2009年06月

2009年06月19日 18:08

メルロ=ポンティ・コレクション (ちくま学芸文庫)
うみねこのなく頃に 1 Episode1:Legend of the golden witch (ガンガンコミックス)

これまで未プレイだったうみねこのなく頃にep3ep4を、昨日、本日と二日に渡ってプレイし、先ほどクリアしました。ep1ep2に比べると、提供される『確かな情報』(赤字で表示される確定事項の情報)が格段と増え、推理しやすくなっていますね。ミステリ好きなら、適度な難易度と言えるのではないでしょうか。僕も推理してみました。以下、僕の推理です。

うみねこのなく頃にep1〜ep4共通推理
・犯人は犯行時(1986年)に六軒島を訪れた本ゲームの語り手、ep1〜ep4主人公の右代宮戦人。
・犯人である右代宮戦人にとって不利な情報は語り手視点における語りの取捨選択の形で全て隠蔽されている。クリスティ「アクロイド殺人事件」などに見られる典型的叙述トリック。
・この犯人は1982年前以前に六軒島を訪れていた右代宮明日夢の息子の右代宮戦人ではなく、1982年〜1986年の間に明日夢の息子の右代宮戦人と入れ替わった偽物の右代宮戦人。
・その正体は1967年に六軒島にて転落死したベアトリーチェの息子と推理。
・実父は金蔵、もしくは留弗夫。「縁寿は妹である」と確定しているので、もしこの「妹」が血縁としての妹である場合は留弗夫。
・犯行動機は実母ベアトリーチェを軟禁し死に追いやった右代宮一族への復讐。
・犯人と天草十三は関係があると思われる。天草十三は戦人と入れ替わる前に名乗っていた名であり、明日夢の息子と入れ替わったとき、明日夢の息子から戦人の名を貰う代わりに、明日夢の息子に与えた名?若しくは1986年に死んだと見せかけて別人に成りすましたときの名が天草?どちらかは不明だが、何らかの関係はあると見るべき。
・天草十三はフランス傭兵部隊や自衛隊に所属していた戦闘のプロ。この経歴は犯人(戦人)と被ると推理。これによって手際の良い殺人方法及び銃器や薬物の取扱いに詳しいプロの人物として、それぞれのepにおける殺人の手口及び最終的なカタストロフィ(屋敷炎上爆発?)の手口が説明可能となる。
・ベアトリーチェが魔女の仕業で事件を終わりにしようとしているのは息子であるこの犯人を庇う為。

僕がうみねこをep4までプレイした感じではこんなところかと思います。推理の過程を書くと、プレイしていて見えてくる以下の幾つかの事象、
「事件は右代宮一族を皆殺しにすることが目的のように推測」
「1967年、金蔵の手によって六軒島の隠し屋敷に幽閉されていたベアトリーチェが転落死→ベアトリーチェの関係者、血縁にとっては右代宮一族に対する復讐の動機になる」
「愛がなければ視えない→犯行動機が金ではなく愛憎であることの示唆?」
「ep3にて絵羽が最後に戦人を殺害?することで公然と唯一人生きのびた」
「ep3の絵羽を別にすれば、戦人はいつも最後まで写実的描写世界において生きのびている(幻想的描写世界は狂気の妄想なので、幻想世界で殺害される描写は、実際に起きている事象とは別物)」
あたりを主に勘案しました。

後は、深読みすれば、ep3の1998年世界において、縁寿及び須磨寺霞とその手下達を狙撃して殺害したのは縁寿の護衛役であった天草十三であることはほぼ確定と思いますが、これによって右代宮一族は滅んだわけでして、天草十三は古代宮一族になんらかの恨みがあると思います。天草十三の正体の可能性としては二つ、一つは明日夢の息子の戦人である可能性、もう一つはベアトリーチェの息子の入れ替わり戦人(1986年に六軒島事件の犯行を行った犯人の戦人)である可能性を考えましたが、前者(明日夢の息子)である場合、その動機は1980年の明日夢死亡事件が絡んでいると思います。僕は、明日夢の死因は自然死(病死)などではなく、古代宮一族が絡んでいるのではないかと推理しています。

うみねこの幻想シーンのように、本題と描写が繋がっている「偽」の様相が描かれて、本題と偽の様相が入り混じってどっちがどっちか分からないというのは、中村英夫「虚無の供物」がお勧めです。この作品は本題と繋がって描かれる、本題を撹乱する劇中劇が散りばめられた、読んでいて頭が混乱する(褒め言葉です)ミステリの名編でしてお勧めです。

後は、「うみねこのなく頃に」の作者の竜騎士07さんは後期クイーン問題を拡大解釈して使っていますが、大勢のミステリファンから批判されたように、僕も竜騎士07さんの後期クイーン問題に対する認識はあまりに拡大解釈のしすぎかつ、後期クイーン問題と関係ない問題までも混同してしまっている認識と思います。以下、竜騎士07さんの文章です。

竜騎士07
「アンチミステリーとアンチファンタジーについて」
まず、アンチミステリーを語る前に、ミステリーについて語らなければなりません。ミステリーとは何ぞや、を語るには、このような薄い冊子ではとてもページが足りません。ですので、ここでは非常にシンプルに話を進めたいと思います。

基本的に“ミステリー”と語った場合、これは“本格ミステリー”のことを指します。乱暴なまでに簡単に説明すれば、本格ミステリーとは、作中で説明された情報によって、劇中の解答を待たずに読者が正答可能なものを指します。

これこそがミステリーの本流であり、まさに“本格”と冠するに相応しいでしょう。それは読み物であると同時に、筆者と読者の知恵比べでもあるわけです。その意味において、本格ミステリーとは、あらゆる小説ジャンルの中でもっともゲーム性が高いものであることが理解できると思います。

つまり、高度な本格ミステリーとは徹底的に算数的なパズルゲームであるべきなのです。そしてそれは著名な作家の数々の名作によって、高度に昇華されていったはずでした。しかし、昇華された本格ミステリーは、やがてある問題に行き当たります。それが有名な難問、「後期クイーン問題」というものです。

「後期クイーン問題」とは非常に簡単に説明すると、探偵(読者)の知り得てる情報が“全て”であるとの証明が自身には不可能である、というものです。優れた探偵は、与えられた証拠・ヒント全てをふんだんに使い、非常に優れた推理や合理的見解を導き出すでしょう。しかし、その推理が正解であるためにはひとつの前提が必要となります。

それは、探偵が吟味した証拠・ヒントが“全て揃って”いなければならないということです。多くの場合、探偵は現場を徹底的に吟味し、あらゆる証拠・ヒントを見つけ出して列挙します。しかしです。“探偵が未だ見つけていない決定的な証拠X”の存在を否定することはできません。

つまり、名探偵がどのような優れた推理を見せたとしても、それは“その時点での証拠・ヒントからの構築”に過ぎません。つまり、もしも未発見の決定的な証拠Xが加味されたなら、探偵が導き出した推理が根底から引っ繰り返る可能性が常に否定できないのです。

つまり探偵は、数々の証拠から推理を捻出することに加え、“未発見の証拠が存在しない”ことを立証する義務が生じたのです。そして言うまでもなく、これを証明することはまさに“悪魔の証明”。 ……つまり、探偵には自らの推理が正しいことを証明できないことが発覚してしまったわけです。

徹底的な合理的なパズルであるべき本格ミステリーはこの時、にもかかわらず、解答を合理的に示すことができないというジレンマに陥ったのです。

作中でいくら“マスターキーは1本”と説明したところで、マスターキーの複製がある可能性は否定できません。仮にそれが不可能であることを説明したとしても、“その人物の与り知れないところで複製が作られていた可能性”は常に否定できません。複製不能な形状であると説明したところで、“それでもなお複製する未知の技術”の存在を否定することには至りません。第一発見者がウソをついているかもしれないし、警察の鑑識結果が誤っているかもしれない。あるいは犯人に買収されていて、あるいは探偵を誤推理に誘導するために何かを偽装しているのかも…。それら、全ての“想定外の可能性”を完全否定し切らなければ、問題の提示にすら至れなくなってしまったのです。しかし、言うまでもなくそれは不可能です。

究極的にまで言ってしまえば、仮に探偵(読者)が、非常に合理的な推理に辿り着き、それを犯人が認めて降参するシーンがあったとしても。……未発見の致命的証拠Xが残っており、さらに、真犯人を庇う為に共犯者がウソの告白をして罪を被っている可能性を否定できないのです。

実際、『ひぐらしのなく頃に』の「綿流し編」でも、このジレンマをモチーフにしている箇所があります。実際、「目明し編」を発表するまで、「綿流し編」の犯人をほぼ全ての読者が誤解していたはずです。なぜなら「綿流し編」単体では、レナの推理を犯人が認めたと描かれているのですから、その推理は“完結”しています。つまり、○○が犯人で“その時点の推理は正しい”のです。

にもかかわらず「目明し編」では、「綿流し編」の時点では知り得ない数々の新情報が明かされ、その結果、別の人物が本当の犯人であったことが明かされます。「目明し編」までを終えた読者には納得の行く答えでしょうが、「綿流し編」の時点ではそれは推理不可能です。しかしだからといって「綿流し編」の時点での推理構築は“誤りではない”。誤った犯人に至ったとしても、その推理は“その時点”では正しいのです。その時点で存在する材料を全て構築して至った“本格的な”答えなのだから。でも、紛れもなく。「綿流し編」の段階での犯人特定は間違えているのです。

これこそが「後期クイーン問題」です。そして読者は「目明し編」を読み終え、一定の解答を得て、ある程度の納得はできたはずなのです。しかしそれでもなお。「目明し編」を終えてなお、それが正しい真相であるという保障はないのです。「後期クイーン問題」がある限り。

極端な暴論の一例ですが、後年に竜騎士07が『ひぐらしのなく頃に真』なる真相解明編を執筆し、「綿流し編」「目明し編」の真相は偽装で、実は犯人は意外な人物○○だった! と“未知の新情報を後付けで追加”して発表したならば、それは正しい真相として“上書きされ” 、「目明し編」の真相すら、捻じ曲がり得るのだ、ということになります。(恐ろしいことに、このアンフェアすらも、「綿流し編」「目明し編」「真相解明編」の3つを1つの作品だと見なした場合、フェアであることになります。どのような後付け情報であったとしても、それが後付けであるか否かは証明不能です。そして「後期クイーン問題」がある限り、新情報がいくら後付けされたとしても許されるのです。未発見情報の存在は否定不能なのですから)

言い訳っぽく書きますが、もちろん「綿流し編」と「目明し編」は表裏一体のシナリオです。後付け設定は一切ありません。……もっとも私がそれをここで語ったところでその真偽は証明不能なわけですが。

つまり何が言いたいのかというと、どんな解答も、筆者(神)による真相(神託)でさえも! それは絶対ではないということ。筆者という作品中の最高神でさえ、未来の自分という、より上層のメタ存在によって、いくらでも真相は改竄され得るのです。つまり、非常に乱暴な極論ですが、「後期クイーン問題」を語る限り、ミステリーはパズルたり得ないというジレンマに陥るのです。

ミステリーがミステリーとして高潔であろうとした結果、自らの存在を否定するに至ったことの何と皮肉か…。これは私は皮肉な意味を込めて“アンチミステリー”と呼んでいます。

“悪魔の証明”がある限り、私たちも探偵も、常に未発見の証拠Xを否定できません。“悪魔の証明”を破らない限り、私たちは推理に挑む資格すら、得られないのです。目の前で人が死に、密室が構築され、不審な証拠品が転がっているにもかかわらず、私たちは推理を始めることができないのです。

犯行現場の調査よりも、証拠の吟味よりも、第一発見者の証言よりも! 私たちはまず最初に“それ”を確認しなければならない。“それ”はつまり、……“今この場にある全ての証拠で推理が可能なのか否か”!歴史的名探偵が犯行現場で天を見上げ、全能の神(筆者)に、まず問い掛けるのです。

「この世界(作品)は、本格ミステリー(推理可能)ですか?!」

すると神様はこう答えます。

「ええ、この作品は本格ミステリーですよ。だから絶対に貴方にも解けると、安心して推理をしてください。」

そして探偵は、あぁ良かった、なら安心して推理に挑戦できると胸を撫で下ろし、ようやく犯行現場の調査を始めるのです。現実の殺人事件でも、きっとそういう光景なんでしょうね。警察が現場周辺を封鎖しマスコミを遠ざけた後、刑事たちが拍手を打って天を仰ぐのです。

「あぁ、神様! この事件は解決可能でしょうか?! それを教えてもらわなければ、私たちは捜査も推理もできません…!だって変格ミステリーや社会派ミステリーだったなら、増してや今流行りの伝奇ファンタジーだったなら推理しても無駄なわけですし!」

しかし、現実問題として。 神様がそれに答えることはありません。すると、神託があるまで拍手は続くのでしょうか? 神託がなければ捜査は打ち切りに?

この状況を思い浮かべ、あぁ何と間抜けなのか馬鹿馬鹿しいッ!! と滑稽に思った時、私は初めて、“アンチミステリー”という概念があり得ることを知りました。全ての謎に算数的解答を合理的に求めようとするニンゲンたち。それは一見とても知的に見えますが、実はそれは大きな誤り。“その謎が、合理的な解答が得られるものであるという前提がない限り”、ニンゲンたちは謎に挑むことすらかなわないのです。

そしてそんな前提が与えられることは絶対にない。つまり、ニンゲンは知的を威張り散らし、ミステリーを推理できる豪語しながら、実際は神様からのお墨付きがなければ、「灰色の脳細胞」の一欠けらも使うことは出来ない無知無能無教養の脳ナシ思考ナシ考えナシ。ゾウリムシと同じ程度の知性しかないわけです。

『うみねこのなく頃に』の中でベアトリーチェが嘲笑っているのは、まさにそのこと。全てに算数的解答を求めようと意気込みながら、そのくせ、それが可能であることを保障されなければ挑戦もできない。ボクシングなどに例えたなら、勝てると保証された相手以外とは戦いたくないと言っているボクサーのようなものです。魔女ベアトリーチェには、魔女を否定すると意気込み、合理的に真実を暴こうと意気込むニンゲンたちが、こんな風に滑稽に見えるのです。

あなたは、『うみねこのなく頃に』のEP1を終えたとき、本当に推理に挑戦できましたか?本格か否かの宣言がないからと、挑戦を渋ったのではありませんか?全ての証拠が提示されているという証明がないからと、挑戦を渋ったのではありません
か?………くっくっくっく!! ばァか。そんな証明、貴様らの人生のいつどこにあったというのか?貴様らは高校受験の時、神様に、ここを受験して受かりますか?と聞いて、受かると神託が受けられなければ受験も出来ないのかァ? くっひっひゃっははははははは…!ママが、ボクちゃんならきっと受かるわよ!と言ってくれなきゃ、受験も出来なかったって言うのかよォぉおお?? くっひっひひひひひひひひ!

ニンゲンの語るミステリーが何と下らないものなのかと理解できたそなた。そして妾の笑いたい気持ちが理解できたそなたはようこそ“アンチミステリー”の世界へ。「この世には科学では説明できないことが多々ある」ってよく言うだろォ? そういうことなんだよ。この世の全ては完全証明不能! 常に我々の想定しない未知のXが想定しうる。そしてそれは誰にも否定できない!推理ぃ? ミステリー? 本格ゥ? あっひゃははははははははははは!! ばァかばかしいぃいいぃ!! ボクちゃんはミステリー文庫で新刊を買ったら、まず先にママに読んでもらうといいさ。そして「この本はボクにも解ける?」と聞いて、ママが頷いてくれたのだけ読めばいいさ! ママに咀嚼(そしゃく)してもらった離乳食だけくってりゃあいいんだよゥ、うっひぇっひゃっひゃっひゃっひゃぁぁぁ!!

──だからお嬢様、そういうのが品がないと申しています。

ベアトリーチェさまが使われる「赤き真実」は、それに対するひとつのアンチテーゼと申せましょう。「赤き真実」で語ったことは、まさに神の言葉。何の証拠も証明もなく、それは真実になる。赤き真実で、“扉はマスターキー以外では開錠できない”と言ったならば、それ以外の想定は一切必要なくなります。ピッキングも釣り糸で内側から引っ張るも想定不要です。さらに重ねて赤にて“マスターキーの個数は5本でそれ以外では開錠不能。複製は不可能。”と続ければ、なお完璧となりましょう。

ただ、敢えて最後に一粒、山椒を残していきましょう。真実であると自称する「赤き真実」が、本当の本当に“真実”であるのかは、たとえお嬢様であっても証明不可能です。皆様の中にも、お嬢様の「赤き真実」が、本当に信用できるのかと、未だに疑っておられる方々もおられるでしょう。

そう。この世に、真実であることが証明できる真実など、存在したりはしないのです。だから、もしもその真実を信じることができるかどうかを問うならば、こういう問い掛けになるでしょう。

“貴方は、彼女のことを信じることができますか?”(中略)

この世には真実など何もありません。この世の一なる元素であると謳われる「愛」すらも、所詮は幻想。ファンタジー。全てをミステリーで説明し、ファンタジーを否定しようとする人間には、愛する資格も、愛される資格もないということかもしれませんね。

あなた様は“アンチファンタジー”ですか? “アンチミステリー”ですか?

あらゆるミステリファンに全方位から批判された竜騎士07さんの上記文章ですが、僕もこれは誤謬の多い極論過ぎる文章かなと思いますね…。ミステリにおける後期クイーン問題と、世界観の全てを相対化できるとするポストモダン問題は全くの別物なのですが、この文章は全く別問題である二つを混同してしまっていると思います。

法月綸太郎さんが問題提議した後期クイーン問題(初期クイーン論。「エラリー・クイーン パーフェクトガイド」収録)とは、作者の制御を離れた存在である読者に対しては作者はフェアネス(読者への問題として、ミステリーのルールに沿った全情報の開示を作者が宣言する。クイーン「読者への挑戦状」)を持って振舞えるが、作者のコントロール下にある作中人物である探偵に対してはフェアネスを持って振舞えない(作中人物である探偵の存在が、ミステリの要素として組み込まれている、探偵自身が物語における影響要素となっている)という問題の指摘ですね。

ゆえに、後期クイーン論は竜騎士07さんが主張している『全ては相対化できるポストモダンだから真実なんてどこにもないんだ、ミステリは構造的にフェアでない以上、フェアを心がける必要はないんだ』というご意見とは全く位相の違う問題と思いますが…。

例えば、うみねこep3ep4における1998年の縁寿の状態は心理面においてかなり重篤な状態なのではないかと…。縁寿を暗殺しようとする須磨寺霞とその手下達に囲まれて、銃火器で狙われている状態で「召喚魔法を唱えて脳内キャラに倒してもらう」と妄想状態に入り、外部からの狙撃と思われる攻撃で暗殺者達が倒れてゆくのを「召喚した脳内キャラが悪者達を倒してくれた」と理解しているというのは、妄想と現実の判別がつかなくなっている状態で精神病理学的にかなり重篤な事態です…。

もしこれが、『人には好みの幻想を見る権利がある。縁寿が妄想と現実の区別がつかなくなっていても、それは縁寿にとって真なのだ』という解釈だというなら、その「真」はミステリ的な「真」とは違うとしか申せません…。ミステリにおける「真」は、社会共同体の共通認識として認められる事象の説明として通用する「真」であって、個人の特殊な妄想に依存する「真」ではありませんから…。やはりある程度、日常レベルの基盤(間主観性)というものを考えにいれないと、ミステリとして宙に浮いてしまうと思います。ミステリ作者は神ではないのですから、読者を無視してアンフェアなミステリばかり連発していれば、読者に呆れられて終わるだけです。

日常レベルの我々の共通認識に準拠した世界観のミステリ(謎の殺人事件の正体は召喚魔法で美少女キャラが召喚されて魔法攻撃で人を殺傷していたなどのメチャクチャな落ちの付け方は前提として起こらない一般的なミステリ)はいわば、竜騎士07さんが言うところの「アンチファンタジー」としてのミステリであって、こういったミステリにおけるフェアの問題として後期クイーン問題などの問題が提議されています。

後期クイーン問題は決して、『この世界に真実はないし、虚構にも真実はない。だから、共通認識を無視して好き勝手やっても、それが作者の特権だからいいんだ!!それに逆らうやつは愛のないつまんない連中』などということではないことを、竜騎士07さんが分かってくれるといいなあと思います。僕は唯物論者にして存在論者なので、唯物的なミステリは好きですし、逆に竜騎士07さんの用語としての「(観念的な)愛」などはインチキくさいと感じますね…。

僕は、唯物的な愛(例えば、貧しい人に施したりして助けるのは唯物的な愛の一例です)は尊ぶべきものと思います。そして実体としての存在様式を持たない観念的な愛(心の中で、貧しい人々を憐れむけれど、実際の行動は何も起こさないのは観念的な愛の一例です。竜騎士07さんのいう愛はこちらかと思います)は、それは実際的には愛が無いとの同じだと思います。世界感の前提として常にあるのは唯物的なもの、物質としての実体的なもの、存在であると思います。僕の好きな哲学者に、メルロ・ポンティという人がいるのですが、彼は愛がないところで愛を騙ることを批判し、こういっていますね。以下、ちくま文庫「メルロ・ポンティ・コレクション」より。

歴史が存在するということは、各人が自らの行為において、たんに自分の名において行動するのではなく、自分だけを処理するのではなく、他人を巻き添えにし、他人を処理しているということである。だからわたしたちは生まれたときから、善性というアリバイを失っているのである。わたしたちは、他人に対して行う行為(自己の外の世界を侵犯する行為)によって(全ての行動が)規定されているのであり、「美しい魂」(何も侵犯しない神聖)として尊敬される権利を(生まれつき)喪失しているのである。

他者を尊敬しない人物を尊敬する(悪党の不正を見過ごす)ということは、結局は他者を軽蔑する(悪党に消極的に加担している)ということである。暴力に対する暴力を控えるということは暴力の共犯となるということである。わたしたちは、純粋さと暴力のどちらかを選ぶべきなのではなく、異なった種類の暴力のどれかを選ぶべきなのである。

受肉した存在であるわたしたちにとって、暴力は宿命である。誘惑なしの説得というものはない。すなわち結局は、軽蔑なしの説得というものはないということだ。暴力は、すべての体制に共通した出発点である。生も、議論も、政治的な選択も、この土台の上で行われるのである。重要なこと、そして議論する価値あることは、暴力そのものではなく、暴力の意味とその未来である。

人間の行動の法則とは、未来に向かって現在をまたぎ越え、他人に向かって自己をまたぎ越えることである。この闖入は、政治的な生の事実であるだけでなく、私的な生においても起こる。恋愛においても、愛情においても、友情においても、わたしたちはすべての瞬間において絶対的な個人性を尊重できる「意識」に直面しているのではなく、規定された存在――「わが息子」「わが妻」「わが友」――に直面しているのである。そしてわたしたちは彼らを共同の企図に巻き込む。ここで彼らは(わたしたちとともに)一定の権利と義務のある規定された役割を引き受ける。

同じように、集団的な歴史に置いても、<魂をもつ原子たち>は、背後に固有の歴史を引きずっているのであり、互いに自らの行動の糸によって結ばれているのである。それだけではない、彼らは意図して行動するかどうかを問わず、自分が他者と世界に対して行う行動の全体と自分を同一視する。主体の複数性が存在するのではなく、間主観性が存在する。他者に対して加える悪と、他のすべての人々のため引き出す善についての共通の尺度というものが存在するのはそのためである。すべての暴力を断罪するということは、正義と不正の存在する領域の外に出るということであり、世界と人間性を呪うことである。これは偽善的な呪いである。
(ちくま文庫「メルロ・ポンティ・コレクション」)

うみねこの1998年の縁寿の末路における狂気の描写(外部から縁寿の敵対者達へ狙撃が行われているように見受けられるにも関わらず、それを自分の召喚魔法によるものだと心底信じている描写)や「この世には真実など何もありません。この世の一なる元素であると謳われる「愛」すらも、所詮は幻想。」などの竜騎士07さんの文章が端的に示す通り、竜騎士07さんの小説(ノベルゲーム)における最大の弱点は、物語の登場人物達の主観性が肥大しすぎていて、「社会共同体の相互理解の基底としての共通認識」(間主観性)がすっぽり抜け落ちているという部分だと思います。

例えば、うみねこの真里亞の魔法(妄想することで苦しみから逃避する)とか、僕は非常に良くないものを感じますが(メルロ・ポンティが批判した、不正に対して何もしないという行為による不正への消極的コミットメント、人間離れした聖性への逃避を感じます)、真里亞はまだ小さい子なので仕方ないとして、既に18歳の縁寿がそれを肯定しているのが不気味でした…。不正に対して抵抗せず、妄想で現実の不正を無かったことにしまうというのは良くない聖性だと思います。

『暴力に対する暴力を控えるということは暴力の共犯となるということである。わたしたちは、純粋さと暴力のどちらかを選ぶべきなのではなく、異なった種類の暴力のどれかを選ぶべきなのである。』

本作「うみねこ」における『魔法』とは外部をシャットアウトする肥大化した主観のことと思います。それが「愛」であると作中にて言われても、読者としてはなんともはや…。少なくとも僕にはとても「愛」とは思えないです…。うみねこの「魔法の愛(真里亞の「うーうー」など)」は「愛」ではなく、「独りよがりな妄想的思い込み」とでも呼ぶべきものと考えます。冷静に考えれば、真里亞がローザの意志を無視して「うーうー」をローザと仲良くなるおまじないにして延々と唸っていてもしょうがないわけですよ。まだ小さく、現実と幻想の区別のつかない真里亞の場合は、責任の所在は真里亞ではなく、真里亞を虐待している母親のローザにあるんですが…。ただ、個人の主観性(魔法)が物語内でクローズアップされることでそういった、客観的な見方が物語から消えてしまっている。個人の主観性のみをクローズアップするのではなく、共同認識、間主観性の問題認識を、作家としてきっちり持つと、後期クイーン問題の問題提議の意味も分かってくると思いますし、竜騎士07さんの小説(ノベルゲーム)の出来も今より良くなってくるんじゃないかなと思いますね…。

『主体の複数性が存在するのではなく、間主観性が存在する。他者に対して加える悪と、他のすべての人々のため引き出す善についての共通の尺度というものが存在するのはそのためである。』

参考作品(amazon)
うみねこのなく頃に 1 Episode1:Legend of the golden witch (ガンガンコミックス)
うみねこのなく頃に 1 Episode1:Legend of the golden witch (ガンガンコミックス)
うみねこのなく頃に Episode1:Legend of the golden witch 2 (ガンガンコミックス)
うみねこのなく頃に Episode1:Legend of the golden witch 3 (ガンガンコミックス)
うみねこのなく頃に Episode2:Turn of the golden witch 1 (Gファンタジーコミックス)
片翼の鳥 TVアニメーション「うみねこのなく頃に」OPテーマ
ナビゲーションドラマCD「うみねこのなく頃に」 Vol.1:黄金のカケラたち
ナビゲーションドラマCD「うみねこのなく頃に」 Vol.2:黄金蝶の見る夢は
中井英夫全集〈1〉虚無への供物 (創元ライブラリ)
アクロイド殺し (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)
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2009年06月17日 04:04

Toy Box

VOCALOID殿堂入り曲の常連、ミクオリジナル曲の名手ジミーサムPのソロ・アルバム「Toy Box」が出ますね。楽しみです。ジミーサムPは極めて伸びるソプラノの歌声、ボーイ・ソプラノ的にミク達ボーカロイドを見事に歌わせる技術がとても優れた創り手さんです。僕はボーイ・ソプラノ好きでして、とても好きな創り手さんです。

ウィキペディア「ボーイソプラノ」
ボーイソプラノまたはボーイ・ソプラノ(米語:boy soprano、イギリス英語ではトレブルtreble)は、変声期前にソプラノの音域に恵まれた青少年男子の歌手について用いる語である。(中略)

変声期以前の短い期間の少年の高音は、その独特な音色ゆえに、欧米に限らず世界各地で、宗教音楽や世俗音楽に利用されている。

史料を拾い直してみると、古い時代においては平均的に、今より声変わりの時期が遅かった。例えばヨハン・セバスチャン・バッハは、16歳半ばまで傑出したボーイソプラノと看做されていた。(中略)

すぐれたボーイソプラノ歌手が物珍しいのは、そのような人材をつくり出すには、多くの要因を呼び起こすことが必要だからであり、その中でもまず一番に求められなければならないのは、優れた歌唱法の理解に触れることである。ボーイソプラノ歌手は、フレーズを一様に保ってまとめ上げる方法を理解しなければならないが、この技術は覚えるのに時間がかかる。その特訓は非常に早い年齢で、しばしば7歳か8歳で始めることが必要である。

博学の合唱指揮者や優れたレパートリー、熱心な親に恵まれ、優秀な合唱団や才能のある歌手に接したことのある少年でさえ、さらに別の課題に取り組まなければならない。身震いするようなプレッシャーに直面したとき、それを乗り越えられるようでなければならないのである。歌手や合唱は、事前の手配どおりに、ちょうどいい時に演奏できるようでなければならないが、もちろん幼い少年ほど大人の音楽家に依存しやすい。たとえ具合を悪したり、会場で引きつった声を出したり、練習のし過ぎで声を壊したのではないとしても、子供は合唱団や指揮者、友人や家族から受けるプレッシャーに影響されやすいものだ。

主にこういう理由から、ボーイソプラノ単独の録音は、たいへん数少ないのである。

ウィキペディア「ソプラノ」
ソプラノ(伊 soprano)は、西洋音楽における歌手の声域区分で、女声の高い音域を指す。ソプラノ歌手は概ねC4〜E6の声域を持つ。合唱や4声体和声ではC4〜A5くらいの音域である。四声体和声、混声四部合唱では、ソプラノが最高部を受け持ち、通常は旋律を演奏する。

ボーイソプラノ歌手を育てるには、生まれつきの歌声の美しさだけではなく、幼少期より歌唱法をメインとした音楽の英才教育を行う必要があり、現代においてはかなり難しいのですね…。ボーイ・ソプラノの優れた歌手としては近年ではデクラン・ガルブレイスが挙げられます。下記サイトにて無料で視聴できる、彼が9歳時に歌った「Tell Me Why」はぜひ聴いてみて欲しいです。珠玉の歌声としか言いようがありません…素晴らしいです…。

Declan Galbraith's songデクラン・ガルブレイスの歌
http://www.geocities.jp/siroinikki2005/

ボーイソプラノのような才能と環境に恵まれた幼少期の男の子のみ出せるような貴重な歌声は世界的に見て極めて稀なものです。ボーカロイド技術が発展すれば、ボーイソプラノに限らず、ありとあらゆる優れた歌手・歌姫の類稀なる歌声を技術的に創り出すことが可能になっていくでしょうし、その歌声は技術の発展とともに洗練されてゆくでしょう。ボーイソプラノ好き、世界的な歌姫達、サラ・ブライトマン好きやエンヤ好きとして今後のボーカロイド文化・技術の発展が心からとても楽しみです。ヤマハとクリプトンには今後も新しい技術開発・技術改良頑張って欲しいですね。

最後に予算ですが、世界中で大ヒットを飛ばしたボーイソプラノ隊、イギリス大聖堂少年聖歌隊エアー・クワイアのアルバム「ボーイズ・オン・バッハ」は、音楽の父バッハが、幼少期は優れたボーイ・ソプラノ歌手として活躍し、大人になってからもボーイ・ソプラノ向けの優れた聖歌を作曲し続けた、そのことに対するオマージュ・アルバムと言われていますね…。

参考作品(amazon)
Toy Box
Boys On BACH
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2009年06月16日 08:03

矢川澄子作品集成

毎月、定期的にギフト券を贈ってくださるお方から、先日もギフト券を贈って頂き、生活とても助かりました。心から感謝致します。体調を崩しており、熱がでていて外出する気力もないところでしたので、非常に助かり、とても助けられました。食料品を買わせて頂いております。心から感謝致します。

生活苦にて、僕のたいへん好きな作家である矢川澄子(澁澤龍彦の奥さんとしても有名)の小説、短編小説「臨終の少女」(「矢川澄子作品集成」収録)を思い出しました。美醜が齎す生涯の生活的影響について書いておられる小説でして、引用致します。

いちばんおそろしい言葉を教えてあげましょうか。だあれも教えてくれない、どこにも書いてない、ほんとのこと。それはね、(生きのびるには)美しくなければ駄目、ということなの。美しく生まれた人だけが救われるのよ。エルちゃんをごらんなさい。エルちゃんは生まれつききれいだったの。そして可愛い、可愛いって言われながら育ったの。だから素直なの。きれいなことしか考えられないお。だからまた、みんなに好かれ、可愛がられて、ますます美しくなれるの。あたしはどう?美しくなく生まれてしまったのよ。だれにも可愛いとは言われなかったし、たまに言われてもお義理で言われたことはすぐわかってしまうものだから、言ってくれる人もくれない人もみんな嫌いになったの。だからますます憎らしい子になりますます可愛くなくなった(世渡りが下手になった)のよ。
(矢川澄子「「臨終の少女」「矢川澄子作品集成」より)

この小説のなかで、矢川澄子は、美しくないことは生来的に絶対的不利益であるということを強烈に書いていますが、今の僕から見ると、あえて甘く書いているのだろうなあと思います。こういった不利益よりも、もっと根源的な不利益は『生活費がない』ということに尽きると思います。なぜなら、美醜は生死に直接的に繋がるわけではありませんが(小説で描かれるように、間接的に生存に不利益に働くという形においては繋がっていると思います)、お金のあるなしは、生死に最もダイレクトに、直接的に繋がっているからです。

僕は失業しており、ギフト券、アフィリエイトのみ唯一の収入なので、ギフト券、アフィリエイトで助けてくださるお方々のおかげで生きのびており、心から深くお礼申し上げます。本当にありがとうございます。

僕は体調を崩しておりますが、猫は元気で良かったです。先に挙げた作家の矢川澄子さんは、『美しい存在は、全ての人々に対して心の慰めになる』ということを書いておりますが、これはまさにその通りだなあと思います。猫は、可愛くていいですね…。

矢川澄子は、真紅の薔薇のように華と棘のある少女幻想の優れた短編小説を沢山書いた作家さんでして、オタク文化を愛好するお方々ならその小説の数々をきっと楽しめるかなと思います。ご一読お勧め致します。

参考作品(amazon)
矢川澄子作品集成
兎とよばれた女 (ちくま文庫)
おにいちゃん―回想の澁澤龍彦
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2009年06月14日 09:48

映画プリキュアオールスターズDX みんなともだちっ☆奇跡の全員大集合!【初回限定版】 [DVD]
フレッシュプリキュア!【1】 [DVD]

子供向け番組のはずなのに、今までに無い謎のシリアス路線(大きなお友達向け)で突っ走る超長寿アニメシリーズの最新作「フレッシュ・プリキュア!」を朝ごはん食べながら見ていたら、戦闘に勝利して変身解除後、疲労でプリキュア三人が道端でぶっ倒れて、通行人が救急車を呼んで、戦闘後のプリキュア達が救急車で病院へ運ばれるという今までに無い展開で吹きました。なんというスペクトルマン。

ウィキペディア「スペクトルマン」
『スペクトルマン』は、1971年(昭和46年)1月2日から1972年(昭和47年)3月25日にかけてフジテレビで土曜日19:00-19:30に全63話が放送された、ピー・プロダクションが企画、制作した特撮ヒーロー番組の題名。およびその番組に登場するヒーローの名称。(中略)

作劇が1エピソード2話完結が基本のせいか、(スペクトルマンは)怪獣に苦戦して引き分けるか、あるいは敗北することも少なくなく、1エピソードの2話中に数回に渡って1体の怪獣と対戦しやっと倒せることが多い。また後述するように必殺技が彼の体力を著しく消耗させ、怪獣を倒しても倒せなくても俯せにバッタリと倒れ果ててしまう。よって、弱いヒーローの印象を持つ者も少なくない。

変身ヒーローが戦闘後の疲労でぶっ倒れるのはスペクトルマンにおいて既出ですが、魔法少女が戦闘後の疲労で道端でぶっ倒れて救急車で運ばれるというのは新しい機軸ですね。しかも敵役の東せつなさん(悪の女幹部)に「二兎を追う者は一兎も得ず。ダンス活動とプリキュア活動、どっちかに専念して体調管理を確りしろ」とわざわざ忠告されるという、驚くべき展開で面白かったです。

「今までのプリキュアの中で一番大きなお友達向け」と言われるだけあってやっぱり全体的に作りが年齢層高めの層を意識している感じですね。戦闘シーンなんかも基本パロディ路線サービス満載で、話の展開も今までのプリキュアシリーズのなかで一番マニアックですし、深夜にやっていても全然おかしくない感じです。

どうでもいい余談ですが、他シリーズのプリキュア達は戦闘終了後に変身を解くと、戦闘で消費したHP(ヒットポイント)が自動回復している感じですが、本作のプリキュア達は戦闘で消費したHPが変身を解いても自動回復しないことがはっきりしたので、オールスターズ系(全シリーズのプリキュアが共演)だと最弱のプリキュアの予感が…。閑話休題。

僕の評価としては、今までのプリキュアのなかで本作が一番面白くて好きですね。プリキュアがシリーズを重ねるに連れて増していった説教臭い要素と根性論的展開がリセットされて一切なくなったのが良いです。無印リリカルなのはと同じく、戦闘系魔法少女の戦闘の駆け引きと動きで魅せるバトルエンタメに徹しているところが好感です。これまでのプリキュアの色んなお約束が全部リセットされていて、これまでのプリキュアが昭和仮面ライダーだとすると本作は平成仮面ライダーという感じですね。後、絵柄が漫画家のゆきやなぎさんぽいところが良いですね。

参考作品(amazon)
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2009年06月13日 10:52

To LOVEる-とらぶる 1 (ジャンプコミックス)
To LOVEる 第1巻 [DVD]

『ニコニコ動画』未成年投稿者が『週刊少年ジャンプ』漫画家の妻との不倫を謝罪
http://news.livedoor.com/article/detail/4194332/

ジャンプ末尾コメント


『実家から家族が来て、心機一転引っ越し作業中!一番大事な宝物も一緒です。』

矢吹健太郎さんの『一番大事な宝物』は示談で親権を得た娘さんのことなんだろうなあ…と思うと泣けます。法律的に考えて、離婚のときには浮気(法律用語で不貞行為と言います)をした方が一方的に問題があると判断されますので、普通に民事で法廷で争えば浮気をされた方(矢吹健太郎さん側)が100%勝てますが、裁判で子供のいる親族間関係をごたごたしたくないから、あえて、争わなかったケースだと思います。

ウィキペディア「不貞行為」
不貞行為とは、法律用語であり、貞操義務の不履行を意味し、民法770条に離婚事由として規定されている。

民法第770条
夫婦の一方は、次に掲げる場合に限り、離婚の訴えを提起することができる。
一 配偶者に不貞な行為があったとき。

まあ、こういう規定は一応あるんですが、裁判というのは本気でやると物凄い労力と時間が掛かるので、100:0で相手側に全責任があったとしても、相手側がごねると民事の争いに大変な労力が掛かります。なので、個々人は裁判をなかなかやりづらいという側面を持っています。法律を学んだものとして、法の限界を感じますね…。

To LOVEる -とらぶる-ファンとして実にお気の毒に思います。この悲劇を創造的に昇華することができたらいいですね…。

参考作品(amazon)
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アニメ『けいおん』最終回にファンが涙目!『2ちゃんねる』に「生きがいを奪うな」
http://news.livedoor.com/article/detail/4198471/
『けいおん』が6月18日(木曜日深夜)の放送(第12話)をもって最終回となり、『2ちゃんねる』では『次回、アニメけいおん!最終回?ふざけんなボケ』というスレッド(掲示板)がいくつも作られ、突然の最終回に怒りの声や、奇声をあげるだけの意味不明な声や、残念だと悲しむ声が上がっている。(中略)
・最終回の二文字はドーンときた。マジやめろ

えっと…。「最終回」は三文字なのでは…。

まあ、なにはともあれ、下記ヤフーニュースによると第十三話もやるそうで良かったですね。悪名高き「あのね商法」かという推測もあったようですが、きちんと第13話もTV放映するので、あのね商法ではないですよ〜。

同人用語の基礎知識「あのね商法/ あのね方式」
「あのね商法」 とは、テレビ放送されたシリーズのアニメ番組などの最終話や、最終話近辺の数話のみを意図的に放送せず、DVD販売などでのみ公開する方式のソフト供給、商売のことです。 「あのね方式」 とか、「あのね販売方式」 などとも呼ばれます。 つまり 「この続きは、DVDを買って見てね!」 という訳です。

人気アニメ「けいおん!」 13話「番外編」があった
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090612-00000002-jct-ent
番組スタッフは、「12話が最終回、13話が番外編となります!」と答えている。ストーリーとしては実質12話が最終回というのが真相だった。

おまけ:けいおんスレに張られていて激しく吹いた画像

下記画像は激しく吹くとともにけいおん好きの夢と希望を粉々に破壊する可能性に満ちているので、それを覚悟の上でご鑑賞をお勧め致します。

http://a-draw.com/up2/download/1243236478.jpg

参考作品(amazon)
けいおん! 1 [DVD]
けいおん! 2 [DVD]
けいおん! 3 [DVD]
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けいおん! 6 [DVD]
けいおん! 7 [DVD]
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けいおん! 2 (初回限定生産) [Blu-ray]
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けいおん! 6 (初回限定生産) [Blu-ray]
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けいおん! (1) (まんがタイムKRコミックス)
けいおん! (2) (まんがタイムKRコミックス)
TVアニメ「けいおん!」劇中歌::ふわふわ時間
Cagayake!GIRLS(初回限定盤)
Don’t say“lazy”(初回限定盤)
TVアニメ「けいおん!」キャラクターシングル 第1弾 平沢唯
TVアニメ「けいおん!」 キャラクターシングル 第2弾 秋山澪
TVアニメ「けいおん!」 キャラクターシングル 第3弾 田井中律
TVアニメ「けいおん!」 キャラクターシングル 第4弾 琴吹紬
TVアニメ「けいおん!」オリジナルサウンドトラック
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2009年06月12日 21:18

Gershwin Plays Gershwin: The Piano Rolls

先日に引き続きニコニコ動画の話をしますと、ニコ動をみていて思うのは、僕はもっぱら音楽系ばかり視聴しているので、その他のジャンル(MAD等画像編集系)はあまり詳しくないのですが、音楽系でいえることは、音楽技術が非常に発展していて面白いということですね。特にボーカロイドを開発したクリプトン、ヤマハの技術は凄いなあと感じます。前々回紹介した僕の好きなアルカンの曲もちゃんとUPされていて嬉しいです。

アルカン「鉄道」(ニコニコ動画、プレイヤーピアノ演奏。3分後半から人間技を越えます)
ロマン派の異端児、シャルル=ヴァランタン・アルカンの作中でも一、二を争う変態的超絶技巧曲を。 左手は常に疾走する機関車のリズムを刻み、右手はそれに輪をかけて高速で鍵盤上を動き回る等、おおよその人間の範疇を逸脱しているのでピアノロールの演奏にて。 
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2152364

上記鉄道は技巧派の天才ピアニストアムランとかも挑戦していますが、はっきりいって人間の可能な演奏限界(指使い)を超えている為、プレイヤー・ピアノに演奏させるのが一番スコアに忠実という感じはしますね。アルカンやリストは今現代から見ると人間の常識を遥かに超えている自作の曲の数々を弾けたらしいですが、彼らは人間を超越した天才、彼らの録音が残っていないのが無念です。現代演奏家で言えばアムランは超絶技巧の天才なので(間違いなくピアノ技量は20世紀のナンバーワン)、我々がアムランの録音を聴くことができるのは幸いですね…。

アムランリスト ハンガリー狂詩曲第2番より”カデンツァ”
アルカン、ヘンゼルト、ブゾーニ、ゴドフスキーら19世紀のコンポーザーピアニストの珍曲難曲を現代に甦らせた超絶技巧ピアニスト、マルク=アンドレ・アムラン自身による作曲のカデンツァ−終曲を。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm599718

アンサイクロペディア「ラ・カンパネッラ」
ラ・カンパネッラとは、片手に6本の指を持つピアノの神、フランツ・リストが作曲した曲。ピアノ愛好家に感動と絶望を与える曲として有名である。 (中略)

この曲は世界的にも名曲と認められている。そのため愛好家なら一度は聴いたことがあるはずだ。そして多くはこの曲を聴いて感動するだろう。このとき、多くの愛好家は自分で弾いてみたいと思うものである。

この曲は始まりの部分がとても簡単であり(初心者でも充分弾けるレベル)、しばらくは比較的簡単な楽譜となっているため、弾いてみようかなと思うのは自然のことであろう。

しかし曲が進むにつれ耳の良い者ならば聴いている最中、あまりよくないならば楽譜を見たときに、あまりの無茶っぷりに絶望するはずである。なぜならば前半の途中からは五線譜の中にありえないほどの密度でおたまじゃくしが並べられ、楽譜の解読自体が恐ろしく困難になっているからである。実際に見てみればすぐわかるが、うにょうにょぬるぬるしたおたまじゃくしが大量に並べられていて感動を覚える人は…少しはいるかもしれないが、大半の人はそのページを閉じてなかったことにするはずである。

これを初見かそうでなくても1時間くらいで弾けるようになったならば、貴方はプロのピアニストかそれを目指すべき才能の持ち主である。もし貴方が弾けたというならば、こんなサイトを見ていないで超絶技巧に更に磨きをかけるべきだ。そのような者はごく一部であり、恐らく殆どの者は、冒頭の簡単な部分しか弾けないだろう。こんな曲を作って自ら演奏できるリストはやはり天才である。

伝説の初版
この曲は二回にわたって改訂され、全部で三つのラ・カンパネッラがあるのだが、このうち初版はとてつもなく難しいということで知られる。というのもこの曲はリスト本人にしか弾けないというある意味素晴らしく、ある意味どうしようもない曲であった。本当にリストが弾けたのか疑問の声もあるが、当時リストは指が6本あった上に、ヨーロッパ中を回りながらこの曲を弾いて女性を落としていったという話もあるので恐らく完璧に弾けたものと思われる。流石に指が6本あればなんとかなるかもしれない。

第一版を弾けるものは21世紀になった今でも現れていないあたり、どれだけ難しいかを物語っている。もし完璧に弾いた曲をyoutubeやニコニコ動画に流せばあまりの反響にサーバーを落とすくらいは容易いだろう。

【最速?】ラ・カンパネラ 演奏:ガヴリーロフ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3248722

最速か? リスト「ラ・カンパネラ」(演奏:ジョン・オグドン)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2355592

超絶技巧ピアノ曲ではリャプノフの「12の超絶技巧練習曲作品11」が素晴らしいです。下記のニコニコ動画にて部分的に聴けますが、ぜひよろしければ全曲聴いて欲しい、超絶技巧の傑作です。

ニコニコ動画
ロシアの作曲家 セルゲイ・リャプノフ(1859 - 1924)の作品集『12の超絶技巧練習曲 作品11』より 第10番「レズギンカ」です
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6910921

上記の演奏は下記のアルバムに全曲録音されています。演奏者のシチェルバコフはアムランと同じく演奏技量に秀でた天才ピアニストです。

Sergei Michailovich Liapunov: Transcendental Etudes, Op.11

僕は19世紀〜20世紀前半の古いクラシック演奏家のファンでして、古い録音をよく聴きまして、19世紀末(1877年)にエジソンの手によってレコード蓄音機が発明され世界初の録音技術であるシリンダー録音(円筒式レコード録音)が始まった頃の録音とかも聴くのですが、シリンダー録音は録音したシリンダーレコードに物理劣化が起きる為、経年劣化がとんでもなく激しく、一世紀前の録音など、まったく聴けたものではないのですね…。アナログデータは経年劣化がさけられない上にコピーすればする程音質が劣化します。

ウィキペディア「蓄音機」
トーマス・エジソンが発明した、錫箔を巻いた円筒式レコードが、後に蝋(ろう)管式になった。1889年頃にエミール・ベルリナーにより円盤式レコードへと改良された。

例えば、僕はスクリャービンのピアノ曲が大好きで、スクリャービン本人が演奏した自作自演録音のアルバムを集めましたが、19世紀始めに録音されたスクリャービン自身による自作自演の録音は経年劣化により録音シリンダー(円筒式レコード)が磨耗しており、復元困難なレベルでダメになってしまっていて、無念です。ソビエト連邦の音楽ライブラリーが国家の威信にかけて当時の技術における最大の努力を払って保存しましたが、アナログ的録音であるレコード、シリンダー録音の経年劣化だけはどうにもなりません…。アナログ録音であるビデオテープが経年劣化によりダメになってしまうことを考えて頂けると分かりやすいかと思います。

19世紀後期〜20世紀始めまでのシリンダー録音はアナログ的な経年劣化により西東問わずどちらに保存されたものも録音が悉くダメになってしまっているのですが、19世紀末からの録音で、素晴らしい再生を図ることができるたった一つの優れた録音技術があり、それらを聴くのが古い音楽を愛好する僕の楽しみです。その録音技術とは、ピアノ・ロールです。一世紀前にデジタル的な録音を生み出した当時の先進的技術です。

ウィキペディア「ピアノ・ロール」
ピアノロールとは、オルガン式オルゴールや自動ピアノに取り付けて使用する、演奏情報が穿孔された紙製のロール(巻き紙)のこと。空気圧をかけ、穿孔部を通してハンマー等を動作させる仕組み。19世紀末からつくられ、専用の機械を用いればピアノ演奏をある程度正確に記録することができたため、SPレコード普及前の一時期、家庭用の音楽再生手段として広く使われ、ロールは現在のレコードと同様に商業販売された。20世紀初頭の作曲家自らが演奏したピアノロールなどがいくつか残っている。

20世紀後半の作曲家コンロン・ナンカロウは、自動ピアノの未知なる可能性を開拓した一人で、音の長さを計算して自らロールに穴開け(パンチング)を行い、自動ピアノのための複雑な作品を数多く残した。

現在のMIDI制御による楽器の自動演奏は、鑽孔テープと電子的方法という違いはあるが、ピアノロールと本質的に同じであるといえる。

コンピュータ音楽では、シーケンスソフト上での演奏情報の視覚化として、楽譜表示に並んでピアノロール式の表示が用いられることがある。

ピアノ・ロールはボーカロイドらDTM(デスクトップミュージック)の祖としての側面を持つ技術、録音したデジタルデータを容易に加工できる特性を持つ技術でして、人類の録音記録技術としてデジタル的な録音として始めて世界を席巻した録音です。ボーカロイド技術を開発したヤマハはコンピュータを使ったピアノ・ロール再生において世界最高の技術を持つ会社でもあり、ヤマハが一世紀の時を経て再生させた20世紀初頭のピアノ・ロール演奏は、驚くべきクオリティ、今現在活躍中のピアニスト達を凌駕する側面も持つハイ・クオリティです。

1900年頃に「ティン・パン・アレイ」と呼ばれる一大楽譜製造産業がニューヨークに腰をおろし始めた頃から、(それまでは上流階級のものであった音楽の存在が)劇的に変化し始める。(中略)大物の作曲家達が、当時アメリカで起こっていた社会の大きな変化(文化の大衆化)を音楽に反映させたこと(ポピュラー音楽の誕生)で、一般大衆にとっては、ポピュラー音楽を聴いたり演奏したりすることが、この「地殻的(地殻変動的)」ともいえる(音楽文化の)大衆化に対応していくための安全な方法となっていたのである。(中略)

(音楽文化の大衆化は)ラグタイムやジャズ、ブルースなどの音楽を貪欲な勢いで生み出していった。さらに、ポピュラーソングの歌詞は「娯楽」という名目の元、(上流階級が占有していた音楽文化の)ヴィクトリア風の上品なスタイルに終止符を打つ、いわば銃弾的役割を果たしたのである。

幸運な偶然(音楽の大衆化とピアノの大衆化ブーム及び録音技術の発展)から、1900年までにプレイヤー・ピアノ(自動演奏ピアノ)は大衆市場における(音楽の)中心にまでになった。(中略)自動ピアノとピアノ・ロールの莫大な売り上げが、数知れない楽譜の大ヒットを記録に残した。結局のところ、20世紀の始めの25年で(諸外国に先駆け)アメリカはピアノの音(ピアノ録音)で飽和状態となっていたのである。(中略)

ガーシュウィンは130近くのピアノ・ロールを作っている。(中略)また、その他多くのミュージカルやレビューの中に挿入歌を作曲し、彼の始めての大ヒットミュージカル「ラ・ラ・ルシール」を作り、1919年、20歳の時には、ミリオン・セラーとなったあの「スワニー」を書いた。そしてついに1924年の「ラプソディー・イン・ブルー」の圧倒的な大成功によって、アメリカの音楽家の最高位に昇りつめるのである。(中略)
(ガーシュウィン「The Piano Rolls」)

ガーシュウィンが100年前に録音したピアノ・ロールをヤマハがコンピュータ技術によって現代に再生した演奏は実に素晴らしく、DTMがお好きなお方々にぜひご一聴お勧め致します。音楽技術の勝利を感じる圧倒的な品質で、素晴らしいとしか言いようがないです。ぜひご一聴お勧めです。

今回の録音(ピアノ・ロール再生)に使用されたピアノは、9フィートのヤマハ・ディスクラヴィーア・グランド・ピアノ(コンピュータ・グランド・プレイヤー・ピアノ)である。この機種を選んだ理由は、このコンピュータの再生能力が、かつてなかったほど演奏を洗練させることが可能だからである。(中略)現在に至るまで、ピアノ・ロールのCD化において、これほどまでのダイナミック・レンジと音色の豊かさはまず見られなかった。

ヤマハのディスクラヴィーア・ピアノは、コンピュータと光センサーを備えており、それによって手で実際に演奏した音をフロッピー・ディスク(記憶媒体)に録音する。従って、演奏を一音一音、ニュアンスに至るまで録音することが可能なのである。(中略)

今回のガーシュウィンのリプロデューシング・ロールの準備は、従来とは全く異なる方法で行われた(従来はピアノロールをそのままアナログ・プレイヤー・ピアノで再生・録音する)。まずロールは、カスタム・ミュージック・ロール社でロールの読み取り(ピアノ・ロールをデジタル再生データに変換する作業の過程)を手がけているリチャード・トネセンによって、穴の長さと位置を判読するコンピュータ・ファイルに変換された。そして、コンピュータ・プログラマのリチャード・ブランドルが、リプロデューシング・ピアノのコンピュータ・シミュレーションを起こし、各音の長さ、位置、適切な音量などを、ファイルからMIDI二変換するのである。(中略)このCDの録音の際には、ディスククラヴィーアをマイクの正面に据え、このフロッピー(MIDIファイル)からガーシュウィンのロール演奏を再生したのである。
(ガーシュウィン「The Piano Rolls」)

ピアノ・ロールは修正が容易で、人間には不可能な指の動きをプログラムしてピアノ再生することができるため、一世紀前から人間には演奏不可能な曲(十本の指の限界を超えており、連弾でも弾く事が不可能な曲)の演奏が作られており、面白いです。アムランの難曲の入った「Player Piano, Vol. 6」と伝説的演奏揃いのヴェルテ=ミニョン・ピアノ・ロール・シリーズがご一聴お勧めです。ガーシュウィンのピアノ・ロールがお気に召したお方々ならきっと楽しめるかと思います。

最後に、20世紀及び21世紀の今現在最大の技巧派ピアニスト、アムランの超絶技巧ということでは、アルバム「Mark-Andre Hamelin plays Liszt」において、アムラン自身が超難度の自作のカデンツァを演奏しておりますので、超絶技巧系が好きなお方々にお勧め致します。

Mark-Andre Hamelin plays Liszt

参考作品(amazon)
Gershwin Plays Gershwin: The Piano Rolls
Sergei Michailovich Liapunov: Transcendental Etudes, Op.11
Player Piano, Vol. 6: Original Compositions in the Tradition of Nancarrow
ヴェルテ=ミニョン・ピアノ・ロール・シリーズ 第1集(1905 - 1927)
ヴェルテ=ミニョン・ピアノ・ロール・シリーズ 第2集(1905 - 1915)
ヴェルテ=ミニョン・ピアノ・ロール・シリーズ 第3集(1905 - 1926)
Mark-Andre Hamelin plays Liszt
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2009年06月11日 05:01

Mozart Unexpurgated!

ニコニコ動画を見ていたら、偉大なる天才作曲家モーツァルトの変態趣味が炸裂した傑作曲K.558カノン「プラータ公園に行こう」がニコニコ動画に…。

ニコニコ動画
「ボカロが歌うモーツァルトのカノン「プラーター公園へ行こう」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6958412

真面目なモーツァルトファンが視聴したら発狂しそうな動画ですが、実際にモーツァルトの本曲そのものがまったくもって完全にこの歌詞の通りの歌曲であります…。音楽における偉大なる天才モーツァルトは非常にアレな性的嗜好を持っていて音楽においてもその才能を全開させましたので…。本曲はモーツァルトが歌詞もメロディも最大に下品に書いているので、この動画でもまだ上品な方でもうちょっと下品に意訳した方がより原詞に近いかもですね…。ちなみに歌のなかだけではなく、遊び人で知られたモーツァルト自身の実践的な性的嗜好も彼が女性達に送った有名なベーズレ書簡を読めば分かるようにスカ(以下略)

モーツァルトの性癖がとてもよくわかる作詞の曲としては以下のK.561「お休み、ほんとのおばかさん」もよいかと思います。

ニコニコ動画
ボカロが歌うモーツァルトのカノン「おやすみ、ほんとのおばかさん」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6956955

この訳もかなり原詞に忠実ですが、モーツァルトの原詞や手紙の方がもっと鮮やかに強烈な感じですね。

モーツァルトがスカトロジー嗜好を歌った歌曲は沢山あり、それらを集大成したアルバム「Mozart Unexpurgated!」も出ておりますので、こういう分野に興味のある音楽好きは聴いてみるのも一興かと思います。まあドイツ語が分からないと、変態な音楽と気付かずに聴き過ごしてしまいそうですが、歌詞の意味を理解しながら聴くと爆笑です。

HMV「Mozart Unexpurgated!」
http://www.hmv.co.jp/product/detail/1868164
“お下品モーツァルト”
フジテレビ「トリビアの泉」で話題騒然の「おれの尻をなめろ」を含む!
英語で聞くモーツァルトのおふざけ作品集!!!
でも演奏は正調古楽!

フジテレビの人気番組「トリビアの泉」の2月18日の放送で紹介され、大きな話題となったカノン「おれの尻をなめろ」を始めとする、モーツァルトのイカレタ曲を集めています。モーツァルトがかなりのスカトロジー嗜好だったことは残された手紙(とても引用できません!)からも伝わっていますが、こういう歌にするとは、天才のやることは分かりません。しかも音楽がいいと来ていいます。
 
とはいえ、ドイツ語で歌われたって何だか分からない。かといって日本語だとあまりに生々し過ぎる。ここでは半分ほどの歌は英語に訳されていてちょうどいい。

ザ・ソングズ・カンパニーは1984年設立のオーストラリアの団体、驚異的な上手さ。

カノン「おれの尻をなめろ」 K.382c(231)
カノン「仕度をするんだ」 K.556
カノン「「プラーター公園に行こう」 K.558
カノン「私は悲しい」 K.555
カノン「マルスとイオニア人になるのは難しい」 K.559
カノン「おお、お前馬鹿なマルティンよ」 K.560(K3.560b)
歌曲「魔術師」 K.472
カノン「泡立つ酒がグラスに光るところ」 K.382f(347)
カノン「俺の尻をなめろ、きれいにきれいにね」(偽作) K.382d(233)
カノン「親愛なるフライシュテットラー君」K.509a(232)
アリア「男たちはいつでもつまみ食いしたがる」 K.416c(433)
カノン「私の大好きないとしい人よ」 K.562
カノン「彼女は死んだ」 K.382a(229)
歌曲「おいで、いとしのツィターよ」 K.367b(351)
四重唱「いとしい私の食いしんぼさん」 K571a(Anh.5)
カノン「私の太陽は隠れてしまい」 K.557
三重唱「いとしのマンデル、リボンはどこなの?」 K.441
カノン「心やさしく君を愛す」 K.382g(348)
カノン「おやすみ!お前はほんとのお馬鹿さん」 K.561,ほか全24曲

参考作品(amazon)
Mozart Unexpurgated!
モーツァルト:作品大全集(170枚組)/Mozart: Complete Works 170 CD BOX
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debut
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番(DVD付)

体調不良にて、昨日更新できず申し訳ありません。前回の続きの音楽の話を致しますと、辻井伸行さんのCD、売れていますね…。amazonのクラシック部門1位2位です。クラシック音楽の演奏家として活躍する為には果てしなくお金が掛かる為、若手の将来有望なクラシック音楽演奏家のアルバムが売れるのは良いことです(^^)

また、これを機会にぜひ、他の演奏家のアルバムも手に取って頂き、クラシック音楽の楽しさに馴染んで頂けましたら、クラシック好きとして心から幸いに思います。

ピアノアルバムのお勧めを幾つかご紹介しますと、聴いていて超絶技巧が分かりやすい名演奏としては、ピアノ演奏における天才たる技量の持ち主として知られる技巧派ピアニスト、マルカンドレ・アムランの「ゴドフスキー:ショパンのエチュードによる練習曲全集」(原名「Godowsky: The Complete Studies on Chopin's Etudes」)が非常に見事であり、ご一聴お勧めです。

ウィキペディア「マルカンドレ・アムラン」
マルカンドレ・アムラン(1961年9月5日 - )は、フランス系カナダ人のピアニスト。(中略)
苦労の跡を見せない超絶技巧と洗練された演奏様式によって国際的に有名で、多くの人から、コンスタンティン・シチェルバコフと並んで、無上のテクニシャンと認められている。(中略)
ゴドフスキーの《ショパンのエチュードによる練習曲》全集は、2000年度グラモフォン賞に輝いた。

アムランの演奏は人間が一人で鳴らせるレベルを超えている神秘的な演奏でお勧め致します。

Godowsky: The Complete Studies on Chopin's Etudes
スーパー・ヴィルトゥオーゾ アムラン!!

秘曲ということで言えば、「ノクターン(夜想曲)」の開祖であるジョン・フィールドの「ノクターン全集」とか、ショパンが好きなお方々にはお勧めの名曲ですね。amazonレビュアーのお方が書いておられる通り、ショパン、フォーレのノクターンと一緒に聴くと落ち着いたしっとりとした時間が過せます。BGM(背景音楽)に最適です。

ジョン・フィールド:ノクターン全集(全20曲)
ショパン:夜想曲全集
フォーレ:夜想曲

ノクターンの落ち着いた調べは、梅雨を迎えてしとしとと降る雨に閉ざされる時期に最適かなと思います。僕はショパンの落ち着いた曲、雨のように静かな曲が好きなので、辻井伸行さんの指導教官はショパン・コンクール(ピアノコンクールとして世界で最も名高いです。ショパンのピアノ曲で選考を行います)で第三位を取られた横山幸雄教授ですし、ぜひショパンを弾きこなして欲しいですね…。

野分して盥に雨を聞夜哉
(松尾芭蕉)

ノクターンでは、アート・オブ・ノクターンという、超絶にマニアックな作曲家達の曲も含めて、あらゆるノクターン曲を集めた四枚組のノクターンアンソロジーアルバムがありまして、ノクターン好きのお方々にはこちらもお勧めです。

アート・オブ・ノクターン(4枚組)/Nocthrnes(complete)

後は、秘曲ということでいえば、ショパンと同じくピアノのみを作曲した世捨て人の作曲家アルカンのピアノ音楽はとてつもなく素晴らしいので、ぜひお勧めです。リストの超絶技巧系が好きなお方々にも、ショパンの叙情性が好きなお方々にも、どちらにもお勧めできる名曲揃いです。先にお勧めのアルバムを挙げておきますと、アルカンを発掘したロナルド・スミス(ピアニスト、アルカン協会会長)の名演奏集「Alkan: Piano Works」が第一にお勧めの名盤です。アルカンの魅力爆発です。ロナルド・スミスと同じくアルカンの専門家であるピアニスト、アラン・ワイスの「アルカン:ピアノ作品集」も見事な演奏の名盤、ロナルド・スミスの演奏が気に入ったお方々にお勧めです。両方とも廉価(一枚当たり700円〜700円弱)なのが嬉しいです。ロナルド・スミス演奏のアルカンアルバムより引用してご紹介致します。

「C・V・アルカンについて」
1813年パリ生まれ。1888年パリ没。ユダヤ系フランス人。ショパンと親交を結びリストを震撼させたピアノのヴィルトゥオーゾ。モスコーヴァ公爵夫人のサロンで人気を得るも、リストの登場によってナンバー2に甘んじる。ジメルマン(アルカン、グノー、フランク、ビゼーの師匠。コンセルヴァトワールピアノ科教授)後の、パリのコンセルヴァトワールのピアノ科教授職をモルマンテルと争うも破れ、ミザントロープ(孤独を好む世捨て人の性格)ゆえか、1840年代後半からはピアノリサイタルを催す僅かな機会以外は、楽壇から遠ざかる。独奏ピアノ曲の作曲は何回か継続的にされたが、生涯は謎に満ちている。
(ロナルド・スミス「アルカン作品集」ライナーノーツより)

ウィキペディア「シャルル=ヴァランタン・アルカン」
シャルル・ヴァランタン・アルカン(1813年11月30日パリ - 1888年3月29日パリ)はフランスのロマン派の作曲家、ピアニスト。(中略)幼くして神童といわれ、6歳でパリ音楽院に入学、ジョゼフ・ジメルマン(1785年-1853年…シャルル・グノー、セザール・フランク、ジョルジュ・ビゼーらの師匠でもある)に学んだ。ソルフェージュ、ピアノ、作曲、オルガンでプルミエ・プリ(一等賞)を得る。1829年、室内楽のトリオを結成したが、その時のチェロ奏者はオーギュスト・フランショームであり、彼の仲介でショパンと親交を持つこととなる。

20代でリストやショパンと並ぶヴィルトゥオーゾ・ピアニストとして名声を確立した。しかしその後は親友のショパンの死や、ジメルマンの後継者争いに敗れた(この時教授になったのが同窓のアントワーヌ・マルモンテルである)こともあって表立って演奏することは少なく、自宅に閉じこもって一時は聖書やユダヤ教の経典タルムードの研究に没頭したという。(中略)

最期も謎めいていて、宗教書の研究中に書棚が崩れ下敷きになったとも、台所で調理中に倒れたとも言われている。(中略)

ショパンはアルカンが主催した演奏会に賛助出演している。また、リストには『思い出―3つの悲愴的な様式による3曲』Op.15を献呈している。また、セザール・フランクからはオルガン曲『交響的大曲』嬰ヘ短調Op.17を、アントン・ルビンシテインからは『ピアノ協奏曲第5番』作品94を献呈されている。

アルカンはショパンと同様にほとんどピアノ作品のみを書き、リストと同様にピアノによる交響的表現を追求した。(中略)リストに与えた影響は大きく、特にピアノ協奏曲第1番、およびピアノソナタ ロ短調はピアノ大ソナタの第2楽章が模範になっていると言えよう。

前述のOp.39では調性感覚が同時代のそれと完全に乖離し、「序盤は○○調だが、終盤は△△調」といった感覚が一般に受け入れられるのは20世紀初頭であったことなどから、リストと同様に進歩主義的な感覚で西洋音楽の伝統を捉えていたことになる(中略)同じ運指(3-2-4-1)をどのポジションでも用い、なおかつ速く動かすといった概念も同時代の常識からかけ離れており、新たなピアニズムの開発へと繋がっている。

死後、彼の作品は20世紀の初めごろまではフェルッチョ・ブゾーニやハロルド・バウアーなどのヴィルトゥオーゾ・ピアニストたちに取り上げられていたが、アルカンの作品を聴いていた聴衆の多くが第二次世界大戦時に失われたこと等を含め、完全に忘れられた。

再評価と共に演奏・録音の機会が増えたのは1970年代末に入ってからである。ロナルド・スミスによる「短調による12の練習曲」の全曲録音は発表当時大きな話題となった。

アルカンは『一世紀早すぎた天才』ですね。当時から見れば非常に進歩的な曲の数々、良い意味で現代に通じながらも、古典的な色彩も残した見事なピアノ曲の傑作の数々を作曲しました。ぜひご一聴お勧め致します。

Alkan: Piano Works
アルカン:ピアノ作品集(2枚組)

最後に、秘中の秘の曲として面白い曲をご紹介致しますと、ジョルジュ・エネスコ(ジョルジュ・エネスク)の「フォーレへのオマージュ」(作品番号の無い隠し秘曲)とかとても面白い旋律の曲です。ある程度クラシックを聴きこなしているお方々にお勧めの秘曲です。「Enesco-Oeuvres Pour Piano」に収録されております。本盤に収録されているピアノソナタ第3番 ニ長調 作品24-3は、普通に名曲でして、クラシックに親しみやすい曲ですので、特にクラシックマニアでないお方々にもお勧めです。

Enesco-Oeuvres Pour Piano

参考作品(amazon)
debut
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番(DVD付)
川のささやき~辻井伸行サントリーホールLIVE! [DVD]
Godowsky: The Complete Studies on Chopin's Etudes
スーパー・ヴィルトゥオーゾ アムラン!!
ジョン・フィールド:ノクターン全集(全20曲)
ショパン:夜想曲全集
フォーレ:夜想曲
アート・オブ・ノクターン(4枚組)/Nocthrnes(complete)
Alkan: Piano Works
アルカン:ピアノ作品集(2枚組)
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芭蕉俳句集 (岩波文庫)
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2009年06月09日 17:19

東西奇ッ怪紳士録 (小学館文庫)
リスト:超絶技巧練習曲全曲(横山幸雄)

前回紹介した、全盲の若手日本人ピアニスト辻井伸行さんのクライバーン優勝、指導教官の横山幸雄教授がコメントを出しておりますね。

http://www.asahi.com/culture/update/0608/TKY200906080082_01.html
上野学園大で辻井さんを指導する横山幸雄教授の話
全盲の彼が見事な演奏をすることに驚く人も多いが、彼は驚き以上の感動を伝えるために勉強を重ねてきた。一線で活動できる演奏家を求めるこのコンクールで優勝したことで、彼がひとりの演奏家としてお墨付きを得たことはとてもうれしい。目が見えないことは一生ついて回るが、そのこととは関係なく、彼の演奏を聴きたいと思う人が増えていってほしい。

良いコメントですね。ヘルムート・ヴァルヒャのような活躍を期待します。ヴァルヒャは2009年今現在においても、オルガン演奏の最高位に位置する盲目の演奏家ですが、彼が評価されているのは盲目ということと関係なく、純粋にオルガン演奏のレベルがずば抜けて高く素晴らしいからですね。まさに『そのこと(ハンディキャップ)とは関係なく、彼の演奏を聴きたいと思う人が増えていってほしい。 』というのを体現した演奏家であり、ヴァルヒャの名演のように純粋に演奏が評価される演奏家になってほしいなと思います。

身の回りが大変な状態です。ヘルムート・ヴァルヒャ「バッハ:オルガン作品集」、「ブクステフーデ作品集」
http://nekodayo.livedoor.biz/archives/711549.html


ウィキペディア「ヘルムート・ヴァルヒャ」
ヘルムート・ヴァルヒャ(Helmut Walcha 1907年10月27日 ライプツィヒ – 1991年8月11日 フランクフルト・アム・マイン)は旧西ドイツのチェンバロ奏者・オルガン奏者。オランダとドイツのバロック音楽を専門として、とりわけヨハン・ゼバスティアン・バッハのオルガン曲を2度(すなわち1947年-1952年のモノラル録音と、1956年-1970年のステレオ録音)全曲録音したことで名高い。なかでも、ドイツ・グラモフォンのステレオ録音による12枚組のCD全集(2001年秋発売)は、最新技術を用いて音像の修正が加えられ、廉価になったこともあり、好楽家必携の音源となっている。(中略)

ヴァルヒャは幼い頃に天然痘に罹った結果(または種痘の副作用の結果)、視力を奪われ、16歳までに完全に失明した。そのため、少年時代は母親によって、結婚してからは夫人によって、左右の手(と、オルガンの場合は足鍵盤)のパートをそれぞれ別個に演奏してもらい、それぞれを絶対音感によってしっかり記憶に焼き付けてから一つの楽曲へとまとめ上げたという。バッハの鍵盤作品は40歳頃までに異稿まで暗記したらしい。

ヴァルヒャの演奏は当時、新たな規範的演奏とみなされた。のちに古楽器による演奏が全盛時代を迎えても、彼に取って代わる演奏はいまだ現れていないと評価する者も多い。(中略)

ヴァルヒャのバッハ演奏はポリフォニックな旋律線を一本一本、くっきりと際立たせて聴き手に聴かせる。不要なストップ増強による大音響で各旋律線を混濁させることなく、バッハの音楽のもつドラマ性そのものを、壮大な建築を思わせる天才的な構成観をもって再現する。その演奏はつねに各声部があざやかに聴き取れる。

ヴァルヒャはオルガン曲の作曲家でもあり、自作のコラール前奏曲をペータース社から4巻、出版している。また、ほかの作曲家の管弦楽作品をオルガン独奏用に編曲、出版もしている。

フランクフルト音楽大学でオルガンと作曲の教授を務め、自ら模範演奏を行なった。ほかにヴァルヒャの音楽研究上の貢献として、バッハ未完の遺作《フーガの技法》の「最終フーガ」を補筆・完成させる試みが挙げられる(上記出版譜にふくまれている)。

ヴァルヒャは、フルブライト奨学金を得てドイツに留学したアメリカ人オルガニストを数多く育成した。

僕は、単に一介のクラシック好きに過ぎませんが、それでも大江光の曲とか聴きますと、どう考えてもこれは出来の悪い素人レベルの曲であると感じます。それにも関わらず、父親のノーベル賞受賞者大江健三郎の威光によって、曲のクオリティではなく、父親のコネによってゴールドディスク大賞などを受賞しているのを見ると、一介のクラシック好きとして『不公平すぎてなんだかなあ…』という思いに駆られずにはいられません…。純粋に曲だけをみれば、どう考えても、大江光氏の作曲水準は極めて低いです。こういう悪しき不公平は、後述しますが、日本建築史における最高傑作とも言われる建築物「二笑亭」が「狂人が設計・建築した建築物」として貶められすぐ取り壊されたように、ハンディキャップを負った人々を不当に貶めることと表裏一体であると思います。

これ(ゴールドディスク大賞に見られるような不公平な選出)は、障害者という枠組とは関係なく、芸術の世界のあちこちに残念ながら見受けられることでもあります。例えばロン・ティボー国際音楽コンクールは、日本の悪名高いテレビ局「フジテレビ」が強引に資本介入してから、あからさまな不正が始まり、日本人の若手十代の技術的にまだまだ未熟な演奏家を無理矢理フジテレビの介入でコンクール上位に当確させる、どうしようもない腐敗コンクールになってしまいました。ロン・ティボーはフジテレビが資本介入する前は国際的評価のある信用度の高いコンクールでしたが、フジテレビの強引な介入が始まってからはコンクールの信用度はがた落ちし、国際音楽界から相手にされなくなりました。フジテレビによるアジア枠の不公平な優遇、特に十代の日本人の優遇で知られる日本人用八百長コンクールと化してしまっています。

逆にクライバーンコンクールは、ロン・ティボーのような選出における不公正はないといわれるコンクール、世界的に評価の高い三大コンクールであるショパン、チャイコフスキー、エリザベート王妃コンクールに次ぐ、信用度の高いコンクールです。辻井伸行さんがクライバーンで優勝したことは、真にめでたいことです。

僕の尊敬する漫画家の水木しげるさんが、日本建築史に残る傑作建築物、二笑亭を建てた渡辺金蔵の自伝「二笑亭主人」(「東西奇ッ怪紳士録」収録)のなかで、渡辺金蔵が狂人として精神病院に収容され、二笑亭が狂人の建築物ということであっというまに取り壊されてしまったことに最後にふれ、『作品は常にその作品価値が純粋に鑑みられるべきで、作品製作者の属人性によって図られることがあってはならない』と書いていますが、僕は水木さんに同感に思います。以下、引用致します。

十余年をかけて建築され続けた「二笑亭」は(建築者の渡辺金蔵が精神病院に強制収容されて)主を失ってから二年後に取り壊された。昭和十三年のことである。

『最後に言わしてもらわねばならないことは…

「二笑亭」は人物(建築した渡辺金蔵)はともかく、建物が面白いのです。その製作者が「精神障害」だからといって、捨ててしまってはいけないのです。

あくまでも「二笑亭」という作品がオモシロイのです。誰もこのように「奇妙な気持ちになれる作品」は作れるものではありません。

(作り手が)「精神障害」だからといって作品を味わおうとしないのはよくないことです。ゴッホだって「精神障害」といわれてたじゃないですか。しかしその作品が良いのと同じことですヨ』
(水木しげる「二笑亭主人」。東西奇ッ怪紳士録より)

参考作品(amazon)
東西奇ッ怪紳士録 (小学館文庫)
リスト:超絶技巧練習曲全曲(横山幸雄)
ラ・カンパネラ~ヴィルトゥオーゾ名曲集(横山幸雄)
バッハ:オルガン作品集(ヘルムート・ヴァルヒャ)
ブクステフーデ:オルガン作品集 1
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