2011年01月06日 23:20

道尾秀介「ラットマン」読了。爽やかなカタルシスを味わえる素敵なミステリでした。お勧めです。共有される真実について。

ラットマン (光文社文庫)
月と蟹

12月以来、久々に図書館に行って、本を借りてきました。今年の直木賞は貴志祐介の「悪の教典」と、道尾秀介「月と蟹」が有力候補ということで、「悪の教典」は既に読了済みにつき、「月と蟹」を借りたかったのですが、予約数が数十件入っていて借りられなかったです…。お金なくて、図書館で読む以外に本を買うことはできず、貧乏は本当に辛いですね…。図書館で道尾秀介さんの棚を見て、週刊文春の2008年度ミステリーベスト10で4位だった「ラットマン」が棚にあったので借りてきて、たった今、読了しました。とっても素晴らしい、素敵なミステリでした。ミステリならではのカタルシスが味わえて大満足です。文芸春秋2008年度ミステリーベスト10は、1位湊かなえ「告白」、2位伊坂幸太郎「ゴールデンスランバー」、3位柳広司「ジョーカー・ゲーム」でして、3作とも、とても面白い、好きなミステリですが、僕の好みとしては、このラットマンが、上記3作以上に好きですね…。ラットマンで描かれる、こういったカタルシスを求めてミステリを読んでいるところ、ありますね…。

ラットマンは、主人公姫川亮の一人称で進むミステリ。緻密に伏線が張ってあり、読者に『騙される快楽』『謎が解かれ、世界が一変するどんでん返しの快楽』をたっぷり与えてくれる優れた作品です。メインの登場人物達の心情描写も主人公を始め、皆丁寧です。メインの登場人物達が主人公を始めとして30代が多く、僕と年代が同じであり(僕も30代ですので)、彼らのしとやかな心情に共感が出来るというところも、とても気に入りましたね…。物語は、家族や友人達を大切にする心と、その心に暗雲を落とす殺人事件の影が交じり合い、そこに、ある程度の年を取った登場人物たちの心の機微と、その行動が描かれていくという形です。しとやかな、大人の為の、大人たちの青春ミステリという感じです。僕は青春ミステリ好きなんですが、だんだん年取ってくると、10代の少年少女が感情のままに無鉄砲に突っ走るような青春ミステリは苦手になってくるので、年を取った青春ミステリ好きとして、本作のような落ち着いてしっとりした大人の登場人物たちによる大人の青春ミステリは、とても好ましく喜びを持って読めますね…。また、ミステリとしても素晴らしく、ネタバレするにはあまりにも勿体無い作品なので、ぜひ一読して、ミステリならではの驚きを味わって欲しい作品ですね…。

僕は文庫版で読んだのですが、ミステリとしては、277頁からのどんでん返しの連続が素晴らしい。これまで見ていた世界が、真相が明らかになることで、まるでこれまで掛かっていた霧が晴れてゆくように、全く違った世界として世界が映ってくる感動、まさにこのカタルシスのためにミステリを読んでいるなと改めて思いました。優れたミステリが読者に与えてくれる感動です。何重にも被さった真相を解き明かしてゆくときの感動が素晴らしい。これは、言葉で明かすと勿体無いので、ぜひ読んでくださいとしか。僕は277頁から先を読む前に真犯人は当てていたんですが、更にその先の真相にまでは至りませんでしたね…。でも、この終わり方なら、僕が当てたかどうかなどということはまったく問題に感じることはありません。ミステリとしてだけでなく、一般の小説としても優れた出来で、心に春風が吹くような心持で読了することができました。まだ未読のお方々には、ぜひ読んで欲しい優れたミステリ小説です。

「うみねこのなく頃に」EP8があまりにも酷い出来だったので、傷心だったのですが、この小説のおかげで癒されるのを感じました…。「うみねこのなく頃に」を全面的に肯定して評価している人たちを見ると、うみねこを擁護する論理として、「物語の真実の結末を明かすことは、物語をつまらなくする行為。つまらないものをわざわざ選んで文句を言う連中は救えない」「どんな名作でもつまらない真相があると解釈する余地がある。典型的なものが「これは全て主人公が見ていた夢だったのだ」という解釈。この武器はあらゆる物語を台無しに出来るが、それをわざわざして文句を言う読み手は馬鹿にされるだけだろう」「唯一解を求める人間は哀れな連中」等々、『要するに物語に真相など不要!!唯一の真相など存在しない!!』と、うみねこの作中の論調そのままに、本末転倒としか思えない意見が大手を振って通っているのを見て、本当に残念だと思うのですよ。うみねこを全肯定して必死に縋り付くために『物語に真相などいらない』という彼らは、自分の主張していることの意味を今一度真剣に考えてみるべきです。

まず、絶対に切り分けなくてはならない大切なことは、作中人物や読者一人ひとりの『解釈』と、『実際に起こった物理的事象としての真実・共有可能な真実』は違うということです。例えばミステリの作中で、Aが殺されて、Bが犯人として容疑者に上がったとき、『Bが犯人だ』、『いやBは犯人ではない、真犯人はCだ』、というように、意見が分かれるのが解釈です。人はそれぞれ1人1人の解釈を持っている。

そして、『実際に起こった物理的事象の真実』として、『真犯人CがAを殺害しBに罪を被せたという事実』が明かされたとする。このとき、Cの悲劇的な過去も明かされる。このとき、『Cは許せない!』『Cもまた社会の被害者であり情状酌量されるべき』とか、意見が分かれるのも解釈のそれぞれです。しかし、『真相は無限にある。だから、作中での真相において真犯人はCとされているが俺は犯人はやはりBという。根拠はないが、俺が決めたことは俺の主観世界では絶対だからこれでいいのだ!!真相は人の数だけある!!』とか言い出すのは、まあそれはそれで一つの手法、外部からはどうしようもないことですが、その人自身にとっては物語、そして世界そのものを貧しくしているとしか言いようのない行為だと思います。

なぜなら、『全てを自分が独自に解釈するから人の数だけ真実がある』という、うみねこの魔法、そしてそれを延長して他に適用するうみねこ論者の物言いは、自分だけの世界に篭っていて、外部を拒絶している行いだからです。人間にとっての真実というものは、自分以外の世界との関係性の中で生まれるものであり、自分の外部と共有するもの、外部の人々と共有可能な真実としてあるのです。その真実を、勝手に自分に都合の良い真実に改変する行いは、外部の世界を拒絶して虚偽の幻想世界に篭る行い、「うみねこのなく頃に」が、最後まで肯定して賛美した行為(魔法)そのものです。しかし、人間は、人間に限らず全ての生命は、常に外部との関係性の中に共有可能な真実を見出しながら生きている。そこにおいて、『自分1人が勝手に決め込んで勝手に主張する真実』というものは、ただのエゴイズムの発露であり、外部のあらゆるものを、その人にとって、貧しくする行為、その人にとっての外部の意味を失わせる行為です。我々は間主観性を持ち、客観的真実における合意を持つことができるから、初めて人間として生活できるのです。

<共同主観性>(間主観性、相互主観性ともいう。独語:Intersubjektivität, 英語:intersubjectivity)
http://taki.cool.ne.jp/di/Te/a-ka.htm
共同主観性とは、特定の主観(特定の個人)においてのみ、ある事態が知覚されたり、意味をもったりするのではなく、複数の主観(ある集団の成員たち)で共通に、その事態の知覚や意味が成立することを、意味します。また、そのような主観のあり方を指します。(中略)

簡単にいえば、デカルト的(近代的)「我思う」ではなく、「我々は思う」ものとしての意識が、共同主観性です。

 まず、誤解を防ぐために、確認しておけば――
「我々は思う」といっても、これは何も、「私たちは同じことを考える」とか、「私たちの意見は一致する」ということではありません。むしろ多くの場合、個人的な場でも社会的な場でも、事態はその逆です。

 例えば、社員は賃上げを要求し、会社側はそれに反対するという具合です。しかし両者とも「賃金(金銭)が、社員の労働の対価である」とか、「金銭は商品 との交換物である」という<あたりまえ>なことでは一致しており、このような賃金が重要であるために、争っているわけです。ある時代にある社会全体に成立している、 この<あたりまえ>の一致、これが「共同主観性」です。

 また、ふつう「私自身の思い」とされている事態が、共同主観性においては消滅するということは、ありません。このような事態は、共同主観性の契機とし て、さまざまな場面で存在します。そして各人の役割行動(role-taking)との関連において、把握されることになります。

思い切り簡略化して例を出しますと、先ほどの例え、『Aが殺された事件で、AはCに殺され、CはBに濡れ衣を着せたという確定的真相が明らかになった』とき、『Cは許せない!』『Cもまた社会の被害者であり情状酌量されるべき』などの意見の持ち主は、解釈は違っても、同じ土台の上で話し合えるのです。なぜなら、『AはCに殺され、CはBに濡れ衣を着せたという確定的真相』という外部を両者は共有しているからです。

しかし、もし、『真相は無限にある。だから、作中での真相において真犯人はCとされているが俺は犯人はやはりBという。根拠はないが、俺が決めたことは俺の主観世界では絶対だからこれでいいのだ!!真相は人の数だけある!!』という、うみねこの登場人物のような人がいたら、その人と意志を疎通することは困難です。その人は外部を拒絶しているため、外部にいるほかの人と共有する認識を持つことができないからです。

うみねこ肯定論者の一部が主張するような『無限に真実があり、真相などないという立場』を貫くならば、その人は外部と何も共有することはできないでしょう。その人が、言葉を使い、人間として社会生活を送っているということは、実際は人間として生きる上で、外部との共有可能な真実を認めているということです。そういったことを考えもせずに、『全てを自分が独自に解釈するから人の数だけ真実がある、物語に真相などあるべきでない』などと述べるのは、どうかと思いますね。

うみねこの「魔法」は、上記で挙げたように、外部との共有を否定するもの(外部を拒絶した自分だけの真実)であり、一般的な討論(裁判やミステリ談義など人間同士の討論なんでもetc)における、各人が共有の真実を一定の土台とした各人の解釈の違いとは違うものです。それを、共有された上での解釈の違いの問題と一緒くたにして、『うみねこの魔法は共有可能解釈が極端になったものに過ぎない。うみねこのきつい批判は極端だからそれこそが魔法であり、魔法で魔法を否定しているだけ』とか述べて、僕のエントリに批判ともつかない批判をしている魔王14歳さんとか、この辺のことをもう少しきちんと考えた方が良いと思いますよ…。

うみねこにおいて「魔法」とは、外部と共有可能な解釈とは違い、外部との共有(真相)を拒絶した、徹底した個人のみの途絶した閉ざされた幻想です。外部と共有可能なことのない幻想世界。それを、僕が本ブログでうみねこについて書いた文章のような、共有可能を前提とした上で書いている、各人の解釈の違いと混同するのは、誤った行いだと思います。その辺をきちんと切り分けずに一緒くたにして解釈=魔法であるという言葉を批判の語句にするのは、うみねこにおける魔法の意味を何も考えていない、その語句を投げつける相手にも、うみねこという作品にも失礼な行いではないかなと思います。うみねこを肯定したり批判したりするのはそれはまさに解釈の違いですから意見の相違として大いにあっていいことですが、各人が共有する真実の上での解釈の違いと、共有否定の上に存在するうみねこの魔法は違うものであることは、魔王14歳さんとか、きちんと考えて欲しいですね…。

またうみねこの話になってしまって、うみねこに興味のないお方々に本当に申し訳ない…。あと、うみねこの中で述べられる思想を肯定している人たちで、普通の小説を読んだことのない人は、ぜひ、普通の良質な小説を読んでみて欲しいと思います。良質な小説のほとんどは、うみねこのように登場人物を駒として割り切るのではなく、登場人物たち複数の人々の気持ちを丁寧に描いて、そこから人間同士が共有可能な真実が、お互いがわかりあい、互いに尊重しあうための大切なものとして見えてくるものなので…。うみねこの唱える『各人に無限に真実があり、真相などないという立場に立つこと』が如何に特殊な、他者を無視したものなのか、よく分かると思います。もし、うみねこのような考え方をしたら、互いに相手を愛おしく思う愛情だって、どこにもなくなってしまうのですよ…。

ミステリは基本的に物理的な実際に起きた事象を明かすことで、他者との間に真実の共有を作り出すものですが、今回紹介させて頂いた「ラットマン」は、それをとても上手に描いている。1人では見えなかったものが、真相を知ることで、全く新しい、他者との間に共有される真実として見えてくる。それを孤独と悲しみに満ちた生における暖かい祝福として描いています。他者と真実を共有することは、他者と共に生きる存在である人間にとって、大いなる救いなのだということ、まさにミステリの最良の部分を見事に描ききった傑作、全ての皆様方にお勧めできる優れたミステリ小説です。

描かれている世界、人間関係や会話、それぞれの行動に違和感を抱けば、小説、ことにミステリに入り込むことなどできない。ミステリは、物語から一瞬でも読み手の心を乖離させるスキを与えたら、そこで終わる。書き手の敗北である。道尾秀介の書く小説にそんなスキはない。であるからこそ、彼は多くの読者の心をつかみ、作品が数々の文学賞を含め、高く評価されている。(中略)

何が起きてもどうでもいい、自分には関係ない、というような人間が登場人物にいれば、その心を変化させるのが小説だ、と私は信じている。最初から最後まで存在に自覚的でない人間が現れる小説を私は読みたくない。(中略)

(道尾作品の人物達は)運命に抗わない訳では決してない。より良い人生を送りたいという願いは、ほぼすべての登場人物が抱いていて、共感する部分はたくさんある。彼らは大きく世界を変えようとは思っていない。いや、大きな世界と自分とその周囲が生きる世界との差異に、ひどく自覚的なのだ。(中略)ひとつはっきりしているのは、彼が描く人々の方が、私(大沢在昌)が描くそれより、現在において、リアルだということだ。そこに強引に理由をつけるなら、やはり年齢差だろうか。二十年のへだたりが、彼と私の間にはある。(中略)道尾秀介の描く人物に抱く違和感を、まるで感じない人々がいて、その人たちは道尾秀介に年齢が近い(道尾秀介は1975年生まれ)。(中略)たぶん、道尾秀介は、日本のある年代の人々をごく自然に描いていて、しかしそれが確かな日本人の変質を表わしているのだ。道尾秀介にもその自覚はある。(中略)

ラットマンはこれまで読んだ道尾作品の中で、私が一番好きな小説だ。そこでこうして解説を書かせて頂くことになった。理屈にもならない理屈をこねたのは、道尾秀介がもち、私が持たない何かを考えたかったからだ。といって、私にないものをもっているから、道尾秀介作品を追っている、というのとは、もちろん違う。

優れた小説を読みたいから、私は彼の作品を読んでいる。それは、私が小説家であることとは何の関係もない。
(大沢在昌。ラットマン文庫版解説より)

道尾秀介さん、僕より幾つか年上ですが、この解説読んで、凄く良くわかるなあと思いましたね…。ちょうど30代くらいの人が、同じ年代の登場人物たちにとても感情移入できる感じです。他の年代のお方々が読んでも勿論、面白い優れた作品と思います。

直木賞、貴志祐介さんの『鬼畜エロゲ』そのまんま小説「悪の教典」が、鬼畜エロゲな小説が賞を取るなんて、昔エロゲをプレイしていたものとして(病気と生活苦でエロゲから数年遠ざかっていますが、今度でるアリスソフトのシミュレーション新作「大帝国」だけはなんとかやってみたいです…)、なかなか痛快で面白いじゃないか、と思って、「悪の教典」を応援するつもりでした。貴志祐介さんは元々、エロゲに対する含蓄が深く、エロゲに直接言及されていてヒロインの語尾がだよもん星人のミステリ「青の炎」なども執筆している『エロゲ小説家』というところがある作家さんなのですね(青の炎は優れた傑作で、お勧めの作品です。貴志さんの作品は全部読了済みでして、外れは全くないです)。しかし、ラットマンがとても良い出来だったので、同年代ということもあって道尾秀介さんを応援したくなって、心がゆらぎますね…。まあ、僕が応援したからといって、直木賞の選考には何の影響もなく、大きな世界は変えられないですが、それでも、こういう外部のことを考えることは孤独を和らげる楽しいことですね…。

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