2014年06月28日 01:11

ワールドカップについて語る一部の人々について驚いたことについて。スポーツを『見る』こと。

哲学初歩 (岩波現代文庫)

ワールドカップで日本が負けたことで、ネット上の一部のサッカーブログやコラムなどでは、『負けたことで日本サッカーの現状や日本のサッカー選手を批判するな!!ファンなるもの、サポーターなるものは選手や現状を支持し続けることこそ正しい!!』の大合唱で、それはそれで一つの考えだと思いますが、その騒ぎを見ていて、一つどうしても、物凄く驚いたことがあるので、今回はそれについて書いてみますね。下記などは典型的な『選手を批判するな』ブログなので少し抜粋引用させて頂きます。

【W杯】批判の仕方を間違えるな。集中バッシングの何が悪い。
http://kiyonagakeiji.info/rensai/2014/06/soc-col140427.html

「バッシングなんて許せない」っていう人は、批判の仕方を間違えていると思うんだ。

前述の不器用な大学生たちの話で言えば、彼らに優しい言葉をかけられるのは同級生であり、つまり「友達」だろう。この話はあくまで僕がつくった例に過ぎないが、多くの人はそうだろうと思う。良く知りもしない人にクソつまらないものを見せられたら腹が立つが、大切な友達だったらみんな許すよね。いや、優しい言葉じゃないかもしれない。「そんなんじゃダメだ!もっとがんばれよな!」っていう叱咤かもしれない。でもそこには、友達なりの「大切な想い」が込められているんだろうと思う。

さて、ではその大切な仲間たちの中で、一人が友達を思いやらないバッシングをしたとする。その人はたぶん、仲間ではないだろう。仮に今まではそうだったとしても、その瞬間から仲間ではなくなる。「申し訳ないが、俺はあいつを応援できない。ありえないだろ」と言われたら、それはサヨナラをするということなんだろう。それを責めることは誰にもできない。間違ってないのだから。言えるのは好き嫌いまでで、相手を責めることはできない。

では、その人が、4年後にまた「友達づら」をして接して来たらどうだろう。

いっせいに叩くときは、そのときだ。

「お前は、あのときアイツを、俺たちを見捨てたじゃないか」と。
友達づらをするな、それはおかしい、間違っていると、このときはじめて言える。

そう、つまりそういうことだ。

このタイミングで日本代表にリスペクト無く批判する人たちは、僕らの仲間ではないんだ。ただそれだけの話なんだ。みんながみんな僕らの仲間である必要はないし、押し付けてはいけない。強引に仲間にいれるのも違う。日本代表に、日本サッカーにかかわるすべての人にリスペクトを抱き、労いの気持ちを持つというのは、仲間だからだ。彼らに感謝をし、彼らのために僕らも頑張ろうと思えるんだろ?それは仲間だ。

サッカーの世界ではその人たちのことを「サポーター」っていうんだ。

ファンじゃない。「サポートする人」なんだ。一緒に戦ってるんだ。みんな、胸をはっていい。眠い目をこすり、日本代表に期待をし、TVの前で大きな声を出し、その期待が裏切られる結果になったにも関わらず、それでも日本代表に対して敬愛の念を抱くあなたは、たとえお金を払ってスタジアムで見たことが無くても、サポーターなんだ。そう、そこのあなた、バッシングに腹が立つあなただ。あなたは、ニワカだろうが素人だろうがなんだろうが、立派な日本代表のサポーターなんだ。

この歌を一緒に心から応援歌として歌う権利を持つ人なんだ。

あいつらが「サポーターづら」をしたとき、いっせいに叩いてやろうぜ

バッシングを否定したいなら、その中身を否定しよう。バッシングそのものを批判しちゃだめだ。それは同調圧力だ。例えばこういう記事には「はぁ、ブラジルからファンへ感謝を伝える会見を行うと何がダメなんすか?バカなんすか?」と言ってあげればいい。

バッシングするやつらを批判するのは今じゃない。これから先、また日本代表に活気が戻ってきたとき何事もなかったかのように「私たちも応援してます」みたいなツラして何の躊躇もなく戻ってきたときだ。言ってやろうじゃないか。

「いや、アンタらは日本代表を見捨てただろう。お前らは間違っている。仲間じゃない奴はここから去れ」

仲間じゃないんだからしょうがない。そんな奴は放っておけばいい。だいたい、スポーツ紙がゴミみたいな情報を発信するなんて今に始まったことじゃないだろう。クソくだらない芸能ゴシップや風俗レポートと同居しているような紙面だよ?はじめから仲間であるはずが無くて、でも彼らにも何かを発する権利はあるのだから、もう放っておけばいいさ。

僕らにいま大事なのはバッシングを批判することじゃない。
「ああ、この人たちは仲間じゃないんだ」と自覚して、放置することだ。圧力をかけることじゃない。

おおお…。僕はこれらのサッカーブログやコラムなどを始めて読み、そして物凄く驚いたんですね。現在の日本代表サッカーというのは巨大なショービジネスであって、日本サッカー協会とスポンサーと広告代理店の関係性における数億ドル、数百億円という金銭の流れ(放映権料)の中で全てが決定されていくわけで、そこに個々人のサッカー観戦者の個々の意思とか全く入らない訳ですよ。ぶっちゃけ、試合や選手を褒め称えようが、批判しようが、それは、来週の南太平洋の天気はどうなるかを議論するようなものにも似て、特に意見を表明したから何かが変わるというものではないんですね(天気は個々人の意思で決まるわけではない)。なので、熱心なサッカー支持者であっても、実際のところは別に日本代表に対して実際のサポートを何かしてる訳ではないのですが…。

何か、実際的なところとは別のところで、精神的共同体みたいなものを、サッカーファンがあると信じているようなところが、凄く驚いてるんですね…。ナショナリズムや宗教共同体などに見られる精神的な共有感による『想像の共同体』ですね。

直接顔を合わせて連絡を行う原始的村落より大きいあらゆる共同体(或いはそれでさえも)は想像されたものである。共同体は虚偽/真実という軸によってではなく、その想像のされ方によって弁別されなければならない。
(アンダーソン「想像の共同体」)

ただ、まあぶっちゃけ、こういった想像の共有感は実質のところは主観的幻想なわけですね(テレビモニタの前でいくら選手を応援しても、その応援によって勝敗が決まるわけではない)。スポーツというのは肉体の実力勝負な訳ですから、こういった主観的幻想を抜きにした世界(客観世界)において興味深い肉体の戦いこそ、僕はスポーツという冠に相応しいと思うところでありますね…。古代ギリシアのオリンピックが示したように、スポーツというのは、基本的には『見る』ものであって、『幻想を託す』ものとはまた別ではないかと、僕はそう思います。

『およそものごとには、われらの権内にあるものと、われらの権内にないものとがある。我らの権内にあるのは、思惟、志向、意欲、忌避など、一言にしてこれを示せば、我らが自分だけで為すところのものである。これに反して、我らの権内にないというのは、肉体、財産、名声、地位など、一言にしてこれを示せば、我らが自分だけで作り出すのではないところのものがこれである。我らの権内にあるものは本来自由であって、妨害されたり邪魔されたりすることのないものであるが、我らの権内にないものは、はかなく不自由なものであって、いろいろな妨げがあり、自分の力の及ばぬ他所のものなのである。

されば、君の忘れてはならぬのは次のことである。もし君が本来不自由なものを自由になると思い、他所のものを自分のものと考えるならば、君が妨害に出会い、悲嘆にくれ、心を乱して、神や人を罵るようになるであろう。これに反して、もし君が君自身のものだけを君のものと思い、他所のものはちょうどそのままでよいと考えるならば、不自由な強制を君に加えるものは一人もいないことになるであろう。君を妨げるものは誰もいないことになるであろう。そして君は何物をもうらむことなく、また罵ることもないであろう。君は何一つ不本意な行いをすることはないであろう。君を傷つけるものは一人もなく、君は敵を持たないであろう。なぜなら、君は何の害も受けることはないであろうから』

という言葉がエピクテトスに帰せられている。エピクテトスのこの倫理は、自分だけの世界と他所のものの世界との峻別の上に立てられている。

我々は自分だけではいかんともなし難い外物に空しい期待をかけて、その蹉跌に怒ったり、悲しんだりする代わりに、全てそういう望みを捨てて、自分だけの世界の自由を守るようにしなければならぬというのである。

ネロの時代とも重なる暴政ローマ帝国の下に奴隷として生まれた不具のこの哲学者は、その絶望の倫理において、自分だけの世界に奥深く身を沈めていたのである。

仮に我々は、いわゆる主客の対立が、単に見るという態度からだけ生まれて来るものではないことを見た。我々が見るからものは客体化されるのではなく、ものは既に(我々の影響外にある)客体であるから、見るよりほかはないのである。

「我らの権内にないもの」については、我々はエピクテトスと共に空しい望みを捨てる。我々のいかんともなし難きものは、これを見ているよりほかはないからである。

人が何かに働きかけ、行為するのは、それが「我らの権内」にあることで、自分の自由になることだと信ずるからである。しかし天体の運行を我々は自由になし得ないし、幾何学の命題をわが意に従えることもできない。また既に過去となった歴史事実を我々はいかんともすることができない。

これらを取り扱う学問が「見る」の性格を帯びるのは、全くそのもの(客体)の要求によるのであって、我々の「見る」態度がこれらの学問やその対象を作り出すのではない。
(田中美知太郎「田中美知太郎集」)

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