2011年11月28日 07:38

橋下氏が大阪市長に当選。東京23区は都に逆らえない訳ですが、大阪の各市もそうなる可能性がありますね…。中央集権的な特別区と地方分権の問題。

道州制 (ちくま新書)

橋下氏が大阪市長に当選しましたね。う〜ん…、「都」内においては、都の直轄下において治められる領域は基本的に特別区という扱いになり(東京の場合、東京23区が都の直轄下にある特別区です)最小単位の地方自治体である市町村の権限よりも自治権限が大幅に縮小するのですが、そういうのは果たして良いことなのかどうかは、一考するべき事柄だと思いますね…。僕としては、こういった反地方分権・中央集権的流れには賛成できません。

通常の市町村自治体と違い、都の下にある特別区は非常に弱い自治権しか持たない立場で、都の意向に逆らえません。例えば、放射能に汚染された瓦礫をどうするかが問題になっていますが、都道府県が市町村に「放射能汚染瓦礫の処分を引き受けるように」と命令を出しても、市町村は各地方自治体としての権限でその命令を断れますが、都が特別区(東京23区)に対して「放射能瓦礫の処分を引き受けるように」と命令を出したら、区は区の権限でそれを断ることができないと思われます。都は区の上に命令系統が直接位置するからです。

今、東京が放射能汚染瓦礫を引き受けているのは、東京都の都としての特別性、都の意向(石原都知事の意向)に特別区は逆らえない上下関係にあるということも大きな一因だと思いますね…。こういった中央集権・地方分権の問題が今回の選挙ではどれだけきちんと考えられていたのかなと思いますね…。特別区構想(大阪都構想)は地方分権の流れに逆行する中央集権的構想であり、地方分権を支持する僕としては、特別区構想には問題があると思います…。

ウィキペディア「特別区」
特別区は、基本的には基礎的自治体である「市町村」に準ずるものとされ(地方自治法第281条の2第2項・第283条)、「市」の所掌する行政事務に準じた行政権限が付与されている(同法第281条第2項・第283条)。

しかし特別区は、「法律または政令により都が所掌すべきと定めたれた事務」、および、「市町村が処理するものとされている事務のうち、人口が高度に集中する大都市地域における行政の一体性及び統一性の確保の観点から当該区域を通じて都が一体的に処理することが必要であると認められる事務」を処理することができない(同法第281条第2項・第281条の2第1項)。

具体的には、特別区は「上下水道」・「消防」などの事務に関しては単独で行うことができず、特別区の連合体としての「都」が行っている(水道法第49条、下水道法第42条、消防組織法第26条ないし第28条)。東京都は、これらの規定に基づき、東京都水道局、東京都下水道局、東京消防庁などを設置している。また、都市計画や建築確認についても一定規模以上のものについては、法令により都に権限が留保され、都が直接事務を行っている。(中略)

このような「特別区」制度の特殊性は、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)に、旧東京府と旧東京市が、戦時法令である旧東京都制の施行に伴って合併し、東京都が設置されるに至ったことに起因する。地方自治法における特別区の規定は東京都制における区の制度を手直ししたうえで『都』に置かれる『区』として承継したものである。

ところで、現在の「特別区」は地方自治法において「普通地方公共団体」である市に準ずる権限を有し(第281条第2項)、かつ平成12年の改正で基礎的自治体としての地位を回復したとは言えど(第281条の2第2項)、地方自治法の制定時には"基礎的自治体"として位置付けられていたものが昭和27年の法改正によって"都の内部機関"に改められたという歴史的な経過もあり、その地位や権能は現在においても法律によって左右され得る可能性が捨てきれないことから、日本国憲法において地方自治権を保障された、普通地方公共団体である「市(町村)」とは比較の対象にならないほどに脆弱である。

つまり、現状の特別区は自治権限こそ以前に比べ拡大してはいるものの、法体系上は未だに普通地方公共団体である「市」と同格ではなく「法律により市に準じた権限を付与された団体」としての立場であり、いまもなお「東京都制」の影響、つまり「東京都」(=旧東京市)の内部機関としての位置付けを完全に排斥しきれてはいないのである。

東京都の特別区はこのことを強く意識しており、23区が共同で組織する公益財団法人特別区協議会は「特別区制度そのものを廃止して普通地方公共団体である「市」(東京○○市)に移行する」という形での完全な地方自治権の獲得を模索している。

ウィキペディア「大阪都構想」
大阪都構想の欠点
大阪都構想のモデルとなっている東京都(特別区の地域は区長が一部の行政を直轄)では、特別区のいくつかに自治権の拡大を目指して千代田市構想や世田谷市構想あるいは基礎自治体連合といった都政(都の区)からの脱却の動きがある。また、戦前に導入が試みられ、その後、戦時体制という特殊状況下で国政によるトップダウン方式で成立した歴史を有する都区制度自体が、ボトムアップ方式である地方分権という、地域住民が主体となる新たな自治の時代において適正かつ妥当なモデルであるかが議論されている。

特別区へ税収を再分配する、東京都の財政調整制度を例にすれば、大阪都20区内の固定資産税・都市計画税・法人税などの収入を都の財源とするため、都による財源の再配分のあり方によっては特別区の財源が不足し、地域によっては住民生活に密接した行政サービスが低下する可能性がある。

本当だったら、東京23区を、東京23市にするという地方分権の方向性が望ましいと僕は思うのですが、大阪都構想がこれだけ支持を集めるとなると、日本では地方分権よりも中央集権の方が進むべき道として日本国民の大きな総意があるということなのかな…。僕としてはこの中央集権的な流れには賛成できません…。

住民の意志が最も反映される最小の公的自治体である市町村の力こそ強めるべきものだと僕は思います。国や都道府県のような中央集権的な上位の力が強まり、逆に市町村のような住民にとって最も密接な公的自治体の力が弱まる中央集権的流れは、住民の意志が地方自治に反映されなくなる方向性に流れる危険性があると思います。

こういった政策論争をこそ選挙においては行ってほしかったのですが、どうも今回の選挙を見ると、全く政策とは関係ない政治宣伝、特に橋下氏に対するセンセーショナルなネガティブキャンペーンばかり、テレビや週刊誌の表紙などで見ることになり、気分が重くなりました。僕は橋下氏を支持していませんが、それでも橋下氏の政治家としての政策と何の関係もないセンセーショナルなバッシングを見ると橋下氏が気の毒になりました。橋下氏の政策を評するのではなく、私人としての橋下氏をセンセーショナルにバッシングすることには大変な問題があると思います…。センセーショナルなネガティブキャンペーン選挙戦は決して行うべきではないです。今後の日本ではきちんと政策問題について語って競う選挙戦を望みます…。

最後に、小林秀雄が良い散文(いわゆる普通の文章)の条件について書いている文章をご紹介致しますね。どれだけできるか分かりませんが、僕は文章を書くとき、このこと(センセーショナルを避け、読み手の自由を重んじて、できるだけ知性的に書くこと)に気をつけて書くようにしていますね…。テレビがセンセーショナルで不自由なのは、もう如何ともしがたいかも知れませんが、せめて活字は、そうならないように、活字を愛するものとして活字の自由を心から願います…。

本を読む人は、自分の自由な読書の時間を持っている。詰らぬ処をとばして読もうが、興味のある処に立ち止まり繰り返し読んで考え込もうが、彼の自由です。めいめいが彼自身の読書に関する自由を持っているのであって、読者は、(演説を聞く)聴衆の様な集団心理を経験することはない。かようなものが成熟した読書家の楽しみです。(中略)

こういう読み手を、書く人は、ただ尊重し、これに信頼するより他はないでしょう。そういう意味で、作家は、自分の裡に理想的読者を持つのです。書くとは、自ら自由に感じ考えるという極まり難い努力が、理想的読者のうちで、書く都度に完了すると信じることだ。徹底して考えて行くと現代では書くということは、そういう孤独な苦しい仕事になっている様に思われます。

喋ることと書くことが(印刷・出版技術が進歩して大勢の人に考える活字が行き渡るようになったことで)、今日のように離れ離れになってしまったことは(これまでの歴史に)ないという事実に注意すべきだと思います。(中略)昔は、名文といえば(喋り言葉として)朗朗と誦すべきものだったが、印刷の進歩は、文章からリズムを奪い、文章は沈黙してしまったと言えましょう。(中略)散文は(喋り言葉という)人の感覚に直接訴える場合に起きる不自由を捨てて、表現上の大きな自由(考える言葉)を得ました。このいわば肉体を放棄した精神の自由は、甚だ不安定なものであることは、散文が、自分を強制することも、読者を強制することも、自ら進んで捨てた以上仕方がないでしょう。

いい散文は、決して人の弱みにつけ込みはしないし、人を酔わせもしないでしょう。読者が覚めていればいる程いいと言うでしょう。優れた散文にもし感動があるとすれば、それは認識や自覚のもたらす感動だと思います。

散文の芸術は、芸術のうちで、一番抽象的な知的なものだ。活字から直接に感動に到る通路は全くない。活字は、精神に、知性に訴えるものです。そして、ともすれば博学のうちに眠ろうとする知性を目覚まし、或は機械的な論証のうちに硬直しようとする精神に活を与えるものなのです。(中略)

元来、センセーショナルなものに直接は無縁な散文は、センセーショナルなものに極力対抗すべきなのだ。だが、センセーショナルな書き方をすれば、弱い頭脳を充分に惹きつけることができるというところが、小説家の大きな誘惑になる。やがては映画が、そういう弱い散文家を呑み尽すに至るでしょう。
(小林秀雄「喋ることと書くこと」「栗の樹」より)

道州制 (ちくま新書)
栗の樹 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

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