2009年03月

2009年03月31日 23:06

Jean Sibelius Symphonies complete(シベリウス:交響曲全集(4枚組))

昨日の夜半より頭痛と耳鳴りが酷く、体調崩しており、更新できず申し訳ございません。今月、なんとか過ごすことができ、お助け頂いた全てのお方々に深く感謝申し上げます。どうもありがとうございます。

頭が痛いのが酷く、ずっと臥せっており、僕は北欧の音楽が好きなので、床に臥せながらシベリウスの交響曲全集を聴いておりました。

シベリウスの交響曲は、僕の好きな交響曲の一つで、第四番などが有名ですが、僕は透明感溢れる第六番が最も好きです。透きとおった寒空の冬景色のような感覚を思わせる、極めて透明で純粋に美しいと感じられる旋律が素晴らしく、交響曲の中でも好きな交響曲です。

「第六交響曲」は1918年に構想が温められたが、フォンランドの内乱や赤軍によるヤールヴェンパーの家宅捜査などあわただしい世情のためおくれ、5年後に完成された。シベリウスは「ワイルドで熱っぽい性格の交響曲を書くつもりだ」と私信で述べているが、出来上がったもの(交響曲第六番)は、クールで、ほとんどアリストクラティックな優雅さをそなえたテックスチュアの透明な交響曲であった。
(シベリウス交響曲集ライナーノーツより)

シベリウスはベートーヴェンを深く尊敬していた。フィンランドの伝説的宗教家ユハをテーマにオペラを書くように頼まれたとき、彼はとうとう断ってしまった。もし書かれていたら、とは思うが、シベリウスは自分の時間と力を交響曲に集中し、捧げたかったのだろう。(中略)

シベリウスは明らかに近代、現代をひっくるめた時代の初頭に立っていたのである。「交響曲第三番」をきっかけとして、シベリウスは民族ロマン主義(ワーグナーの大きな影響)から新古典派(ネオ・クラシカル)に移ったと、よく言われるが、それは表面的な観察からすればその通りだとしても(古典主義には戻れない20世紀人であるシベリウスの)もっと深い内的事情が考察されねばならないだろう。

三十年の沈黙を残したシベリウスの生涯における、作曲時代晩年の大作は、頼るべき人もなく、頼るべき神さえない、すべてを自分自身で創造しなければならない厳しい運命の下に置かれた作曲家の、祈るようなつぶやきであり、声であり、叫びである。それは人から遠く離れた孤独のなかの、神よ、なぜ私を助けてくださらないのですか、という、うめきが、人離れしたシベリウスの最後の時期に聴かれるように思われる。フィンランドの自然だけが、作曲する彼の心を癒してくれたことであろう。私はシベリウスの晩年の交響曲に、澄んだ光と影によって織りなされる、永遠に解けることのない氷のような、鉄よりも硬い、堅牢な姿の建物と、優しく抱きとめる人の息づかいを、共に感じる。
(大束省三「北欧音楽入門」)

第六番のようなシベリウス後期交響曲、その透明で透きとおった、静かで心慰める美しい氷のような音楽は、今という時代、20世紀よりも更に希望のない世紀において、人々の心を慰める力を持っていると思います。お勧め致します。

非常に頭が痛く、考えを纏めることができず、申し訳ありません。現在、生活苦につき、ギフト券、アフィリエイトでお助けくださるお方々いらっしゃいましたら、心から深く感謝致します。

最後に、D・H・ロレンスの長詩を抜粋引用してご紹介致します。今の僕の気持ちを表現してくれているようです。

D・H・ロレンス詩集より

「死の舟」

もう秋だ、落ちる果実
そして忘却への永い旅

りんごは大きな霧のしずくのように落ち
われと傷つきみずから退場する

行くべきとき、自分自身に
別れを告げて、落ちた
自分から退場するときだ。(中略)

人はただ短剣の一撃で
おのれの生命を絶つことができるか?

短刀、短剣、拳銃で、おのれを
傷つけ粉砕して生命から退場する。
それは解放だろうか?教えてくれ、解放だろうか?

いやそうではあるまい!殺害、自死が、
どうして解放になるだろう?(中略)

少しずつ肉体は死に行く、そして臆病な魂は
さしてくる暗い潮に、その足もとを洗い流される。

われらは死にかけている、
われらは死にかけている、
われらはみな死にかけている。

何ものもわれらの中で高まる死の潮をおさえることはできない
やがて死は世界に、外の世界にあふれるだろう。

参考作品(amazon)
Jean Sibelius Symphonies complete(シベリウス:交響曲全集(4枚組))

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2009年03月30日 16:54

フォーレ:レクイエム
ア・デイ・ウィズアウト・レイン

先日から酷い体調困難に悩まされておりますが、寝ていると何も情報が入らないので、図書館に行って新聞を読んできました。二つのニュースにとても驚きました。一つは漆間巌内閣官房副長官が、内閣人事局長を兼任するというニュースです。非常に驚きました。内閣人事局長は国家公務員一種幹部の人事権を一手に掌握する超がつくほどの重大ポストで、このポストを争って各省庁でセクショナリズムによる奪い合いが行われています。

警察官僚である漆間巌内閣官房副長官のこのポストへの就任は、警察庁の権力を巨大に増加させます。なぜ、今、この時期に、警察庁の権力をこれほど増大させるのか、理由が分かりません。警察は、公務員(官僚)の不正に対しての矛になる捜査権を持っていますが、これは逆に言えば、警察が動かなければ官僚の不正を刑法によって処分できない官僚に対しての盾の一面も持っています。後者の方向性を志向し、現野党が政権を取った場合、漆間氏に据えられた各省庁の幹部官僚クラスが皆、反政府(反現野党)を志向し、かつ、彼ら(官僚)が動かないようなことになるのではないかということを危惧します。警察庁は、「庁」(「省」より格下)ですが、情報収集能力・情報分析能力に抜群の機能を有しており、実際は他の「A級省」クラスの権力を持っていると言われています。

余談ですが、院省庁の格としては「院(会計検査院・人事院)」>「省」>「庁」なのですが、実際は、「A級省庁(予算と他省庁に対する国家的特権権限を持っている中枢省庁。財務、外務、警察等。旧大蔵である財務の力が圧倒的)」>「B級省庁(予算は多いが、他の省庁に影響力を及ぼせる力があまりない省庁。国土交通省、厚生労働省等)」>「C級省庁(予算が少ない上に権限もない省庁、文化庁等)」>「院(両院とも予算が少なすぎて影響力極微。人事院は何度も旧総理府(現総務省)に全機能を統合せよという廃止論・不要論が出ている)」だと言われています。

警察は国家官僚についても沢山の情報を握る情報機構であり、漆間巌内閣官房副長官が内閣人事局長を兼任することによって、今後、その情報を活用した現政府与党とそれに結託した官僚達に都合のよい官僚人事が行われるのではないかということを僕は心から危惧します。

あれだけの失言をした(西松建設疑惑は自民党には及ばないと発言した)漆間巌内閣官房副長官が、更迭されるでもなく、逆に、まるで何らかの褒賞人事のように、強力な権限を持つ内閣人事局長を兼任するということについて、僕は人事を行った現与党自民党の甚だしい不透明さを感じずにはおれません。僕は自民党政治には一刻も早く退場して頂きたいので(現在、失業中ですが、公的支援が受けられず、現政治下においては、極めて生活困難です)、今後、自民党政治を続けさせるためのなんらかの事件が再び起きるのではないかと、先行きが酷く不安です。

もう一つのニュース、これは良いニュースです。各国が、スイスの秘密口座廃止、タックスヘイブン(租税回避地)廃止の方向に動いているとのことでして、これはとてもよいことだと思います。各国警察機関(米国FBI、日本国警察等)だけでなく、インターポール等を使って各国政府が綿密に協力し全世界的な徹底した捜査を行い、1200兆円といわれる莫大な額の違法隠し資金を徹底的に洗うことが大切だと思います。

この領域(秘密口座・租税回避地の闇)に踏み込むことで、世界中の富裕マフィア(日本の暴力団含む)の資金の流れを押さえて確保することができます。この分野における捜査当局の各員の皆様方にはぜひ全力で頑張って頂きたいです。マネーロンダリングを監視する組織、TJNの事務局長がとても分かりやすく纏めていたので、引用致します。また下記のアサヒコムの記事(アサヒコムは新聞に比べると情報不足で、TJNの局長のインタビュー記事が載ってなかったり、文章量が足りないですが、ないよりはあった方がいいです)もお勧め致します。

アサヒコム「スイス銀、揺らぐ守秘」
http://www.asahi.com/business/update/0330/TKY200903290250.html

ジョン・クリステンセン(TJN国際事務局長)
「税逃れ タックスヘイブン自体が問題」

『スイス銀行の守秘義務は数年で廃止されるのではないか。外からの圧力はこれまでなかったほど高まっている。
金融自由化で資本がグローバルに移動するようになり、タックスヘイブン(租税回避地)がそれによって税逃れの仕組みを開発した。それで問題が劇的に大きくなった。タックスヘイブンに置かれている世界の富裕層の資産は約十一兆五千億ドル(千二百兆円)と見られる。ほとんどが脱税(マネーロンダリングなどの違法資金)しているだろう。(秘密口座・租税回避地の及ぼす)各国の税収の損失は毎年二千五百五十億ドル(三十兆円弱)と推計される。

問題は、UBS(スイス)だけではない。たとえば、カリブ海のケイマン諸島に行ってみるといい。世界の主銀行が守秘義務制度を利用している。そこでの資産運用という仕事の大部分は、客の脱税の仕組み作り(マネーロンダリング)だ。

脱税以上に大きな問題もある。ここ数年(秘密口座・租税回避地の見えない資金が投機しまくることによって)、金融システムの中にできた巨大なリスクが隠されたままだった。タックスヘイブンが使われたからだ。それを格付け機関も規制当局(金融当局)も理解していなかった。

金融機関は(資金の流れを隠そうとして)税金がかからず規制のない場所に業務を移そうとする。タックスヘイブンという仕掛け自体が問題だ。グローバルな規制を目指すなら放置できない。』
(朝日新聞09/03/30朝刊経済面特集記事より)

一日も早く、秘密口座・租税回避地の全容が解明され、それら違法資金が世界の法を守る人々に還元されることを心から望みます。僕は昔からトービン税(国際連帯税、グローバル投機に対するグローバルな税制)導入論者で、やっとトービン税を導入する始まりの仕組み作りが行われ出したのは、ほぼ全ての全人類(スイス銀行で脱税しているような超少数の違法行為を行っている犯罪富裕層除く)にとって幸いであると思います。この件(世界的違法資金の捜査)に関して、各国捜査機関の連携による全世界的捜査進展を心待ちにしております。トービン税の詳細については、ブリュノ・ジュタン「トービン税入門」をご一読お勧め致します。

先日から書いていた音楽の話をさせて頂きます。耳鳴りが酷いので、静かな曲を聴いていることが多いです。フォーレの「レクイエム」と、エンヤの宗教鎮魂歌の色彩の大きい名アルバム「ア・デイ・ウィズアウト・レイン」を聴いておりました。

フォーレは、フランスを代表する作曲家で、特に明記すべきは、その「レクイエム」の作曲にあります。フォーレの作曲した「レクイエム」は、モーツァルトやベートーヴェンのレクイエムに匹敵する名レクイエムといわれ、なおかつ、派手ではなく、極めて質素でまとまりがよく、人々の魂のことを第一に考え、御魂を安らげるのに最適なレクイエムであると言われています。他の「レクイエム」との一番大きな違いは、「ディエス・エレ」(怒りの日)を持たないことです。これによって、他のレクイエムに共通する攻撃性(怒りの審判)のモティーフが消え、フォーレは、とても柔らかで、思いやりと慈悲の心に満ち溢れたレクイエムの完成に成功したと言われています。ぜひ、ご一聴お勧めするレクイエムです。

エンヤの名アルバム「ア・デイ・ウィズアウト・レイン」は、エンヤのアルバムの中でも最も宗教的、鎮魂的な色彩が強いと言われる好アルバムです。静かな曲が揃っており、僕の好きなアルバムです。フォーレの「レクイエム」はキリスト教であり、エンヤの「ア・デイ・ウィズアウト・レイン」はケルト信仰をベースにしている歌が多いですが、そういった教えの違いを超えた、静かな安らぎの共通性を感じさせてくれます。頭が痛いときになど、フォーレの「レクイエム」も、エンヤの「ア・デイ・ウィズアウト・レイン」も、どちらも静かに癒してくれる形の音楽で、お勧め致します。

また、このアルバム「ア・デイ・ウィズアウト・レイン」は、エンヤが多重録音を使わずにごく普通に歌っている歌も何曲も収録されていまして、それがまたお勧めです。ぜひご一聴をお勧めする現代アルバムです。

僕は今現在、大変生活苦でして、ご慈悲をお賜わりになられるお方いらっしゃいましたら、心から深く感謝致します。

最後に、エンヤの「ア・デイ・ウィズアウト・レイン」から、「ピルグリム」の歌詞を抜粋して引用させて頂きます。

「ピルグリム」

巡礼者よ あなたは旅をする
自分が選んだ道を
風がどうして途絶えるのか
物語がどこにつながっていくのか知ろうとして
全ての日々はある一日から始まっているのよ
あなたが知らなくてはならないことはあまりにも多い
終わってしまったことは変えられなくて
変えられるのは行き先だけ

皆様方全ての行き先に平安があることを祈っております。

参考作品(amazon)
フォーレ:レクイエム
ア・デイ・ウィズアウト・レイン
トービン税入門―新自由主義的グローバリゼーションに対抗するための国際戦略

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2009年03月29日 05:30

世界がもし100人の村だったら 2 100人の村の現状報告
スモール イズ ビューティフル―人間中心の経済学 (講談社学術文庫)

3/26にも書きました通り、以前政治論について論争になった高橋直樹氏が、政治論とはもはや全く関係なく、文体模写で徹底的に嫌がらせして潰してやるとか、虫けらのように足を潰して歩けなくするとか、酷いことをツイッターなどを使って公言しており、非常に心痛が酷く、心を痛めております。ただひたすら、こちらを傷つけることしか考えていない、もう政治論などどこかにいってしまった、ひたすらの嫌がらせを行っており、酷く腹痛と心痛が酷い状況です。こういうやり口は卑怯だと僕は思います。高橋直樹氏の嫌がらせ他、先日からの体調不良も酷く、あまり文章が書けそうになく申し訳ございません。

お勧めの本「バースデイ・セイント」「M・L・キング説教・講演集」ジャズお勧め盤「ベスト・オブ・ニーナ・シモン」聖ユダさん。
http://nekodayo.livedoor.biz/archives/771230.html


心痛が酷く、腹痛が治らないのですが(腹痛に関しては病院にて心身症の症状と診察して頂いております)、それだけでなく、耳鳴りが酷く、ずっとキーンという金属音が耳の中で鳴っている形で、非常に辛いです。耳に症状があるのか、うつ病の症状なのか、薬の副作用なのか、まだ判明しておらず、また、耳鳴りに関しては、耳に異常が見当たらない場合、なぜ起きているのか、判明が難しいようです。

耳鳴りに関しましては、SSRIなどの抗うつ剤の減薬・もしくは断薬症状において、起こることもあると言われていますが、僕の場合、SSRIの中では副作用が一番穏やかと言われるジェイゾロフト100mg(うつ病で処方可能な限界処方量)を減薬せずに飲んでおります。減薬・断薬による禁断症状ではないと思います。この薬(SSRIジェイゾロフト)は日本で認可されているSSRI(パキシルetc)の中で副作用は最も穏やかと言われていますが、SSRIの中ではダントツに薬代が高いです。僕は障害者自立支援法の一割負担と低収入者自己負担額限定措置を受けておりますが、それでも、これは患者自己負担額が最低額でも月2500円(ジェイゾロフト日100mg処方、30日分、一割負担で、このお薬だけで月2000円近く薬代が掛かります、他の薬と比べてダントツに高いです)掛かる為、ジェイゾロフト代で自己負担額オーバーしていて、医療費負担が非常に辛いです。

うつ病は、症状が回復しても、治すのが難しい病気と言われており、それは、抗うつ剤、これはSSRI以外の抗うつ剤、三環系抗うつ薬、四環系抗うつ剤、SNRIなど多くの抗うつ剤がそうですが、どれも、副作用及び中毒性を持っており、薬を減らす、もしくは薬を断つと、中毒症状、断薬症状という様々な病的症状が起きて、症状が劇的に悪化し、最悪は、以前よりも思い重態に陥る可能性があるゆえと言われています。その為、うつ病の薬を断つのは難しいとされています。症状の改善が見られても、その後、減薬することで、症状がぶり返す場合は、薬の量を元に戻し、減薬を中止するような形で、薬と一生付き合ってゆかねばならないケースが多々あり、うつ病の病状の改善は、抗うつ剤の進歩により相当進みましたが、病気の寛解(治癒)は現在の医学技術を持ってしても、困難であると言われています。薬(抗うつ剤)を断つと、脳の状態がうつ期に戻ってしまうことが多いため、寛解が困難と言われています。

一度、生理学的にバランスを崩した脳を、元に戻すのは、現代医学を持ってしても、大変困難です。また、うつ病や他の精神障害の多くは、看過できない極めて重大なストレスの負荷によって、起こると言われており、そういった環境下ではなく、人間一人一人の人権が守られた、社会作りが、精神障害において、重要なことだと思います。これは、僕一人やうつ病患者さん達のみの意見ではなくて、統合失調症などで苦しむ他の精神障害の患者さんたちにおいても同意見なことであり、社会が、少しでも、個々の人権を守る社会に変わっていって欲しいと心から望みます。

世界がもし百人の村だったら 第二巻

すべての富のうち、6人が59%をもっていて、みんなアメリカ合衆国の人です。74人が39%を、20人が、たった2%を分け合っています。(中略)
住居・水
75人は食べ物の蓄えがあり、雨露をしのぐところがあります。でも、あとの25人はそうではありません。17人は、きれいで安全な水を飲めません。(中略)
思想・信仰の自由
もしもあなたが、嫌がらせや逮捕や拷問や死を恐れずに、信仰や信条、良心に従って、なにかをし、ものが言えるなら、そうではない48人より恵まれています。

ダグラス・ラミス(政治学者)
「貧乏な人達は一生懸命働かないから貧乏なのか?
違う。概して、仕事中毒の人を別として、より豊かな人たちはあまり働かない。、そして、スーパーリッチは全く働かない。(中略)(リッチな人々がいかに働いても)スェット・ショップ(訳者注:低賃金・劣悪な労働条件の工場。「苦汗労働工場」との訳語もある」に比べて、苛酷な労働をしているわけではない。

貧乏な人たちは経済発展の遅れた地域に暮らしているから貧乏なのか?
これは大多数の人々が信じていることで、今の世の中で支配的な考え方だ。しかし、(データで見ると)それは大変な幻想だ。(中略)

「経済発展」は世界の貧しい人々をその貧困から救いあげる慈善事業のようなものではない。むしろ、地球上の全ての社会で産業革命を遂行させるプロジェクトなのだ。言い換えれば、これは世界中全ての人を資本主義システムに動員するものだ。

その初期段階、この動員は植民地主義という方法で行われた。(中略)今度(戦後)はそれが「発展」とか「近代化」と呼ばれるようになった。今日では「グローバリゼーション」と呼ぶのが流行っている。名前や方法は変わったが、世界を資本主義産業プロセスの下に再編するという本質的なプロセスは変わっていない。

このプロセス(世界的自由資本主義)によって絶対的貧困を無くし貧富の差を減らすことができる、と信じている人達がいるようだ。しかし、それは奇妙なことだ。19世紀の始め(産業革命後、貧富の差が極端に拡大し、労働運動、修正資本主義への運動などが盛んだった頃)からよく知られていたように、資本主義システムはそれ自体に任され、つまりその働きは自由市場に任され、貧富の差を拡大させている。(自由市場は富の再分配機能を持たないため、それ単独で動いた場合、労働条件を悪化させ、貧富の差を拡大させ、それらによって大資本を有利化し、自由市場経済ではなく、実質的な専制市場経済に近づく)。

資本主義の初期、西洋諸国においてこれは労働者階級の貧困を意味した。その後、植民地化で始まった経済システムのグローバル化によって、そのシステムが必要とする貧困労働者階級は植民地、後に「第三世界」「グローバル・サウス」と呼ばれるようになるが、で形成されるようになった。(中略)

この傾向は第二次世界大戦後の半世紀に渡る開発を通じて続いてきた。1960年、金持ち国に住む世界人口のうちの20%の最富裕層は、貧乏国に住む最貧困層の平均して30倍の収入を得た。1990年までに比率は倍になり、60対1となった。

繰り返すが、これは発展が予期に反して失敗したということではない。(中略)(自由市場のみを重視するグローバリゼーション市場によって)貧困は貧困として発展させられてきているのだ。貧困は再編され、合理化され、体系的に利益を引き出すものに作り変えられてきた。これは「貧困の近代化」と呼ばれている。(中略)

(都市の)中心部にはガラスと鋼鉄でできた高層ビルがあり、その郊外にハンドメイドのスラム街があるだろう。私達は前者を「発展している」また「近代的」、後者を「発展が遅れている」と考えがちだ。しかし、それは間違っている。両者とも等しく新しく、開発の(自由市場)プロセスの産物なのだ。

スラムの住民(低所得層・貧困層)はグローバル経済にいろんな形で結びつけられている。もしかすると、彼らは高層ビルの窓を拭いたり、(高層ビルの)トイレを掃除したり、車を駐車させたり(駐車場の管理をしたり)、リサイクルのためのビンやプラスティックを集めているかもしれない。ちょうどスウェットショップでブランドもののスポーツシューズを作るのが近代的なように、これらは全て高度に近代的な職だ。しかし、人びとを貧困から解放する職ではない。

世界経済システム(自由市場)は不平等を前提に、不平等を再生産する。ちょうど、ピストンの上下にかかる圧力の不均等が内燃機関を動かしているように、経済的不平等が世界経済を動かしている。そういう「富」の概念に不可欠なのが、よりお金をもつことで他人に対してもてる権力だ。(中略)

「成長の限界」で示された強い懸念は、ドネラ・メドウズ(百人村原作者)の「ザ・グローバル・シチズン 村の現状報告」の重要な部分になった。ネットロア(インターネットで広まった)の「100人村」では、それ(自由市場至上主義)が生み出す世界経済の不平等と暴力、政治的抑圧が第一の焦点に当たっている。しかし、(ローマ・クラブのレポート)「成長の限界」がよく認識したように、これら(100人村問題と、環境問題、人口問題、工業問題、食糧問題、資源問題、大量生産大量廃棄問題etc)は相互に絡み合っている。(中略)

「成長の限界」の執筆者達はその釣り合いの取れた状態(人類が存続しながら持続可能な地球環境)という考え方を説明し、まず何よりも食糧生産により多くの努力を注ぐべきだという。(人口問題は飢餓等の最低限の生活が不可能な貧困によって引き起こされている側面が大きい)。(中略)

(持続可能な人類の存続する地球を目指すローマ・クラブの提案として)そして、(大量生産・大量消費モデルから)教育や健康管理(福祉)といった、人を助け、資源を枯渇させず、公害を出さないサービス産業に努力の比重を移すべき、という。さらに「芸術、音楽、宗教、基礎的科学調査、運動競技、人との触れ合い」そして、このような活動ができるようなような余暇時間についても言及する。

(「ザ・グローバル・シチズン 村の現状報告」及び「100人村」の最後の文章である「踊ってください」の)踊ることはこういった種類の活動の象徴になれる。踊っているときは、消費しないし、何も買わないし、資源を使い果たさないし、汚染しないし、誰も搾取しない。(中略)踊るのに余暇は必要だが、富はいらない。踊ることは他人が貧乏であることに依存したり地球を壊したりせずに、人々に喜びと満足を与える数多くの活動のシンボルになれる。

「成長の限界」で要求された「考え方のコペルニクス的転回(大量生産・大量消費モデルからの脱却)」とは、金持ち国の人々(リッチ)が道徳的な理由から自ら進んで貧乏(プア)に戻らなくてはならない、という意味ではない。「富」や「貧困」という言葉の概念自体が変革されるべきという意味だ。踊ることは経済発展が決してもたらせない富の形を意味する。繰り返すが、踊るということは、文字通り音楽に合わせて踊ることだけを意味するのではなく、いろんな種類の(他者を搾取・支配しない)自由な自己表現のシンボルなのだ。

「考え方のコペルニクス的転換」には次のような(現代の多数派の認識とは逆の)認識も含まれるだろう。まず、主に仕事中毒と消費中毒でできており、その主な満足が「出世すること」「他人より抜きん出ること」「新しいものを買うこと」である生活は貧しい。そして、たとえ、物質的に質素でも(衣食住が保障され、貧困状況ではなく)、踊りや歌、音楽、芸術、愛、友情、その他の形の自己表現に注げるたっぷりの余暇と時間がある生活は豊かだ。
(世界がもし百人の村だったら 第二巻)

ミリオンセラーになった「世界がもし百人の村だったら 第一巻」よりも、「世界がもし百人の村だったら 第二巻」の方が、客観的データとその説明や学者や実地活動家の解説が豊富で、シリーズ内(全五冊)において圧倒的に内容が濃いです。どちらかをお勧めするとしたら、第二巻を僕はお勧めします。総集編として、安いバージョンが出ており(マガジンハウス文庫)、データ的には、こちらが最新です。

僕が初音ミクがいいなあと思うのは、初音ミクに、ダグラス・ラミス氏が書く、『踊り』を感じるというのがあります。『踊ることは他人が貧乏であることに依存したり地球を壊したりせずに、人々に喜びと満足を与える数多くの活動のシンボルになれる。』ミクも、またこういった、未来への希望のシンボルとしての力を持った存在だと僕は心から思います。

また、猫とか、動物を飼ったり、大切にすることも、そういった未来への希望だと思います。動物を飼ったり、大切にすることは、踊ることや歌うこと同じく、人類発祥の原初時からある、古い古代の喜びであり、そういった生命を慈しむ喜びを大切にすることが、とても重要だと思います。

ARIAで描かれるような、共生型社会(大量生産・大量消費の競争主義モデル社会ではなく、余暇と時間を重視する共生・共有モデル社会)に社会を少しずつでも切り替えてゆかないと、市場需要創出の為の大きな戦争が避けられなくなってしまうと僕は思います。

ダグラス・ラミスさんの文章は、一つには文章内で挙げられている「成長の限界」がベースとなっておりますが、もう一つには、スティグリッツやアマルティア・センら倫理的経済学者達と同じく、倫理的経済学を唱えたE.F. シューマッハーの倫理的経済学論がベースとなっております。こちらについて学術的に詳しく知りたいお方々には、シューマッハーの著書「スモール・イズ・ビューティフル」をお勧め致します。

体調不良が酷く、耳鳴りと頭痛が絶え難く、本当は、もっと書きたかった(フォーレのレクイエムやエンヤの音楽について触れようと思っていました)のですが、心身が酷い状態で、筆を置かせて頂きます。今後、更新が滞りましたら申し訳ございません。大変生活困窮しており、ギフト券、アフィリエイトでご慈悲がありましたら、心から深く感謝致します。お礼を申し上げます。最後がこのようになり、申し訳ございません。

参考作品(amazon)
世界がもし100人の村だったら
世界がもし100人の村だったら 2 100人の村の現状報告
世界がもし100人の村だったら 3 たべもの編
世界がもし100人の村だったら 4 子ども編
世界がもし100人の村だったら 完結編
世界がもし100人の村だったら 総集編 POCKET EDI (マガジンハウス文庫 い 1-1) (マガジンハウス文庫)
経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか (平凡社ライブラリー)
成長の限界―ローマ・クラブ人類の危機レポート
「成長の限界」からカブ・ヒル村へ―ドネラ・H・メドウズと持続可能なコミュニティ
スモール イズ ビューティフル―人間中心の経済学 (講談社学術文庫)
スモール・イズ・ビューティフル再論 (講談社学術文庫)
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2009年03月28日 00:32

私には夢がある―M・L・キング説教・講演集

お気遣い頂き、本当にありがとうございます。心から深く感謝致します。先日より非常に耳鳴りが酷く、病院に行ってきました。お薬を出してもらったんですが、頭が痛いです。病院に来ている人々が多くなっており、先のNHKのうつ病についての特集効果があるのかもしれませんが、今年度になって以降、精神の病を抱えたお方々が増えているように感じます。大勢のお方々の生活が大変になってきているというのはあると思います。生活保護は、生活保護申請を助けてくれる福祉団体等に相談しておりますが、かなり難しいみたいです。

先日、日本の社会保障問題が、ILO(国際労働機関)から指摘されました。僕も失業手当不受給者で、公的な援助は障害者自立支援法と障害者手帳以外何もないので、これをきっかけに、少しでも、日本の社会保障問題が、改善されてゆくことを望みます。

<失業手当>不受給77%…日本は先進国中最悪の水準 (毎日新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090325-00000033-mai-bus_all
【ジュネーブ澤田克己】国際労働機関(ILO)は24日、経済危機が雇用に与えた影響についての調査報告書を発表し、失業手当を受給できない失業者の割合が日本は77%で、先進国中最悪の水準にあると指摘した。2番目に悪い水準のカナダと米国(同率の57%)を大きく上回っているとしている。

他の先進国は、英国40%、フランス18%、ドイツ13%で、日本は受給できない人の割合が際立って多い。

日本の場合、失業手当受給に必要な保険料納付期間(1年)の制約のために受給できていない非正規雇用労働者が多いことなどが反映したとみられる。

報告書は特に、日米カナダの3国を列挙して「受給要件が(他国より)厳しいため、手当を受け取っていない失業者が半数を超えている」と指摘した。

失業手当を受給していない失業者の人数は、米国630万人、日本210万人、英国80万人、カナダ70万人、仏独がそれぞれ40万人で、人数でも日米が突出している。

また、先進7カ国で、今年初めまでの12カ月間に失業した人の数は、米国が410万人でもっとも多く、日本は2番目で29万人、3番目がカナダの20万7000人だった。

一方、途上国では、都市部だけで制度が運用されている中国で、都市部の失業者の57%が手当を受け取れていない。全国規模に換算すると84%近くが受給できていないと推定された。ブラジルも、失業者の93%が手当を受けていないという。

『国際労働機関(ILO)は24日、経済危機が雇用に与えた影響についての調査報告書を発表し、失業手当を受給できない失業者の割合が日本は77%で、先進国中最悪の水準にあると指摘した。』僕もこの一人(失業手当不受給者)です。現代日本の政治的方向性として、『働けざる者は須らく食うべからず』としか言い様のない、政界の与党自民党と財官学界の新自由主義主義者ら(竹中平蔵氏ら)が掲げ動かしてきた社会保障削減の大きな方向性(新保守主義)があり、その流れの結実ともいえる極めてよくない結果であると思います。

こういった流れを少しでも、押しとどめなければならないと思います。そのためには、よくないことはよくないと、不公正はおかしいと、きちんと、一人一人、声をあげないと、いけないと思います。僕もその僅かな一助になれれば幸いです。

既存の不公平な体制に、弱い層が異議申し立てをすることを、「ルサンチマン充」とか訳の分からない造語を唱えて否定してくる人々がいますが、ルサンチマンとは、哲学者のフリードリヒ・ニーチェが、神学的な既存体制(ルール)に対して、それの根拠のなさを明らかにしたときに使ったことで有名になった言葉であり、既存の体制に反逆する言葉です。力(権力の諸関係)を、善悪とは切り離してみるという考え方が根本にあり、例えば、ニーチェは日本の武士を称揚していますが、「道徳の系譜・善悪の彼岸」などを読めばわかるように、決してルール的(規範的)な「武士道」を称揚しているのではありません。ニーチェは武士を海賊と並べています。善悪の彼岸において、ニーチェは武士の野蛮な強さを力として肯定しています。そして、その野蛮な強さがどこからでてくるのかということで、きちんと、憎しみや怒りといったルサンチマンも挙げています。(先の「道徳の系譜・善悪の彼岸」「生成の無垢」等)。

例えば、明治維新時、その圧倒的な猛々しき人斬りの実践的強さで他流派の人々を恐怖させ、明治維新の原動力の一つとなった剣法「示現流」について、漫画家の平田弘史氏は島津藩と示現流の詳細な資料に当たり、『怨念の剣法ゆえ、恐ろしく強い』ということを作品に描いています。(平田弘史「薩摩義士伝」)。黄民基氏の文章が簡約かつ詳しいので引用してご紹介致します。

劇画家平田弘史の真面目を表した作品の一つに「薩摩義士伝」があろうかと思われる。(中略)そこには主家への「忠義の情」といった武士道のロマンチシズムはひとかけらも認めることができない。武士とは名ばかりの極貧の暮らしに縛られ、しかも上士(城士)−下士(郷士)の厳格な身分階級制に繋がれた郷士たちの怨念によって平田は「薩摩士魂」を浮かび上がらせている。

たとえば、「示現流」だ。凄惨な差別と貧困のもとでいつしか心の底に憎悪の鬼神を宿していった郷士らの、毎朝のように猿にも似た奇声を発し木々に木剣を打ち込んでは憎悪の感情をぶつける光景が登場するのだが、藩支配層がこれを「武道の鍛磨、不満の解消の一石二鳥」とみなして義務付け、さらには「示現流」を島津家の「家流」にしていくというくだりが実にドラスティックに表現されているのである。

「ひえもん(生臭いもの)とり」という当時の薩摩藩の秘話も披露している。「東西両軍に別れて死罪人を馬にのせて放ち、これの生肝を争奪するという実戦さながらの風習あり…」。朝夕の木剣の打ち込みだけではもはや鬱憤が晴れぬようになっていた郷士たちに、「古来よりの薩摩隼魂」注入の場としてこの慣わしを用い、彼らの不満解消をはかるとともに、国の気風を実戦さながらに培おうという、薩摩藩特有の軍法であったそうだ。示現流の由来といい、「ひえもんとり」というエピソードといい、他の時代劇画はいうに及ばず、時代小説も含めてここまで薩摩武士道の様を描いた作品はそう見当たるものではない。

簡略ながらこう説明していくと読者諸賢はお気付きになられるだろう。平田作品の醍醐味は緻密な時代考証がベースとなっている。平田の僚友、桜井昌一が「平田は、劇画家になって、連日のように天理図書館に通った。時代ものの資料を漁り、また、古文書の解読に興味をそそられて、当て字に悩まされながら、自己流の辞引などを作成していた」とふりかえっているように、創作にあたるたびに、平田は史書、古文書の類を懸命に紐解いたことだろう。京都三十三間堂の「通し矢」の由来を描いた「弓道士魂」、剣豪男谷精一郎の生き様を蘇らせた「オタニ伝」など、平田作品には、そうした彼の時代劇に寄せられる姿勢がうかがえる。
(黄民基「勝者の虚しさ」)

既存の体制を変えてゆくものとして、弱者の怒りの発露があり、その怒りを抑圧する体制側の決める善悪観こそは、体制側のルサンチマンであるということをニーチェは述べています。彼は、「強者は守らなければならない、なぜなら強者は少数であり弱いからだ」ということも述べています。強いと弱いの価値観がそこで逆転されています。きちんと不公正なことに対して、怒りを発露できるのが、公正なことであり、それができない一極的な支配(絶対的な支配)は否定されています。

僕は、今の時代にあった、公正な立場を求めて、不公正を是正してゆくことが必要だと思います。その為に、声を上げてゆく行為は大切と思います。僕は平和的(非暴力主義)で法を守った変革を望みます。少しずつでも、歴史を、公正さを持って、人々の幸せの為に進めてゆくことが大切と思います。

1963年6月23日デトロイト
コーボー・ホール解放大会演説
M・L・キング
「どうか南部全域のどの共同体でデモ行動に参加している人々も、暴力に訴えているなどと誰にも思わせないようにしてほしい。そんな人はほんの少数しかいない。というのはわれわれは非暴力の力を理解しているからである。われわれはこの方法が弱々しいものではないと理解している。なぜなら反対の只中で立ち上がることができる人は、つまり暴力が自分の上に加えられる只中で立ち上がり、しかも自らは暴力で仕返しをしない人は、強い人であるからだ。(拍手)

ご承知のように、この方法は敵対者を武装解除するやり方である。それは相手の道徳的防衛感覚を露にする。相手の士気を弱め、同時に相手の良心に働きかけて、自分でどうしてよいか分からなくしてしまう。もし彼があなたを打ちのめさなければ、それは結構なことである。だがもし打ちのめすようなら、あなたは報復することなしに、それを受け入れる静かな勇気を発揮するのである。もし彼があなたを投獄しないようなら、それは結構なことである。普通の感覚を持っている人なら、だれでも監獄など行きたくないのだから。だがもし彼があなたを投獄するなら、あなたは入獄して、そこを恥の地下牢から自由と人間的尊厳の港に変えるのである。(拍手)

そしてたとえ彼があなたを殺そうとしても、あなたは死に値するような何か高貴なもの、何か永遠に真実であるものがあることを信じられるような、内的確信を開発するのである。(拍手)

ここで私は申し上げたい。もし人がそのために死ぬような何かを発見しないとすれば、彼は生きるに値しないのだ、と。(拍手)

この方法は奇蹟を生み出してきた。たとえば非暴力的フリーダムライド運動の結果、公共交通における人種隔離は南部ではほとんど完全に消えてしまった。ランチカウンターにおける座り込み運動の結果、南部では285以上の都市がそのランチカウンターを統合してしまった。このように、この方法には力があるのだ。(拍手)

さらにこの方法に従うことによって、今勃興しつつある新しい時代に、われわれが正しい態度で臨んでいけるように導いてくれるだろうと、私は考えている。なぜなら非暴力は、その信奉者に外的肉体的暴力を避けるように呼びかけるだけでなく、精神の内的暴力をも避けるようにと呼びかけるからである。それは信奉者たちに、愛と呼ばれる何ものかに参与するように呼びかけている。それはしばしば難しいことであることを、私は知っている。だが、この時点で私が「愛」と言う時、それは好きになる感情といったものではない。

抑圧されている人々に向かって、彼らの抑圧者を感情的に好きになれと言っても、それはナンセンスである。私が言っているのはもっとずっと深い事柄である。それはある種の英知であり、万人に対する創造的な、贖罪的な善意のことである。(拍手)」(後略)

エドワード・M・ケネディ
われわれは雇用差別を終わらせ、共同体のあらゆる人々に仕事が行き渡るようにしなければならない。また最低賃金は労働する男たちと女たち、そしてその家族たちの生活レベルを十分に高めるものでなければならない。それゆえわれわれは、キング博士が語ったと同じ希望と愛と誇りをもって、正義と平等のために戦い続けていかなければならない。キング博士の夢はわれわれの夢でもある。彼の感動的な言葉はわれわれに、暗黒の昨日を輝かしい明日に変えようとした基本的使命感を保ち続ける新しい力を与えるであろう。

(公民権および経済的権利を生涯にわたって擁護し続けてきたエドワード・M・ケネディは、1962年以来マサチューセッツ州選出の民主党上院議員である。)
(M・L・キング「私には夢がある M・L・キング説教・講演集」)

僕はキング牧師の上記の非暴力のくだり、彼が亡くなった後もずっと引き継がれているくだりがとても好きです。『抑圧されている人々に向かって、彼らの抑圧者を感情的に好きになれと言っても、それはナンセンスである。私が言っているのはもっとずっと深い事柄である。それはある種の英知であり、万人に対する創造的な、贖罪的な善意のことである。』このセンテンスがとても好きです。彼はここで、最も気高いものについて述べていると思います。

色々と書きたい想いはあるのですが、疲労が酷く、文章書くのが限界で、ここで筆を置かせて頂きます。申し訳ございません。ギフト券、アフィリエイト、ご慈悲ご支援頂けるお方々いらっしゃいましたら、心から深く感謝致します。

皆様方の未来に平安あることを祈っております。

参考作品(amazon)
薩摩義士伝 (1) (SPコミックス―時代劇シリーズ)
私には夢がある―M・L・キング説教・講演集
キング牧師―人種の平等と人間愛を求めて (岩波ジュニア新書)
小型聖書 - 新共同訳
聖書名言辞典

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2009年03月27日 03:58

テデスコ:ゴヤによる24のカプ
[豪華愛蔵版] 楳図かずお・イアラ

最近、急激に寒くなったためか、熱はないのですが、先日より頭痛と耳鳴りが酷く、体調がよくありません。寒いので、寒くて布団をかぶって床に伏せっていることが多いです。ときどき猫も布団の中にはいってきて、その時は暖かくなります。猫は気ままなので、すぐどこかに行ってしまうのですが、それも猫の猫たるゆえんかなあと思います。

僕はクラシック系統から流れている近現代音楽が好きでして、アルヴォ・ペルト、ジョン・ケージらミニマル・ミュージックなどの前衛も好きですが、ネオ・ロマンティシズム、ネオ・クラシカル、新古典主義の流れも好きです。この流れのなかにある音楽家の音楽、先にご紹介させていただきましたショスタコーヴィッチ、メシアン、メトネル、エネスコ、ベルク、C=テデスコ(マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ)、フィリップ・グラス、サミュエル・バーバーなどの音楽をよく聴きます。

ネオ・ロマンティシズム、、ネオ・クラシカル、新古典主義の音楽作品の大きな特徴としては、極めて率直に語れば、多くはおうじて暗いということが言えると思います。勿論、これだけではないと思うのですが、主に、世界中を巻き込んだ恐慌と戦争、そして大量殺戮、第一次世界大戦、世界大恐慌、第二次世界大戦と、人類史上例をみない様々な大量殺戮によって、人類と世界に対して、希望が持てなくなっているアーティストの心情が反映され、ロマンティシズムやクラシカル(古典主義)が挫折と屈折を持ってもう一度、絶望を持ってやりなおされていると言われています(ネオ・ロマンティシズム、ネオ・クラシカル、新古典主義)。

そこにおいて、狂熱的な情緒は常に危ういという意識が醸成されており、暗く、冷ややかな香りのする、情緒ではなく理性を重視する、そして理性をも冷たく見据える醒めた音楽(ネオ・ロマンティシズム)を大きな流れとして、近現代のクラシカル(古典主義)の流れを継ぐネオ・クラシカル(新古典主義)は創造されていると思います。

前置きが長くなりました。ネオ・ロマンティシズムにおいて、僕の好きな音楽家の一人、C=テデスコの「ゴヤによる24のカプリッチョ」をご紹介致します。これは、日本人であって良かったと思える数少ないクラシックの好アルバムで、僕の知る限り、この曲のアルバムは日本からしか出ていません。この曲の全曲録音をしているのが、日本人の世界的クラシカル・ギターリスト山下和仁さんただ一人だからです。

山下和仁(ウィキペディア)
山下 和仁(やました かずひと、1961年3月25日 - )は日本を代表するクラシックギタリストである。
1961年長崎市生まれ。幼い頃から父 山下亨にギターを学ぶ。16歳の時にラミレス(スペイン)、アレッサンドリア国際(イタリア)、パリ国際(フランス)の世界三主要ギター・コンクールにいずれも史上最年少記録の16歳で1位となる。

通常のクラシック・ギターのレパートリーのみならず、超絶技巧を駆使したオーケストラ作品の編曲でも知られ、ヴィヴァルディ「四季(ジャズギタリストであるラリー・コリエルとのデュオ」、ストラヴィンスキー「火の鳥」、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータや無伴奏チェロ組曲、リストの「ハンガリー狂詩曲第2番」などをギター独奏に編曲、特にムソルグスキーの「展覧会の絵」(ドイツ・レコード賞受賞)の全曲演奏は有名。

山下和仁さんは、クラシック音楽(ギター)において現在、全世界的に誰もが認める最高峰に位置する演奏家です。基本的に国内市場で完結しており、クラシック始め、全世界的に音楽を発信することを苦手とすることの多い日本人演奏家にしては極めて稀な、全世界的クラシカル・アーティスト(クラシカル・ギタリスト)です。日本国内だけでなく、海外での評価も日本と同等以上に高い、世界的な実力の持ち主です。

先に書きましたとおり、C=テデスコ「ゴヤによる24のカプリッチョ」を全曲録音しているのは、僕の知る限り、現在のところは山下和仁さんのみなので、山下和仁さんのギターもテデスコの音楽もゴヤの絵画も好きな僕にとってはとても嬉しいアルバムの一枚です。日本のアーティストが成した好快挙だと思います。

ただ、この界隈は、クラシック好きの知るひとぞ知るという世界なので、商業的な成績としては、日本国内で成功しているJPOPなどのアーティストとは売り上げが全然違いますが(結果、ますます知られないことになります)、それでも、世界初の全曲録音として、世界的に評価されたアルバムであり、こういうアルバムが、未だに絶盤にならずに出ているのは嬉しいことです。日本クラウンにクラシックを長期的な長い眼で見ている、文化に理解のあるお方がいらっしゃるのかなと思います。

本アルバムは「ゴヤによる24のカプリッチョ」は、ゴヤの第一版画集「ロス・カプリチョス」のサウンドトラック(背景音楽)としてC=テデスコによって作曲されたもので、ライナーノーツにそれぞれの版画の縮小版コピーが載っています。絵を見ながら、音楽に想い馳せる形態の、いわゆるサウンドトラックであり、第一版画集「ロス・カプリチョス」を持っている人向けですが、ライナーノーツに「ロス・カプリチョス」の版画が全て解釈とともに載せてありますので、版画集を持っていなくても大丈夫です。僕も版画集持っていません。うつ病になる前から、ゴヤは好きなんですが、版画集が買えるほどお金がありませんでした。

余談ですが、僕がゴヤが好きなのは、楳図かずおさんのコミックが子供の頃から好きだったという影響があると思います。僕は、最初にゴヤの絵画を見たとき、楳図さんだなあと懐かしく思いました。勿論、これは順番が逆で、ゴヤが先に楳図さんに影響を与えている、楳図かずおさんが、ゴヤを意識した漫画を創り、それを先に僕が読んで、ゴヤの絵を見たときに親近感と懐かしさを感じるという形です。ゴヤの絵画がお好きなお方には、楳図かずおさんの「イアラ」とその短編集などを心からお勧め致します。閑話休題致します。

ゴヤの第一版画集、「ロス・カプリチョス」は、貴族や聖職者などの特権階級を風刺していた為、異端審問所の手入れが入りそうになり、ほとんどが回収されてしまったという経歴を持ちます。基本的に堕落を描いた風刺版画集であり、C=テデスコの暗いネオ・ロマンティシズムによる作曲と、それを見事に弾きこなす山下和仁さんの淋しげかつ主知主義的なギターの音色が素晴らしくよく合っています。ライナーノーツから引用致します。

スペインの大画家フランシスコ・ゴヤが1799年に出した版画集「ロス・カプリチョス」についてはべつに説明される通りだが(既存体制に対する風刺版画であり、異端審問所を恐れて回収になった)、甘美な宮廷画家の一面とはまるで異なった皮肉な風刺、この版画集に曲をつけてみようとは、また卓抜な思いつきであった。若い頃からシェイクスピアに親しみその全作品に通じていたことからも察せられるように、C=T(テデスコ)は非常な教養人であり、ギリシャ、ラテン、ヘブライ各語を含む数ヶ国語を原書で読んだ。美術にも深い造詣を持つ彼がゴヤの版画集をとくに対象としたのは、祖先の地に繋がるスペインへの愛着とともに、すぐ前の年に完成した「プラテーロと私」により、ギターという楽器の「イラストレーション効果」に興味をかきたてられたからに違いない。「プラテーロと私」の場合と同じように、一曲一曲は独立した価値を備えていると同時に、絵への「付随音楽」(サウンドトラック)でもある。当CDでも(ライナーノーツに縮小版画集を収録した事で)実現するように、版画と共に味わうのが、やはり最も正しく、かつ楽しい方法であろう。
(C=テデスコ「ゴヤによる24のカプリッチョ」ライナーノーツより)

ゴヤの第一版画集ロス・カプリチョスは、「プラテーロと私」より更に1,2世紀古い(18世紀に出版)なので、今のところ、世界で最も古いサウンドトラックの組み合わせ(18世紀に出たゴヤの版画集への付随音楽として、1961年、本曲が完成し発表された)であると思います。その辺も考えながら、ライナーノーツを捲りながら音楽をゆっくり聴いていくと、色々と感じるところのある、ユニークで優れたサウンドトラックではないかと、僕は思います。

頭痛が酷く、これ以上文章が書けそうになく、申し訳ありません。ゴヤの版画が気に入ったお方々には、楳図かずおさんの「イアラ」をお勧め致します。これは逆のことも言え、楳図かずおさんの漫画が好きなお方々には、ゴヤは見る価値深い画家であると思います。また、クラシカル・ギターの響きが気に入りましたら、ロドリーゴの「アランフェス協奏曲」をお勧め致します。

頭痛が酷く、あまり更新できず申し訳ありません。たいへん生活苦につき、あまり頭が動かず、どうかご慈悲ありましたら、心から感謝致します。

参考作品(amazon)
テデスコ:ゴヤによる24のカプ
テデスコ:《プラテーロとわたし》
悪魔のカプリッチョ〜カステルヌオーヴォ=テデスコを弾く
山下和仁ギター小品集/鳥の歌 [DVD]
ロドリーゴ:アランフェス協奏曲
[豪華愛蔵版] 楳図かずお・イアラ

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2009年03月26日 03:34

私には夢がある―M・L・キング説教・講演集

先より調子が悪く、心痛が酷いです。先に政治論を論争した高橋直樹氏が、僕の文体を真似した文章を書いた後、創造性皆無の駄文であるなどとこちらの心を痛めつけるだけの嫌味を書いて、全く政治論的に何の意味もない、せこい嫌がらせをしてくるので、お腹の痛いのが酷く治らず、体調崩しております。

また、もうすぐ月末なので、アフィリエイトの収入パーセンテージがあがるかどうか心配で、昨年は4〜5.5%ぐらいだったのが、今年に入ってから1月2月ずっと4%〜ぐらいで、今年に入ってから収入が低下してきていて、アクセス数と照らし合わせて見ると、きっと不景気の影響があると僕は思うのですが、借金と重ね合わせて、心配です。月末は、カードローンの支払い請求書と、amazonの収入振込みがあるので、収入振込みがあってから、すぐに借金を返すようにしていて、お金を上手く回せるかで、気持ちが重いです。

生活困窮につき、ギフト券、アフィリエイトでご慈悲を持ってお助けくださるお方々がいらっしゃいましたら、心から感謝致します。

今日は僕の好きな本と好きな音楽CDをご紹介致します。僕の好きな本は、鹿島茂さんの著書「バースデイ・セイント」とM・L・キング牧師の「私には夢がある M・L・キング説教・講演集」です。まず、「バースデイ・セイント」からご紹介致します。

この本「バースデイ・セイント」は、うるう年も含めた、366日のそれぞれの守護聖人をその聖人のエピソードをご紹介している本で、一日にコンビで代表的な守護聖人がいる場合もあり(1/2、9/26など)、また、その日のその他の守護聖人についても載っている、守護聖人ハンドブックとでもいうような内容で、読んでいると心慰められます。守護聖人の人間的なエピソードが載っているので、コミックの「聖☆おにいさん」とかお好きなお方々には、聖人の人間味を身近に感じて、楽しめるご本ではないかと思います。例えば、1月1日はこんな感じです。

1月1日
「聖テレマキウス」
400頃。古代ローマでは剣闘士による死を賭した競技がコロセウムで行われていた。東方(オリエント)出身のテレマキウスは1月1日の大競技会の折に、その殺し合いをやめさせようと、剣闘士が闘っているコロセウムに降りていったが、競技が中断されたことに憤怒した観衆の手により殺されてしまった。これを知ったオリノウス帝は、血を流す見世物を廃止させたという。

剣闘士の殺し合いをやめさせようとして殺されたことから剣闘士の守護聖人となる。ボクサー、レスラー、カラテ、柔道、合気道、K-1、アルティメットなど格闘家の守護聖人と見なしてよい。

「剣闘士の守護聖人」、その本来の姿とは、愛と平和を望む自己犠牲心の象徴。
(鹿島茂「バースデイ・セイント」)

こんな感じで、自分の誕生日の守護聖人や、自分の仕事の守護聖人が分かる本で、読んでいると、心が癒される、癒し系の本です。聖人の善行(聖テレマキウスは善行の結果、殺されてしまいましたが、善行を行って天寿を全うした聖人も沢山います)がずらっと載っているので、読んでいると、ほっとします。

僕のような、大変困っている人の為の守護聖人もいます。聖ユダです。引用してご紹介致します。

自分の誕生日や洗礼名にちなんだ聖人を守護聖人とするほか、職業や身分で守護聖人を選ぶ場合もあります。というのも、各々の守護聖人にはそれぞれ守護分野というものがあって、その守護分野に属する職業や身分の人々を守ってくれるのです。(例えば、1月1日の守護聖人聖テレマキウスは、格闘家を守護する)。(中略)

またそれぞれの守護聖人は、職業、身分ばかりか、教区や町や国を保護し、さらには病気や災難からも人々を守ってくれると信じられています。

フランスは聖女ジャンヌ・ダルクとリジューの聖女テレーズ、アイルランドは聖パトリック、スコットランドやロシアは聖アンドレ、パリは聖女ジュヌヴィエーヴと聖ドニをそれぞれ守護聖人にしています。ちなみに日本は聖ミカエルです。

皮膚病だと聖アントニウス、出産のときには聖女アンナと聖女ドロテア、火事の時は聖アガタ、絶望して、どうしようもないときは聖ユダなど、それぞれの守護聖人の名前を唱えて祈ります。同じく「アンジェラの灰」(フランク・マコートの小説)には、やたらとこうした救難聖人に祈る場面がでてきます。

「聖ユダ様、どうしようもない場面の守護聖人様、お助けください。私はどうしようもありません」

聖ユダというのはキリストを裏切ったイスカリオテのユダではなく、「タダイのユダ」と呼ばれる12使徒のひとりですが、混同されやすいため、使徒の中では(イスカリオテのユダと名前が同じということで)冷遇されてきました。

ところが、そのため、逆に、不当に差別されたり、絶望した人の守護聖人になったのです。
(鹿島茂「バースデイ・セイント」)

今の僕は聖ユダさんにひたすら祈るという感じです。ちなみに、コミックの聖☆おにいさんに出て来る、ミクシーのユダさんは、こっちのユダさん(タダイのユダさん)のネタでいずれやるのかな、「ユダ違いだよ」みたいな展開で行くのかなと思っています。この漫画も好きだったんですが、うつ病になって失業してから生活に余裕なく読んでいないので、今どのような展開かわからないです。

バースデイ・セイントの聖人の話に引き続き、20世紀の最大の聖人の一人、M・L・キング牧師の話に移らせて頂きます。

キング牧師については、彼の語ったことが全てであって、彼の講演集「私には夢がある M・L・キング説教・講演集」を読むのが、一番良いのではないかなと思います。読んでいるだけで心打たれます。本書から幾つか、好きなところを抜粋して紹介させて頂きます。

われわれに投票権を与えよ
1957年5月17日ワシントンDCリンカーン記念堂
自由のための祈りの巡礼における演説

『われわれはその闘い(黒人公民権運動)において、自らの手が潔白であることを確認していかなければならない。決して偽りや憎悪や悪意をもって闘うようなことがあってはならない。どうかお互いに決して怨恨を持つことがないようにしよう。

たしかに、われわれが時にどんな感情になるかを、私は知っている。余りにも長い間悲惨な抑圧の闇夜の真っ只中を生きざるをえなくされてきたわれわれには――ただただ踏みにじられてきた者であるわれわれには――、たしかに怨恨を抱くようになる危険がある。だが、もしわれわれが怨恨を抱き、憎悪のキャンペーンを張るようになるならば、今勃興しつつある新しい秩序も所詮は古い秩序の複製に他ならないものになってしまうだろう。

われわれは憎悪に対しては愛を対決させなければならない。肉体的暴力に対しては魂の力を対決させなくてはならない。時の流れを越えて今も叫ぶ声が聞こえる。

「あなたの敵を愛し、あなたを呪う者を祝福せよ。あなたをののしる者のために祈れ。(注:マタイ福音書第五章を参照)」

その時に、そしてその時にのみ、あなたは「永遠の命」という大学に入学を認められるのである。その同じ声が宇宙大の音声で叫んでいる。

「剣を取る者は皆、剣で滅びる。(注:マタイ福音書26・52)」

と。そして歴史は、この御言葉に従わなかった諸国民の白く枯れた骨で満ちている。われわれは非暴力と愛の精神に従っていかなければならない。

今、私は感傷的で浅薄な愛について語っているのではない。私は美的でロマンティックな愛である「エロス」について語っているのではない。また私は個人的友人同士の親近感情である「フィリア」について語っているのでもない。私が語っているのは「アガペー」(注:無償の愛の意)についてである。

私は人々の心の中にある神の愛について語っているのである。わたしが語っているのは、一方でその人がなす悪事を憎みつつも、悪事をなす人を愛するように促す愛についてである。われわれはそのような愛を実行しなくてはならない。(中略)

(白人至上主義によって貶められているアジアやアフリカの地位向上、黄色人種の日本人も含み、全世界的に貶められている有色人種全体の地位向上を訴えた後)われわれは決して、われわれの勃興しつつある自由と育ちつつある力を、白人少数者に対して、何世紀にもわたってわれわれが受けてきたのと同じことをするために用いてはならない。われわれの目標は決して、白人を打ち負かしたり辱めたりすることではない。われわれは黒人が優越しているという哲学の犠牲に陥ってはならない。神は単に黒人や褐色人や黄色人を解放することにだけ関心を持っておられるのではなく、全人種を解放することに関心を持っておられるのである。

われわれは断固として次のような社会を創り出していかなければならない。すなわちそこでは、黒人が優越していて他の人々は劣等であるとかあるいはその反対であるとかいうのではなく、全ての人々が兄弟として共に生き、人間としての人格の尊厳と価値を尊重し合うような社会をである。』
(M・L・キング牧師。「私には夢がある M・L・キング説教・講演集」)

この本は感動的な演説でキング牧師に魅了される本で、他にも引用したいところが沢山あったのですが(特に非暴力の大切さについて解くところ)、体調が極めて悪く、キーを叩くのが限界で、あまり引用できず、申し訳ありません。ぜひ、皆さんに読んで欲しい本の一冊です。本書の副読本として岩波ジュニア新書の「キング牧師―人種の平等と人間愛を求めて」をお勧め致します。この本(私には夢がある M・L・キング説教・講演集)には現在もチベットの人々の人権と自由のため、政治活動中のダライ・ラマさんの文章も載っておりますので、抜粋してご紹介致します。

その背景は全く違っていたにも関わらず、キング博士はマハトマ・ガンディーと共に、近年の更なる平和革命にとっての絶えざる希望の光であった。そしてその平和革命は今度は未来の世代に対して、成功した非暴力的変革の素晴らしい範例になっていくであろう。これら偉大なる両人が主張したことは、平和と自由への願望は人間性の最も基本的なレベルに存在するものであり、暴力はその正反対のものであるということだ。(中略)

私(ダライ・ラマ)は自分自身の経験から、彼が非暴力を奉じたため蒙った圧力と悲しみを深く理解することができる。今日四十年以上による占領を経たチベットにおけるわが民の状況は、キング博士がそのために戦ったアフリカ系アメリカ人のそれに、非常によく似ている。彼らは自分自身の国で抑圧されたマイノリティとなってきたのである。それゆえ、私はアメリカにおける公民権に対する彼の偉大な貢献を想起しながら、この講演を読む人々に向かって、是非ともチベット人に対してだけでなく、全世界の基本的人権を奪われているすべての人に対しても、何らかの関心を寄せていただきたいと、訴えるものである。
(ダライ・ラマ。「私には夢がある M・L・キング説教・講演集」より)

この本(私には夢がある M・L・キング説教・講演集)とてもよい本で、ぜひご一読をお勧めします。

最後に、ジャズのお勧め盤をご紹介致します。ニーナ・シモンさんの「ベスト・オブ・ニーナ・シモン」です。彼女は、『お飾りとしての女性歌手』ではなく、はっきりとした、『自律的な女性歌手』としての歌を歌った黒人歌手さんで、ピアノを弾きながらジャズソングを歌い、そのピアノの腕が素晴らしく、しかも弾きながら素晴らしい声で歌っているので、凄いです。黒人の地位向上と女性の地位向上、そして女性歌手の地位向上に大きな役割を果たした歌姫さんです。女性歌手が独立した歌手、男性歌手と対等な歌姫であると認められているのは、彼女の功績が大きいです。

かつてピアニストの八木正生が、「ニーナのピアノは凄い」と賛めていたことがあある。彼女はピアノに徹していたとしても、十分ジャズ界で活躍できた筈である。ピアノの弾き語りのうまさからいえば、ナット・キング・コールに匹敵する存在だったといえるだろう。(中略)

ニーナ・シモンの歌はまずそのたくましさに圧倒されるが、戦前の女性歌手はビリー・ホリディなどごく一部の例外を除けば、可憐なタイプが多く、悪い言い方をすれば、男性の愛玩的な可愛い歌い方の歌が多かったが、ニーナこそが女性解放時代の先駆者ともいうべき歌い方に徹して時代をリードした一人であった。
(岩浪洋三「新しいジャズ・ヴォーカルを開拓したニーナ・シモン」)

ぜひ、彼女が歌う、「ホワイ(キング牧師は死んでしまった)」を聴いて欲しいです。ニーナ・シモンは人種差別と女性差別という二重の差別を受けて苦しみながら、歌を歌って差別撤廃の公民権活動・女性解放活動に参加したアメリカの偉大な歌姫さんです。

これ以上、疲労が酷く、書けそうにないので、最後にキング牧師の言葉をもう一度引用させていただきます。生活困窮にて、ご慈悲あるお方々いらっしゃいましたら、心から感謝致します。

人々が至るところで自身の肉体のために日に三度の食事をとることができ、知性のために教育と文化を学ぶことができ、魂のために尊厳と平等と自由を得ることができることを、私は大胆に信じている。利己的な人間がぶち壊したものを利他的な人間が築き上げ得ることを、私は信じている。
(M・L・キング牧師。「私には夢がある M・L・キング説教・講演集」)

参考作品(amazon)
私には夢がある―M・L・キング説教・講演集
キング牧師―人種の平等と人間愛を求めて (岩波ジュニア新書)
バースデイ・セイント
アンジェラの灰 (上) (新潮文庫)
アンジェラの灰 (下) (新潮文庫)
ベスト・オブ・ニーナ・シモン
小型聖書 - 新共同訳
聖書名言辞典
聖☆おにいさん 1 (1) (モーニングKC)
聖☆おにいさん (2) (モーニングKC)
聖☆おにいさん 3 (3) (モーニングKC)

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2009年03月25日 17:13

現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書)
Rain

先より大変心痛が重く、腹痛治らず、あまり更新できそうになく申し訳ありません。今、お金がなくて、情報等も手に入らない状況なので、図書館に行ってきました。凄い雨でした。雨なので、雨の音楽アルバム「Rain」を借りてきました。雨をテーマにした暗いしっとりとした歌のみがおさめられている、昔から僕の好きなアルバムです。暗くて静かな雨の歌を、雨の日に聴くのは、心やすらぐことと思います。

僕は、現在失業中で、障害等級第三級のうつ病の精神障害者で、家が貧しく頼る縁戚もなく、ギフト券とアフィリエイトのみで生活しております。助けて下さるお方々に心からお礼申し上げます。本当にありがとうございます。心から感謝致します。現在財産がマイナス状況(カードで生活費を捻出することによる借金)になっているので、法的には生活保護を受けられる状況の筈ですが、保護申請を跳ねられています。

今月、やっと厚生労働省が、重い腰をあげて、生活保護基準の改善通達を出したようですが、生活保護が受けられない若年・壮年の大勢の人々の根幹的な「跳ねる理由」になっている「稼動年齢(稼動状況)」の曖昧な判断のところが何も改善されていない通達の為、僕のような若年層・壮年層の失業者が保護を受けるのは引き続き極めて困難と思われます。

NPOもやい「厚生労働省が生活保護運用に関する新たな通知を出しました」
http://www.moyai.net/modules/weblog/details.php?blog_id=483
(3)適切な審査の実施
 生活保護の決定に当たっては、急迫の場合を除き、通常の手順に従って必要な審査を行った上で、法定期間内での適切な処理に努める必要がある。
 特に、稼働能力の活用の判断に当たっては、保護の実施要領の規定に従い、(1)稼働能力があるか否か、(2)その稼働能力を前提として、その能力を活用する意思があるか否か、(3)、実際に稼働能力を活用する就労の場を得ることができるか否か、により判断することとなる。
 したがって、単に稼働能力があることをもって保護の要件を欠くものではないが、一方で、実際に稼働能力を活用する就労の場を得られるにもかかわらず職に就くことを拒んでいる場合は保護の要件を欠くこととなる。このため、本人の生活歴・職歴等を聴取し、本人の稼働能力に見合った就労の場が得られるかどうかについて十分見極め、必要な支援を行われたい。

生活保護の受給については、上記の「急迫の場合」というところ(路傍で高熱で病死しそうになっている等)に当てはまらないと、若年層・壮年層は、どんなに貧窮していても「まだ家賃を払えるなら大丈夫だから就職活動に励んでください」「ネットカフェに泊まって昨日食事取ってるならまだ大丈夫だから就職活動に励んでください」というような形で、生活保護が受けられないケースが多々あります。僕も、もっと切羽詰らないと(ありとあらゆるものを失ってホームレスになった状態)じゃないと、年齢的に生活保護を受けるのは難しいと言われています。

稼動年齢、20歳から65歳までの間に起きましては、基本的に稼動状況(働ける状況)とみなされ、失業していて生活が貧窮していても、生活保護は受給されないケースが僕だけではなく、数多くあります。ホームレスになって、着のみ一枚で何もかも失った状況で、NPOの職員さん、ボランティアの弁護士さん、福祉団体の職員さんなどと一緒に行って、ギリギリ支給されるかどうかという状況が大半のようです。ホームレスの人が一人で役所に行っても跳ねられます。現状は『稼働能力があること(20歳〜65歳であること)をもって保護の要件を欠くと判断する』という大本の運用(保護を基本的に受けさせないスタンス)であり、この通達はそれを限定的に認めている(現場側の判断でどうにでもなるよう書かれている)ため、この状況が大幅に改善されるとは、残念ながらとても思えません。

岩田正美さんの著書「現代の貧困」(良書です、ご一読お勧め致します)に書かれていますが、日本の貧困問題の最大の原因の一つは、生まれ持っての環境の差、すなわち、貧困な家に生まれるか、孤児などの場合は、生涯、貧困に苦しむ確率が極めて高く(日本には貧困者や孤児達に対するセーフティネットが皆無であり、非常に極限的な状態に置かれる)、日本の社会保障の貧困層・ハンディキャップがある層に対する諸外国でも例をみない貧弱さは他の先進国と呼ばれる国の中では例をみない苛酷なものと分析しています。

日本は基本的に、保険型福祉制度のみの国家であり、保険金(年金・健康保険等)を払える負担可能世帯と貧困で払えない負担不可能世帯の間に断絶があり、後者は生涯生存が貧しい状況に置かれます。万人に対する保護制度が日本においては機能していないため、高い保険金を払える人々に対するリターンが大きく、保険金が小額しか払えない下流層、保険金自体が払えない貧困層は、リターンが負担に比べ低いか、もしくは全くない状態(僕のような無年金障害者はこのカテゴリに含まれます)に置かれます。

先の書によりますとデータ的に日本は逆累進性(富者に有利、貧者に不利に社会保障が制度設計されている)が極めて大きい、先進諸国の中でも極めて不平等な国家です(制度としては公平福祉が充実している欧州から遠く、自己責任論の強いアメリカの不公平福祉にやや近いです)。近年状況が悪化しており(医療費負担割合UP、法人税引き下げ、累進課税のフラット化等の措置、すなわち、富の再分配の縮減、逆累進性及び所得階級化の強化が進んでいます)、逆アファーマティヴ・アクション(貧者に対する差別化措置強化)が法施策として行われている状況です。

少しずつでも、このような状況を、改善してゆかないと、僕が生きのびれないのは諦めており仕方がないとしても、この後、世界的な大不況の中で、大勢の人々が貧しい層から死んでゆくことになる、それは起きてはならないことだと心から思います。貧しい弱い層は、炭鉱のカナリアであって、こういった層が、国家権力から死に追い込まれるような状況は、その国家にとって極めて危険な方向性です。

今、大手マスメディアは全然報道してくれませんが、障害者の雇用切りが猛ピッチで進んでおり、特に、障害年金を受給できない僕のような無年金障害者にとっては、大変危機的な状況で、デイケアで知り合った僕の友人達もやはり大変な状況になっていて、困っています。日本では、精神障害に対する法定雇用率が定められていない為、凄い勢いで、今まで勤めていた友人が首を切られています。

今、失業して生活困窮し限界状況に置かれている人が僕だけじゃなく、一番弱い層からどんどん増えていて、もっと、社会保障において、抜本的な改革を行わないと、機能不全を起こしている現行制度では、大勢の人々が、生命を失う可能性が高く、胸を痛めています。

こういった社会の方向性を防ぐ為には、トニー・ジョー・ホワイトが「雨のジョージア」で歌ったように、一人一人が、自分のできることを、精一杯やってゆくしかないと思います。僕も、無力ながら、一生懸命やろうと思っています。

初音ミクとニコニコ動画の嬉しさ。映画「ブラス!」グライムソープ・コリアリー・RJBバンド「ワルキューレの騎行」エンヤ「ウォーターマーク」ショルティ「ゾルターン・コダーイ:ハンガリー詩篇」「ヨコハマ買い出し紀行」
http://nekodayo.livedoor.biz/archives/770074.html


上記エントリに書きました通り、生活苦しく、ご慈悲あるお方々いらっしゃいましたら、心から感謝致します。

「雨のジョージア」を引用致します。恋人を失い、雨の中で歌を歌っている哀しげなホームレスの歌です。

トニー・ジョー・ホワイト
「雨のジョージア」

スーツケースのかたわらをうろつき
夜をすごせる暖かい場所を探している
土砂降りの雨が降っているよ
君の呼ぶ声が聞こえるような気がする
大丈夫だよと

夜 ジョージアに雨が降っている
夜 ジョージアに雨が降っている
世界中で雨が降っているんだ

ネオンがちかちか光り
夜の中を走り抜けるタクシーやバス
遠くの方でうなっている電車は
まるで夜に悲しいリフレインを添えているようだ

夜 ジョージアに雨が降っている
夜 ジョージアに雨が降っている
世界中で雨が降っていると思うんだ

どんなに考えても
いつも同じ答えがでるんだ
どう見ても どう考えても
自分のなすべきことをなすしかないんだ

貨車を寝場所にして
時を過ごすためにギターを取り出した
夜遅く 眠れないとき
君の写真を胸に当てると
僕は頑張れる

夜 ジョージアに雨が降っている
夜 ジョージアに雨が降っている
世界中で雨が降っていると思うんだ

そうさ 雨が降っているんだ
(オムニバスアルバム「Rian」)

生活苦しく、どうか、ご余裕あり、ご慈悲あるお方々いらっしゃいましたら、心から深く感謝致します。

最後に、おくばせながら、WBC優勝おめでとうございます。イチローが最後に打った時には涙がでました。九回に起用されたダルビッシュが不調だったので、うつ病で悲観的にしか考えられないのか、九回で同点に追いつかれたとき、なんでダルビッシュに変えたんだろう、これでは次の回で日本がサヨナラ負けかなと思いながら見ていたので、10回表ツーアウトツーストライクからイチローが逆転打を売った時は驚きました。イチローが打った球がこちらに飛んでくる感じで、見ていて涙が出ました。

僕は今後、どうなるかわからず、貧窮死する可能性もあると思いますが、極限まで追い詰められると、「どう見ても どう考えても 自分のなすべきことをなすしかないんだ」という「雨のジョージア」の歌の通りだと思います。どうか今後の世界が、猫がずっと元気でいてくれる豊かな世界だといいなあと心から思います。

イスラエルにおいて、本年度、選挙で勝利した右派政党と極右政党によるタカ派連立が成立しております。今後の中東情勢の一段とした悪化が予想され、とても無念に思います。炎が降るような世界が訪れないことを、心から深く願います。

TAKE6
「イッツ・ゴナ・レイン」
聖書の昔
ノアは人々に雨が降るだろうと言った
彼がそう言っても誰も気にしなかった
そして雨がふり 誰もが置き去りにされてしまった

雨が降るだろう 雨が降るだろう
準備して 気を確り持った方がいい
神はノアに虹の光を見せて言った
この次の時は水ではなく炎だけが降るだろう
(オムニバスアルバム「Rain」)

ロバート・ブライ詩集より
「ケルン・コンサートを聴きながら」(抜粋)

僕は君の眼のなかに涙を見た
ほかからみられないように 君が
そっと顔をそむけるのを見た

男たちと女たちが一緒に来るときは
彼らはどれだけたくさんのものを
棄てねばならないことだろう!
ミソサザイは
優雅な糸や
紐の切れっ端で 巣を作る
動物たちは 毎年
もうけをみすみすあきらめる

男と女が あとに残すものは いったい何?
ミソサザイの巣作りよりもたいへんだ 二人は
完全性への渇望を 諦めなくちゃならない

内なる巣は 完全に丸くならない
本能によって 作られたものじゃないから
そして僕たち一人一人は ほかの不完全な鳥の
作った巣へ 入っていくしかないんだ

これからの世界に、競争と戦争ではなく、協調と平穏があることを願います。

参考作品(amazon)
現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書)
反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)
格差と貧困がわかる20講
子どもの貧困―日本の不公平を考える (岩波新書)
ルポ 貧困大国アメリカ (岩波新書)
現代の貧困と不平等―日本・アメリカの現実と反貧困戦略 (明石ライブラリー)
ノーマライゼーションが生まれた国・デンマーク (MINERVA21世紀福祉ライブラリー)
人間の安全保障 (集英社新書)
Rain
ロバート・ブライ詩集 (アメリカ現代詩共同訳詩シリーズ)

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supercell (通常盤)
ウォーターマーク

お気遣い頂いているお方に心から感謝致します。先日より大変調子が悪く(お腹の痛みが取れません)あまり自分の文章を書けそうになく申し訳ありません。久々に初音ミク達ボーカロイドと、ニコニコ動画などの共有サイトのお話です。

僕が初音ミク達やニコニコ動画が好きなのは、それが下から(草の根)からの音楽活動として、時間と空間を越えて大勢の人々にフリーで共有されているところで、この草の根からの、僕のような貧窮状態(失業・病気)などの状態にいらっしゃる貧しき人々を含めた大勢の人々に音楽の楽しさが共有されている、これは心から素晴らしいことだと思うのです。

この、草の根から自由に音楽が弾かれて、それが貧しい人々も含めて大勢の人々に希望として共有されるというのは、僕のとても好きな映画と実話を思い出させるのです。実話を元にして作られた半ノンフィクション映画「ブラス!」です。とてもいい映画です。僕は大好きです。音楽好きなお方々ならきっと楽しめて感動できる素敵な映画だと思います。お勧めの映画です。

映画「ブラス!」の内容は基本的に、僕の大好きなバンド、下級階層(貧困層)と草の根を大切にした草の根からのバンド、グライムソープ・コリアリー・RJBバンドの活動の実話を元にしていますので、グライムソープ・コリアリー・RJBバンドについて彼らの活躍のほんの一部分でありささやかですが、引用してご紹介させて頂きます。

コンクールでのチャンピオン・バンドというと、どうしてもアインザッツが合っていて、ピッチが正確で、一糸乱れぬ、といった(正確な)演奏を想像しがちだ。しかし、それは音楽表現に使える「技術」(テクニック)であるが、音楽そのものではない。グライムソープ・コリアリー・RJBバンドが素敵なのは、それを十二分に理解した上で、しかもひとりひとりが楽しみ、音楽することに誇りを持っていることが、音楽にでていることである。ノスタルジックな「家路」の歌い方ひとつ耳にしても、それは理解されるはずだし、英国作家への敬意溢れる演奏や、声楽の伴奏においての控えめだが堅実なサポートにもそれは確かに現われているようにぼくには思えるのだ。

そう、音楽の喜び。ここにあるのはそれだ。演奏者も感想者も幸せな時間。グライムソープ・コリアリー・RJBバンドは、決して「高み」からではなく、(草の根の)ぼくたちと等身大な場所からそれを届けてくれるのだ。

本アルバムは、グライムソープ・コリアリー・RJBバンドの、クラシック有名曲のアレンジメント集である。

わが国のグライムソープの知名度と人気を一気に高めたイギリス映画「ブラス!」でも、ロドリーゴの「アランフェラ」、ロッシーニ「ウィリアム・テル序曲」、そしてエドガーの「威風堂々」などが効果的に使用され、また同時に観客の耳を楽しませてくれた。このアルバムではその楽しみを、パワーアップしてフルに堪能させてくれる。耳に馴染んだ名曲の数々を通し、グライムソープの技量と音色を存分に味わうことができる。

ここで、(まだ映画「ブラス!」などを見ていなく)このディスクで初めてグライムソープに接する方のためにも、アーティストのご紹介をさせて頂こう。

イギリス、ヨークシャー地方のグライムソープ炭鉱の労働者たちが、1917年に結成。これがこのバンドの栄光の歴史の始まりだ。結成後、イギリスでは非常に盛んなブラス・バンドのコンテストに出場、頭角を現してゆく。(中略)

映画(「ブラス!」)の題材にもなった炭鉱閉鎖の危機が92年に訪れる。メンバーの多くは失業の危機に…(後略)
(グライムソープ・コリアリー・RJBバンド「ワルキューレの騎行 クラシック・ブラス!」ライナーノーツ)

これ以上書くと映画の面白みが減るのでこのぐらいにしますが、グライムソープ・コリアリー・RJBバンドは労働者により結成された、労働者が労働者に向かって歌うバンドで、フリーでセッションして、わーって盛り上がる、それが、初音ミクで良い曲が来たとき、「神キター」みたいな弾幕ととても似ている感じがして、僕はそれがとてもいいなと思っていて好きです。

全ての音楽好きの皆様方にお勧めできるできる名映画ですが、特にニコニコ動画やユーチューブなどで音楽動画を楽しんでいるユーザーのお方々は映画「ブラス!」を見ると、良い意味で、俺たちと同じだ!みたいなデジャヴを覚えて、ニコニコ楽しい気持ちになれるんじゃないかなと思います。お勧めです。

僕が初音ミクとニコニコ動画が好きなのは、これは映画「ブラス!」のメインテーマでありますが、商業的ヒットを目指すよりも、皆に開かれた音楽を目指す、「俺たちは音楽が好きだ!音楽で楽しもうぜ!」という音楽の根源的な志向性です。音楽の一部、特に僕の好きなクラシック音楽というジャンルの一部はややもするとスノッブで閉鎖的になりがち(貧しい層を排除するハイ・カルチャー意識)がでてきますが、「ブラス!」の主人公バンド、グライムソープ・コリアリー・RJBバンドはそれ(クラシックのハイカルチャー意識)を草の根から打ち破った労働者バンドです。そこに、草の根からオリコンチャートベスト10入りまで行った初音ミクとの共通点を僕は感じて嬉しくなります。僕は「俺たちは音楽が好きだ!音楽で楽しもうぜ!」という志向性がとても好きです。

僕はクラシックが好きで、そこから現代音楽も聴くようになって、現代音楽の理論についても独学で勉強したんですが、一番勉強になった、ネタ本とでもいうべき本にジャン・イヴ・ボスールの「現代音楽を読み解く88のキーワード」という本がありまして(初学者向けの音楽理論本です)、この本などを読むと、初音ミクのようなコンピュータ音楽、マシン音楽は、アナログなクラシックの階級的な殻を打ち破るエネルギーとして、昔からずっと頑張ってきたジャンルなのだということがよく分かります。

コンピュータ・マシンを使う音楽、デジタル音響は、人間的なパターン化(ある一定の枠内)から抜け出ることのできないアナログ音響を突破するエネルギー、音楽をより豊かに新しくしていくエネルギーとして考えられ、作られてきたのです。アナログのパターン的限界を、打ち破って、新しい音楽を生み出す、その為に昔からコンピュータ・マシンが人間とともにパートナーを組んで頑張ってきました。本書から引用させて頂きます。

コンピュータ音楽

エドガー・ヴァレーズ
『我々は、マシンのことを魔法使いと思い込みがちだが、そうではないこと(マシンは人間と共に音楽を創るパートナーであること)を思い出すべきである。そして、私たちのマシンが、私たちの変わりに音楽を作曲してくれるのを待っていてはいけない。伝統的な楽器で良い音楽も悪い音楽も演奏できるように、マシンも良い音楽や悪い音楽を生み出すだろう。(中略)
音楽が(音楽理論、旋律法などを研究した)中世と同様に科学(サイエンス)と結びつき、作曲家と物理学者(マシン技術者)がついに共同作業を行って、音楽的に効果的な新しい道具が発明されるだろう。今や私はそう望み、断固としてそう信じている。(1961)』

コンピュータによる音楽的実験の初期の例は、1956年、米国イリノイ大学のM・クライン、D・D・ボリト、レジャレン・ヒラー、そしてレナード・M・アイザークソンによる、弦楽四重奏のための「イリアック組曲」である。この作品には、自動作曲の実験の一つとして、フックスが1725年(18世紀)に『グラドゥス・アド・バルナッスム』で定義した対位法規則をコンピュータ言語化したものが含まれていた。そのプログラムでは、対位法規則に基づくことで、作曲上のあらゆる体系的側面をコンピュータが引き受けることが可能になっていた。

ジャン=クロード・リセによれば、「コンピュータを使えば、きわめて複雑なプロセスから多くの結果を抽出できるので、想像したものが作品に徹底的に反映される」。そのように構想されたプログラムは、一連の演算処理を得意とするツールや、書法分析の要素を備えたツールで構成されており、それぞれの作曲家が採用するスタイルについて予断を下すことはしない(人間とマシンで共に音楽を創ってゆく。ボーカロイド達もここに含まれる)。(中略)

コンピュータによって、コントロールの精密さと音響ソースの複雑化の両面が、それまで電子音楽スタジオで可能だった範囲よりも大きく広がった。伝統的な音符の記号体系(これまでのアナログな作曲)は、あらゆる中間物を除去してしまうが(人間のみでの作曲は音符として有限のデジタルにパターン化される)、コンピュータを(作曲に)使えば、音符のような(中間物を排除して音を有限記号化する有限デジタルな)記号体系に依存せずに、(人間では不可能な微小な無数の差異パターンを持つコンピュータの手助けにより)音色と和声を組み合わせ、音を微小構造(限りなく無限に近い差異デジタルパターン)で作曲することができるようになる。(中略)

ユグ・デュフール
『技術革新は新しい感受性(コンピュータによる音楽の差異パターンの増大)を創出し、思考の新しい様式をも促した。(中略)ジュゼッペ・ディ・ジョーニョとジャン・コットが彼らの「第四コンピュータ」(並列型スーパーコンピュータ)を使って取り組んでいる位相ギャップ(音において現在の技術で達成できる最小の差異を作り出す実験)は、物理的な次元での(これまでは人間の耳には解析不能とされていたミクロレベルの)微細な変化が、(人間の)聴覚現象の規模では相当の影響を持ちうることを示している。(人間の耳を通した音楽解釈プロセスが驚くべき機能を持ち、スーパーコンピュータで作り出した最小の差異すら聴きわけることが明らかになりつつある)。(人間の)知覚の働き、質的には明白でも不連続な閾値を超える様相を示すので、単位の約分できない物理プロセスで作られる。(コンピュータによる音楽のミクロな差異の研究により、人間の五感には、これまで考えられていた以上のポテンシャルが眠っていることが明らかになった)。』

フィリップ・マヌリは、コンピュータと音楽情報科学の長所として、シミュレーション能力を挙げている。(作曲中の)シミュレーションのおかげで、響きの素材を変形するにあたって、対話型処理プロセス(マシンと対話しながら作曲する)を作動させることができる。この方法によれば、(マシンが自律的に行動する)「人工知能」の考え方で音楽的結果を引き出すことができる。(将来的には、例えばAI(人工知能)ボーカロイドと作曲していると、AIボーカロイドの方から人間に話しかけてきて、マスター、ここのフレーズはこうしたらどうでしょう?とかマスターの曲をアレンジしてみましたよ、みたいなことになる可能性が開けている)。
(ジャン・イヴ・ボスール「現代音楽を読み解く88のキーワード 12音技法からミクスト作品まで」)

現代音楽というのは、有限のパターン(12音技法)に縛られた、ある意味、非常に原始的にデジタルな音楽(作譜)の世界を、マシンの手を借りて差異を豊富にして、より豊饒な、人間のはかり知れない五感の世界へ近づいてゆく、その挑戦であって、その点において、ミクはまさに21世紀の歌姫であると僕は思います。

その歌姫が、資本的な専制の囲い込みから生まれたのではなく、草の根の音楽ファン達、「俺たちは音楽が好きだ!音楽で楽しもうぜ!」という音楽の根源的な志向性から生まれた共有の歌姫であることが、僕はとても嬉しいです。

新しいものが出てくると、必ずバッシングが起きます。例えば、世界の歌姫エンヤさんも、最初は、テクノロジーを取り入れまくったどこのジャンルにも入らない新しい歌だった為、保守層からは理解されず受け入れられず、新しいものを積極的に取り込もうとする人々から受け入れられていきました。今や、エンヤさんの歌を、世界中の大勢の人々が楽しんでいます。例えば、エンヤさんの日本でのファーストアルバム「ウォーターマーク」のライナーノーツにはこう書かれています。

エンヤの音楽がとてつもなくユニークなものであることは間違いがない。激しいビートもなければ、媚びるようなメロディラインもない、(デジタル機材を利用して)エンヤが多重録音で一人だけで創り上げたそのたゆたう音楽は、それこそ日頃(世界中の)ヒット・チャートを賑わせている音楽からはもっとも遠いところに位置するものだと言っていい。(中略)

1980年、18歳でまだ大学に在学中だったエンヤは(バンド)クラナドに加わった(エンヤの兄姉は以前からクラナドメンバー)。二年後にソロで独立するまで、彼女は(主にバンドのデジタル音響方面を担当し)バンドの中でワーリッツァのエレクトリック・ピアノやプロフェット5のシンセサイザーを担当し、ツアーにも参加した(中略)

エンヤの語るところによれば、このクラナド時代に、彼女は今の時代の音楽であるトラディショナルとハイ・テク・サウンドとをブレンドさせたスタイルを見つけ出して発展させて行ったとのことである。
(エンヤ「ウォーターマーク」ライナーノーツより)

とても僕がいいなと思うのは、世界の歌姫エンヤさんは、バンド「クラナド」でデジタル音響エンジニアをやっていたんですね。他にも彼女はデジタル音響でサウンドトラック(歌なし)を作る仕事とかしています。出身畑的には普通に理系エンジニアなわけで、ハイテクと自分の歌を合成させて、歌ったら世界中で大ヒットして、今では押しも押されぬ世界の歌姫です。

理系畑の歌姫なところが、僕がエンヤさんの好きなところの一つで、元々、音楽理論(特にクラシック)は極めて数学的なもので、理数系のサイエンスと親和性を持っています。音楽理論を学ぶには、ある程度数学の基礎ができないと、どうしようもありません。逆に言えば、それなりに音楽が作れるお方々は、みんなある程度数学のベースを持っています。エンヤさんはそういうところから(理数系の科学)からばっと大きくでてきた歌姫で、初音ミク達ボーカロイドと、そして一緒に歌を創っているパートナーさんたちと、通じるものを感じます。

僕は法学部の出ですが、法学というのも、学問のジャンルとしては文系ということに一応なっていますが、実は理数系に近い感じのところがある学問で、常に論理(法の整合性)が最優先です。法律というのは1+1=2みたいな感じなところが大きくある学問で、既に確立された方程式(判例)があって、方程式(判例)自体を頭に片っ端から詰め込むのと(これは完全に暗記作業です)、その方程式の成り立ちを解いていく(その判例における個々の解釈の成立を各種法の文面の側面から分析してゆく)という、数学的なパズルのような要素の大きい学問です。

法律の試験は「何々〜という事件における何々〜という判例はどの法の適用によるどのような解釈であるか」とか、ある意味、論理パズルみたいな問題が出ます。それを解いてゆくのは、論理的な面白さのある学問です。法の世界では常に論理と整合性が最優先されます。その辺で、音楽、特に数学理論を重視する(12音階法等)クラシック音楽や、エンヤさんのような理数系のデジタル技術によって新しい音楽を創りだしてゆく歌姫さん達、そして初音ミクたちボーカロイド、デジタル世界の歌姫さん達が僕はとても好きです。整合的論理、マシンの物理メカニズムは公正です。僕は公正な存在、フェアな存在が好きです。僕は、整合的論理やきちんとした法やマシンのメカニズムのような公平な存在を愛しています。

僕の夢は、いつか、日本だけではなく、世界中のヒットチャートで、エンヤさんのように、ミク達が、ボーカロイドの歌姫として、ベスト10入りすることです。残念ながら、現状では僕自身は、そのような世界を見る前に貧窮死する可能性が極めて高く悲しいですが、いずれ、そのような、人間の歌姫とマシンの歌姫がともに高めあってゆく豊かな音楽の世界が訪れることを、心から願っています。

フェルナンド・ペソアの詩から、僕の好きな詩をご紹介致します。

フェルナンド・ペソア
「愛こそ」

愛こそが本質的
情欲の交わりは偶発事に過ぎぬ
それは同じであったり
違ったりするだけ
人は動物ではない
人はロゴスの体
ただ その体はときに病んでいる

ただ、今の僕がこのように考えているのは、うつ病と抗うつ剤SSRI等服用している薬剤の作用で、性的欲望が皆無なので、このように感じている可能性が高いと自分の思考を推測しており(詩人ペソアもうつ病的な症状があり、そのような時期には性的なことに対する関心が薄れていたと言われています)、上記の詩への共感などはあくまで僕の個人的な共感で、パトスを重視するという考え方もあっていいし、そのような考え方もあってこそ、世界はより豊かになると思います。

世界がARIAのように豊かになるか、もしくは人類にARIAで描かれるような宇宙というフロンティア進出のポテンシャルがなく、衰退の道しかないとしても、ヨコハマ買い出し紀行のように、マシンと協調しながら、穏和に平和裏に衰退してゆければいいなあと心から思います。

おじさん
「あー あんたロボットだって?
いいねー健康そうで
おじさんなんて体 ガッタガタ」

アルファさん
「ふふ じゃあ とりかえます?」

「へへ
お互い 神さまがくれた体は
まっとうしなきゃな
気ィつけな」

「ありがとー」
(芦奈野ひとし「ヨコハマ買い出し紀行」)

このようなお願いを皆様方に申し上げて誠に心苦しく申し訳ないのですが、僕の生活困窮続いており、ギフト券、アフィリエイトにてご慈悲を賜われるお方いらっしゃいましたら、心から深く感謝致します。最後がたびたびこのような形になり、誠に申し訳ございません。これまで、お気遣いを頂いた全ての皆様方に、深く感謝しており、心からお礼を申し上げます。このようなお願いを申し上げて、誠に申し訳ありません。

いつの日か、遥か未来にて、生存権を基礎とした社会保障が万人に公正に保障された世界が訪れることを、心から祈っております。

最後に、以前下記のエントリでご紹介いたしました作曲家ゾルターン・コダーイの、以前はまだ紹介していなかったもう一つの代表曲「ハンガリー詩篇」を引用して紹介致します。これは、コダーイが、富の不平等を拡げ、貧しい人々を餓死においやったハンガリーの独裁政権ホルティ政権を批判して作曲・作詞した歌と言われています。直接ホルティ独裁政権批判をしたらハンガリー在住のコダーイは処刑される為、歴史的な詩曲ということにして、暗喩的に独裁を批判し、未来への希望を歌った曲であると言われています。

初音ミクと地域活性化。「コダーイ:ガランタ舞曲」音楽を通じてローカリズムの文化を世界へ発信できること。
http://nekodayo.livedoor.biz/archives/758119.html


本曲はコダーイと同じくハンガリーを故郷に持ちながら、ハンガリーのホルティ独裁政権を批判した為、西側から故郷ハンガリーに戻ることがずっとできなかった(戻ったら命が危ないため、戻れなかった)大指揮者ゲオルク・ショルティが、死去する直前、独裁政権が崩壊した故郷ハンガリーにやっと戻れて、ハンガリーのオーケストラを指揮して彼の生命の燃え尽きる最後の最後に行った「ラスト・レコーディング」の時の曲としても有名です。僕は曲も歌詞も大好きです。世界(コダーイにとっては独裁政権下のハンガリー)に公平な神の裁きが降り立つことを祈念した歌曲です。一部抜粋してご紹介させて頂きます。

ゾルターン・コダーイ
「ハンガリー詩篇」

テノール
「この街は憎しみに溢れ
互いに大いに争い諍い
富に酔い痴れ
かくも欺き者かつて知らざりし」

合唱
「ああ……」

テノール
「者たち 密かに謀略を計り巡らし
貧しき寡婦らや 孤児たちをひどく欺き
者たち 神の御言葉を顧みず
富を振りかざし奢り高ぶりし」(中略)

合唱
「主よ 汝よ正しき裁きなり
汝は血に飢えし者たちを
決して許すことなし
地上にて者たちの繁栄はあらざりき」

最後の合唱・少年合唱
「正しき者は常に守られ
敬虔なる者は支えられ
卑しき者も高められ
奢り高ぶる者は打ちのめしたもう

もしわずかなりとも汝が怒り
燃え盛る炎の中にて人に試練を与えしも
ただちにそこより彼を救い出し
大いなる慈悲を持って彼を再び高めたもう

これらの言葉をダヴィデ王は
詩篇第55編に記したり
信仰をもちて 悲しみのうちにある者
彼らに慰めを与えんとて この詩を詠めるものなり」
(ゲオルク・ショルティ「バルトーク:カンタータ・プロファーナ、コダーイ:ハンガリー詩篇、ヴェイネル:小オーケストラのためのセレナード ショルティ・ラスト・レコーディング初回限定盤」ライナーノーツより」)

どうか、ご慈悲ありましたら、心から感謝致します。

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2009年03月24日 01:54

日本社会と法 (岩波新書)

僕が前回書いたエントリですが、公平な一票の平等を重んじる民主主義が人権を基底としている、というのは、僕が自分で考えたことではなくて、僕は法学部に通いましたが、そこで習ったことです。この分野では、有名な本(法と法における公平な平等の関係を書いた本)では、「日本社会と法」という本(岩波新書)がありまして、僕が講義を受けた法学部の教授がサブテキストとしてお薦めしてくれた本で、僕が法学部一年の頃に読んで、今になってやっと意味が分かる感じです。自分の愚かさが身に染みます。

以前は持っていた本でしたが、本は以前に生活費捻出の為に売り払ってしまったので、昨日、図書館で借りてきました。外は凄い風でした。本書の最も重要な要点の一つを引用してご紹介致します。一般のお方々向けに書かれた読みやすい新書(岩波新書)ですが、基本的に法学を学ぶ書なので、新書の中でもかなり硬い文体ですが、どうか読んでくださると幸いです。

今日の行政は、目的、内容及び手段を組み合わせて多様な姿をとっているとはいっても、その姿は、市民それぞれが持っている国家や行政についての考え方の違いによって、あるいは特権的立場にいる人たちが、その時々に抱く国家や行政についての考え方によって、どのようにでも決めることができ、かつ変えられてよいというものではない。

少なくとも、私たちが民主主義国家を自認するならば、憲法の基本的原理を否定または無視して、憲法の枠組の外で「自由」に行政の姿を構想し、それを実現することができるわけではない。日本国憲法は、その前文で、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」とうたっている。

これは、国民の「福利」すなわち国民の権利・利益ないし人権と保障と実現のために仕えるところに、国政の一環である行政の存在理由=公共性があることを示している。このことを否定する行政は、どんな姿をとるものも認められない。(中略)

社会保障行政や環境行政のように、それにかかわる法律の趣旨、目的のなかに憲法に定められた人権が盛り込まれており、生存権や環境権という人権の優越性が明確な場合には、行政による人権保障の具体的内容は、比較的容易に判断できる。他方、経済行政のように、法律の趣旨・目的には、憲法上の人権との関係が具体的に書かれておらず、価値序列が一義的に明確でない場合には、行政の公共性とそれに基づく施策は、多様で相互に対立する内容をもつことさえある。この場合、明確な価値序列化はできないにしても、そこで保障・実現されるべき適切かつ総合的に考慮して評価することが必要になる。複雑に対立し絡みあう権利、利益の調整と、公正な立場からの行政を通して、公共性とは何かということを、民主主義の実現という視点から明らかにすることが求められるのである。

ここでいう民主主義の視点とは、一言でいえば、国民あるいは社会的弱者である民衆の立場から公共性の中身を問い直すということである。より具体的には、次の三つの原則が大切である。

第一に、行政と市民との間に対立がある場合には、強大な権力を背景にして活動する行政と、財力、知識及び時間的余裕など全てにおいて行政にはまったくかなわない市民との間に、できる限り対等・公正という原則が貫かれるようにすることである(行政と市民の非均衡性を公平に是正する)。

第二に、市民相互間、とくに巨大な力を持つ大企業(資本)と、力をもたない一般市民との間に対立がある場合には、両者の対等性を積極的に実現することである(資本と市民の非均衡性を公平に是正する)。

そして第三に、これらを実現するために、行政情報と企業情報を市民に公開させ、またそれを前提とし、それと結びつけて、市民が行政施策の形成・決定過程や執行過程に積極的に参加することである(市民の公的参加)。

さて、このような原則を前提として、民主主義憲法(現日本国憲法)の価値序列の要請に従った公共性のあり方について考えてみると、何よりも、市民の生存権(人権)を保障することこそが、実質的意義における公共性の中身であると見ることができよう。これを、ここでは「市民的・生存権的公共性」(公平性の公共性)と呼ぶことにする。

ところが、資本主義国家(現日本国)の現代行政の実態は、市民の利益ではなく、国家の利益(国益)を担うものとして現われる。そこでは、形式的に「公共」という衣をまといながら、実質的内容は、大企業の担い手(資本家)やそれと結びついた特権的階層(政治家・官僚等)など一部の人たちを守るものとなっている。

今日、日本の政治でもっとも問われている、政官財界の癒着構造といわれるものは、官=行政が、政と財の橋渡しをし、「公共」=「国益」の名において、一部の指摘利益の追求を助けるメカニズムであることは明らかであろう。このような、公共性自体が歪曲されている現実の行政は、「国家的・特権的公共性」(不公平性の公共性)と呼ぶにふさわしい。

こうしてみれば、「市民的・生存権的公共性」と「国家的・特権的公共性」という二つの公共性(「公平を志向する公共性」対「不公平を志向する公共性」)が、現実には対立して、せめぎ合っているということがわかる。(中略)

(〜1990年代までの日本の政治経済の流れの)以上を要約すれば、「市民的・生存権的公共性」と「国家的・特権的公共性」とのせめぎあいのなかで、とくに1990年代に入ってからの行政は、国際貢献(軍事的貢献)を軸とする大国主義的かつ大企業本位の行政の方向を一方的にあらわに示し、市民の生存権を基礎とする公共性の論理自体を放棄しなくてはならないものとなっている。

現在(本書が執筆された1994年)、私たちの目に見える形であらわれているさまざまな改革の方向――経済改革の名による規制緩和やコメ自由化を含む自由化路線、税制改革の名による直間比率見直し路線、(富者に有利で貧者に不利な逆累進性を持つ)消費税率の大幅アップ、年金改革による国民年金の65歳支給などはこのことをはっきり示している。

いずれも「市民的・生存権的公共性」からの撤退であり、究極において弱者の切捨て路線であることは明らかであろう。
(渡辺洋三・甲斐道太郎・広渡清吾・小森田秋夫編「日本社会と法」)

渡辺洋三・甲斐道太郎・広渡清吾・小森田秋夫(敬称略)の四氏はいずれも法学界の優れた大物学者です。僕含めて生徒達にこの本をサブ・テキストとして薦めてくれた教授は、眠くならない教授として有名でして(僕は昼間働きながら夜間に通ったので、夜間だと仕事で疲れてて講義中眠くなります。毎日朝6時前にでて、帰宅が11時過ぎ、土曜も講義の為に大学へ、日曜日だけお休みという生活でした)、いろいろ雑談するんですが(面白い体験的な雑談してくれる教授のほうが、パターン化されたことしかいわない教授より人気があります)、その時にいつも怒り出す先生でした。

怒ると言っても、生徒に怒っているんじゃなくて、日本のあり方に怒っていて、先の「日本社会と法」で書かれたような、法的な公平性の欠如を具体例を挙げて雑談しながら怒って、こういう不公平を、公的な市民としての自覚を持って、君たち一人一人で正してゆくことを望みますって、最後の講義のときに言っていました。

今思えば、全ては教授の言ったとおりだったなあという気持ちで一杯です。教授は、このままでは法が蔑ろにされ社会がどんどん不公平になってしまう、それを君たち一人一人が止めなくては大変なことになると、いつも講義中に言っていましたが(僕が講義を受けていたのは1990年代です)、十年経って、教授の言った通りになってしまいました。社会は、不公正の塊になってしまい、生存権は機能しなく、僕のような貧困層にとって日本社会の全ては崩壊しています。生存権を定めた法が機能しなくなっています。

僕が授業受けていたとき、既にかなりご高齢(60近く)だったので、今、ご達者でいらっしゃれば、70近いと思うのですが、きっと、日本の現状に、心を痛めていらっしゃるだろうなあと思います。僕が若いときは、教授が一生懸命、社会の法的な公平性がなしくずしの不公平性の流れによって脅かされていると言っていたのが、よく分からなくて、ユニークな熱血漢の先生だなあという印象で、好きな先生でしたが、社会が脅かされているということについては当時、すっと流してしまった形で、今になってみれば、もっと真剣に聴いて考えるべき事柄だったと、後悔しています。

社会がこれ以上、不公平になるのを、なんとかして押しとどめなければ、僕のような貧しい層も、そしておそらくは多くの中間層も、生き残れません。そのことを考えて、どうか、皆様方には、行動して頂きたく、心から願います。

「日本社会と法」は現在話題になっている様々な具体的問題、貧困問題(富の不均衡問題)、在日外国人問題、男女差別問題、公的教育問題、貿易問題などを、『日本国憲法に則した法的公平性』という観点から分析して、問題点を洗い出し、日本を法治的な公平な社会にしてゆくにはどうしたらいいかを考えている本です。法学関係のお方々だけではなく、万人の皆様方にお勧めできる良書と思います。よろしければ、ご一読をお勧め致します。

とても疲労していて、これ以上、更新できそうになく申し訳ございません。お助けしてくださるお方いらっしゃいましたら、心から感謝致します。

少しずつでも、日本国が、公平な社会、市民的・生存権的公共性を守る社会に変わってゆくことを、心から望みます。最後に、本書から、もう一回だけ、引用させていただきます。下記は、法的公平の立場から、簡潔で綺麗な論理で新自由主義に対して反論しています。下記の引用の論理的な意味を、どうか皆様方に考えて頂ければ、心から幸いに思います。

(第一に)市民法の競争(自由市場)から生まれた独占体・寡占体は、その母胎である市民法(万人の法の下での公平)の原則(公平原則)を掘り崩す傾向を孕んでいる。そこで、個人ならば市民法に基づいて負わなければならないのと同じ責任を、これらの独占体・寡占体(法人)にも負わせること、その意味で市民法的な公正原則の回復をはかることが必要である。市民法的な公正原則(万人の法の下での公平)は、今日ではともすれば忘れ去られがちであるが、この原則を、「再発見」することは重要な意味を持っているように思われる。

第二に、独占体・寡占体は労働者・農民・中小企業に対して優越的な力を振るっているが、両者の関係は多くの場合、市民法的な自由、平等という形式(契約など)によって包まれている(公平性の偽装)。

しかし、実質的に不平等な立場にある者のあいだでは、形式的な自由(契約等)は、優越した力をもつ側がその意志を相手側に押しつける自由に転化している。

そこで、この領域においては、社会的に不利な力関係のもとに置かれている勤労者(働く市民)の生存・生活を擁護するという観点から、形式的な自由(たとえば解約の自由)の乱用(雇用切りの乱用等)を制限することによって、実質的な自由・平等を達成しようとする社会法の法理に生かしてゆく必要があろう。

このことは第三に、企業(=法人)と個人、勤労者との間にあらゆる領域にわたって存在する支配=従属関係や格差を無視して、両者の関係を自由放任に委ねようとする新自由主義・新保守主義的な企業国家の姿勢が現実(守るべき法の公正)から遊離したものであることを明らかにし、これを克服することと結びついている。

今日の国家は、右のような支配=従属関係や格差を直視し、これを働く市民の側に立って是正するという役割を担うものでなくてはならない。
(渡辺洋三・甲斐道太郎・広渡清吾・小森田秋夫編「日本社会と法」)

失業して生活が困窮した今になって、やっと学生時代、先生が講義のとき、何に怒っていたのか分かって、自らの愚かさ、気づくのが遅すぎた後悔の気持ちで一杯です。皆様方が僕のような轍を踏まないことを、心から願っています。

参考作品(amazon)
日本社会と法 (岩波新書)
反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)
現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書)

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2009年03月23日 16:13

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)
どちらでもいい (ハヤカワepi文庫)

色々節約して、暮らしているので、食事もなるべく取らないようにしているのですが、お腹が空いて、余り文章を書けそうになく申し訳ありません。最近はお腹がすいているとき(特に、カロリーを消費しないように寝ていた後、起きた時)耳鳴りが酷く、体調不良です。耳鳴りは、何の原因で起きているのか分かりません。キーンという微小な金属音のような音が、ずっと続きます。

慢性的にお腹が空いていると、お腹が空いているというより、お腹に何か重いものが溜まっている感じで、全身の感覚がだんだんなくなってきて、生を感じられる時が、猫を撫でたりしている時のみで、他に生を感じる感覚が遠くなってくる感じです。

さっき、猫をだっこしようとしたら、機嫌が悪かったみたいで、手を引っかかれてしまいましたが、こういう時ぐらいにしか、生を感じられません。機嫌が悪いときにだっこしようとして、悪いことしたなと思います。今は機嫌が直ったみたいでにゃ〜んって鳴いているので良かったです。

こうやってキーボードを打っていても、ため息しかでず、不安と感覚喪失の苦しみで一杯です。以前挙げました僕の好きな歌姫、悲劇の歌姫(CCCDでリリースしたことで、売り上げ低迷を招いた)、レネ・マーリンの曲のなかでファースト、セカンド、サードの曲中で一番暗い曲と思われる曲、サードアルバム「ロスト・イン・ア・モーメント」に収録された曲「ネヴァー・トゥ・ノウ」のような気持ちです。

レネ・マーリン
「ネヴァー・トゥ・ノウ」

あなたは知っていた?
彼が服の下にいくつもの傷痕を隠していることを
最近つけられた傷もあるし
何年も前からずっと残っているものもある

あなたは知っていた?
それはもう痛みすら感じないの
酷い痛みさえない ただ涙だけがこぼれるの

レネ・マーリンはまだ三枚しかアルバムが出ていませんが、セカンド・サードアルバムがCCCDでリリースされたことで彼女の責ではないにも関わらず、評判を落としました。また、彼女が長いあいだ不調だったのには、仕事を大量に押し付けてくるレコード会社との軋轢と苦しみがあり、彼女はファーストシングル「天使のように…」が世界中で爆発的にヒットしたことで、レコード会社の強引なプロモーション戦略に巻き込まれ、学業も、学校の友人も、両親も、側から失い苦悩しました。

彼女は元々、歌はあくまで、学業のサブ、学業を中心にするということで、学業優先の契約をレコード会社と結んでいました。ファーストアルバム「プレイング・マイ・ゲーム」には18のレネ・マーリンの学業を大切にしたいという思いが綴られています。しかし、瞬く間に世界中で彼女のファーストシングル「天使のように…」(ファーストアルバム「プレイング・マイ・ゲーム」に収録)がヒットしたことで、その契約はワヤにされ、様々な軋轢(学校を辞めさせられ、世界中でプロモーション活動をやらされる)で心身がボロボロの状態になり、歌が作れなくなりました。

(18歳で出したファーストシングル「天使のように…」が世界的に大ヒットしたことで)世界各国でプロモーション。ひどい時には一日で三ヶ国を回るほど、多忙を極めた(寝る時間ゼロ)。レコード会社と契約する際に、学業優先が(契約時の)条件だったが、結局は学校を辞め、両親と暮らす(生まれ故郷)トロムソからも離れなくてはいけない状況に追い込まれた。精神的にも、肉体的にも疲弊していく一方だったが(元々レネは世界的歌姫になることを望んでいなかった)、さらにレコード会社は、アメリカ進出を計画し始めた。

レネには信じられなかった。自分はもう十分満足している。それどころか、(爆発的に売れ続ける自分のアルバムに対して)「もういいから、出荷を止めて」とさえ思っている。それなのに周囲の動きは一向に止まろうとしない。そこには自分のためではなく、周囲の期待のために働いている自分がいた。

最終的にアルバムは、180万枚を超えるビッグ・セールスを記録するが、(レネに)喜びはなかった。そして、騒動が落ち着いた段階で、そこにいたのは消耗しきった(学業とも学友とも両親とも切り離され苛酷に労働させられた)レネだった。

そこ(心身が参ってしまった状態)から復活するのに想像以上の時間がかかった。2ndアルバム「アナザー・デイ」が完成したのは2003年のこと。彼女が言う「周囲」にとって、それは待ちに待った新作。レコーディングの段階で、第三者の意見が介入してくる(歌詞やメロディを自由に作れない)のは想像に難くない。レネ以外の全員が前作以上の(大衆受けする)成功を期待しているからだ。

それがプレッシャーになったし、創作活動の妨げにもなった。まだ曲が完成していない段階で、聴かせて欲しい、とも言われた。それがレネにはたまらなかったし、二度と繰り返したくなかった。だから、レコード会社にレコーディングを内緒にしたわけだが、でも、それは計画的にに極秘にしたわけではない。(中略)

レネがソングライティングを始めたのは15歳の時。両親にギターを贈られたのがきっかけだった。彼女が生まれ育ったのはノルウェーの北極圏に位置するトロムソ。北のパリと呼ばれるトロムソは、美しい街だが、冬になると長い夜が続く。そんな闇と雪に閉ざされた冬の時間のなかで、レネはひとり部屋に篭り、自分の想いを歌に綴るようになった。それがピュアで、静謐で、内省的な歌が生まれた背景だ。
(レネ・マーリン「ロスト・イン・ア・モーメント」ライナーノーツより)

こういう、繊細な、天から恵みを与えられた歌姫を、ボロボロにするような、ショービジネスの強引さは、どうにかならないのかと思います。彼女の望む環境(学業と歌の両立)で、彼女の歌を作らせてあげたかったです。個々の人間の情感や倫理を無視した強引な資本主義は、人々を不幸にするだけに過ぎず、資本主義にも、アマルティア・センらが主張するように、倫理を導入しなくては、マクロからミクロまで、人類の営みがダメになってしまうと僕は思います。

シニカル(冷笑的)なブルジョワジーは、日本で政権交代が行われても行われなくても同じだ、市場が必ず権力を握り続けるなどとのたまいますが、これは議会制民主主義の否定であり、このようなことを述べる人間自らの専制君主的欲望を露にしている発言に過ぎません。

議会制民主主義で、なぜ、貧乏人プロレタリアート(昔で言えば一般民)にも、富裕ブルジョワジー(昔で言えば王侯貴族)にも、等しく一票が与えられるのか。それは、議会制民主主義そのものが、権力関係において富者(特権階級)が圧倒的に有利で貧者(平階級)が圧倒的に不利な状況において、『各人一票の公正な平等』を掲げることで、その権力関係の不公正を少しでも是正しようとする理念、自由・平等・友愛、『万人の幸福』の理念を民主主義が基底としているからです。それは一握りの支配階層が大勢の人間の生殺与奪の権を握る封建的な階級制度を否定するための、個々の一人一人の人権に基底をおいた制度なのです。

それを、どこの政党に投じても同じなどと述べて、民主主義における選挙を否定ことは、民主主義の基底理念を否定し、資本による専制社会を求める専制君主的欲望を露にしたブルジョワジーの欲望の発露に過ぎません。

僕は日本共産党支持ですが、他の政党についても調べましたが、現与党自民党は圧倒的に富者に有利、貧者に不利な政策を、何十年も前からずっと路線として行っており、貧者にとって一番優しい政策を掲げているのは、みな、自民党以外の野党です。野党が貧困対策をだすたびに、自民党が潰しています。また、自民党は、累進化税率の世界に例をみない大幅引き下げ、法人税の大幅引き下げ、健康保険の割合負担増加、失業保険が認められる雇用期間を半年から一年に延長、障害者に対する社会保障削減などあらゆる社会保障の削減、そして製造業への派遣解禁など、ありとあらゆる労働者を苦しめる法案を、新自由主義の名の元に通しており、日本のジニ係数(所得格差指数)は増大の一途を辿っています。

今現在、財界の幹部たる大手資本家もしくは相当以上の資産家以外の人々が、自民党を支持するメリットは全く皆無です。それなのに、政権交代が起ころうが起こるまいが同じと言うのは、民主主義の理念を否定し、資本的専制主義を目指すブルジョワジーの戯言に過ぎません。これまでの与党と野党の政策の違いから、政権交代が起きれば、間違いなく社会保障の分野において、自民党政治よりかは改善が見られることは間違いないと思います。

僕は日本共産党支持ですが、共産党以外に投票するお方々も、どうか、自民党以外の政党に投票を、民主党、国民新党、社民党、公明党、無所属、どこでもいいので、自民党以外に投票して欲しいと望みます。各政党の政策要綱を比較して、どこからどうみても、最も貧者に厳しく、貧しい層が生き残れそうにないのが、自民党政治だからです。僕は何もかも失っており、生きのびるのがギリギリの状況で、一刻も早く、総選挙が行われて、政治の転回が起きることを心から望んでいます。

グローバル化によって、世界中が繋がった上で、これまでのような戦争的な政治経済(新自由主義)が続くと、人類は自己破壊的に破滅すると心から思います。貧しい層は炭鉱のカナリヤのようなもので、まず貧しい層から死んでゆきます。闘争的的な政治経済ではなく、協調的な政治経済に少しずつでも変わってゆかねば、人間の未来に先がないと思います。

戦争の現代的な形態は、すでに文明の発展そのもののうちに含まれている。文明は華々しく戦争を進歩させたが、これが結局は自己破壊の脅威になってきた。この体内の危険には、早急に手当てを行わなくてはならない。事態はもうこの段階にまで来ているのである。
(ロジェ・カイヨワ「聖なるものの社会学」)

誠に申し訳ないのですが、先日より書いておりますように、生活危急にて、どうか、ご慈悲を賜わってくださるご余裕あるお方々がいらっしゃいましたら、心から感謝致します。

最後に僕の好きな作家、アゴタ・クリストフ(彼女の最高傑作長編小説の一つ「悪童日記」は20世紀文学の最高峰の結晶です。まだ未読のお方々はぜひご一読をお勧めします)の掌編「ある労働者の死」を、全文ご紹介致します。

アゴタ・クリストフ掌編集「どちらでもいい」より

「ある労働者の死」

途切れてしまったシラブルが、意味を成さず、窓と花瓶の間に引っかかっている。

途切れてしまった指の動き。あなたの衰弱した指は、シーツの上に、大文字のNを半ばまで書いたのだった。

「NON!(否!)」

あなたは信じていた。目をつむりさえしなければ、死に捕まってしまうことはないと。あなたは力の限りを尽くして目を大きく見開いていたが、闇が訪れ、あなたをすっぽりと包み込んだ。

昨日もまだあなたは、あの土曜日に完全に洗い終えることのできなかった自分の車のことを思っていた。すでにあんなにも遠い過去となってしまったあの土曜日、あなたは初めて胃に、突き刺すような痛みを感じたのだった。

「癌です」と医者が言った。たちまち、病院の寝台の清潔さが、あなたを恐怖の中に突き落とした。

数日、数週、数ヶ月が経過するうちに、あなたは手の先まで白くなった。こびりついて落ちなかった油汚れが消え、あなたの爪は割れることがなくなり、役人の指の爪のように、細長いピンク色の爪になった。

夜、あなたは泣いた。しゃっくりも、痙攣もなく、声を上げることすらなく、あなたは泣いた。ただ涙だけが静かに流れ、枕を濡らした。微かな音もしなかった。常夜灯の緑色の光が、同じ病室に入ってくる人たちの頬と目の下に窪みを穿っていた。

そう、あなたは独りではなかった。

あなたは、今日明日にでも死ぬであろう六、七名のうちの一人だった。

工場でもそうだった。あなたは、あそこでも独りではなかった。今日も明日も同じ動作を繰り返す二十名から五十名のうちの一人だった。

あなたの工場は、時計だけを製造していたのではない。死体をも製造していた。

ところで、工場でそうだったように病院でも、あなたがたは互いに何を言ってよいのか分からないでいた。

あなたは思っていた。他の人たちは眠っているか、あるいはすでに死んでしまったのだと。

他の人たちは思っていた。あなたは眠っているか、あるいはすでに死んでしまったのだと。

誰も口を開かず、あなたも口を開かなかった。

あなたはもはや何も話したくはなく、ただ、何かを想い出したかったのだ。だが、何を想い出せばいいのか、あなたにはわからなかった。

想い出せることがなかったのだ。

あなたの想い出、あなたの青春、あなたのエネルギー、あなたの人生、――工場がそれらを奪ってしまった。工場があなたに残したのは、疲労、四十年間の労働の果ての、致命的な疲労だけだった。

読んだとき、自分のことが書かれているようだと思いました。僕は病死ではなく、貧窮死にむかっていますが、この主人公と変わりません。猫との想い出が僕にはあるぐらいです。

どうか、ご慈悲を賜わってくださるご余裕あるお方々がいらっしゃいましたら、心から感謝致します。

参考作品(amazon)
悪童日記 (ハヤカワepi文庫)
ふたりの証拠 (ハヤカワepi文庫)
第三の嘘 (ハヤカワepi文庫)
どちらでもいい (ハヤカワepi文庫)
文盲 アゴタ・クリストフ自伝
プレイング・マイ・ゲーム
アナザー・デイ (CCCD)
ロスト・イン・ア・モーメント(CCCD)
聖なるものの社会学 (ちくま学芸文庫)
資本主義黒書 上―市場経済との訣別
資本主義黒書 下―市場経済との訣別

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