2011年09月03日 06:41

宝島社のマッカーサー元帥の広告、「がんばろう何とか」よりずっと良い。「がんばろう何とか」から感じる「欲しがりません勝つまでは」。

堕落論 (集英社文庫)

昨日の新聞に見開き全紙を使って、東日本大震災を第二次世界大戦敗北に見立てたマッカーサー元帥の写真広告を宝島社が載せていましたが、これってヤフーのアンケート見ると評判悪くて吃驚です。僕はなかなか洒落てていいな、マスコミ(テレビ局)が垂れ流す「がんばろう何とか(地方名)」の大合唱より遥かに洗練されていて真っ当だと思ったのですが、この広告に関するヤフーのアンケート見ると、「とても悪い」がダントツに多くてびっくりしました。僕は「やや良い」に投票したのですが、「やや良い」は投票数が一番少ない…僕の感性はマイノリティな感性のようです…。

マッカーサー元帥の写真を使った宝島社の広告をどう感じる?
http://polls.dailynews.yahoo.co.jp/quiz/quizresults.php?poll_id=7101&wv=1

マスコミが流しまくっている「がんばろう何とか」は、要するに「欲しがりません勝つまでは」と同じ、『耐えろ忍べ我慢しろ』と強制する「耐乏、忍苦の精神」ですよね。そういう、人間に対して苦しみを強要する『農村的美徳・日本的美徳』こそが、日本の無謀な戦争、第二次世界大戦参戦・敗北を引き起こしたメンタリティの主たる形成であることを坂口安吾が指摘しています。そして、こういった日本特有の抑圧的メンタリティを、マッカーサーが象徴するようなアメリカの外圧が破壊したこともまた事実でしょう。僕はマスコミが垂れ流す「がんばろう何とか」を見て、いまだにドロドロした、日本特有の暗い暗い不気味な抑圧的深層が生きていることを感じて、ゾッと寒気を覚えました。こういった不気味な抑圧性に対して、外圧によるその破壊者(それ自体もまた別の形の抑圧者でしたが、少なくとも、日本の暗く不気味な深層をある程度破壊してくれたことは間違いない)であるマッカーサーを持ってくるセンスというのは、なかなかのものであると思います。

敗戦後国民の道義頽廃せりというのだが、然らば戦前の「健全」なる道義に復することが望ましきことなりや、賀すべきことなりや、私は最も然らずと思う。

私の生れ育った新潟市は石油の産地であり、したがって石油成金の産地でもあるが、私が小学校のころ、中野貫一という成金の一人が産をなして後も大いに倹約であり、停車場から人力車に乗ると値がなにがしか高いので万代橋という橋の袂まで歩いてきてそこで安い車を拾うという話を校長先生の訓辞に於て幾度となくきかされたものであった。ところが先日郷里の人が来ての話に、この話が今日では新津某という新しい石油成金の逸話に変り、現に尚新潟市民の日常の教訓となり、生活の規範となっていることを知った。

百万長者が五十銭の車代を三十銭にねぎることが美徳なりや。我等の日常お手本とすべき生活であるか。この話一つに就ての問題ではない。問題はかかる話の底をつらぬく精神であり、生活のありかたである。

戦争中私は日本映画社というところで嘱託をしていた。そのとき、やっぱり嘱託の一人にOという新聞聯合の理事だか何かをしている威勢のいい男がいて、談論風発、吉川英治と佐藤紅緑が日本で偉い文学者だとか、そういう大先生であるが、会議の席でこういう映画を作ったらよかろうと言って意見をのべた。その映画というのは老いたる農夫のゴツゴツ節くれた手だとかツギハギの着物だとか、父から子へ子から孫へ伝えられる忍苦と耐乏の魂の象徴を綴り合せ映せという、なぜなら日本文化は農村文化でなければならず、農村文化から都会文化に移ったところに日本の堕落があり、今日の悲劇があるからだ、というのであった。

この話は会議の席では大いに反響をよんだもので、専務(事実上の社長)などは大感服、僕をかえりみて、君あれを脚本にしないかなどと言われて、私は御辞退申上げるのに苦労したものであるが、この話とてもこの場かぎりの戦時中の一場の悪夢ではないだろう。戦争中は農村文化へかえれ、農村の魂へかえれ、ということが絶叫しつづけられていたのであるが、それは一時の流行の思想であるとともに、日本大衆の精神でもあった。

一口に農村文化というけれども、そもそも農村に文化があるか。盆踊りだのお祭礼風俗だの、耐乏精神だの本能的な貯蓄精神はあるかも知れぬが、文化の本質は進歩ということで、農村には進歩に関する毛一筋の影だにない。あるものは排他精神と、他へ対する不信、疑ぐり深い魂だけで、損得の執拗な計算が発達しているだけである。農村は淳朴だという奇妙な言葉が無反省に使用せられてきたものだが、元来農村はその成立の始めから淳朴などという性格はなかった。

大化改新以来、農村精神とは脱税を案出する不撓不屈の精神で、浮浪人となって脱税し、戸籍をごまかして脱税し、そして彼等農民達の小さな個々の悪戦苦闘の脱税行為が実は日本経済の結び目であり、それによって荘園が起り、荘園が栄え、荘園が衰え、貴族が亡びて武士が興った。農民達の税との戦い、その不撓不屈の脱税行為によって日本の政治が変動し、日本の歴史が移り変っている。人を見たら泥棒と思えというのが王朝の農村精神であり、事実群盗横行し、地頭はころんだときでも何か掴んで起き上るという達人であるから、他への不信、排他精神というものは農村の魂であった。彼等は常に受身である。自分の方からこうしたいとは言わず、又、言い得ない。その代り押しつけられた事柄を彼等独特のずるさによって処理しておるので、そしてその受身のずるさが、孜々として、日本の歴史を動かしてきたのであった。

日本の農村は今日に於ても尚奈良朝の農村である。今日諸方の農村に於ける相似た民事裁判の例、境界のウネを五寸三寸ずつ動かして隣人を裏切り、証文なしで田を借りて返さず親友を裏切る。彼等は親友隣人を執拗に裏切りつづけているではないか。損得という利害の打算が生活の根柢で、より高い精神への渇望、自我の内省と他の発見は農村の精神に見出すことができない。他の発見のないところに真実の文化が有りうべき筈はない。自我の省察のないところに文化の有りうべき筈はない。

農村の美徳は耐乏、忍苦の精神だという。乏しきに耐える精神などがなんで美徳であるものか。必要は発明の母と言う。乏しきに耐えず、不便に耐え得ず、必要を求めるところに発明が起り、文化が起り、進歩というものが行われてくるのである。日本の兵隊は耐乏の兵隊で、便利の機械は渇望されず、肉体の酷使耐乏が謳歌せられて、兵器は発達せず、根柢的に作戦の基礎が欠けてしまって、今日の無残極まる大敗北となっている。あに兵隊のみならんや。日本の精神そのものが耐乏の精神であり、変化を欲せず、進歩を欲せず、憧憬讃美が過去へむけられ、たまさかに現れいでる進歩的精神はこの耐乏的反動精神の一撃を受けて常に過去へ引き戻されてしまうのである。

必要は発明の母という。その必要をもとめる精神を、日本ではナマクラの精神などと云い、耐乏を美徳と称す。一里二里は歩けという。五階六階はエレベータアなどとはナマクラ千万の根性だという。機械に頼って勤労精神を忘れるのは亡国のもとだという。すべてがあべこべなのだ。真理は偽らぬものである。即ち真理によって復讐せられ、肉体の勤労にたより、耐乏の精神にたよって今日亡国の悲運をまねいたではないか。
(坂口安吾「続堕落論」)

『農村の美徳は耐乏、忍苦の精神だという。乏しきに耐える精神などがなんで美徳であるものか。必要は発明の母と言う。乏しきに耐えず、不便に耐え得ず、必要を求めるところに発明が起り、文化が起り、進歩というものが行われてくるのである。日本の兵隊は耐乏の兵隊で、便利の機械は渇望されず、肉体の酷使耐乏が謳歌せられて、兵器は発達せず、根柢的に作戦の基礎が欠けてしまって、今日の無残極まる大敗北となっている。あに兵隊のみならんや。日本の精神そのものが耐乏の精神であり、変化を欲せず、進歩を欲せず、憧憬讃美が過去へむけられ、たまさかに現れいでる進歩的精神はこの耐乏的反動精神の一撃を受けて常に過去へ引き戻されてしまうのである。

必要は発明の母という。その必要をもとめる精神を、日本ではナマクラの精神などと云い、耐乏を美徳と称す。一里二里は歩けという。五階六階はエレベータアなどとはナマクラ千万の根性だという。機械に頼って勤労精神を忘れるのは亡国のもとだという。すべてがあべこべなのだ。真理は偽らぬものである。即ち真理によって復讐せられ、肉体の勤労にたより、耐乏の精神にたよって今日亡国の悲運をまねいたではないか。』


「がんばろう何とか」から感じる、第二次世界大戦の「欲しがりません勝つまでは」的な日本的深層は、まさにこの上記の文章を連想させますね…。『乏しきに耐える精神などがなんで美徳であるものか』は、ドストエフスキーもたびたび書いていますね。貧しきこと、窮乏貧困は人間を人間以下の存在に変貌させる、人間性を破壊し貶める最悪の事柄であると。

「なあ、学生さんと彼(マルメラードフ)はほとんど勝ち誇った調子で始めた。『貧は悪徳ならずというのは、真理ですなあ。わたしも酔っぱらうのが徳行でないのは、百も承知しとります。いや、そのほうがいっそう真理なくらいですて。ところで、洗うがごとき赤貧となるとね、学生さん、洗うがごとき赤貧となると――これは不徳ですな。貧乏のうちは、持って生まれた感情の高潔さというものを保っておられるが、素寒貧となると、もう人間社会から棒で叩き出されるだんでなく、ほうきで掃き出されてしまいますよ。つまり、ひとしお骨身に染みるようにね。しかし、それが当然の話で、素寒貧になると、だいいち自分の方で自分を侮蔑する気になりますからな。そこでつまり酒ということになるんですて!」
(ドストエフスキー「罪と罰」)

この酔っ払い親父(マルメラードフ)のように、人間はビンボーになると、自分で自分を軽蔑しはじめるものだ。自分を卑しめ、貶め、社会から弾き飛ばされた人間だと考えるようになってしまう。本当のビンボーの惨めさとはそういうものだ。

得をする側の人間が太っていけば、損をする側の人間はさらにビンボーになってゆく。世の中に、自分を軽蔑する人間が増えてしまう。自分を軽蔑する人間は、未来に希望を抱かない。明るい未来、希望のある未来を想像し、自分の力で創造していけるのは、あるていど、生活に余裕のある人間である。マルメラードフのように、奥さんの靴下まで酒に変えて飲んでしまうような人間には、明るい未来を想像することなど、まるで不可能なのだ。
(青木雄二「ゼニの人間学」)

僕もお金なくて生活が苦しくて困っているので、ここで書かれていることは身に染みてよく分かります。生活にゆとりのない苦しい状態だと、精神状態も急激に悪化して、生活の窮乏の苦しみのあまり、ヤケクソな自暴自棄な、すさんだ陰惨な心持になってゆきます。貧しさの苦しみは人間の尊厳を蝕み破壊します。逆に、お金がある程度あって、何とか生活できるときは、安定した気持ちが戻ってきます。お金がなく生存が危機に晒される窮乏の苦しみは、身も心もさいなむ地獄であること、これは絶対的なことですし、それを逆に、あべこべであるかのような虚偽をばら撒く日本特有の虚偽的な道徳律には、心底から絶望を感じます。

貧しさとは心身を破壊する苦痛であり、それをまるで美徳かのように言いつのる日本的美徳、耐乏・忍苦を賞賛するような「欲しがりません勝つまでは」的美徳とは、完全に嘘、虚偽であり、真実は、貧しさとは苦痛であり人間性を破壊する絶対の悪であるというところにある。少なくとも、アメリカは、こんなことで嘘をついたりしません。アメリカでは、お金があること、富裕であることは、喜びであり良きことであり、お金がないこと、貧しいことは、苦痛であり悪への道であると、ちゃんと真なることが真なることとして認識されている。

しかし、日本はこのところで嘘をつく。日本の特殊な道徳律は貧しいことはまるで善であるかのように言いつのる。それは、苦しみを人々に強要する邪悪な虚偽であるとしか言いようがありません。そして、「がんばろう何とか」には、この嘘の匂いが感じられて、これが垂れ流される風潮はたまらなく嫌です。マッカーサーが象徴するような「アメリカ的なるもの」もまた抑圧者ではあっても、少なくとも「日本的美徳」よりは嘘が少なくて素直で正直です。貧しさを良いものであるかの如く吹聴する邪悪な虚偽で人々を苦しめる「日本的なるもの」よりも、豊かなのは良いことであり、貧しさは苦痛であると素直に表す欲望に正直な「アメリカ的なるもの」の方が遥かに好感が持てます。

人間の、又人性の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることが先ず人間の復活の第一の条件だ。そこから自分と、そして人性の、真実の誕生と、その発足が始められる。
(坂口安吾「続堕落論」)

堕落論 (集英社文庫)
堕落論 (集英社文庫)

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