2011年04月25日 22:55
魔法少女まどか☆マギカとキリスト教新約聖書。キュゥべえ=大審問官への答え。神に愛されているという認識(回心)。
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最終回を迎えた、魔法少女まどか☆マギカの感想を幾つか読んでみたのですが、魔法少女まどか☆マギカで最終的に行われている希望と救済が、娯楽作品で通常行われるような現世利益的な救済とは全く違う救済、全ての人々の魂の救済(全ての人々の新しい認識の誕生)であることが、あまりきちんと認識されていないように思いました。まどか☆マギカで行われている救済は、魂の救済、すなわち我々の認識の変化、新しい認識の誕生であって、それは我々が神(まどか)に愛されていると知る(認識する)ことです。キリスト教新約聖書を読むのと同じ認識の誕生です。世界と自らに対する絶望の認識を、神に全ては愛されていることを知る認識(啓示)によって、希望の認識へと生まれ変わらせる(新生させる)のですね…。魔法少女まどか☆マギカを視聴した人々に起きているのは「回心」(metanoia)です。
魂を救済すること(新しい認識が生まれること、回心)と、現世的な救済や希望の諸問題は分けて考えないと、キュゥべえの仕掛けている罠に嵌ってしまいます。キュゥべえというのはドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」に出てくる、現世的な事柄で宗教(魂の問題)を計ろうとする大審問官そのものな訳ですね。
魔法少女まどか☆マギカ=キリスト教新約聖書では、キュゥべえ=大審問官(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」)が、世界に贖うことのできない苦しみがあることを示し、そして現世の権力が巧みに仕掛けてくる「パン」と「奇蹟」と「権威」という三つの現世利益的救済を示して、世界は、贖い切れない世界であるということを示すのです。
それに対して、イエス・キリスト=鹿目まどかは、世界の生命の全て(人間だけじゃなく魔女や使い魔も含めて)を無私の愛で無限に愛しているということを示すんですね。ここでの愛は想いであって、形(パン・奇蹟・権威)ではありません。全てを愛するアガペー(神の愛)が示されるということ、それはそのことを認識する全ての人間にとっての、魂の救済であるということです。それは「自分は神(イエス・キリスト=まどか)に愛されている」ということを認識することによって救済されるという、人の認識の変化、新しい認識の誕生であって、物理的には何も変化しない、現世利益的救済とは関わりのないことなのです。
もし、まどかが魔法を使って物理的な力を行使してしまったら、それはサタンの誘い(イエス・キリストに、地上の王になれと誘う誘い)に乗ってしまうことになります。ゆえに、まどかは、愛を示す救済の形而上の概念となり、啓示を受け取る人々(作中ではほむらとタツヤ、メタ的には我々視聴者)に愛を示すだけで、後は何も力を行使しない。まどかの力の行使は形而上のことであり、形而下には力を行使してないことが象徴的です。形而下の力の行使者(=即ち人間の代表)として、まどかの愛を信じ、現代物理兵器で戦うほむらが対照的存在としている訳です。まどかはキュゥべえ=大審問官に、世界は愛されているということを自らの愛にて示して、答えを返したのです。そのことを、キュゥべえが信じなくとも、何も問題はない。なぜなら、それは啓示を受けた者にとって真実であるからです。愛とは、そして信仰とは、そのようなものなのです。
魔法少女まどか☆マギカは、神であるまどかが全ての人々を愛しているということを、視聴者に伝えて回心を齎す新生アニメなのです。神の愛を知る=認識することで、自らの裡なる認識が変化し、自らの裡なる魂が救済される。この認識の変化はキリスト教の新約聖書を読むことと同じです。魔法少女まどか☆マギカは、新約聖書の精神(人々は神に愛されていることを示すこと)を、アニメという新しい手法で伝えている優れた作品であると深く感じますね…。
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「みんな、みんないつまでも私と一緒だよ。これからの私はね、いつでもどこにでもいるの。だから見えなくても聞こえなくても、私はほむらちゃんのそばにいるよ」
(魔法少女まどか☆マギカ)
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魂を救済すること(新しい認識が生まれること、回心)と、現世的な救済や希望の諸問題は分けて考えないと、キュゥべえの仕掛けている罠に嵌ってしまいます。キュゥべえというのはドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」に出てくる、現世的な事柄で宗教(魂の問題)を計ろうとする大審問官そのものな訳ですね。
魔法少女まどか☆マギカ=キリスト教新約聖書では、キュゥべえ=大審問官(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」)が、世界に贖うことのできない苦しみがあることを示し、そして現世の権力が巧みに仕掛けてくる「パン」と「奇蹟」と「権威」という三つの現世利益的救済を示して、世界は、贖い切れない世界であるということを示すのです。
それに対して、イエス・キリスト=鹿目まどかは、世界の生命の全て(人間だけじゃなく魔女や使い魔も含めて)を無私の愛で無限に愛しているということを示すんですね。ここでの愛は想いであって、形(パン・奇蹟・権威)ではありません。全てを愛するアガペー(神の愛)が示されるということ、それはそのことを認識する全ての人間にとっての、魂の救済であるということです。それは「自分は神(イエス・キリスト=まどか)に愛されている」ということを認識することによって救済されるという、人の認識の変化、新しい認識の誕生であって、物理的には何も変化しない、現世利益的救済とは関わりのないことなのです。
もし、まどかが魔法を使って物理的な力を行使してしまったら、それはサタンの誘い(イエス・キリストに、地上の王になれと誘う誘い)に乗ってしまうことになります。ゆえに、まどかは、愛を示す救済の形而上の概念となり、啓示を受け取る人々(作中ではほむらとタツヤ、メタ的には我々視聴者)に愛を示すだけで、後は何も力を行使しない。まどかの力の行使は形而上のことであり、形而下には力を行使してないことが象徴的です。形而下の力の行使者(=即ち人間の代表)として、まどかの愛を信じ、現代物理兵器で戦うほむらが対照的存在としている訳です。まどかはキュゥべえ=大審問官に、世界は愛されているということを自らの愛にて示して、答えを返したのです。そのことを、キュゥべえが信じなくとも、何も問題はない。なぜなら、それは啓示を受けた者にとって真実であるからです。愛とは、そして信仰とは、そのようなものなのです。
魔法少女まどか☆マギカは、神であるまどかが全ての人々を愛しているということを、視聴者に伝えて回心を齎す新生アニメなのです。神の愛を知る=認識することで、自らの裡なる認識が変化し、自らの裡なる魂が救済される。この認識の変化はキリスト教の新約聖書を読むことと同じです。魔法少女まどか☆マギカは、新約聖書の精神(人々は神に愛されていることを示すこと)を、アニメという新しい手法で伝えている優れた作品であると深く感じますね…。
キュゥべえ
「彼女達の犠牲によって、人の歴史が紡がれてきたことも事実だし。そうやって過去に流された全ての涙を礎にして、今の君達の暮らしは成り立っているんだよ。それを正しく認識するなら、どうして今更たかだが数人の運命を特別視できるんだい?」
(魔法少女まどか☆マギカ第11話)
「まっすぐに返事をしてくれよ――いいかい。仮りにだね、おまえが最後において、人間を幸福にし、かつ平和と安静を与える目的をもって、人類の運命の塔を築いているものとしたら、そのためにただ一つのちっぽけな生き物を――例のいたいけな拳を固めて自分の胸を打った女の子でもいい――是が非でも苦しめなければならない、この子供のあがなわれざる涙なしには、その塔を建てることができないと仮定したら、おまえははたしてこんな条件で、その建築の技師となることを承諾するかぇ? さあ、偽らずに言ってくれ!」
「いいえ、承諾するわけにはいきません」と、アリョーシャは小声で答えた。
「それからね、世界の人間が、いたいけな受難者のなんのいわれもない血潮の上に打ち建てられたような幸福に甘んじて、永久に幸福を享受するだろうなんかというような考えを、おまえは平気で認めることができるかい?」
(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」)
松岡正剛の千夜千冊『カラマーゾフの兄弟』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0950.html
大審問官の問題とは、イヴァンがアリョーシャに語って聞かせた自作の劇詩のことをさしている。
「反逆」の章で、イヴァンはアリョーシャと話しているときに、世の中でおこなわれている数知れない幼児虐待の例をあげ、もし未来の永遠の調和のためにこの幼児たちの苦しみが必要だというのなら、自分はそんなに高価な犠牲を払って入場しなければならない未来社会の入場券など突っ返したいときっぱりと言う。
幼い受難者のいわれなき血を必要としている神など、絶対に容認するわけにはいかないとも言ってのけるのだ。
アリョーシャはこのイヴァンの背神的無神論に対して、「お兄さんの考えられることもわかりますが」と言って、仮にそのような問題があるにしても、それでも赦される唯一の存在というものがあって、それこそがキリストなのだと優しく反論する。
しかしイヴァンはふたたび断乎と反論して、自分でつくりあげたレーゼドラマ『大審問官』を聞かせたい。イヴァンはキリストその人をその後の歴史舞台に引っ張り出してしまったのだ。
このレーゼドラマは、15世紀か16世紀のセヴィリヤを舞台にしている。宗教裁判の炬火が日ごとに異教徒を焼き殺しているさなか、そこにキリストらしき男が訪れるという設定になっている。
姿を変えているにもかかわらず、セヴィリヤの民はそれがイエス・キリストの再来であることを感じ、しだいにその教えに従っていく。どうやら死者らしき者も一人蘇っているようだ。その一部始終を見ていた背の高い90歳に達していようという老人が、毅然として「この者を捕らえよ」と命じた。
セヴィリヤの大審問官である。衛兵たちはキリストを捕縛し、牢獄につなぐ。こうして、暗く暑く、桂とレモンの香りだけが漂う息絶えたかのようなセヴィリヤの夜の獄房に、暗い影のように大審問官が訪れて、キリストを相手に話を始める。
最初に大審問官はじっと眼を見て「おまえがイエスか」と問うた。イエスは黙って答えない。そこで「返事はしないでいい」と言う。
大審問官としてはキリストの正体などどうでもよく、またかつてキリストが語ったことなどすでに隅々までわかっているのだから、いまさら何かを語れるはずはないとみなしたのである。この「キリストの沈黙」こそは、ドストエフスキーが全ヨーロッパ社会の歴史の総体に問うてみせた一撃である。しかし、この獄房の男がキリストかどうかも、実はわからない。
かくて大審問官の長い独白が始まる。ここを読んでいるときっと誰もがそうなるのだろうが、われわれは神を使って事態を進めるか、それとも神などなくて歴史の先に進んでいくか、これは二つに一つであるしかないのではないかという決定的な岐路に、しだいに追いこまれるようになっていく。
大審問官の言葉はどこまでも高潔であって、該博な知性をゆくりなく配慮する態度は、真に道徳的ですらある。しかし、その口元から発せられる言葉は神の眼光がまじっているかというほどに鋭く、その提示する問題は途方もなく大きい。
問題は、最終的には「パン」と「奇蹟」と「権威」という3つの扱いになっていく。いったいこの3つは人間の歴史にとって必要なのかどうか。もし必要であるならば、そのために神にいてもらう必要があるのか。その問題である。大審問官は歴史上のイエスが採った3つの方針を問うたのだった。
それを男は黙りこくったままに、聞く。アリョーシャも、われわれも、ただその強靭な独白を聞かされる。
パンについては、イエス自身は人はパンのみに生きるものではないと明言したものだった。しかし、キリストのその一言のためにどれほど多くの者が貧窮に喘ぎ、泥棒に走り、わが子の間引きをしたことか。パンこそは犯罪と戦争の根本原因ではないのか。イエスはパンの生産を手伝わなかったともいえる。のちにクロポトキンはイエスの方針をかなぐり捨て、パンの略取をこそ叫んだものである。
奇蹟については、イエスは悪魔がそこから飛び降りて奇蹟を見せてみよと唆したことを避けたくせに、自分がかかわれるような、たとえば眼病を治すような奇蹟だけはおこしてみせた。ところがこの勝手なサンプリングされたようないくつかの奇蹟によって、民衆はイエスがすべての奇蹟をおこせると信じてしまったのである。大審問官はこれはひどい話ではないかと詰る。
3つ目の権威とは、誰が地上の権威になるのかという問題である。悪魔が「おまえは地上の王者になればいいではないか」と唆したとき、イエスはこれを拒んで結局は火あぶりになった。火あぶりになったからいいようなものの、もし生きながらえていたら、イエスには社会を治める方法など、何ひとつなかったのではないか。
つまりは、イエスはキリストとして地上の王国を治める能力もなく、かつてのユダヤの王たちが失敗したように、いたずらに理想を失墜しつづけたさせただけなのではないか。それゆえにパウロは十字架上で早死したイエスを“地上の王”ではなく、“天空の王”としてのキリストに仕立てられたのではないか。
大審問官の問いは完璧である。
アリョーシャは兄の物語を聞くうちに、この話がばかばかしいほど「外からの説明」であることに気づくのだが、どのように反論していいかはわからない。(中略)
この(人類の)歴史はイエスが荒野をさまよっていたときの悪魔の誘惑に、イエス自身が打ち克つために、たまさか覚悟した3つの方針から生まれたものだった。しかし、その、たった3つのことが全世界の未来を決定づけたのだ。(中略)
イヴァンの主張は、「いったいこの世界に他人を赦す権利をもっている者などいるのだろうか」という一点に集約できる。
イヴァンはインチキ教祖まがいの「赦す者」がいたとしても、そんな者の軍門に屈服するくらいなら、むしろ贖われざる苦悩を享受することによって世界を生き抜きたいと考えている。そしそそのような方法でしか人間の自由は獲得できないではないかと主張する。
これに対して、ゾシマはいまは隠者だが、すでに苦悩しつづけて仙境に到達しつつある老人である。
小柄で痩せてはいるが、その眼はいつも輝いている。猫背で唇は薄いけれど、その言葉は澄んだ知性を響かせる。神の引力は、そもそもが悪魔の斥力をいかしながら絶対肯定をなしとげるしかないものだということを、すでに幾多の体得によって理解している者である。
ドストエフスキーはこのゾシマにおいて、『カラマーゾフの兄弟』の主題が「神愛」(ポゴフィーリ)と「抗神」(ポゴフォーブ)の対照にあったことを最終的に証そうとする。その対照は、作品の終盤にさしかかるにしたがって、沈黙するのは神愛ではなくて、ほかならぬ抗神であるという、劇的な転回を見せていく。
物語は終局にさしかかる。イヴァンの抗神はゾシマの神愛に包まれて、もはや議論の発展を一歩たりとも踏み出せない。
それは、大審問官がイエスとおぼしい男に長々と語り終えたとき、その男が黙ったまま立ち上がって大審問官の唇に静かに接吻したときの感触に似て、イヴァンはゾシマがそこに存在するという感触を越えられなくなっていく。ゾシマは、イヴァンと対決したのではなく、イヴァンをも包んだのである。
ドストエフスキーは神の存在を唯一の絶対的存在から解き放ったのだ。ローマ・カトリックの絶対神の呪縛から、ロシア正教の痩せこけた老人にその担い手を移すことによって、キリストを拡散させたのだ。
「それで、兄さんの劇詩はどんな風に完結するんです?」と、不意に彼は地面を見つめながら尋ねた。「それとも、もう完結してるんですか?」
「僕はこんな風に完結させたいと思ったのさ、審問官は口をつぐんでから、しばらくのあいだ囚人がなんと答えるかを待ち設けていた。彼には相手の沈黙が苦しかったのだ。見ると囚人は始終しみ入るように、静かにこちらの顔を見つめたまま、何一つことばを返そうとも思わぬらしく、ただじっと聞いているばかりだ。老人は、どんな苦しい恐ろしいことでもかまわないから、何か言ってもらいたくてたまらないのだ。
が、不意に囚人は無言のまま老人に近づいて、九十年の星霜を経た血の気のない唇をそっと接吻したのさ。それが回答の全部なのだ、老人はぎくりとした。なんだか唇の両端がぴくりと動いたようであった。と、彼は扉のそばへ近づいて、それをさっとあけ放しながら、囚人に向かって、『さあ、出て行け、そしてもう来るな……二度と来るな……どんなことがあっても!』と言って、『暗い巷』へ放してやる。すると囚人はしずしずと歩み去るのだ」
(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」)
日本人少女にローマ法王回答 伊のテレビ番組で
http://www.47news.jp/CN/201104/CN2011042201001192.html
【ローマ共同】ローマ法王ベネディクト16世は22日に放送された国営イタリア放送協会(RAI)のカトリック教徒向けのテレビ番組で、東日本大震災に関する千葉市の7歳の少女の「なぜ子どもたちがこんなに悲しまなければならないのですか」という質問に、「答えはないかもしれませんが、大切なのは神があなた方のそばにいるということです」と答えた。(中略)
エレナさんはビデオレターの中で「私は日本人で7歳です。私はとても怖い思いをしています。大丈夫だと思っていた家がとても揺れ、同じ年頃の子どもがたくさん亡くなったり、外の公園に遊びに行けないからです。なぜこんなに悲しいことになるのか、神様とお話ができるポープ(英語で法王の意)、教えてください」と日本語で質問した。
法王は「私も同じように『なぜ』と自問しています。いつの日かその理由が分かり、神があなたを愛し、そばにいることを知るでしょう。私たちは苦しんでいる全ての日本の子どもたちと共にあり、祈ります」などとイタリア語で回答した。
私は、世の終わりまで、全ての日々にわたり、あなたたちと共にいるのである。
(マタイ福音書)
「みんな、みんないつまでも私と一緒だよ。これからの私はね、いつでもどこにでもいるの。だから見えなくても聞こえなくても、私はほむらちゃんのそばにいるよ」
(魔法少女まどか☆マギカ)
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