2013年11月24日 04:45

16日にギフト券贈って頂きありがとうございます。返答が遅れて申し訳ありません。「ファタモルガーナの館」の救済。

今月の16日にギフト券を贈って頂きありがとうございます。とても助かります…。本当にありがとうございます。返答が遅れて申し訳ありません。メールに気づいたのが本日でして申し訳ないです…。挙げて頂いた作品の中で現在プレイしたことがあるのは「ファタモルガーナの館」「ダンガンロンパ1」だけなので、他の作品もプレイしてみたいなと思います。ありがとうございます。

「ファタモルガーナの館」はとても良かった作品ですね。バッドエンドも含めて余すところなく全てクリアした思い出の作品です。イギリスの作家タニス・リーの幻想ファンタジー諸作品に良い意味で非常に似ていますね。本作は、オタクの人々の支持を受けるだけではなく、一般的な人々の心にも訴求できる品質を持っている。本作は耽美な本格幻想ファンタジーとして優れており、日本のオタク向け和製ファンタジーとは一線を画していて、時代の流行り廃りを超えている本格作品としての心地のよさを堪能できる作品でした。

ウィキペディア「耽美主義」
耽美主義(たんびしゅぎ、aestheticism・唯美主義、審美主義とも)は、道徳功利性を廃して美の享受・形成に最高の価値を置く西欧の芸術思潮である。これを是とする風潮は19世紀後半、フランス・イギリスを中心に起こり、生活を芸術化して官能の享楽を求めた。1860年頃に始まり、作品の価値はそれに込められた思想やメッセージではなく、形態と色彩の美にある、とする立場である。

アルジャーノン・スウィンバーンがある絵画を評して曰く「この絵の意味は美そのものだ。存在することだけが、この絵の存在理由(raison d'être) なのだ」という表現が耽美主義の本質を説明している。耽美主義者の中ではオスカー・ワイルドなどが代表的である。19世紀の末に近づくにつれ、デカダンスの様相を呈した反社会的な動きとなっていった。これは、当時ヨーロッパを席巻していた楽観的な進歩主義へのアンチテーゼでもあった。

その反社会的思潮から悪魔主義などと括られることもあるが、耽美主義じたいは悪魔主義や退廃芸術とは必ずしも一致しない。むしろ感性の復興という意味ではルネサンスとも通底している。その一方で神秘主義とも相通じるものもある。フランス人作家ペラダン(Joséphin Péladan) は「美が生み出すのは感情を観念に昇華させる歓びである」と語っている。

耽美主義の流れは日本の知識人にも影響を与え、三島由紀夫や谷崎潤一郎も耽美派に含まれる場合がある。

本作「ファタモルガーナの館」は俗な物事から完全に高踏的に離れていて、本作全体の耽美さそのものが純粋に美しいと感じさせる仕上がりになっている。タニス・リーやアン・ライス、日本で言うと野阿梓さんや倉橋由美子さんを彷彿とさせる耽美幻想の世界ですね。

上記で挙げた作家さんの諸作品と、本作の通底するところを耽美主義以外に挙げるとすれば、非常に美的に魅力的な題材として性倒錯を描いているところですね。主人公であるミシェルの性同一性障害は、苦悩と外部からの拒絶も含めて、彼の聖痕として機能している。彼は最終章にてモルガーナを癒すわけですが、彼自身が生まれつきの欠如に非常に苦しんできた体験があってこそ、モルガーナをある種理解し、癒すことができたのだと思いますね。

本作は最終章が非常に倫理的で、最後に美と倫理を融合させようとしている。ここの展開が感動的で素晴らしいと深く心から思いましたね。プレイしながらヴァルター・ベンヤミンの歴史哲学を思い出していました…。

過去はある秘められた想いを伴って現れ、救済への道を示している。実際また、かつては在りし人々の回りに漂っていた空気のそよぎが、私たち自身にそっと触れてはいないだろうか。私たちが耳を傾けるさまざまな声の中に、今では沈黙してしまっている声が混じってはいないだろうか。私たちが愛を求める娘たちは、もはや知ることのなかった姉たちを持っているのではなかろうか。もしそうだとすれば、かつて在りし諸世代と私たちの世代との間には、ある秘密の約束が存在していることになる。
(ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」「ベンヤミン・コレクション1」より)

ベンヤミンのメッセージ ―― 希望の倫理へ
http://chikyuza.net/n/archives/1570
ベンヤミンの歴史哲学は、認識論的な性格を持つと同時に倫理的な性格も持っています。『歴史哲学テーゼ』はその倫理的側面に関わっています。その核にあるのは、忘却に委ねられている過去をもう一度救い出さねばならないという当為です。忘却される過去を最も本質的な意味で象徴しているのは死者であり歴史の敗者です。勝者は記憶を独占します。死者や敗者は、敗北によって記憶から排除されたまま過去へと追いやられ忘却のかなたへと消滅してゆきます。歴史をアレゴリー的に読み解き、根源からメッセージを受けとめることは、何よりも死者、敗者を救い出すこと、それによって根源の再生を図ることを意味しました。これが彼にとっての大切な倫理となります。

ベンヤミンの重要な概念である「アイゲデンケン」(私は「哀悼的想起」と訳しています)の核心は「悼む」ことです。忘却のかなたへと追いやれた死者、敗者、忘却され歴史から消えてゆく過去を悼むこと、それが救いの始まりになります。ここでベンヤミンが強調しているのは、われわれの幸福が、忘却へと追いやられてしまった死者たちとのかすかではあっても、確実に存在するつながり、それを通じた応答に根ざすということです。この幸福は、根源としての階級なき社会が実現され、それによって世界が不正から解放されることを意味します。裏返していえば、根源としての階級なき社会へとわれわれが向かうためには、忘却された過去、あるいはそこに属する死者たちとのつながりをはっきりと自覚し、失われた過去をもう一度取り戻さねばならないということです。そしてそれは死者たちに対する哀悼的想起を通して行われるのです。(中略)

<テーゼ九>進歩の風に運ばれる天使の前に廃墟の山

【「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それには一人の天使が描かれており、天使は、彼が凝視している何者かから今にも遠ざかろうとしているところのように見える。彼の目は大きく見開かれて、口は開き、翼は広げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。彼は顔を過去に向けている。僕らであれば、事件の連鎖を眺めるところに、彼はただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは休みなく廃虚の上に廃虚を積み重ねて、それを彼の鼻先へ突き付けてくるのだ。多分彼はそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて組み立てたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風が彼の翼にはらまれているばかりか、その風の勢いが激しいので、彼はもう翼を閉じることができない。強風は天使を彼が背中を向けている未来の方へ不可抗的に運んでいく。その一方で、彼の眼前の廃虚の山が天に届くばかりに高くなる。僕らが進歩と呼ぶものは、(この)強風なのだ】

この詩的イメージに富んだ断章は、ある意味ベンヤミンの思想の総決算といってよいと思います。ここではもう救済すらもが断念されているように見える。天使は地上にとどまることができないまま、進歩の強風に乗せられて未来へと遠ざかってゆく。天使が遠ざかるにつれて、われわれの地上の世界、被造物の世界には廃虚が積み上がってゆく。歴史の進歩の中で被造物がどんどん根源から隔てられてゆくのです、それとともにこの地上世界は全面的な廃虚と化してゆくのだとベンヤミンはいっています。われわれは廃虚が積み重なっていくこの地上世界に取り残される他ありません。ではそこにはほんとうにもう救いの余地は残されていないのか。そうではないはずです。この本の中にも書きましたが、最後に残されているのはやはり人間の認識の力だろうと思います。それを通して、われわれは何度も断たれそうになるか細いメシア的なものとのつながり、つまりは根源との、救済と解放とのつながりを繰り返し歴史のただ中で掘り起こしていかなければいけない。そうしたかたちでたえず過去に介入してゆかなければならない。そういうメッセージをベンヤミンはわれわれに残してくれたんだと思います。それはブロッホの主著『希望の原理』をもじっていえば、ベンヤミンの「希望の倫理」といえるかもしれません。

起きてしまったことは変えられないけれど、起きてしまった事柄、過ぎ去ってしまった人々について想起することによって、起きてしまった事柄、過ぎ去ってしまった人々に対する認識が変化し、過去と現在と未来が繋がる。過去を想起することは過去と現在と未来を繋げていくことなんですね。もし救済が未来(我々が死した後の果て無き未来)にあるのなら、その未来と過去を繋げること、過去を想起し今と繋げ、救済に連なる道標として新たに過去に道を開く、それが今を生きる人間の行うべきことと、歴史哲学は考えるんですね…。そして、過去を想起するとき、ここで本作は、タブラ・ラサなんですね。人間性をとても信じる見方を取る。

ウィキペディア「タブラ・ラサ」
タブラ・ラーサ(ラテン語: tabula rasa)は、白紙状態の意。蝋などを引いた書字版を取り消して何も書き込まれていない状態。感覚論において魂は外部からの刺激による経験で初めて観念を獲得するとされており、その経験以前の魂の状態。ロックの用語とされるが古くからある概念。プラトン、ストア派、特にアリストテレスに同様の考えがあり、タブラ・ラーサはアリストテレスの訳語としてローマのアエギディウスが考案したとされる。後にアルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナスが用いて定着した。経験主義の比喩。原義はラテン語で「磨いた板」の意味。人は生まれたときには何も書いていない板のように何も知らず、後の経験によって知識を得ていくというものである。

人間の行いはその環境によって形成される。その環境において良心が育つならば、良き行いを選びとり、悪しき行いを選ばぬであろう、という人間性への信頼の見方から、起きてしまった悲劇をもう一度捉えなおす本作のメインモティーフ。ここが本当に凄いとしかいいようがなくて、心打たれましたね…。「ファタモルガーナの館」実に見事な作品、大勢の人々にプレイして欲しい作品ですね…。

現在、体を壊しておりまして、昔のように更新したり、ゲームのプレイ時間を作ったりするのがなかなか困難な状況ですが、できるだけ、ブログの更新とかしていけたらよいなと思っております。ギフト券を贈っていただいたりアフィリエイトでお買い物をして頂けたり、本当にありがとうございます…。

ファタモルガーナの館
ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読 (岩波現代文庫)
ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)

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