこにもないのだ」とか、ミゲルに心から深く共感したのを覚えています。

カノッサ
「同じ人間なのに…同じヨーロッパ人なのに何故いがみ合わなければいけないのだろう…信仰が違うことはそんなに罪深いことなのだろうか?」

ミゲル
「フランス人はイスラムの侵攻に屈しなかったことを自負する熱狂的なキリスト教信者だ。彼らにとってはキリスト教信者以外の人間はユダヤであろうがイスラムであろうが全て邪教だ。同列の人間ではない」

カノッサ
「…(キリスト教に)改宗するつもりはないのですか?」

ミゲル
「改宗しても俺がユダヤ人であることには変わらない。完全なキリスト教信者として扱われるわけでもなく、今度は同胞のユダヤから蔑まれる。どちらにせよ、この大陸にいる限りユダヤ人が完全な権利を得ることはない…」

カノッサ
「………。本当にクリストーバルさんの航海について行く気はないのですか?」

ミゲル
「新天地か…。仮に新天地を見つけたとしても、決して自由が手に入るとは限らないだろ。そこが生活水準に適した地なら、そこには人が集まり、集落が出来る。集落が出来て、人の数が増えれば、当然また宗教論争が起こる。そうなると、どこへ行こうが、我々は所詮異端だ。結局、自由などどこにもないのだ」

カノッサ
「私は無力ですね…何のお役にもたてそうにない」

ミゲル
「いや…そうでもないよ。現にさっきは助けられた。あそこでおまえがアンリとの間に割って入ってこなかったら正直大事になっていたかもしれん。
まあ…マリア像は粉々になってしまったが死人は出ずにすんだ。おまえのおかげだ。ありがとう」
(総領冬実「チェーザレ」)

「チェーザレ」は、人間の限界性とその悲しみを、登場人物から距離を取った眼差し=歴史的眼差しを持って淡々と描いているところ、ヒストリエなどの岩明均作品に通じると思いますね…。とても好きな漫画です。何か一つの価値観を肯定したり否定したりするのではなく、あらゆる価値観を含めた人間達の営みを、人間達の限界とともに、切実に描いているところが、心を打ちます。

「けどなァ!しょせん剣術なんざたかが知れてるぜ!何しろ天下一が二人そろって、城一つ、女一人、守れねえんだからな!」

「そうだな………たかが知れてる……」
(岩明均「雪の峠 剣の舞」)

総領冬実さんのチェーザレ、チェーザレ・ボルジアを取り巻く人間模様と歴史的な動きを丹念に描いた傑作歴史漫画です。ヒストリエが好きなお方々には、ぜひ読んで欲しい作品ですね…。

参考作品(amazon)
チェーザレ 破壊の創造者(1) (KCデラックス)
チェーザレ 破壊の創造者(2) (KCデラックス)
チェーザレ 破壊の創造者(3) (KCデラックス)
チェーザレ 破壊の創造者(4) (KCデラックス)
チェーザレ 破壊の創造者(5) (KCデラックス)
チェーザレ 破壊の創造者(6) (KCデラックス)
チェーザレ 破壊の創造者(7) (KCデラックス)

雪の峠・剣の舞 (アフタヌーンKCデラックス)
ヒストリエ(6) (アフタヌーンKC)
ヒストリエ(5) (アフタヌーンKC)
ヒストリエ(4) (アフタヌーンKC)
ヒストリエ(3) (アフタヌーンKC)
ヒストリエ(2) (アフタヌーンKC)
ヒストリエ(1) (アフタヌーンKC)

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Rise of Legends

同人ゲーム「かたわ少女」の感想リンクができていたんですね。ご苦労様です。このブログの記事も載せて頂いてありがとうございます。

「かたわ少女」Act1日本語版 感想リンク集
http://d.hatena.ne.jp/a-park/20100524/p1

僕は、「かたわ少女」をプレイしたあと、作中でプレイされている戦略ボードゲーム「リスク(Risk)」に興味を持って、数時間ほどプレイしたんですね。今回は、このゲームについてご紹介致します。以下のサイトさんで無料フラッシュゲームとしてプレイできます。

リスク(Risk)
http://www.shockwave.com/gamelanding/risk.jsp

プレイ方法は、自分の国をクリックすると、戦力(サイコロ)を一個増やせます。最初は20ターンぐらいひたすら戦力を貯めた後、戦闘開始です。自分の国をクリックした後、他の国をクリックすると攻め込めます。戦闘では互いにサイコロを振って、大きい数が出た方が、相手のサイコロを一個減らせます。サイコロの数分だけ攻められます。例えば、こっちが三つサイコロがあって、向こうが二つサイコロがあったら、こっちはサイコロを三回振れて、相手は二回しか振れません。そのほかにリスクカードがあります。歩兵カード、騎兵カード、砲兵カード、どの模様にも使えるワイルドカードがあって、同じ模様のカードが3枚揃ったら、戦力を一気に増強できます。このカードは、敵の領地を占領することで1枚もらえます。世界を征服すれば勝利です。

数時間プレイして、相手CPUに全く歯が立ちませんでした…。これは難しいです。どこかの大陸を制圧しようと思って戦力を集中させると他の地域を奪われてジリ貧になって結局その大陸も奪われて負けますし、初期領土をひたすら防衛しているとこれまたジリ貧になって領土を落とされて負けますし、リスクカードを手に入れるために積極的に攻め込むと、敵のターンで大反撃をくらい、こっちが攻め込んで獲得した領土の二倍くらいの領土を奪われて負けます。どうしたら勝てるんですかね…。

何か勝つコツがあると思うんですけど、見つけ出せません。二体のCPUと戦う設定になっていまして、一番上手く行ったプレイの時は、一体のCPUを、もう一体のCPUと挟み撃ちにして集中攻撃して、CPU一体が持つ領土を完全消滅させて、一対一のイーブンの対決に持ち込むところまで行ったんですけど、領土数で大幅に負けていたのでジリ貧になって、結局負けました…。相手CPUとプレイヤー条件は同じなので、上手くプレイすれば勝てるはずなんですが、僕の今の腕だと、どうしても勝てないんですね。

このゲーム、難しいです。ただ、このゲームをプレイすると、「かたわ少女」作中での、「リスクをとって大胆に北米を取りに行く」とかのこのゲームについての会話の意味が分かるので、かたわ少女をプレイしたプレイヤーさんにはお勧めですね。サイコロで勝負が決まるので、博打的な要素が大きいんですね。勝負運がよければ、リスクをとって、北米のようなメリットの大きい大陸を制圧できる可能性がある。結構面白い戦略ゲームなんですけど、全然勝てないのはちょっときついですね…。何か、勝つ方法があるとは思うんですけど、今のところ見つけ出していません…。

このゲーム、対戦相手がCPUじゃなくて、ちゃんと対人でプレイできたら凄く楽しそうですね。気軽にプレイできますし、ニンテンドーDSiウェア辺りでwifiの対人対戦機能つけて1000円ぐらいで売れば、売れそうな気がするゲームです。対人対戦やってみたいなあ…。

かたわ少女ではチェスも行われていましたので、ついでにチェスのフリーゲームもご紹介致します。僕は基本ルールを覚えているだけの初心者なので、最弱CPUにすら負けますが…。

チェスゲーム - チェス入門β
http://chess.plala.jp/chess_beta.html

Flash チェスコンピュータ ゲーム
http://chess.watype.net/ja/

ギコチェス(CPUが強くて難しいです)
http://www.dawgsdk.org/gikochess/game

あと、僕はかたわ少女のヒロインの中では華子が好きなので、公式サイトのお絵かき掲示板で見つけた華子画像をご紹介致します。

http://shimmie.katawa-shoujo.com/post/view/1531
http://shimmie.katawa-shoujo.com/post/view/1409
http://shimmie.katawa-shoujo.com/post/view/1307

華子イラストを見るとどうしても……水木しげる先生の「ゲゲゲの鬼太郎」が思い出される(爆)

参考作品(amazon)
Rise of Legends
リスク
爆発的1480シリーズ ベストセレクション チェス2
ポータブル チェス(レギュラーサイズ)
少年マガジン/オリジナル版 ゲゲゲの鬼太郎(1) (講談社漫画文庫 み 3-5)
ゲゲゲの女房
ゲゲゲの鬼太郎 劇場版DVD-BOX ゲゲゲBOX THE MOVIES【初回生産限定】

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ヒストリエ(6) (アフタヌーンKC)

ヒストリエ第6巻読了。第1巻〜第5巻と同じく、いつもながら展開が素晴らしいなあ…。岩明均さんの物語の作り方の上手さに心から敬服いたします。僕はここ数年、ヒストリエをずっと単行本で読んできて、エウメネスが親の形見のアフラ・マズダーのペンダントを身に着けているところから、彼はペルシャ帝国にゆかりがあるものだと推測しながら読んでいたんですね。そうしたら今回、エウネメスが幼い頃の記憶を思い出して大どんでん返し…!!

おれの…………足…………?
あっ!!
アフラマズダーを踏みつけに……ペルシアとは敵対する部族だったんだ……!
(岩明均「ヒストリエ 第6巻」)

今までの価値観がひっくり返る衝撃を受けましたね。このとき、作中のエウメネスも推測していた価値観(アフラマズダーのペンダントを持っているのだからペルシャとゆえんがあるのだろう)がひっくり返されて驚いているのと、読み手の僕の驚きが完全に重なって、物語の中に同一化する感覚、素晴らしい物語だけが持てる優れた感覚を味わいましたね。本当に素晴らしい…!!

しかも今回、第6巻でいよいよ若き日のアレキサンダー王子と彼の側近達がじゃんじゃん出てくるので、ああ…みんな来た!!という感じで、歴史物語好きとして心が震えましたね。アレキサンダーは遠征が続くに連れてだんだん暴君化し、晩年は謀反事件をきっかけに疑心暗鬼に囚われ、父の頃から仕える重臣達や若い頃からの友である重要な側近達を処刑してゆきます(主人公のエウメネスは最後までアレキサンダーに信頼されており、助かります)。それを知っているから、後に処刑されるアレキサンダーの側近達が、アレキサンダーの学友として仲良く青春しているのを見るのが、とても切ないです…。

アレキサンダー
「同じ友人同士さ、みんな!」
(岩明均「ヒストリエ 第6巻」)

パルメニオンが(息子)フィロタス処刑の知らせを知らされる前に、武装した伝令が訪ねてきた。アレキサンダーが、老将軍の注意を逸らすために、急ぎの文書をしたためたのだ。パルメニオンは、蜀台に向かって身をかがめた隙をついて殺された。
(ニコラス・ニカストロ「アレキサンダー大王 陽炎の帝国」)

アレキサンダーの友人達は、後にアレキサンダーの側近として果てしない遠征に付き添いながら、側近同士の政治闘争にあけくれます…。エウメネスも例外ではなく、彼は、アレキサンダーのホモセクシャルの恋人である側近へファイステイオンと対立します。映画「アレキサンダー」でも、大王のホモセクシャルな恋人として出てきましたね。アレキサンダーは男色家で、バゴアスなどの寵愛した宦官(去勢手術を行った男性)に権力を与えたり、性的な寵愛の相手に権力を与える悪癖があり、これは彼の帝国に打撃を与えることになります。ヒストリエ第6巻で出てくるアレキサンダーの友人達は、次第にみんなバラバラになって、幾人かはアレキサンダーに処刑され、幾人かは戦死し、幾人かは左遷、そして帝国の崩壊後は権力を求めて互いに戦い殺し合い、帝国は崩壊して滅びてゆく。

アレキサンダー自身も、世界征服の為の遠征をひたすら続けるうちに、次第に若い頃の良心と快活さを失い、だんだんと疑心暗鬼と権力欲に囚われてゆきます。アレキサンダーは、史実を丹念に追うならば、「Fate/Zero」が描くような「民を幸せにする力を持つ王」ではなく、どちらかというと、戦争は強かったけれど、戦争に夢中になるあまり統治内政はダメダメで、遠征中に本国が戦乱に巻き込まれたり、民を幸せにしているとはとても言えません。特に戦って負けた占領地の民は掠奪暴行虐殺内乱で地獄です。戦わず降伏した土地も、遠征軍の為の食料・食料費を大量に奪われているので悲惨です。晩年の家臣達の粛清を見るにいたっては疑心暗鬼に駆られた暴君の影がちらつく王ですから…。歴史的に見る限り、アレキサンダーには「国を攻め取る」という概念はあっても「国を維持する」「国を繁栄させる」という内政統治の概念は、ほとんどなかったようですね…。

ヒストリエ第6巻の楽しそうなアレキサンダーと友人達の青春を読んでいると、いずれそんな滅びの歴史が描かれることが、幻視されますね…。このペースだと、アレキサンダーの晩年と死が描かれるのは、30年後に出る「ヒストリエ 第37巻(完結)」とかになりそうですが、その終焉を、歴史好きとして出来ることならば見てみたいですね…。

例えば、ヒストリエ第6巻で、ペウケスタスが、マケドニアの王子であるアレキサンダーと家臣達が、それこそ「友人」として付き合っていること、友人の命を救うために王子が必死になっていることに衝撃を受けるシーンがあります。これとか本当に上手いですね。後々の伏線になります。この描写はマケドニアの文化的伝統でして、ギリシャのポリスの市民文化とも通じる、『王であっても、家臣であっても、同じ国民、自由市民の仲間である』という意識があるんですね。対して、ペルシャ帝国などのアジア圏は絶対封建制であり、そういった意識はない。王と家臣の間柄は絶対的な差異があり、王は絶対の神であり、家臣は王とは比較不能な、いくらでも代替のきく命の安い虫けらに過ぎない。王に対して、家臣は絶対の服従が求められる。中国や日本の支配体系もそうですね。いわゆるアジア圏にある跪拝(土下座)の支配体系の文化です。

ペルシア(アジア圏)を征服してゆくということは、そういった、マケドニアやギリシャの持たないアジアの文化を、取り入れざるを得ないということなのですね。しかし、アジア圏の文化を取り入れるということは、今まであったマケドニアの文化、君主と家臣が友人のように接する文化を壊してしまうことになる。アレキサンダー大王の前で、ペルシャの家臣が全員跪拝していて、マケドニアやギリシャの家臣が立ちっ放しだったら、ペルシャ出の家臣達は「王の前で立ち尽くすあの無礼者どもを手打ちにせよ!」って怒る訳です。逆に、アレキサンダーの前で家臣達に跪拝を強制すれば、「なぜ王であると共に、友でもあるアレキサンダーの前で頭を床にこすりつけ平伏せねばならないのだ!」とマケドニア・ギリシャ出の家臣達の反感は高まる。異なる文化圏を別の文化によって強制的に征服するということは、征服者・被征服者どちらにとっても、怒りや憎しみを掻きたてるものなのですね…。アレキサンダーが家臣達から信頼を失った理由の一つに、ペルシャ側の意向を取り入れた跪拝の強制が、古い家臣達からは反感を抱かれたとされています。

今、EUはギリシャ危機によって崩壊の危機に瀕しており、EUの統合は相当後退する(ユーロという通貨の見直し、EUの統合の形の見直しが行われる)と見られていますが、こたびのEUの統合後退や、近年のイラク戦争の失敗のように、異なる文化同士を強制的に融合させるというのは、互いに互いを傷つけあうことになる軋轢を生むということ、これはアレキサンダー大王の帝国の無残な瓦解から学ぶべき大切なことだと思いますね…。僕は統合ではなく、地域主権ということを、大切にするべきだと思います。

臣下の差を越えたマケドニアの友情の文化を描いているということは、それが果てしない遠征のなかで無残に崩壊してゆくことも描かれるんだろうなあと思いますね…。今回出てきたアレキサンダーの友人達は、主人公も含めて全員、後のアレキサンダーの帝国の重臣になりますが、幾人かは帝国崩壊前にアレキサンダーに処刑され、帝国崩壊後は互いに兵を率いて殺しあうのが、悲しい…。ただ主人公のエウネメスだけは、帝国崩壊後一体どうなったかよく分からないので、生きのびるかも知れません。

アレキサンダー大王の姿を描くのに、書記官エウメネスを主人公にして、王子時代の、後の重臣達との友情を描くというのは、素晴らしいと思いますね。この後の歴史を鑑みれば、友情は権謀術策の欲の中で、悲しい形で終わってゆく。歴史的悲劇の予感を感じさせて、ああ、今すぐタイムトラベルして未来に行って、完結したヒストリエを全巻読んでみたい!!という気持ちに駆られます。ペルシャ帝国の王ダレイオスとかどう描かれるのか、今から本当に楽しみです。ヒストリエ第6巻、第1巻〜第5巻と同じく傑作です。アレキサンダーは、ひたすらの遠征で国力を低下させ、疑心暗鬼に囚われ家臣達を粛清するという、戦いに勝てば勝つほど次第に暴君的な王となってゆき、彼の死後、彼の築いた帝国は内乱で瞬く間に崩壊したことを考えると、単純な英雄譚を描くのではなく、もっと別の俯瞰的な歴史物を描こうとしている意欲が感じられて、心から期待を持てる作品です。ヒストリエ、お勧めする歴史漫画です。

戦を沢山見ていると、戦というものが、凡人にとって尋常ならざる好機であるのがわかる。凡人――普段は演壇に立つと舌が回らなくなり、本気で故郷に尽くす気がなく、神々に捧げものをするときでも安物ですませる――は、いったん武器を持てば、才気あふれる人物を手にかけ、優美な女性を犯し、たぐいまれな芸術品を破壊し、子供を殺す。どんなに高い理想を掲げようと、どんなに優れた将を得ようと、常に勝利するのは凡人だ。圧倒的な悪と圧倒的な善、どちらも偏在はできないし、全てを見渡せもしない。しかし凡人は戦場のいたるところで馬の背に乗って飛び回り、「いざ、ペラへ!」などと叫ぶ。
(ニコラス・ニカストロ「アレキサンダー大王 陽炎の帝国」)

参考作品(amazon)
ヒストリエ(6) (アフタヌーンKC)
ヒストリエ(5) (アフタヌーンKC)
ヒストリエ(4) (アフタヌーンKC)
ヒストリエ(3) (アフタヌーンKC)
ヒストリエ(2) (アフタヌーンKC)
ヒストリエ(1) (アフタヌーンKC)
アレキサンダー大王 陽炎の帝国
アレクサンドロスと少年バゴアス
アレクサンドロス大王―「世界征服者」の虚像と実像 (講談社選書メチエ)
Fate/Zero Vol.1 -第四次聖杯戦争秘話- (書籍)
Fate/Zero Vol.2 -王たちの狂宴- (書籍)
Fate/Zero Vol.3 -散りゆく者たち- (書籍)
Fate/Zero Vol.4 -煉獄の炎- (書籍)
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2010年05月25日 16:07

僕のショパン 名曲集&ドラマCDシリーズ ♯1ショパン

桃雪琴梨「僕のショパン」読了。やばい…これはやばい…萌えすぎる…!!ショパンきゅんが可愛すぎて男の娘趣味の僕の乙女心(男性も心に乙女心を持つのです)は刺激されまくりですよ!!ショパンきゅんにきゅんきゅんしちゃうよ…!!これはぜひ読まれるべきですね!!ネットで無料で読めますよ!!

桃雪琴梨「僕のショパン」(無料で読めます)
http://www.yomban.jp/works/chopin/


僕のショパンはリスト×ショパンの物語。リストが今は亡き愛するショパンの想い出を語るという形式で物語は進行します。可憐な美少年であるショパンに出会ったリストがベタ惚れになる展開とか、この時代のクラシック音楽好きとして読んでいて楽しすぎる…。ショパンがとてつもなく可愛すぎて、読むのが…あまりに萌えすぎて辛いほどだ…!!

あと、大枠はちゃんと歴史通りに進行しているのも素晴らしい。有名な「リストがショパンの曲を最初は弾けなくて失踪して、練習して弾けるようになって戻ってきた逸話」とか、ショパンの見目麗しき美貌を讃えるリストの台詞(史実)とか、ばっちり入っていますね。サロンの華だったショパン、女性達に囲まれてる描写もしっかりありますね。こういう、ちゃんと歴史を重んじて描いているところ、クラシック音楽好きとして、好感が持てるなあ…。手塚治虫のショパン漫画「虹のプレリュード」のヒロインのモデル、コンスタンティアたんも出てきますね。あと、前回僕が書いたエントリ(http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1179750.html)、作曲家マイアベーアいなかった…ううすみません…。

作者さんが音楽にちゃんと造形が深そうなところも読んでいて好感。クラシック音楽好きの心をくすぐる台詞が読んでいて思わず笑みを浮かべちゃうよ。音楽に理解のない聴衆にハンマークラヴィーアを馬鹿にされてリストが怒るシーンとか良いですね。

リスト「ハンマークラヴィーアを理解できないとは哀れな奴め。今度俺がコンサートで弾いてやる!」

あと、リストはショパンをピアニストとしては高く評価してショパンの暮らしを援助しましたが(ここら辺は漫画で描かれる通りです、リストは面倒見のいい親分肌で、当時の売れない芸術家達を惜しみなく援助しました)、実はリストはショパンの作曲を全く評価せず(ショパンのピアノ曲を生涯高く評価したシューマンと対極にある)、それが元で関係が悪化するんですね…。今後の展開としてここら辺も描かれるのかな…。いまのところ、描かれているのはまだ1830年ぐらいなのでリスト×ショパンの関係が良好な頃で、二人はラブラブモード全開で話が進んでいるのですが、今後二人の関係が破綻したら胸が痛みますね…。既に起きてしまった史実ゆえに仕方ないといえば仕方ないんですが…。シネマ・ミーツ・クラシックよりリストとショパンについての文章を引用致しますね。

フランツ・リスト「男も惚れる任侠の人物」

ところで、派手な展開となった女性関係に対して、リストの男性との交友関係はどうだったであろうか?アイドル・スターにありがちなエゴイスティックでわがままな存在だったろうか?とんでもない。リストは「社交界のアイドル」と言われたように、女性関係と同様、社交界でも常に中心人物であった。(映画の)「フランツ・リスト 愛の夢」では、パリの社交界でリストが作曲家タールベルグと弾き比べするシーンがあった。そこでリストの才能の方が上だと太鼓判を押すベルリオーズの姿が描かれていた。

(リストは)交友関係も広く、持ち前の義侠心を発揮し、若い芸術家への援助を惜しまなかった。慈悲深く、世話好きで、包容力があった。これぞと思う人には金銭を惜しみなく与え、活躍の場を用意し、無報酬で慈善事業のための演奏会(チャリティ)を何度も行った。「君の名前はフランツではなく、ヘルファー(援助者)に変えるべきだ」と評した友人の言葉は有名である。ベルリオーズ、グリンカ、ボロディン、グリーグ、スメタナ…リストの友情に浴した作曲家は枚挙にいとまがない。

映画で脇役として登場するリストには、決まって、こうした人の良い援助者としての役割が与えられている。

例えば、戦前の「別れの曲」では、(漫画で描かれる通り、リストは人見知りで生活力皆無のショパンの生活を援助し)パリに出てきたショパンを社交界に引っ張り出し、情熱の恋人となるジョルジュ・サンドを紹介してやる。そして、サンドと計って、パリでショパンをデビューさせたのもリストであった。

実際、リストはショパンの芸術をこよなく愛していたようだ。またショパンも、「リストが(ショパンの曲を)演奏したとき、私は自分の音楽を心から愛したくなる」といって、そのピアニストの才能を高く評価した。

ただし、(リストはショパンの)作曲家としての才能は、「彼は自分の乏しい霊感を気のきいた細工で飾り立てる」と評し、全く認めていなかったようだ。一種の絶対音楽(純粋音楽。音楽それ自体が純粋に音楽として表現されている音楽)の要素を含んだショパンの音楽は、標題音楽(音楽の外の何らかのイメージ、例えば「神」とか「天使」とか「女性」とか「英雄」とか、何らかの具体的な表現を手伝う為の音楽)としてのリストの曲と相容れない立場にあったのかもしれない。(中略)

ショパン「孤独さがにじみでるプレリュード」

(ショパンの音楽を使ったいくつかの映画では)孤独なピアニストや芸術家が登場し、そのイメージはショパンの人となりを彷彿とさせる。つまり、リストやシューマンやベルリオーズのように、何かと文学的な解説をつけてしまうロマン派作曲家(標題音楽家)全盛のなかにあって、標題など必要としない純粋音楽を目指したショパンは、どこか異質の例外的な作曲家だった。また彼は、(社交界・サロン文化への)PRが必要とされた時流のなかで、他の芸術家とはあまりつきあおうとせず、ゴーイング・マイ・ウェイの自己のペースをひたすら守った。そうした点からも、ショパンの音楽には抜き差しならぬ特別の美しさが秘められている。孤独という以上に、孤高の芸術家というべきか。
(西村雄一郎「シネマ・ミーツ・クラシック」)

ちょっと余談になりますが、上記補足しますと、「僕のショパン」でも描かれてるように、「標題音楽」と「純粋音楽」の問題というのは結構大きな問題なんですね。例えばオペラ音楽というのは、作中で描かれる通り、完全に「標題音楽」なんですね。音楽は、音楽の外のイメージ(オペラなら描かれる劇)の為にある。ショパンは、そういった音楽に対し、「ただ純粋に音楽そのもののみを音楽の楽しみとして聴く」ということを、時代を超えて純粋に聴ける素晴らしいピアノ曲(絶対音楽、純粋音楽)を作曲することで提示したのですね。ショパンは「時代を超える音楽表現」というものを極めて意識的に提示したのです。

ショパンの行ったことは、非常にエポックメーキングなことでして、18世紀と同じく標題音楽文化全盛の現代においても考えられて良いんじゃないかなと思うことですね。色々聴き比べるとよく分かるんですが、ショパンの曲は今聴いても美しさが胸に染み入ってきますが、リストのピアノ曲は今聴くと分かりにくい。リストの曲の表現しているテーマ(18世紀の社会に依拠している様々な標題)と音楽の結びつきが、21世紀の人間である我々には、時代の変化で分からなくなってしまっているからなんですね…。「神」は標題として古びない、ある種の絶対性・純粋性を持っているので、時代を超えて分かりやすいのですが(バッハなどの宗教音楽は古びない)、その標題が、作曲の時代(例えばリストなら18世紀)に依拠したなんらかのものの場合、時代が経過するとその音楽は分かり難くなってしまうのですね。閑話休題。

桃雪琴梨「僕のショパン」、なんというか、こう、素晴らしく萌えすぎるので、全世界の人々に読んでもらえたらいいなあみたいな気持ちになりますね。ポーランドの人には読んで欲しいなあ…。クラシック音楽はワールドワイドな芸術ゆえに、ワールドワイドに楽しい漫画に仕上がっていると思います。本当に素晴らしかった!!特にショパンきゅんの可愛さは『今、新世紀の萌え萌え可憐な男の娘が降臨した!!』という感じで、萌えすぎて、もうだめだ…。ああ…。素晴らしすぎる…。

「絹の様な髪と青い瞳。脆く華奢な体。透明で繊細な色艶。ショパンはまるで繊細な茎の上に瑠璃色の華をつけた昼顔…ちょっと触れただけで傷つき落ちてしまう程、薄い花びらを持った可憐な昼顔の花――」
「ショパンの演奏の魅力は花の芳香の様に人の心に浸透して行く。此の繊細な香りは不快な香りに汚される事を嫌悪する…」
(リスト)

ショパンきゅん!ああ…素晴らし過ぎる…。

参考作品(amazon)
僕のショパン 名曲集&ドラマCDシリーズ ♯1ショパン
シネマミーツクラシック
Kissin Plays Chopin
The Chopin Collection [Box Set]
ショパン (作曲家別名曲解説ライブラリー)
リスト:ピアノ作品集
ロシア・ピアニズム名盤選-2 ベートーヴェン:ハンマークラヴィーア/ピアノ・ソナタ第1番

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今年はショパン200周年ですね…。ショパンイヤーだから色々出るのは嬉しいのですが、これは予想外の嬉しい驚きだ…!!
僕のショパン 名曲集&ドラマCDシリーズ ♯1ショパン
僕のショパン 名曲集&ドラマCDシリーズ ♯1ショパン

萌えクラ「僕のショパン」公式サイト
http://www.vap.co.jp/mychopin/
乙女のための萌えるクラシックシリーズ始動!
2010年、フレデリック・ショパン生誕200周年という記念の年に、乙女のための最強クラシックシリーズがここに誕生。
 誰もが知っている作曲家たちの名曲をたっぷり収録!更に、新作漫画や小説を無料配信するバンダイビジュアルのサイト「YOMBAN」で桃雪琴梨先生が連載中の同名漫画を人気声優によってドラマCD化!
 美麗なイラスト通して、19世紀のクラシック音楽家たちを楽しく学びながら音楽を堪能しつくせるアルバム第1弾は、2010年で生誕200周年を迎えるショパン!
 彼の人生や、名言(迷言?)や同時代に生きた偉大なる音楽家たちとの交友関係まで、萌えながらにして博識になれるCDはこれしかない!
漫画あらすじ
 ショパンとリストはライバルで親友。しかし、ショパンは……。
 「別れの曲」などを作曲した天才ピアニストのショパン、どんな難解な曲でも弾きこなす超絶技巧のリスト。
 シューマン、メンデルスゾーンも登場の、19世紀の音楽界で繰り広げられるクラッシックストーリー!
 ツンデレ乙女男子ショパンはリアル萌えキャラだった!?

モニタの前で固まりました。ショパンが女性向け萌えキャラに!!演奏は安達朋博さん(結構有名な若手クラシックピアニスト)なのか…。演奏については実際にこのアルバムを聴いてみないと分かりませんが、この時代(1800年代)は確かに面白い時代、僕の知る限り、音楽史において一番面白い時代なので、手塚治虫さんも漫画化(虹のプレリュード)していますし、漫画化などの物語化するのには向いている感じがしますね。しかもショパンがショタというのは、素晴らしい。この時代、サロン文化でみんなつながっていて、人間関係は腐女子的に究極のご馳走のような時代ですし。僕は腐男子なので同人誌出るのが楽しみだなあ…。

リスト「ところでこいつを見てくれ、こいつをどう思う」

ショパン「すごく…おっきいです…」(史実)

ってこれだとギャグですね(爆)

ショパンとリストが親友とか、面白い設定で好きですね。この時代、男女ともに面白い人物だらけで、しかもみんな、ヨーロッパのサロン文化を通して人間関係があるんですね。ショパンを始めとして、今も歴史に残る有名ピアニスト達は当時のサロン文化を通して全員が全員交流がありました。

「僕のショパン」にはショパン&リストだけじゃなく、シューマンやメンデルスゾーンも出るみたいで嬉しいなあ。18世紀最大の萌えアイドルであるクララ・シューマンは出るのかな?当時、シューマンがショパンを紹介するときに言った有名な決め台詞『諸君、脱帽したまえ!天才だ!』とか完全に漫画そのものですし。きちんと音楽史を学べながらなおかつ面白い漫画やドラマCDに仕上がっていると嬉しいですね。

ショパンとカップリング可能な当時の登場人物を纏めますね。同人誌作るときの参考にでもしてもらえたら嬉しく思います。

ショパンとカップリング人物一覧

ショパン:天才作曲家にしてサロン文化の華。リストとは違い、特に女性好きということはないにも関わらず、若い女性から年配の女性まであらゆる層からモテた。特に貴族の夫人方、人妻・年配の女性からは、それはもう、とてつもなくモテまくり、サロンにひっぱりだこだったので、かなりの美形だったと思われる。自分から女性にアプローチはせず、自然に周囲の女性からアプローチを掛けられて可愛がられるという、ショタっぽいモテモテぶり。生活はサロンの女性達(主に貴族夫人)から援助してもらって暮らしていた。以下、引用致しますね。

ショパンの生涯には、何人かの女性が登場する。しかし、何かと比較されがちなリストのような「華々やかな女性遍歴」といったものは、ショパンにはない。女性達との付き合い方を追っていくと、ショパンの男性としての資質がよくわかる。それは、現代の「草食系男子」をもう少し優雅にした、「貴族的草食男子」とでもいいたくなるような男性像だ。
(「クラ女のショパン」)

コンスタンティア・グワドコフスカ:ワルシャワ音楽院時代における、ショパンの初恋の女性。想いを寄せていたが、はっきりとした告白ができず、結ばれないままに終わった。手塚治虫さんのショパン漫画「虹のプレリュード」に出てくるヒロインのモデル。

マリア・ヴォジンスカ:ショパンの愛した女性。ショパンは彼女が小さい頃からピアノの家庭教師をしており、彼女の家とは家族ぐるみのつきあい。彼女が美しく成長してから(彼女の肖像画が残っているが、普通に可愛い感じの女性)、ショパンは彼女にプロポーズした。彼女はプロポーズを受け、結婚の話が進み始めたが、彼女の母親が、結婚話を勝手に破談にしてしまう。彼女の家に比べると、貧しい家柄のショパンとは、身分差があり結婚できないということだったらしい。ショパンは結婚の破談に大きくショックを受け、このことが、生涯結婚することがなく、女性に自分からアプローチをしなかったことに繋がっていると言われる。

ジョルジュ・サンド:元祖フェミニスト、女性作家。様々な有名人の男性を愛人にして、浮名を流した。ショパンも彼女の愛人になった。彼女は常に恋愛においての主導権を握り、ショパンもその例外ではなかったようだ。ショパンの生活を援助。

デルフィナ・ポトツカ伯爵夫人:ショパンの最後の恋人。素晴らしい美貌と美声で知られるサロンの華であった。ショパンの死の床でピアノを弾きながら歌い、ショパンが「美しい」と言いながら涙を流した逸話で有名。

リスト:作曲家。ショパンとは最初は友人だったが、次第に対立し喧嘩別れしてしまう。極度の女性好きで浮名を流しまくりで有名。超絶倫な性豪で股間の一物が巨大なことでも有名。

シューマン:作曲家、ピアニスト。シューマンはショパンを高く評価し、パリのサロン文化に「諸君、脱帽したまえ!天才だ!」の決め台詞を持ってショパンを華々しくデビューに導いた。その後も「ショパンは天才だ!!」ということを書きまくり言いまくり、ショパンの音楽活動を支援。しかし、ショパンの方は、シューマンの音楽をあまり評価していなかった…。生前は音楽があまり評価されず、結婚した当時などは奥さんのクララのヒモ状態だった。晩年、精神を病んで発狂死。死後、彼の曲は高く評価される。

クララ・シューマン:女性ピアニスト。18世紀最大の萌えアイドル女性。幼少の頃からピアノの神童であり、9歳の時、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のソリストを務めて成功させたことで、美少女天才ピアニストとしてヨーロッパ中のアイドルになった。美しい女性で、様々に求愛されたが、当時は全然パッとしない男であったシューマンと恋愛結婚。結婚するまでには恋愛小説のようなドラマティックな恋愛模様が色々あった。伝説的美少女ピアニストにして伝説的美女ピアニストとして生涯、ヨーロッパ中のアイドル、サロンの華だった。シューマンの奥さんとして、全然稼げない旦那の代わりに生活費を出し、旦那が作曲で成功するまで導いた、全ヨーロッパのアイドルピアニストにして内助の功も併せ持つ凄い女性。ドイツマルク紙幣の肖像の女性は彼女。

メンデルスゾーン:ユダヤ人の富豪の一族に生まれ、幼い頃から徹底した音楽の英才教育を受けて才能を開花させた、18世紀音楽界の貴公子。ショパンの最も親しい友人の一人で、彼がショパンにシューマンを紹介した。

ベルリオーズ:作曲家。ショパンの親しい友人。ショパンと一緒に演奏会を開くことが多かった。

ヒラー:作曲家、ピアニスト。リスト、ベルリオーズの親しい友人で、3人で音楽グループを結成。

ロッシーニ:作曲家。ショパンの大好きな先輩。「パリについて嬉しいのはロッシーニに出会えたことだ」(ショパン)

パガニーニ:作曲家。ショパンは彼の演奏を聴いて感銘を受け、作品を書いた。変奏曲「パガニーニの思い出」

ジョン・フィールド:作曲家。ノクターン(夜想曲)形式の創始者。彼がいなければショパンのノクターンは生まれなかった。

イグナーツ・モシェレス:ピアニスト。ショパンの実力を認め、ショパンを経済的に援助した。

フリードリヒ・カルクブレンナー:ピアニスト。ショパンの恩師。

ベッリーニ:作曲家。ショパンの最も親しい友人の一人。

オーギュスト・フランショム:チェリスト。ショパンの最も親しい友人の一人。彼の為にショパンは曲を書いた。

ポーリーヌ・ヴィヤルド:当時の大人気女性歌手。「身の気がよだつほど醜悪」と呼ばれるほど、個性的な容姿の持ち主だったと伝わっているが、その歌声は「天使のように素晴らしい」と伝わっている。ショパンとは馬があったようで親しい友人になる。女王様気質っぽいところがあったようで、ロシアのマゾヒスト文豪ツルゲーネフと同棲し、ツルゲーネフに尽くされながら暮らした。

ユリアン・フォンタナ:作曲家、ピアニスト。ポーランド時代からの、ショパンの最も古い親しい友人で、ショパンの秘書的な役割をこなした。ショパンの作曲した楽譜の散逸を防ぎ、彼の楽譜を遺稿も含めて集めて整理して保存するという、とてつもなく重要な役割を果たした。

ウジェーヌ・ドラクロワ:画家。ショパンがサンドの愛人になる前はサンドと付き合っていたらしい。ショパンの最も親しい友人で、ショパンの絵を描いた。

ショパンとカップリング可能な登場人物はこんな感じでしょうか。考えてみればこの時代の芸術家達、みなサロン文化で結ばれているから、全員あらゆるカップリングが可能ですね。「僕のショパン」が成功したら、「ショパン×ドラクロア」とか「ショパン×メンデルスゾーン」とか「ショパン×シューマン(男の方のシューマン)」とか、腐女子同人誌が沢山出てくるのか…うわ…腐男子として凄い楽しみかも。これから

ドラクロア「ショパン!君をモデルに絵を描くには、君には服を脱いでもらわなくてならない!」

みたいな感じの同人誌が一杯出るのかな。「僕のショパン」のショパン、僕の好きなショタっ子ですし、クラシック好きにしてショタ好き腐男子として、とても楽しみです。

参考作品(amazon)
僕のショパン 名曲集&ドラマCDシリーズ ♯1ショパン
虹のプレリュード (手塚治虫漫画全集)
女装少年コレクション ゲーム編
わぁい! vol.1
名曲案内 クラ女のショパン

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2010年05月24日 22:46

Kissin Plays Chopin

クラシック音楽の老舗RCAがショパン200周年記念で出しているエフゲニー・キーシンのショパンBOX「Kissin Plays Chopin」(日本盤の「キーシン・プレイズ・ショパンRCA Red Seal全ショパン録音集成」と内容は全く同じです、値段は僕が購入した海外盤の方が圧倒的に安いです、現在2000円です)を聴きました。今日はあまり体調が良くなかったので、朝から何も食べず、寝床で横になって猫たんとずっと聴いていたのですが、 素晴らしい感動的な演奏でした。聴いていて涙が滲みますね…。心を美しさで浄化するような、甘やかに、優しく、叙情的な演奏、ショパン演奏の一つのエポックメーキングを感じさせてくれるBOXです…。

エフゲニー・キーシンは、11歳で鮮烈にデビューしたときのアルバム、その後の十代での演奏のアルバムを聴いて(キーシンの11歳〜17歳の時の演奏集である「エフゲニー・キーシン名演奏集第一巻」などで聴けます)、十代の少年がこれほど凄い演奏、力強く、それだけではなく均整がとれ、情熱的な感情表現、音楽解釈も素晴らしく、エンターテイメント性も持った演奏を行っている、これは間違いなく末恐ろしき「神童」である、と感じ入りました。当時は、キーシンならではの演奏と、十代にしてこれだけの演奏が弾かれていることに感動したのですが、Kissin Plays Chopinで聴かせてくれるショパンは、彼の十代の頃に比べ、曲の持つ感情表現を見事に表現するようになり、更に素晴らしく良くなりましたね…。

エフゲニー・キーシン名演奏集(4枚組)/Evgeny Kissin: Historic Russian Archives

Kissin Plays Chopinでのキーシンの演奏は、十代の頃のキーシンの演奏の全ての美点を持ったまま、更にその美点を深化させるとともに、曲の解釈の深み、そしてそこから生まれる曲の感情表現の深度と幅が、素晴らしく豊かになっています。ショパンの音楽が持つ、繊細なリリシズム、聴き手を静かに優しく包み込んでそっと癒すようなロマンティシズムを、素晴らしく感情豊かに表現している。聴いていて静かなる感動が抑えられない、心を打つ素晴らしい演奏です。実に良かったですね…。

十代の頃のキーシンは、「キーシンのショパン」という感じでしたが、Kissin Plays Chopinにおいては、「キーシンのショパン」であるとともに「まさにショパン」なんですね。ショパンの音楽が持つ独特の普遍性を見事に表現している。演奏者を超えて、曲自体を活かしている。こういう演奏はなかなかあるものではないです…。素晴らしい演奏家の多くは、「ルービンシュタインのショパン」なり「ホロヴィッツのショパン」なり「アシュケナージのショパン」なり「アルゲリッチのショパン」なり、個性的なところの美を伸ばしてゆく演奏を行うことが多いです。

キーシンは、そういった自己表現をある程度抑えて、ショパンの曲(楽譜)が持つ本質的な美しさを出そうとしているように感じますね。「キーシンのショパン」であるだけでなく、聴いていて非常にニュートラルな演奏なんですね。ゆえにそれが美しい。純白のキャンパスに、ショパンの音楽だけが刻まれてゆく感じです。他の演奏家だと、キャンパスに最初から演奏家の背景色が掛かっている、Kissin Plays Chopinのキーシンの演奏は、そういった色をなるべく消して、ニュートラルにショパンの音楽の美しさを最大限に引き出し、増幅させているような、聴いていて、「ああ…まさにショパンだ」と感動する演奏なんですね。素晴らしい、本当に素晴らしいの一言です。

心からお勧めですね。ショパンの演奏に新しい到達点を築いたBOXといっても過言ではないと思います。特にCD2のピアノ・ソナタは数あるショパンのピアノ・ソナタ演奏のなかでも最高峰ではないかと思います。ショパンの曲を素晴らしい演奏で聴くことは、心を静かに癒してくれますね…。先日ギフト券を贈って頂いたおかげでこのBOXが買えて、深く感謝しております。ありがとうございます。

参考作品(amazon)
Kissin Plays Chopin
エフゲニー・キーシン名演奏集(4枚組)/Evgeny Kissin: Historic Russian Archives
エフゲニー・キーシン名演奏集 第2巻(5枚組)
キーシン・プレイズ・シューマン

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ポトスライムの舟

津村記久子さんの小説、芥川賞受賞作「ポトスライムの舟」読了。傑作です。僕が読んできた芥川賞受賞作品の中でも最高峰だと思います。

昨日、ネットで歴史的事実と全く逆のことを書いた、人権を軽視している文章が凄まじく支持されているのを見て、非常に落ち込んで、お腹が痛くて朝早く目が覚めてしまい、食欲もなく、図書館で借りたこの本を手にとってなんとなく読んでいたんですね。そうしたら思っていた以上に引き込まれて、読み終えた後、『これは新しく面白い小説、面白い小説を書く新しい作家さんに巡り合えた』と感じて、ほんの少しですが、気持ちが楽になりました。この作家さんの他の本も読んでみたいと感じさせてくれる出来でした。

本作「ポトスライムの舟」は、桐野夏生さんや乃南アサさんといった、乾いた感じのする、登場人物から距離を取った描写を得意とする女性ミステリ作家の作品からミステリ要素を抜いて、女性主人公がただひたすら淡々と、何一つ代わり映えなき、薄い息苦しさを感じさせる日常を過しているところを最初から最後まで描写しているような作品です。物語の展開は、「希望なき川上弘美作品」という感じでして、川上弘美作品は本作と同じようにひたすら淡々としながら、確りと希望があるのが救いですが(川上弘美作品は、人間が抱く他者への善意や優しさを信じています)、この「ポトスライムの舟」では、そういった人間への希望は全く信じられていないです。本作はひたすら息苦しい閉塞感の中にあり、最後まで何一つ希望はない。主人公が縋る希望(世界一周旅行)は偽りであることが作中に示されており、だからこそ、その希望に縋ってしまっている主人公が切ないです…。

本作、主人公の破滅の予感を感じさせながら、最初から最後まで何も起こらず淡々としている描写が味わい深くて好きです。整然としているというのとは違いますが、読みやすく、淡々とした中にリズム感のある文章です。主人公のひたすら何もない日常が、僕の日々の日常(失業してなかった頃の数年前の日常)と、とても良く似ていて、昔は日々こういう感じだったなあとシンクロしましたね…。主人公の毎日は、カフカの小説のような、薄暗い不条理を感じさせるが抵抗できない息苦しさに包まれていて、僕も仕事があった頃、同じように感じていましたね…。

『時間を金で売っているような気がする』というフレーズを思いついたが最後、身体が動かなくなった。働く自分自身ではなく、自分を契約社員として雇っている会社にでもなく、生きていること自体に吐き気がしてくる、時間を売って得た金で、食べ物や電気やガスなどのエネルギーを細々と買い、なんとか生き長らえているという自分の生の頼りなさに。それを続けなければいけないということに。(中略)

ナガセは今日使ったお金について手帳に書き記し始めた。奈良-難波間の電車賃は往復で1080円で、難波-梅田間が460円、梅田-三宮間が620円、ということから始まって、思わず買ってしまったミュージアムグッズ1050円や、神戸市立博物館に行く前に行ったカフェ1350円や夕食に入った洋食屋1150円などの代金を足すと、5710円を使っていた。月給を月の営業日数で割ると6000円強なので、一日弱の労働を今日の会合に費やした計算になる。
(津村記久子「ポトスライムの舟」)

日々、息苦しい毎日を過している主人公の生活が、自分の昔の毎日にシンクロしましたね…。飲み会に出たら使ったお金を計算せずにはいられないのも、僕と同じ性癖です。おそらくは僕だけじゃなく、日本の大勢の人々が感じているであろう、毎日の息苦しさというものを淡々とよく描けていると思います。

主人公は、毎日をとてもつましく、控えめに、静かに淡々と生きていますが、そんな彼女が、生きることが物凄く下手であるのが分かるのが、自分に重なるとともに、読んでいて切ないです。

薄給とはいえ、ここは人間関係が悪くない。特にラインリーダーの岡田さんはいい人で、工場での初日にガタガタ震えながらラインにやってきたナガセを心配して、何くれとなく、面倒を見てくれる。おかげでナガセは、時給800円のパートから、月給手取り13万8千円の契約社員に昇格したこれまでの四年間を、なんとか持ちこたえることができた。先月には、ラインの副リーダーに昇格した。他の人も皆そこそこいい人だ。別のラインでは、無視も恫喝もヒエラルキーもあるときく。そんなことを耳にすると、余計に自分が今いる状況が宝石に劣らず貴重なもののように思えてくる。

そういう考え方が自分の向上心を削ぐすべての原因なのだ!とナガセの一部分が逆上するが、新卒で入った会社を、上司からの凄まじいモラルハラスメントが原因で退社し、その後の一年間を働くことの恐怖で棒に振った経験からすると、職場の空気が悪くないということは得がたい美点なのだと言い切らざるを得ない。

ナガセは頭を振って、次々と浮んできては消える思考を振り払おうとする。自分には集中力があり、単調なことを飽きずにこなせる。この仕事に向いている。雑念に苛まれていない限りは。
(津村記久子「ポトスライムの舟」)

彼女の世渡りの下手さがまるで自分を見ているようで、なんとも…。しかも、この小説、彼女のことを思うとちょっとひどいんですね。小説としては、それがけれん味に繋がっている、良い出来となっているのですけど。彼女は、163万円で世界一周クルージング旅行が出来るという、職場に張られていた旅行広告ポスターを見て、それに行こうと思うことで、日々の息苦しい暮らしを、ほんのわずかに中和するんです…。偽りの希望…。

ナガセがポスター見て行こうと考えた旅行、ちゃんとした旅行代理店の旅行ではなく、NGOの旅行ってポスターに書かれているのにナガセはそのことの意味に全然気づいていない…。この旅行、物議を醸している、非常に劣悪な旅行として悪名高い世界一周旅行ですね…。明らかに偽りの希望として描かれている。ナガセ、気の毒すぎます…。

この旅行広告ポスターの隣に、「うつ病で死なないで」みたいな、うつ病治療についての広告ポスターが貼られているんですね。前の職場を上司からのハラスメントで退職し、心に傷を負って精神的に疲労しているナガセは、そのポスターに目を向けられない描写があるといういやらしさ(ようするに、ナガセは旅行に行ったら、いよいよ、日々に耐えられなくなって、うつ病になっちゃうよってことを暗示している)。

日々の生活で疲労しきっているナガセの僅かな支えは、貯金なわけで、その貯金を全額はたいて旅行に行って、それが酷い旅行だったら、確実にナガセの精神は壊れてしまうでしょう。そうしたら、仕事も失って、うつ病と無職で、僕と同じ末路、ますます苦しい生活に…。悲しくなります…。

僕も、うつ病を発病した後、病院に行く前に、僕を心配した周囲の勧めで旅行に行きまして、旅行自体は劣悪でもなんでもない、自分で宿を取って電車で行くごく普通の一人旅で費用は交通費と宿泊費で十万円くらいでしたけど、心が重く苦しく、「貧乏なのに旅行費を使ってしまった…どうしよう…」という気持ちにも襲われて、更に酷い状態になってしまって、旅行から帰ってきた後、症状が悪化して病院に緊急で入ったので、ナガセが他人事とは思えず、読んでいて悲しくなりますね…。今も毎日お金のことを心配して、頭から離れないです…。

読んでいて、主人公ナガセに対する作者のあまりの突き離しぶりに、僕は世界において、明らかに苦しむ方に位置づけられているナガセという存在に深いリアリティを感じましたね…。日々の生活に息苦しさを感じている人が、苦しさから懸命に逃げ出そうとして、逆に破滅へどんどん向かっていってしまう、というのがよく描けている。大学で生きがいを見つけ出そうとして、逆にカルト宗教に洗脳されてしまうことになる学生(現在、カルト宗教の大学での伝道が活発化し、大きな問題になっているそうです)とか思い出しましたね…。

津村記久子「ポトスライムの舟」
http://web.parco-city.com/literaryawards/140/r2_01.html
大森望
「細部にものすごく“身につまされ感”があって、同世代の派遣社員からは非常に大きな共感が得られるんじゃないかと思いますね。その一方で、悪意の出し方がうまい。夢の世界一周旅行っていうけど、費用はたった一六三万円で、NGOの主催だと。要するにこれ、ピースボートですよね。夢の世界旅行どころか悲惨な旅だったと怒ってる参加者の話を週刊新潮が記事にして、裁判になったけどピースボート側が負けちゃった、そういう事実もたぶん踏まえてる。だってそのポスターのとなりに貼ってあるやつが、「心の風邪に手をつなごう、みんなでつらさと向き合おう」ですからね(笑)。」

救いのない閉塞した現代日本の社会で、生き辛く、息苦しく感じながら、静かに淡々暮らしている女性主人公の日常を、丁寧に描いた傑作です。全体的な雰囲気は決して明るくなく、それが上手に息苦しさを醸し出している。最後に、主人公が、破滅へと向かって行ってしまう(163万円を貯めて、いよいよツアーに申し込みをする直前で物語は終わる)のが、読み終えた後、なんとも、酷く悲しくなります…。傑作ですね。貧しい暮らしをしている人々は、僕と同じように、身につまされて感じるものがあるのではないでしょうか。淡々とした描写は読みやすく、文体のリズムは心地よいです。お勧めの小説です。

川上弘美さんの作品の希望は、人間の心、人間が他の人間に抱く優しい思いです。これは志賀直哉「小僧の神様」からずっと続く、ショッキングなものは描かずに、ひたすら日常を淡々と描くタイプの純文学小説の特徴としてあるものです。物語の世界も、それを肯定する世界として描かれる。しかし本作はそういった希望が全くない、物語の世界が人間を全く信じていないのですね。これは衝撃ですね…。偽りの希望によって、ナガセが終わっていく、「逆バージョン小僧の神様」なラストが酷く悲しい…。読者に新しい衝撃を与えてくれること、これは小説においてとても大切なこと、優れた小説です。

彼は悲しい時、苦しい時に必ず「あの客」を想った。それは想うだけで或慰めになった。彼は何時かは叉「あの客」が思わぬ恵みを持って自分の前に現われて来ることを信じていた。
(志賀直哉「小僧の神様」)

下り坂を、ペダルに足を乗せたまま降りながら、お金を貯めたことのお祝いに何かしよう、と思いつくと、とても気分がよくなって、雨に捕まる前に駅前に戻れそうな気がした。これだけ自分の体が動くというという感覚を思い出したのは、おそらく数年ぶりのことだった。
(津村記久子「ポトスライムの舟」)

参考作品(amazon)
ポトスライムの舟
センセイの鞄 (文春文庫)
蛇を踏む (文春文庫)
神様 (中公文庫)
小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)

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2010年05月23日 21:52

過去の克服―ヒトラー後のドイツ
人権読本 (岩波ジュニア新書)

人種主義は個人の自然権を疑問視し、異質なものの排除の要求をひそませている。
(石田勇治「過去の克服―ヒトラー後のドイツ」)

まおゆうを讃美している人のブログ、ひどすぎます。さっき見て、驚愕しました。歴史的事実と全く逆のことが書いてある。これはあまりにもひどいよ…。自然権というのは、「自然権=普遍的人権」と考えて頂いて大丈夫です。

1990年代から2010年代までの物語類型の変遷〜「本当の自分」が承認されない自意識の脆弱さを抱えて、どこまでも「逃げていく」というのはどういうことなのか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100521/p1
自然権の確立が、ホロコーストを生むわけですから。

全く逆です。自然権が立法権に侵害されることが、ホロコーストを生みました。

僕、大学で法律やっていましたけど(法科卒です)、大学の法歴史学で習うことは、『ナチスは立法権を暴走させ、自然権(人権)を徹底的に侵害した。その反省から、第二次世界大戦以降、各国は立法権に対する自然権の優位の確立を努力し、今も努力している』ということが、近現代法の歴史です。

ナチスはこのブログを書いている人が色々なエントリで開発経済学というのを持ち出し、部分的にかなり肯定的に述べている『人間は社会的有用性によってその生存の是非を判断される。軍事政権や開発独裁も手である』という思想と、もう一つ、『人間はその人種・血統によってその生存の是非を判断される』という思想、この二つの思想を推し進め、今から見れば明らかにおかしいこのとんでもない考え方を、「立法権は自然権に優先する」という、当時の法律の不備をついて、立法したのです。独裁も社会的有用性で人間を選別する法も、どちらも自然権を侵害する行いです。自然権はただ生きるだけでなく、政治的権利も含みます。自然権を侵害する法律が立法されることで、ナチス統治下での自然権は消滅しました。

『新暗行御史』/Classic.16 洪吉童伝(ホンギルドン伝説)私有財産VSコミュニズム
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080502/p6
開発経済学を学んだものとして、GNPが一万ドル以下のテイクオフ前の経済において軍事政権や独裁者による開発独裁を僕は否定しない。

第二次世界大戦後、二度のナチスの蛮行を世界が繰り返さないように、自然権は立法権に優先するという風に、自然権の確立を第二次世界大戦後の自由民主主義国家(日本も含みます)の憲法に組み込むという、たいへんな作業を各国の法律家達と政治家達が、行ったのです。

『二度と人間の生命をナチスのような組織に蔑ろにはさせない、そのために法律のセキュリティホールである、立法権が優先され自然権を侵害してしまう現行法を、自然権を立法権より上位にして、自然権を確立させることで、立法権が自然権を侵害できないようにする!!』

という作業を各国の法律家達が気持ちを込めて、一生懸命に行ったのです。法歴史で習いますよ。法学の人じゃなくても、一般教養で法律とってれば習うんじゃないでしょうか。

「自然権の立法権に対する優先」の分かりやすいところでは違憲立法審査権がそうです。人間の自然権を侵害する立法は、司法がメタ的に審査してダメだしできる機能を強化しました。しかし、今も、自然権と立法権をめぐっては争いが起きています。近年起きたケースでは、アメリカのパトリオット法(愛国法)が、個人の自然権を侵害している立法であるとして、大きな問題になっています。

自然権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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自然権(しぜんけん、ius naturale/jus naturale)とは、国家形成の自然状態の段階より人間が生まれながらに持つ不可譲の権利。人権はその代表的なものとされている。今日の通説では人類の普遍的価値である人間の自由と平等を中心とする基本的人権及びそれを基調とした現代政治理論においてもっとも基本的な概念・原理であるとされている。ただし、その由来については神が個々の人間に付与したとする考えと人間の本性に由来する考えが存在する。

人間の自然権は、近現代における最大に大切な権利であり、今もその権利を守るために、みな努力しているのです。

「自然権の確立が、ホロコーストを生むわけですから。」

これは歴史的事実とは完全に逆のことを言っている嘘の文章であり、酷すぎます。まおゆう讃美もそうですが、このブログの人物、他のエントリ(まおゆうエントリのほかにもネオリベラリズムのエントリなどいくつか読みました)を読むと、ナチスのような、立法権が自然権を侵害する法体系の方が、経済には都合がいいと思っているとしか思えません。しかしだからといってこんな嘘をつくことは決して許されません。

補足すると、ナチスが主張した生存圏(レーベンスラウム)と自然権は全く違うものです。混同するなど、ありえません。生存圏は、『自国の人間の生存権(この生存権は、国家に従属するものであり、自然権とイコールではない。ナチスは自国民にも自然権を認めなかった)の利益の為に自国民以外の自然権を侵害する(他国を侵略する)ことは許される』とする思想でして、国際法の自然権を侵害する思想です。自国の生存権(自国の利益)のために、他国を侵略するというこの思想は、現代では絶対に許されないとされています。現在、国際法・国際的なルールにおいて認められているのは各国の自衛権のみです。生存圏は自然権を侵害する思想、侵略を正当化する許されない思想です。生存園の反省からドイツでは果敢な庇護権(自国民以外の外国人の自然権を、他国の法を超えて、積極的に認める権利、自然権が国民国家を超え超国家的に最上位に来ている、法的にたいへん意味のある権利)を導入しています。

このエントリ、何百もブックマークがついているのに、なんで僕しかツッコミをいれてないんでしょうか…?誰がどう見ても明らかにおかしいでしょう…。なんかもう、泣きたい気持ちです…。こういう、このブログ主が主張している自然権を蔑ろにする思想が流行ると、うつ病で障害三級で無職の僕なんかは、自らの身の安全、精神病院で知り合った友人達の安全がおびやかされるのを感じて、酷い絶望的な気分です。涙がでてきます…。

大量にブクマされているのですから、僕よりちゃんとした知識がある人物大勢いるはずでしょう。「自然権(=普遍的人権)の確立が、ホロコーストを生むわけですから。」これはあまりにひどすぎますよ。ちゃんとつっこんでください…。なんで誰も何も言わないの…。なんで僕だけしか…。みんな、人権なんてどうでもいいと思っているのでしょうか…。涙がでてきます…。今だって、各国は自然権を守り、確立する努力をしているんです。日本なら朝日訴訟とか、有名でしょう…。

歴史発展の主体を集団としての種に求める人種主義は、種の存続のために個人の犠牲を強いる。人種主義は人間の評価を遺伝形質の価値によって差異化、階層化するが、価値基準そのものは個人への強制力をもつ国家から導きだされる。それゆえ人種主義は個人の自然権を疑問視し、異質なものの排除の要求をひそませている。ヒトラーがその処遇にほとんど関心を示さなかったシンティ・ロマをナチ体制が絶滅の対象にしたことは、ナチ・ドイツの人種主義の本質を物語っている。シンテイィ・ロマは「異人種」の烙印を押されたうえに、「生物犯罪学」の論理に従って抹殺されたのである。
(石田勇治「過去の克服―ヒトラー後のドイツ」)

参考作品(amazon)
過去の克服―ヒトラー後のドイツ
個人の基本権としての庇護権
近現代世界の平和思想―非戦・平和・人権思想の源流とその発展 (Minerva21世紀ライブラリー)
人権読本 (岩波ジュニア新書)
人権について―オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ

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どき魔女ぷらす(特典無し)
どきどき魔女神判!(1) (チャンピオンREDコミックス)

前回自分で自作ゲームを作って、なんか、僕がまおゆうのことを、非常に耐えがたく感じる理由が分かってきたように思います。自分で物語を作ると、自分の気持ちが良くわかりますね…。

まおゆうの物語は、凄く色んな経済的な理由を付けて、困っている人を助けなかったり、虐げられている人を見捨てたりすることを、ひたすら正当化しています。憐憫の情を否定して、冷酷無比さを「冷酷無比さは経済的有用性があり必要だ」と、物語の流れとして強制する物語なんですね。それが、僕にとっては、不自然に感情を抑圧される感じで、気分が悪くて堪らないんだなあと感じました…。

魔王「奴隷制は悲劇的かもしれないが社会制度の中で経済的にも意味があったのは事実なのだ」
(まおゆう)

メイド姉が目指したモノ〜世界を支える責任を選ばれた人だけに押しつける卑怯な虫にはなりたくない!
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100512/
物語は、農奴で悲惨な暮らしをしている二人の少女が、魔王と勇者の住もうとしている屋敷に逃げだしてくるところから始まります。

農奴の奴隷状態から逃げ出してきた二人のかわいそうな少女に、魔王の親友であるメイド長は「こんな虫けら、早く村に突き出しましょう!」と。

これは、正しい態度です。それは、2点から。一つは、魔王と勇者は、こうした悲惨なことがなくなるように「マクロ」のために立ち上がったわけであって、個々のミクロに関わっていては大局を見失う可能性が高く、また最後まで彼女たちを救うことができないのならば、むやみに手助けすべきではないのです。最後まで面倒を見れないのに捨て猫を拾うなと同じことです。

またいきなり「虫けら!」と吐き捨てるのは、強い倫理的な怒りがメイド長の中にはあります。どんなに悲惨であっても「自分の生活を自己の力によって改善しないものは」虫けらなんです。それを外部から助けることは、その奴隷の「人間としての動機と尊厳」を傷つけるだけであって、言い換えれば「ただ助けてくれ!」などというもの「実際具体的に戦う方法を見いだせないもの」は、虫けら=奴隷なのであって、「助けてくれ」などという他者に安全保障を委ねるような行為を叫ぶ時点で、そいつはどこまで行っても救う価値すらもない虫けらなんです!ということを、はっきり示しているんです。

上記が分かりやすいですが、まおゆうの物語は、何もかもを、経済的に裁いて、経済的に意味がないとみなされる行為や経済的に意味がないとみなされる人々を徹底的に排除することを『経済的に正しい行いであり社会を繁栄させる正しい行い』としているんですね。

『奴隷制は悲劇的かもしれないが社会制度の中で経済的にも意味があったのは事実なのだ』、この魔王の発言の考え方が、この作品全編を通してのメインモティーフだと思います。合理性の為に非人道的なことは許される、個々の可哀想な様子に胸を痛めるのは、合理的ではない振る舞いで許されないと、まおゆうは述べる…『「自分の生活を自己の力によって改善しないものは」虫けらなんです』。経済合理主義に基いて、思いやり、優しさ、相手の気持ちになって思うことなどの、人間の大切な感情は、下記のように、徹底的にただひたすら否定されている…。

個々のミクロに関わっていては大局を見失う可能性が高く、また最後まで彼女たちを救うことができないのならば、むやみに手助けすべきではないのです。最後まで面倒を見れないのに捨て猫を拾うなと同じことです。

人間には経済的合理性では計れない、自然な感情としての憐憫の情けがありますし、それが人間を人間ならしめているもの、予想できないカオスである未来に希望を繋いでいるものだと、僕は思います。誰も未来のことはわからない。

たとえば、ニンテンドーDSの「どきどき魔女神判」(話を追加したリメイク版の「どき魔女ぷらす」)では、凄く貧乏な魔法使いの赤井まほは、子猫をこっそり体育倉庫で飼っている(餌をあげている)のですね。

でも、貧乏な彼女には、お金が全然なくて、猫にいつまで餌をあげれるかは分からない。でも、彼女は自分の食費を削っても(彼女の食事はサバ缶なので、猫と兼用)、餌をあげて飼っている。主人公のアクジがそんな彼女の貧乏暮らしを助けて、猫も助かった。僕は、プレイしていて、ああ、いい話だなあと心から思いました。

まほが、経済的な見通しを考えて最初から諦めていたら、子猫は助からなかった。まほが後先考えず、猫たんを助けたことが、まほにも、猫にも、ベストな結果をもたらした。経済的な未来予想なんて、当たるかどうか誰にも分からない。

ただ純粋に、後先考えず、助けたいと思った人間の自然な気持ち。それを経済合理性の名の元に抑圧し、人々を見捨てる冷酷さの肯定するまおゆうの思想、それは、無数の歴史的悲劇を齎してきた、誤った思想であるとしか思えないです。

最後まで彼女たちを救うことができないのならば、むやみに手助けすべきではないのです。最後まで面倒を見れないのに捨て猫を拾うなと同じことです。

後先考えずに、誰かを助けたいと思う気持ち、そういった感情は、まおゆうの中においては、上記引用先の言葉のように、「経済的合理性」とかなんとかいう、感情とは違う、数字の論理で否定されている。その数字の論理が、まるで絶対に正しき世界の救世主であるように描かれている。でも、その経済性が正しいと、一体誰が分かるのですか?未来のことは、それこそ理論的に誰にも分からないということが明らかになっているのです(カオス理論、複雑系)。人間は、今できることをやるだけです。未来の為に、今の残酷さを肯定することほど卑怯な振る舞いはありません。

しかし、まおゆうにおいては全てが合理性の思想、経済的未来予測なるもので支配され、人間の非合理性、感情は、徹底的に否定されています。経済合理性に基く予測は、まおゆうの物語において、金科玉条の如く正しいものとして扱われ、それによって戦争を始めることやその継続すら肯定される。

魔王「グラフというのだ。……これは中央大陸のこの50年の消費量と景気を可視化したものだ」
勇者「……え」
魔王「気がついたように、我らが戦争を始めた15年前から中央大陸の景気は上昇局面に入った」
魔王「嘘ではない。2ページ目を見るが良い。こちらには各種統計資料が添付されている」(中略)

勇者「戦争に意味が……結果的にあったかも知れない」
(まおゆう)

まおゆうの物語世界における合理性と経済学は絶対ですが、実際の世界では合理性に基く経済学・経済予測はしばしば外れます。なぜなら、世界とはあまりに複雑で多様であり、限界ある人間には決して計れない、絶対的に予測不可能な動きを日々しているから。誰も未来を見通すことはできないのです。『ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こす』(エドワード・ローレンツ。カオス理論)。

どき魔女の物語で、貧乏なまほが、主人公のアクジと偶然に知り合い、猫と一緒に救われたような、誰にも予想できない偶発的な出来事が、世界には無数に起きているのです。

カオス理論とは何か?ようするに、「あまりに複雑になっちゃうと、未来を予測できません」ということだ。

たとえば、「明日の天気」とか「ヒラヒラと落ちる木の葉の動き」とかの自然現象について、カオス理論では、「複雑だから絶対に未来を予測できません」と述べている。

普通は「ええ〜?そんなことないでしょ」と思うかもしれない。

「どんな自然現象でも、結局は、単純で機械的な物理法則からできているんだから、どんなに複雑になっても、『がんばれば』ちゃんと未来を予測できるんじゃないの?」と考えるのが人情だ。

でも、カオス理論は、「がんばっても無理!」と言う。

まずは、複雑なシステム(複雑系)について理解しよう。単純な機械をたくさん組み合わせて、どんどん複雑にしていくと、一体どうなるのか?そのシステムは、「初期値をちょっと変えただけで、まったく違った結果を生み出す」という性質を持つようになる。(初期値鋭敏性)

たとえば、ここに、「完璧な天気予報システム」があったとする。風の動きから、気圧、温度など、天気に関係するあらゆる現象を完璧に計算するコンピュータがあったとする。その計算式は、本当に完璧なもので、自然の物理現象を完全に再現したコンピュータなのだから、このコンピュータで計算した天気予報は100%当たるに決まっている。

でもだ。どんなに完全に物理現象を再現したコンピュータでも、原理的には計算するためには必ず最初に初期値を入れてやらないとならない。たとえば、「ある時刻の東京の気温が30 ℃である」などだ。そういう初期状態を決めてやらないと、何も計算できない。

そこで、実際に気温を測って、初期値として入れてみる。30℃とか。そうしたら、コンピュータは完璧な計算をして、「1週間後の東京は晴れ」だという結果になった。じゃあ、今度は、ちょっとだけ、初期値を変えてみる。30.000000001℃とか。そんな微妙な違いなんて、どうでもいいと思うかもしれない。でも、それで計算すると、今度は「1週間後の東京は雨」という結果になってしまうのだ。

ちょっとでも、初期値を変えると、まったく違った結果が出てしまう。それが初期値鋭敏性だ!よく、たとえ話として、「リオデジャネイロで蝶が羽ばたくと、数週間後にテキサスで竜巻が起こる」などと言われるが、まさに蝶の羽ばたきぐらいの条件の違いで、まったく違った結果がでるのだ。

じゃあ、「初期値を完璧にしてやれば、正確な予測ができるのでしょう」と言われると、まったくそのとおりなのだが、その前に「人間の観測は必ず誤差を含み、決して正確にはできない」という事情が出てくる。

そう、人間は、完璧な観測ができないのだ。人間は、「目の前の棒が何メートルなのか」すら言うことができない。だって、棒を拡大して、どんどん正確に測っていっても、「2.030432083840293820482038420830(以下まだまだ続く)......メートル」と無限に観測が続くことになり、どんなにがんばって測ろうとも、原理的に「オッケー!完璧に測りました!」という終わりはないのだ。

その「完璧に測れない、ほんのちょっとした誤差」によって、1週間後の東京が「晴れ」になったり、「雨」になったりと……そのシステム(複雑系)の結果が変わってしまうのだ。

だから、「どんな完璧な天気予報システムを持っていても、やっぱり未来は予測できません」という結論になるのである。

「人間は、たとえ物理現象を完全に解明したとしても、 初期値を完全に観測できないので、決して未来を予測できません」

このカオス理論の結論は、「今、研究している現象について、どんどん法則性を解明していけば、 いつかは、この現象を完全に予測できるようになるはずだ」と思っていた、当時の科学者たちに大きな衝撃を与えた。
(飲茶「哲学的な何か、あと科学とか」)

僕は、人間が人間を悲劇から救い得ることが可能な、人間に根ざした自然な感情としての憐憫の情は、とてもとても大切なものだと思います。まおゆうの世界では、合理性・経済学の万能性を謳い、自然な感情はその下に置かれています。まおゆうの世界では、合理性と経済学を掲げる人間(魔族)自身が力ある神となっている。それは、とても危険な考え方だと思います。『客観的に判断できない神でない人間が、勝手に力の方法を正義だと言っていることじゃないか!』(石の花)

どんなに悲惨であっても「自分の生活を自己の力によって改善しないものは」虫けらなんです。それを外部から助けることは、その奴隷の「人間としての動機と尊厳」を傷つけるだけであって、言い換えれば「ただ助けてくれ!」などというもの「実際具体的に戦う方法を見いだせないもの」は、虫けら=奴隷なのであって、「助けてくれ」などという他者に安全保障を委ねるような行為を叫ぶ時点で、そいつはどこまで行っても救う価値すらもない虫けらなんです!ということを、(まおゆうは)はっきり示しているんです。

ウィキペディア「T4作戦」
T4作戦(てーふぃあさくせん、独: Aktion T4、英: T4 Euthanasia Program)は、ナチス・ドイツにおいて優生学思想に基づき1939年10月から1941年8月にかけて行われた安楽死政策を指す。名称は本部の所在地、ベルリンのティーアガルテン通4番地 (Tiergartenstraße 4) に基づき戦後に付けられた名称である。一次資料には E-Aktion(エーアクツィオーン), もしくは Eu-Aktion の名称が残されている。この政策により、20万人以上が犠牲になったと見積もられている(戦後のニュルンベルク裁判の検察側による見積もり)。

この政策の目的は、ドイツ国民の“遺伝的な純粋性”を守るためのものであり、また身体障害者や精神障害者を組織的に根絶するというものであった。障害のある子供たちは家族から引き離され、特別な病院に入れられた。障害を持つ成人に関しては、すでに "Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses" の結果として強制的避妊の対象となっていたにもかかわらず、この政策の対象となった。(中略)

ナチスは「役に立たない人間」を「安楽死(もしくは尊厳死)」させることと見なしていた。しかし当人や彼らの身内からの承諾はなく、優生学的な目的は、後の時代だけでなく同時代にも殺人だと見なされた。

このT4作戦は、1941年8月にヒトラーの命令で中止となった。キリスト教の弱者保護の教えに反するとして、犠牲者の親類等の不満が高まったのと同時にキリスト教の司教らが反対したのが原因と言われているが、今日でも中止理由は完全には明らかになっていない。

まおゆうみたいな物語が出ることを否定はしません。表現の自由、出版の自由は大切です。だけど、これが素晴らしい物語として大勢の人々に支持を集めているということには、僕は恐ろしさを感じます…。

まおゆうを『素晴らしい偉大な物語だ!!』と讃えている大勢の人々は、全体的な経済的合理性の為に、『どんなに悲惨であっても「自分の生活を自己の力によって改善しないものは」虫けらなんです。』『「助けてくれ」などという他者に安全保障を委ねるような行為を叫ぶ時点で、そいつはどこまで行っても救う価値すらもない虫けらなんです!ということを、(まおゆうは)はっきり示しているんです。』という、まおゆうの思想を肯定しているんでしょうか…。そこには、「T4作戦」のような「合理性を大義名分にした非人道的行為」を肯定する気持ちがないでしょうか…。

もしそういった気持ちがあるのだとしたら、まおゆうが支持されるということに、深く絶望の気持ちです…。恐怖で心が真っ暗になります…。

当地では、経済的運命と人間自身との間には区別はない。人はその資産・収入・地位、チャンス以外の何物でもない存在だ。経済的な役柄を示す仮面と、その下の素顔は、御当人を含めて、人々の意識の中では、小皺の果てまで一致している。

人は誰でも稼ぎ高によって評価され、評価の高い人は、その分稼ぎも多い。自分が何者であるかは、その人の経済生活の浮き沈みによって評価される。それ以外の自分などは本人すら知りはしない。(中略)

人々は自分に固有の自己を、その市場価値によって判定し、自分が何者であるかを、経済のなかで上手にやれるかどうかによって学んで行く。彼の運命は、たとえ、それが全く嘆かわしいものであっても、彼らにとって既に外面的なものではない。彼らはそれを内面化している。(中略)

(経済的に低い立場にある)アメリカ人は言う。「俺は全くの落伍者さ――そして、それだけの話さ」
(アドルノ、ホルクハイマー「啓蒙の弁証法」)

「収容所で殺された人々は、自分たちを殺す相手に対して何もしていない。そう言いたいのかね?憎しみや戦争の理由になるようなことはなにもなかったと?」

僕はうなずきたくなかった。彼の言うことは正しいけれど、彼の言い方はよくなかった。

「君の言うとおり、戦争や憎しみの理由なんてなかった。けれど、死刑執行人だって自分が処刑する人を憎んでいるわけでもなく、それでも刑の執行はするんだよ。命令されたからそれをすると思うかね?私が今から命令と服従の話をし、収容所の職員たちは命令されたからそれに従わなければならなかった、と言うとでも思ったかね?」

彼は軽蔑するように笑った。
「いや、命令と服従の話なんかしないよ。職員は自分の仕事をし、邪魔だとか脅かされたとか攻撃されたとかいうような理由で囚人を憎んで処刑するのでもなければ、彼らに復讐するために殺すのでもない。囚人なんて彼にはどうでもいいのさ。殺したって殺さなくたってどうでもいい存在なのさ」

彼は僕を見つめた。
「『でも』って言わないのかい?そら、言ってごらんよ。人間は他人をどうでもいいなんて思っちゃいけないって。習わなかったのかい?人間の顔をしたものとは何でも連帯せよって?人間の尊厳?生への畏敬?」

僕は憤慨したが、どうしたらいいかわからなかった。彼が言ったことを打ち消し、彼が話せなくなってしまうような強力な言葉、強力な文章はないか、と探した。
(ベルンハルト・シュリンク「朗読者」)

全てが経済的な多寡で判断される社会では、経済的な価値のないとみなされたもの、病者や無業者は徹底的に弾圧されて、滅ぼされて行くでしょう…。まおゆうが讃える、そういった経済合理支配社会は、心の痛む、恐ろしい社会だと僕は思います。経済合理性を非合理に崇めてそれだけに生きるのならば、人間は人間と言えるのでしょうか。

思いやりを、愛を、優しさを持つことができる人間の心というものを、経済予測による未来などよりも、もっと信じるべきだと、僕は思います。もっと、人間の心を信じること。それは未来を信じること。どき魔女の赤井まほのように、後先考えない思いやりの感情、そういった優しさ、思いやり、生命に対する慈しみが、世界を少しずつ、僅かずつでも、良くしていくものだと思います。

参考作品(amazon)
どき魔女ぷらす(特典無し)
どきどき魔女神判!2(Duo)(通常版)(特典無し)
どきどき魔女神判!(1) (チャンピオンREDコミックス)
どきどき魔女神判! (2) (チャンピオンREDコミックス)
どきどき魔女神判2 1 (チャンピオンREDコミックス)
どきどき魔女神判2 2 (チャンピオンREDコミックス)
哲学的な何か、あと科学とか
史上最強の哲学入門 (SUN MAGAZINE MOOK)
カオス―新しい科学をつくる (新潮文庫)
世界の半分が飢えるのはなぜ?―ジグレール教授がわが子に語る飢餓の真実
啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)
朗読者 (新潮文庫)
石の花(1)侵攻編 (講談社漫画文庫)
石の花(2)抵抗編 (講談社漫画文庫)
石の花(3)内乱編 (講談社漫画文庫)
石の花(4)激戦編 (講談社漫画文庫)
石の花(5)解放編 (講談社漫画文庫)

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まおゆうの二次創作ゲームを作りました。「とある少女の逃亡」です。マルチシナリオアドベンチャーゲームです。難易度は普通くらいかと思います。楽しんで頂けたら幸いです。

まおゆう二次創作ゲーム「とある少女の逃亡」
http://www7.tok2.com/home/kagamigame/maoyuu.exe

本作は、とある農奴の少女が「まおゆう世界」から抜け出そうとする物語です。まおゆうにおいて人々が虐げられていることへの哀しみとそれを肯定する人々への怒り、色んな想いを込めて製作しました。皆さんに楽しんで頂けたらとても嬉しいです。プレイヤーさんに彼女をトゥルーエンドまで導いて頂けたら、とても感謝です。

参考作品(amazon)
現代唯名論の構築―歴史の哲学への応用 (現代哲学への招待)
小型聖書 - 新共同訳
聖書名言辞典

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