2016年03月31日 06:42
片山杜秀さんの反ファシズム的ポルノ論が面白かったのでご紹介。うーん…、一概には言えない気がしますね。
増補 エロマンガ・スタディーズ: 「快楽装置」としての漫画入門 (ちくま文庫)
文芸批評家片山杜秀さんの反ファシズム的ポルノ論が面白かったのでご紹介致しますね。朝日新聞のサイトから読めます。以下、一部を引用致しますね。
うーん…。反ファシズムとしてのポルノ論というのは凄く面白いとは思うんですが、ただ、どうなんですかね…。観念的な全体主義としてのファシズム(精神)に対しての肉体的な個の感覚としてのポルノ(肉体)という対置をされていることは分かるんですが、ただ、実はポルノって肉体そのものに対する欲望よりは、肉体を超えた抽象的な欲望、観念的、精神的な欲望を描くことが多いんですよね…。勿論、徹底して肉体にこだわるポルノもあるけれど、ただ、どちらかというと個の肉体を超えた観念的なセクシャリティに向かうポルノの方が多い。そして勿論その方向には他のあらゆる欲望と同じように共同体主義や全体主義へ向かう欲望も存在する。
片山杜秀さんが上記の論で反ファシズム的ポルノとして挙げておられるバタイユなんて完全に、「肉と肉に飽きはこず、肉から身に進む必要などさらさらないと主張しぬく小説」とは全く逆の方向性にある観念的・精神的エロティックの超越的神学的ポルノを書かれている作家さんですよ。バタイユをちゃんと読んでるのかな…。どうも、上記の論はバタイユについて書きながら実はバタイユを全く読んでいないのではないかとしか思えないのですが…。バタイユ好きとしては、非常に残念に感じます。
まず、「肉と肉に飽きはこず、肉から身に進む必要などさらさらないと主張しぬく小説」なんてバタイユが最も忌み嫌いそうな小説の筆頭なんですね。ちなみに私は日本語に翻訳されているバタイユはだいたい全部読んでおりますが、どう考えても、肉の中に閉じこもっている小説はバタイユの小説や論考とは対極にあると思いますが…。バタイユは、人間のセクシュアリティが肉の外に出るエクセ(過剰)こそが人間を人間たらしめる至高性(共同体及び世界という全体性に通ずるもの)であり、そこからあらゆる崇高なものとあらゆる低俗なものと創造と破壊が生まれる(人間のエネルギーが蕩尽される)というように考えていたと推察されるので、「肉欲は個人が全体に巻かれずにふみとどまるための最後の砦」なんて考えとは全く逆と思われます。バタイユは個を超えて集団に関わる観念的・精神的なエロティシズムを人間だけが持つセクシュアリティの根幹として重視していました。
バタイユは基本的に、人間が制度を侵犯したいと欲する欲望が人間のセクシャリティであると考えるので、単純に「異性の肉体に惹かれる動物的本能」みたいな考えとは全くセクシャリティの観点が違うんですね。バタイユは「制度を侵犯したいと願うセクシャリティの欲望自体が制度の中で形造られた制度内制度として機能するものである」と考えます。故に「肉欲は個人の物」みたいな単純な考えとは全く対極にあるんですね。バタイユは欲望自体が制度(人間社会)から生まれていると考える。そりゃそうだと私も思いますよ。バタイユが何度も書いてますが(「エロスの涙」等に詳しい)、セクシュアリティの欲望の形というのは、それぞれの社会の形態によって、それぞれ全く異なる訳です。セクシュアリティの形は明らかに個人ではなく、社会に依存している。例えば日本に住む我々は神に生贄を捧げることに性的興奮を呼び起こされたりはしませんが、それは我々の住む現代日本という社会が、生贄と性的興奮を結びつけるような形でセクシュアリティを規定していないからです。これが古代ギリシアのオルギア(狂躁)の供犠における古代ギリシア人のセクシュアリティとかだったらまた別でしょう。当然ながらバタイユ自身のセクシュアリティも社会から自由ではない。
基本的に、バタイユのセクシャリティにおける制度と観念性を重視した考え方は性を抑圧する宗教としてのキリスト教の影響が極めて大きいように思います。またバタイユはポルノグラフィにおいては、過去の至高者(至高者の過剰)がポルノという形において残存していると考えていました。そしてそれ(至高者の過剰)は観念的なものです。例えば王侯君主がハーレムを建造してそこに何千人もの人々を所有したとしても、身体は一つしかない訳ですから、ハーレムの人員全員を抱ける訳ではないですね。彼はあくまで観念的なところでセクシャリティの過剰を形として造っていた訳です。
私もバタイユと同じくポルノは基底的に観念的なものと考えています。元来、ポルノの根幹としてどうしても外せないもののしてあるサディズム・マゾヒズム、そしてあらゆるフェティシズムは極めて制度的で観念的な欲望ですからね。例えばポルノの舞台というのは古今東西を問わず、絶対王政や絶対君主制、全体主義などの絶対権力による従属関係に満ちた世界(=主人公の観念的欲望にとって都合の良い世界)が舞台になることが多く、それはセクシャリティからの要求なんですね。それはサドの小説にしてもマゾッホの小説にしても「O嬢の物語」にしてもそうですし、日本でも団鬼六や日本の「家畜人ヤプー」や谷崎潤一郎の様々なエロティック小説に至るまで大方そういった形式の作品が多いです。
ポルノ研究者のジョン・K・ノイズが「マゾヒズムの発明」で述べた通り、全体主義国家やそれに類する絶対権力の権力行使者としてのサディスト(領主や将校や看守や聖職者や教師等)とその権力に支配されるマゾヒストというのは、SM要素のあるポルノの定番なシチュエーションとしてある訳です。海外だとSMポルノはサドが大巨匠として存在しますが、日本だと18禁漫画家の山文京伝さんとか権力的な存在(国家、企業、共同体、メディア等)がセクシャリティの欲望を操作することで支配・洗脳・従属させられるということをセクシャリティを操作される側の観点から書くということを見事にやっていますね。また山文さんタイプのポルノの亜流も古今東西沢山ある。ある種、オーウェルの「1984」やハックスリーの「すばらしい新世界」もこの観点から見ればポルノとして見ることもできますね。
先に挙げたような観念と肉体の二項対立や「肉欲は個人が全体に巻かれずにふみとどまるための最後の砦」みたいなことはポルノに関して一概には言えないように思いますね。セクシャリティというのは非常に観念的で分散しているものですから。歴史を振り返るに「ラブアンドピース」みたいな平和運動も、個々人のセクシャリティを含めた関係性としては凄くドロドロしてしまい、そこには支配欲や権力欲もあり、色々上手く行かなかった訳ですね…。
ポルノについて考察する時は、人間のセクシャリティは、寧ろ、全く肉体的でない観念的な様々な欲望を含んだ分散したものであるということを認めてから進むことが大切なんじゃないかと思いますね。
増補 エロマンガ・スタディーズ: 「快楽装置」としての漫画入門 (ちくま文庫)
エロティシズム (ちくま学芸文庫)
エロスの涙 (ちくま学芸文庫)
眼球譚(初稿) (河出文庫)
マダム・エドワルダ/目玉の話 (光文社古典新訳文庫)
マゾヒズムの発明
毛皮を着たヴィーナス (河出文庫)
閨房哲学 (河出文庫―マルキ・ド・サド選集)
O嬢の物語 (河出文庫)
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文芸批評家片山杜秀さんの反ファシズム的ポルノ論が面白かったのでご紹介致しますね。朝日新聞のサイトから読めます。以下、一部を引用致しますね。
(文芸時評)ポルノとファシズム 危うい空気に抗する砦 片山杜秀
http://www.asahi.com/articles/ASJ3X5R4MJ3XUCVL029.html
昭和10年代、右翼的思想家、佐藤通次は考えた。人間は孤独だ。肉と肉の交わりを求める。が、性的合体は一時のこと。必ず虚しくなる。もっと確かなつながりはないか。佐藤は身という日本語に注目した。たとえば身内。家族とか親族とか。やくざ映画なら「俺の身内」といえば組の仲間全部だろう。身は体だ。体は各人ひとつずつ。でもその体は親から生まれた。子も産む。バラバラに見えるが実は一緒。だから身内という言葉がある。先祖も子孫も自分の身の内にいつも居る。変な話だが、日本人はそういう身体感覚を伝統的に持つ。他人でも兄弟の盃を交わせば身内。日本民族の一億人も祖先をたどれば大本の親はきっと一緒。そう自覚すればみな身内。一億一心、一億玉砕。あるいは当世の新語だと一億総活躍。肉で駄目なら身の感覚に従え。さすればみんなつながれる。日本ファシズムの理屈の典型だ。
この論理を阻むのは? 優れたポルノ小説だろう。肉と肉に飽きはこず、肉から身に進む必要などさらさらないと主張しぬく小説。ポルノが権力から目の敵にされる理由だ。(中略)
佐藤通次の言うところの肉よりも身を是とする思想が力を再び持ちつつある。準戦時的気分が膨らんでいる。全体が優先され部分が見捨てられる。肉欲は個人が全体に巻かれずにふみとどまるための最後の砦。
うーん…。反ファシズムとしてのポルノ論というのは凄く面白いとは思うんですが、ただ、どうなんですかね…。観念的な全体主義としてのファシズム(精神)に対しての肉体的な個の感覚としてのポルノ(肉体)という対置をされていることは分かるんですが、ただ、実はポルノって肉体そのものに対する欲望よりは、肉体を超えた抽象的な欲望、観念的、精神的な欲望を描くことが多いんですよね…。勿論、徹底して肉体にこだわるポルノもあるけれど、ただ、どちらかというと個の肉体を超えた観念的なセクシャリティに向かうポルノの方が多い。そして勿論その方向には他のあらゆる欲望と同じように共同体主義や全体主義へ向かう欲望も存在する。
片山杜秀さんが上記の論で反ファシズム的ポルノとして挙げておられるバタイユなんて完全に、「肉と肉に飽きはこず、肉から身に進む必要などさらさらないと主張しぬく小説」とは全く逆の方向性にある観念的・精神的エロティックの超越的神学的ポルノを書かれている作家さんですよ。バタイユをちゃんと読んでるのかな…。どうも、上記の論はバタイユについて書きながら実はバタイユを全く読んでいないのではないかとしか思えないのですが…。バタイユ好きとしては、非常に残念に感じます。
まず、「肉と肉に飽きはこず、肉から身に進む必要などさらさらないと主張しぬく小説」なんてバタイユが最も忌み嫌いそうな小説の筆頭なんですね。ちなみに私は日本語に翻訳されているバタイユはだいたい全部読んでおりますが、どう考えても、肉の中に閉じこもっている小説はバタイユの小説や論考とは対極にあると思いますが…。バタイユは、人間のセクシュアリティが肉の外に出るエクセ(過剰)こそが人間を人間たらしめる至高性(共同体及び世界という全体性に通ずるもの)であり、そこからあらゆる崇高なものとあらゆる低俗なものと創造と破壊が生まれる(人間のエネルギーが蕩尽される)というように考えていたと推察されるので、「肉欲は個人が全体に巻かれずにふみとどまるための最後の砦」なんて考えとは全く逆と思われます。バタイユは個を超えて集団に関わる観念的・精神的なエロティシズムを人間だけが持つセクシュアリティの根幹として重視していました。
人間界においては、性の活動は動物の単純さから離れている。人間の性活動は本質的に(制度に対する)侵犯なのだ。それは、禁止ののちに、(動物としての)原初の自由に帰るということではない。侵犯は、労働活動が組織している人類の所業なのである。侵犯それ自体も組織されているのだ。エロティシズムは、全体において、組織された活動である。エロティシズムが時代を通して変化しているのは、それが組織されているからなのである。(中略)侵犯の性格、それは罪の性格に他ならない。
(バタイユ「エロティシズム」)
バタイユは基本的に、人間が制度を侵犯したいと欲する欲望が人間のセクシャリティであると考えるので、単純に「異性の肉体に惹かれる動物的本能」みたいな考えとは全くセクシャリティの観点が違うんですね。バタイユは「制度を侵犯したいと願うセクシャリティの欲望自体が制度の中で形造られた制度内制度として機能するものである」と考えます。故に「肉欲は個人の物」みたいな単純な考えとは全く対極にあるんですね。バタイユは欲望自体が制度(人間社会)から生まれていると考える。そりゃそうだと私も思いますよ。バタイユが何度も書いてますが(「エロスの涙」等に詳しい)、セクシュアリティの欲望の形というのは、それぞれの社会の形態によって、それぞれ全く異なる訳です。セクシュアリティの形は明らかに個人ではなく、社会に依存している。例えば日本に住む我々は神に生贄を捧げることに性的興奮を呼び起こされたりはしませんが、それは我々の住む現代日本という社会が、生贄と性的興奮を結びつけるような形でセクシュアリティを規定していないからです。これが古代ギリシアのオルギア(狂躁)の供犠における古代ギリシア人のセクシュアリティとかだったらまた別でしょう。当然ながらバタイユ自身のセクシュアリティも社会から自由ではない。
基本的に、バタイユのセクシャリティにおける制度と観念性を重視した考え方は性を抑圧する宗教としてのキリスト教の影響が極めて大きいように思います。またバタイユはポルノグラフィにおいては、過去の至高者(至高者の過剰)がポルノという形において残存していると考えていました。そしてそれ(至高者の過剰)は観念的なものです。例えば王侯君主がハーレムを建造してそこに何千人もの人々を所有したとしても、身体は一つしかない訳ですから、ハーレムの人員全員を抱ける訳ではないですね。彼はあくまで観念的なところでセクシャリティの過剰を形として造っていた訳です。
昔の世界では、個人は理性のためにエロティシズムの高まりを断念したりはしなかった。少なくとも個人は、同類の一人の人物において、自分の人間集団全体が集団の制限を免れることを願っていた。集団の意志に従って、至高者が富と余暇の特権(セクシャリティの過剰を叶える特権)を受けていたのである。(中略)
至高者が消滅してしまったために、私達は今日、「完全な人間」のイメージを持てなくなっている。昔の人々は、全員平等の個人的成功という事態を発想しえない中で、この「完全な人間」のイメージを持とうとしていた。過去の様々な物語がかつての王達の至高の豊かさを伝えているが、それだけで十分、アメリカのギャングやヨーロッパの金持ち達が見せる振る舞いの総体的な貧弱さが分かるのである。更に言えば、彼らギャングや金持ち達には過去の王権の華やかな顕示制度が欠けている。(中略)
至高で絶対的な自由は――文学の世界では――王権の原理が革命によって否定されたあとで考察された。(中略)サドは、王侯貴族の特権よりさらに法外な特権を想像した。すなわちこの上なく悪辣な王や大貴族なら引き受けたかもしれないような特権、小説の虚構によって全能と無処罰が与えられる特権を想像したのである。
(バタイユ「エロティシズム」)
私もバタイユと同じくポルノは基底的に観念的なものと考えています。元来、ポルノの根幹としてどうしても外せないもののしてあるサディズム・マゾヒズム、そしてあらゆるフェティシズムは極めて制度的で観念的な欲望ですからね。例えばポルノの舞台というのは古今東西を問わず、絶対王政や絶対君主制、全体主義などの絶対権力による従属関係に満ちた世界(=主人公の観念的欲望にとって都合の良い世界)が舞台になることが多く、それはセクシャリティからの要求なんですね。それはサドの小説にしてもマゾッホの小説にしても「O嬢の物語」にしてもそうですし、日本でも団鬼六や日本の「家畜人ヤプー」や谷崎潤一郎の様々なエロティック小説に至るまで大方そういった形式の作品が多いです。
ポルノ研究者のジョン・K・ノイズが「マゾヒズムの発明」で述べた通り、全体主義国家やそれに類する絶対権力の権力行使者としてのサディスト(領主や将校や看守や聖職者や教師等)とその権力に支配されるマゾヒストというのは、SM要素のあるポルノの定番なシチュエーションとしてある訳です。海外だとSMポルノはサドが大巨匠として存在しますが、日本だと18禁漫画家の山文京伝さんとか権力的な存在(国家、企業、共同体、メディア等)がセクシャリティの欲望を操作することで支配・洗脳・従属させられるということをセクシャリティを操作される側の観点から書くということを見事にやっていますね。また山文さんタイプのポルノの亜流も古今東西沢山ある。ある種、オーウェルの「1984」やハックスリーの「すばらしい新世界」もこの観点から見ればポルノとして見ることもできますね。
山文京伝は(セクシャリティの欲望を操作されることで)「変えられてしまう恐怖」を繰り返し描いている。(中略)この物語の凄みは洗脳の恐怖と同時に洗脳されることの快楽まで視野に収めている点だ。人が洗脳されてしまうのは、それが気持ちいいからではないのか?更に踏み込んでいえば我々もまた他者(国家・企業・メディア)によって(セクシャリティの欲望を操作され)洗脳されているのではないか?
(永山薫「エロマンガ・スタディーズ」)
先に挙げたような観念と肉体の二項対立や「肉欲は個人が全体に巻かれずにふみとどまるための最後の砦」みたいなことはポルノに関して一概には言えないように思いますね。セクシャリティというのは非常に観念的で分散しているものですから。歴史を振り返るに「ラブアンドピース」みたいな平和運動も、個々人のセクシャリティを含めた関係性としては凄くドロドロしてしまい、そこには支配欲や権力欲もあり、色々上手く行かなかった訳ですね…。
ポルノについて考察する時は、人間のセクシャリティは、寧ろ、全く肉体的でない観念的な様々な欲望を含んだ分散したものであるということを認めてから進むことが大切なんじゃないかと思いますね。
例えば「萌え」の代表選手である「苺ましまろ」は16歳の女子高生と女子小学生四人組のだらだらした日常をコミカルに描く、ただそれだけの漫画だ。(中略)この漫画を読む楽しさは、勝手に遊ぶ小動物を眺める気分に近い。主要な男性キャラクターは存在せず、しかも少女達の内面描写が極めて薄いため、自己投影にはかなりの努力を要するだろう。(中略)読者はただただ可愛い少女達の無限に引き伸ばされた日常を覗き見するだけだ。(中略)「視線化した私」の欲望の対象は少女達であると同時に、いや、それ以上に「かわいい女の子たちが戯れる居心地の良さそうなハーレム空間」である。そこには「私」を脅かすリアルな異性も同性も存在しない。失敗して自分が傷つくことになるかもしれないセックスもない。「私」は二重三重に守られた「視線」として、幽霊のように「女の子で一杯の世界」を彷徨い歩く。これは言い換えれば不能者のハーレムである。(中略)
もちろん、「苺ましまろ」は通常の意味でのポルノグラフィではないし、エロ漫画でもない。しかし逆説的に言えば、不能であるがゆえに、無限遠に止められた欲動の寸止めであるが故に、極めて猥褻なのである。(中略)「苺ましまろ」の読者が求めているのは「健全な雄と雌のセックス」ではない。求められるのは韜晦され、ほとんど無意識化されたエロスであり、その意味において「苺ましまろ」は「童貞男子のための性なきポルノグラフィ」という倒錯した商品でもありうるのだ。(中略)
ここでは、漫画に限って見てきたわけだが、性器と性交を遠ざけつつ、男女の恋愛感情から、フェティシズム、サドマゾヒズム、同性愛、トランスセクシャルといった多形的欲動までを含む「エロス」への傾斜は、ライトノベルやゲームの世界にも見て取ることができるだろう。
(永山薫「エロマンガ・スタディーズ」)
増補 エロマンガ・スタディーズ: 「快楽装置」としての漫画入門 (ちくま文庫)
エロティシズム (ちくま学芸文庫)
エロスの涙 (ちくま学芸文庫)
眼球譚(初稿) (河出文庫)
マダム・エドワルダ/目玉の話 (光文社古典新訳文庫)
マゾヒズムの発明
毛皮を着たヴィーナス (河出文庫)
閨房哲学 (河出文庫―マルキ・ド・サド選集)
O嬢の物語 (河出文庫)
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