2008年06月12日 20:31

秋葉原連続殺傷事件について

ブログ始めたんで、何か書いてみようと思うんですが、このとっても嫌な事件のことしか、今は頭に浮かばないです…。

僕もオタクで秋葉原にはよく行くので、凄いショックでした。なんでこんなことするのかなあって…。ひどすぎるよ…。

なんていうか、絶対よくないことはよくないのに、そういうのが、崩れちゃってる気がして怖いです。法律とか、そういうの関係なく、よくないことはよくないのに(勿論、法律は大事です、法律が全てではないということです)、そういう良くないことというのが、崩れちゃってるみたいで、とても怖いと思いました…。

「悪いことしたらバチがあたる」っていうの、僕は、大切なことだと思います。それがあるかどうかってことじゃなくて、そういうものをあると信じてみんなでやっていくのが社会だと思うのに、今は、悪いことしても、なんか、そういうバチみたいのが全然なくて…。

僕は、昔の本読むの好きなんですが、昔、といってもそんな昔じゃなくて、明治とかそのくらいまで、まだ、そういうのがあったようなところもあると思います。神様とか、超越的な存在に対する畏敬みたいのが、あったみたいです。かなり美化されているとは思いますけど、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)って戦前の人の随筆読むとそういうの沢山出てきます。

僕は、そういうの大切だと思います。今は、なんか、悪いことすることに、日本社会全体で歯止めがかからなくなっている感じで、とても怖いです。

僕は国内旅行が結構好きで、地方の神社とかお寺によくお参りにいくんですが、悪いことする人はどうして、そういう、尊いものを、全然気にしないのか分りません…。全部、目に見える計算とか、そういうものじゃないと思います。

ライブドアのブログでこういうこと書くのも気が引けるんですが、堀江社長が逮捕されたときも、法の抜け穴みたいの通れば何してもいいみたいのは違うと思いました。堀江社長は、一代で大きな会社を作った凄い人ではあると思いますが…。

理性とか、計算とか、勿論大切だし、そういうもので、インターネットのシステムも成り立っていると思いますが、それだけじゃないと思うんです。もっと、神社とかお寺にお参りするときの気持ちみたいの大切にしたいって、思うんです。うまく伝えられなくて歯がゆいんですが…。

インドの古典法にマヌ法典っていうのがあるんですが、これはそういうの、超越的な畏敬みたいのを大切にした法典で、西洋では哲学者のニーチェって人がこれ読んで感動して褒めまくった(アンチ・クリストって本に出てます)ので有名な法典です。三島由紀夫が上手く要約しているので少し引用します。

西洋の法の定言命令は、あくまで人間の理性にもとづいていたが、マヌの法典は、そこにも理性ではおしはかれない宇宙的法則、すなわち、「輪廻」を、いかにも自然に、いかにも当然のことのように、いかにもやすやすと提示していた。

「行為は身・語・意から生じ、善悪いずれかの結果をも生ずるものである」
「心はこの世で肉体と関連し、善・中・悪の三種の別がある」
「人の心の結果を心に、語の結果を語に、身体的行為の結果を身体に享ける」
「人は身体的行為のあやまちによって、来世は樹草になり、語のあやまちによって鳥獣になり、心のあやまちによって低い階級に生まれる」
「すべての生物に対し、語・意・身の三重の抑制を保ち、又、完全に愛欲と瞋恚とを制する者は、成就、すなわち究極の解脱を得る」
「人は正に自らの叡智によって個人の霊の、法と非法にもとづく帰趨を見きわめ、つねに法の獲得に意を注がなくてはならない」

ここでも亦、自然法のように、法と善業は同義語をなしていたが、それが悟性ではどうしてもつかまえにくい輪廻転生にもとづいている点がちがっていた。一方からいえば、それは人間の理性に訴えるやり方ではなく、一種の応報の恫喝であって、ローマ法の基本理念よりも、人間性に対してより少ない信頼を置く法理念と云えるかもしれなかった。
三島由紀夫「豊饒の海第一部 春の雪」より

こういう考え方、人間より大きいものが、世界を司っているっていうような感覚、僕は感じるし、大切に思います。上のマヌ法典のよくない部分も勿論あって、前世の報いみたいな感じで、今不遇な人達の立場が悪い意味で正当化されちゃうから、そういうのは良くないんだけど、ただ、悪いことしたら、それは個人より大きなものから見て、とても良くないってこと、大切だと思います。これは、東洋だけじゃなくて、西洋にもある考え方です。どんなよくないことがあって、怒りや憎しみが沸いてもそれによって、悪に走ったらお終いだ、という、マヌ法典に似たところのあるキリスト教の考え方があります。僕はキリスト教徒ではないんですが、キリスト教徒の方から、教えてもらった考え方です。これも、いい文章があるんで引用します。

救済は人がマンスエチューデと呼ぶ徳であります。すなわちこれは心の優しさです。そしてまた、人が忍耐とか辛抱とか呼ぶもう一つの徳です。

心の優しさは人の心の激しい動きや衝動を、それらが憤りや激怒によって飛び出さないようにとどめ、抑制します。辛抱は人が他の人に与えるあらゆる迷惑だとか害悪を、快く耐えることです。聖ジェロームは心の優しさについてこう言っています、「それは誰に対しても害を行わないし、また口にも出さないことである」と。また、
「人が行ったり言ったりするどんな害に対しても、理性に反して感情が高ぶらないことである」と。この徳は時には生まれつきによります。というのはほかの哲学者も言っているように、「人は生き物である。本性、心優しく善に従う者である。だが、心の優しさが恩寵の息吹をかけられると、もっと価値の高いものになる」のです。

怒りに対するもう一つの救済である忍耐は、すべての人々の善を快く受け入れ、彼に加えられるいかなる害に対しても怒ることのない徳です。かの哲学者は、忍耐は逆境の猛威や、またあらゆる邪悪な言葉に心優しく耐えるような徳である、と言っています。この徳は人を神に比すべきものとし、キリストが言うように、神自らの気高き子とするのです。この徳はあなたの敵を打ち負かします。そこでかの賢人が言っています、「もし汝が汝の敵を征服せんと欲せば、耐えることを学ぶべし」と。そして人は外面的な四つの種類の苦痛に耐えるのだということを理解しなければなりません。
その四つのものに対して、人は四つの種類の忍耐を持たなければならないのです。

最初の苦痛は邪悪な言葉からくるものです。イエス・キリストは、ユダヤ人が彼を軽蔑し、しばしば非難した時に不平を言うこともなく、この苦痛をとても忍耐強く耐えられました。そこで、あなたは忍耐強く耐えなさい。というのは、かの賢人は言っています、「もし汝が愚か者と争うなら、その愚か者が怒ろうが笑おうが、いずれにしても汝は平安な心を持つことあらず」と。外面的なもう一つの苦痛は、あなたの財産が損害を蒙ることです。キリストはこの現世に持っていたあらゆるもの――それは御身にまとう布だけでしたが――それを奪われたとき、忍耐強くそれに耐えられました。第三の苦痛は人が自分の身体に害を受けることです。キリストはあらゆる受難の間にそれをとても忍耐強く耐えられました。第四の苦痛は過重に労働をさせられるときに起こります。そういうわけで、召使をあまりに過度に働かせたり、あるいは祝祭日などのような時間外に働かせる人たちは本当に重大な罪を犯しているのだと私は思います。これに対してもキリストはとても忍耐強く耐え、われわれに忍耐を教えたのであります。それは、キリストが彼の聖なる肩の上に、自らがその上で無残な死を蒙らねばならぬ十字架を背負った時のことです。ここに人々は忍耐とは何かを学ぶことができます。というのは確かに、イエス・キリストを愛するため、また、祝福されて永遠の生という報いを得んがために、キリスト教徒が忍耐強くあるだけでなく、また確かに、キリスト教徒ではなく、かの古えの異教徒たちも忍耐の徳を推奨し、これを用いたのです。
チョーサー「カンタベリー物語」より

僕なんかは上記の「異教徒」にあたるのかと思いますが、嫌なことがあって、耐えられないくらい嫌なことがあっても、それでも、悪いことしちゃいけないと思います。そういうのって、個人じゃなくて、もっと大きいものから、いけないことだと思うんです。そういうこと、もっと大切にされればいいなと思います。

そして、被害にあわれた方、お命を落とされた方、ご遺族の方、なんと言えばいいかわからないけど、お命助かった方はご回復を、お亡くなりになった方にはご冥福をお祈りし、ご遺族にお悔やみ申し上げます。こういう、非業のことに出会われた方、みんなで助けるようになれればいいなと願ってます。

春の雪 (新潮文庫―豊饒の海)
奔馬 (新潮文庫―豊饒の海)
暁の寺 (新潮文庫―豊饒の海)
天人五衰 (新潮文庫―豊饒の海)

カンタベリー物語(全訳)


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