2011年01月17日 19:51

新作アニメ「フラクタル」視聴。残念な出来でがっくりです…。「まどか☆マギカ」第2話、シュルレアリスムな映像美良かったですね…。宮崎駿監督のアニメ論。

魔法少女まどか☆マギカ (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)
魔法少女まどか☆マギカ 1 【完全生産限定版】 [DVD]
魔法少女まどか☆マギカ 1 【完全生産限定版】 [Blu-ray]

鳴り物入りで始まった新作アニメ「フラクタル」第1話視聴。宮崎アニメやブラックジャックなどの他アニメを表面上なぞっただけのパロディシーンだけのアニメで、本筋に見るべきものがなく、がっくり…。監督さん(山本寛さん)が如何に大言壮語しても、肝心の第1話の出来がこれでは…。期待していただけに、がっくりです…。

岡田斗司夫さんが、ガンダムとエヴァの第1話の対比分析をして、両アニメとも、細かい謎が散りばめられているけれど、それはあくまでデコレート(装飾)である。両アニメとも、如何に骨太の本筋(両作とも第1話の本筋は、主人公がロボットに乗って敵と戦う為のモチベーションへの共感)を確り見せるかに最大の重点が置かれている、視聴者を第1回から引き込むように、上手に時間配分されて、確りと30分間の間に本筋の起承転結の展開によって視聴者を引き込むように優れて計算されて作られている、ということを明かしていましたが、「フラクタル」は、ひたすらパロディシーンが連続するだけで、こういう確りとした本筋の面白さが全くなかったのは残念です…。ひたすらパロディシーンが続いて、本筋がないアニメ、本筋のなさを補うような表現美も何もない、ないない尽くしのアニメって、それこそ山本寛さんが批判しているタイプのアニメなのではないのかな…一体どうしてこうなったんだろうという思いで胸が一杯になりました…。

各アニメの第2話を視聴致しまして、『魔法少女まどか☆マギカ』の第2話はとても良かったですね…。まどか☆マギカは本筋さえ遥かに超えていく映像美が素晴らしい。本筋は主人公達の行動が極めて自然で、主人公達が物語世界において引き込まれるのと同様に視聴者も引き込まれる作りになっている。そして何より、おそらくは人間の意識不可能な無意識世界(夢世界)をイメージしているであろう、シュルレアリスムを意識した映像美の数々が素晴らしい。こういう物語だけではなく、映像表現で見せてくれるアニメは良いですね…。素晴らしいです。

ウィキペディア「シュルレアリスム」
シュルレアリスムは芸術の形態、主張の一つ。超現実主義ともいう。超現実とは「現実を超越した非現実」という意味に誤解されがちであるが、実際は「過剰なまでに現実」というような意味である。(中略)現実(約束事などに囚われた日常世界)に隣接した世界、またはその中に内包された世界で、現実から離れてしまった世界ではなく、夜の夢や見慣れた都市風景、むき出しの物事などの中から不意に感じられる「強度の強い現実」「上位の現実」である。

彼等シュルレアリストが、コラージュや自動筆記といった偶然性の強い手法で作る作品などは一見非現実的だが、彼らは、主観や意識や理性が介在できない状態で偶然できたものや、そもそも意識の介在から解き放たれた夢の中からこそわれわれの普段気付かない現実=超現実が出現することを信じていた。

シュルレアリストの世界は、サンボリズムの音の世界ではもなく、また「意味の尖塔」もない。単にイマジ(image)の世界である。またそのイマジはメタフォラでもなくアレゴリアでもない。シュルレアリストが「タマリンドの樹」といったら、それは、その樹のimageのみを表現するのである。その他に何等の意味も理智の活動を象徴する目的ではない。また、「永遠」といっても、「淋しい」といっても、それ等は皆それ自身の存在としての心理上のimagesにすぎない。意味の世界における何等かの関係をもつものではない。時には音としてのimageにすぎない。吾々が樹や牛をみると同様にその言葉は単にその言葉として存在するのみである。
(西脇順三郎「シュルレアリスム文学論」「西脇順三郎コレクション4」より)

僕の意図は、人々の間で猖獗を極めている、超自然に対する憎悪と嘲笑を、倒すことだ。きっぱりと宣言しよう。驚異はいつだって美しい。どんな驚異だって美しい。驚異だけが美しいのだ。(中略)幻想的なものにおいて素晴らしいことは、もはや幻想的なものはないということだ。それは現実なのだ。
(アンドレ・ブルトン「シュルレアリスム宣言」)

アニメは、それこそ、個別の製作者の個人的な超現実的イメージの表現を行える最大に優れた表現技法なんですよね…。一般向けにヒットするアニメを作るという意気込みで製作された「フラクタル」とか、その辺(製作者の個人的な部分、個性としての表現)、妙に萎縮していて、ありがちで欠伸がでるような『常識として共有された』イメージしか出てこないのですね…。一般向けという枷がアニメの面白さを完全に奪っている。

逆に、完全にオタク向けの『魔法少女まどか☆マギカ』において、製作者が良い意味でやりたい放題作っていて、見ているこちら側をハッとさせるような、人間の無意識の表現としてのイメージ、シュルレアリスムの技法の映像イメージが花開いているのが非常に面白いですね。大勢の人に分かるようにという意図を持ってアニメを作っても、結局つまらないものしか出来ないということを、以前、宮崎駿監督が『大勢の人間に理解されようとして映画を作ると駄作になる』と述べていましたが、今回、宮崎アニメの表面的パロディ以外何もない「フラクタル」と、シュルレアリステックな映像美のある「まどか☆マギカ」のそれぞれの出来が宮崎監督の言葉通りにそれを出来として表わしているのが興味深かったですね…。

近年の宮崎駿監督のアニメは、明らかに、『誰かに理解してもらう』ということを放棄した、シュルレアリステックな、宮崎駿監督自身の内面世界がそのままイメージされた個人的なアニメであるにも関わらず、世界的な支持を受けていることを、山本寛監督は、宮崎駿作品の画面をパロディとしてそのまま表面的にだけなぞる前に、考えて欲しかったと思いますね…。フラクタルには一切の驚異はなく、まどか☆マギカには驚異が充溢していた、それは、きっぱりと宣言できることですね…。

インタビュアー
「宮崎監督の映画作りは随分と変則的な技法ですね」

宮崎駿
「もちろん、(観客が理解しやすい様に)理屈で作ることもできますよ。(中略)できますけど、それはもう面白くないんですよ。作る側だけじゃなく、見る側も(理解できるように作られた作品は)もう飽きているんじゃないかと思うんですけど。そういうものが完成して一つの文体になった瞬間につまらなくなるんですよ。そういうものを、生き生きさせるものは何かといったら、後は(観客には理解不能な、製作側の)過剰な思い入れだけです」(中略)

宮崎駿
「映画で大事なのは、その時のビジョンなんです。耳たぶの産毛が金色に光ったりね。そういう部分だけ印象に残って映画は残っていくんです。ストーリーが残るんじゃないんですよ。ストーリーなんてなんとでもなるんです。でも、ストーリーが出来上がっていることが、映画が出来上がっていることではないんです。だから僕は(観客に理解されるような)文体を使いたくないんです。使わないことで、理屈で考えているものが全部すっ飛びます。そういうもの(観客に理解される為の文体)は全部捨てちゃっていいんです。テーマだなんて言ってるものもそうです。言葉で言えるものはテーマではないですから」

インタビュアー
「でも、ジブリ作品の特徴はそのメッセージ性だと思っている人が大勢いますよね」

宮崎駿
「テーマだとかメッセージなんてものは、『道路の左側歩きましょう』とか、『右側歩きましょう』とかいう標語みたいなものですから、映画を作る現場にとって何の意味もないです。もし、自分の作る映画についてテーマはこうですなんてとうとうと喋る奴がいたら、そんな映画はたいした映画じゃないと思います。

よく、「自然を大切にというテーマで映画を作ってください」とか「ゴミ問題を扱ってゴミ怪獣が出てくるのはどうでしょう」っていう手紙がくるんですけど……最低ですね。そういう脳みその表面で思いついたようなことは、映画作りには、何の役にも立たないんです。

例えば、今回の映画(千と千尋の神隠し)で、お父さんとお母さんが豚になるというと、すぐに「それは風刺だ」とか「飽食のせいだ」とか言われるんですけど、言った人がそれで安心してるだけなんです。謎を解いたつもりになって。むしろそういう風に映画を受け取られると、僕らの作ったものを矮小化して受け取っているなと思って、本当のことを言うと嬉しくないんです。映画作りというのはそうではないんです。自分でもわからない、脳みその奥の方のふたを開けて、なぜこれが出てきたかわからないというものを出す作業なんです。

だから、10歳の子供のために映画を作ろうとすると、自分の10歳も出てくるんですよ。思い出すんじゃなくて、いつしか出てくるんですね。自分が予想もしてなかったものが自分の中から出てきて、それが自分の存在そのものとどこかで深く結びついていて、それが実は、思い出したくないから、自分でしまっていたブラックボックスだったりするとか……。そういう部分がないと映画なんてつまらないです。

確かに言葉で整理しないと自分が受け止めたことにならないという強迫観念を持っている人たちは沢山います。その人たちは観客じゃないんです。その多くは物書きですから、仕事で文章書いて稼いでいるんですから、どうでもいいんです」(中略)

宮崎駿
「(観客の)小さい子が喜んだ姿を見るのが一番嬉しいことですね。小さい子が喜ぶ姿を見ると、大人も楽しくなりますからね。それが映画館全体を包み込んでいるのが分かります。だから、人類は子供を生み続けるんですよ。いろんな屁理屈ならべて難しいことを言ってる奴もね、実はそういう映画にはかなわないと思うんです」(中略)

宮崎駿
「最近、自我の為に映画を作っているのを見ると、うんざりするんです。出口がないのが分かりきっているような、自我のほじくりかえしとか、そういう映画はもうやめた方がいい。自分がどれだけ空っぽかと自覚しているなら、そこから歩き始めればいいんじゃないかっていうね。そういう気持ちになっているんです。そういうひ弱な自我のために作る映画はもううんざりなんです。乱暴な言い方ですけど、そういうことです」
(宮崎駿インタビュー。「千尋の不思議の町」より)

このインタビュー、インタビュアーが天然なのか狙い通りなのかは分かりませんが、物凄い馬鹿げたこと(『宮崎映画ってヒューマニズムでエコロジーですよねー』みたいな浅薄な解釈)を述べて、宮崎駿監督を怒らせまくっているので、怒った宮崎監督の口から映画製作者としての本音が出ていて、面白いインタビューです。インタビュアーが狙ってやっていたら、嫌なインタビュアーですが、有能なインタビュアーでもありますね…。

僕はクラシック音楽が好きなので、宮崎駿監督の言うこと、凄く良く分かるなあと…。アニメ映画のイメージは、個別の製作者の、共有的な解釈に対する不可能性として現れる超現実的なイメージ(自分でもわからない、脳みその奥の方のふたを開けて、なぜこれが出てきたかわからないというものを出す作業)であって、それがアニメ映画の面白さであるということですね。クラシック音楽の面白さについて語られるときも、究極的にはこうなるんですね。音楽というのも、何かの物語として解釈することは不可能ですからね…。文芸的な解釈、何らかの現実の比喩として解釈することの不可能性を持つのが音楽であって、シュルレアリスム、超現実主義はそれを音楽以外の場に広げようとした試みとしても考えることができる。そのシュルレアリスムを、アニメは、非常に良く表現できる技法ですから、「フラクタル」のように妙に縮こまった、「脳みその表面で思いついたような」アニメを作るのではなく、「まどか☆マギカ」のように、無意識の謎をそのまま映像に出すような表現の驚異への挑戦を果敢に挑んで欲しいと、僕は一視聴者として願いますね…。

驚異はいつだって美しい。どんな驚異だって美しい。

参考作品(amazon)
魔法少女まどか☆マギカ (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)
魔法少女まどか☆マギカ 1 【完全生産限定版】 [DVD]
魔法少女まどか☆マギカ 1 【完全生産限定版】 [Blu-ray]

シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫)
シュルレアリスムとは何か (ちくま学芸文庫)
シュルレアリスムの絵画 (アート・ライブラリー)
西脇順三郎コレクション〈第4巻〉評論集1―超現実主義詩論 シュルレアリスム文学論 輪のある世界 純粋な鴬
千尋と不思議の町―千と千尋の神隠し徹底攻略ガイド
千と千尋の神隠し (通常版) [DVD]

アニメ総合一覧

TVゲームストア
amazonオタクストア

amazon食品ストア
ペット用品ストア
家電製品ストア
パソコン及びPC周辺機器ストア
ミュージックストア
amazonギフト券ストア

amazonトップページ



Archives
livedoor プロフィール

ねこねこ

記事検索
  • ライブドアブログ