2008年07月11日 17:09

手塚治虫「人間昆虫記」「ばるぼら」手塚治虫の芸術論

今、どうやって、助けてもらった方々に恩返しをするか考えていました。今の僕には何にもないので、後は文章を書くことぐらいしかなく、本とか売っちゃう前に本についてどうしても書いてきたいなと思っていることを書いたりして、今の僕が書く文章はどうしてもあまり明るくは書けませんが、それでも、一生懸命書いていきたいと思います。少しでもお役立てできれば幸いです。

手塚治虫さんの作品で、一際特異な作品と僕が考えているものに「ばるぼら」と「人間昆虫記」という二つの物語がありまして、これは手塚さんの物語仕立てにした芸術論ではないかと昔から考えておりました。ばるぼらはムーサの女神であるヒロイン(この女神様、性格は気まぐれな猫そのもので、猫好きにもお勧めです)に見込まれた芸術家が、そのことにより芸術家として救われ、そして破滅してゆくが、自らの作品は創り上げ残してゆくという、ある種の救いのある物語で、こちらの方はユーモアとヒューマニティもあって、芸術論としてではなく、普通の手塚漫画としても読める作品ですが、人間昆虫記は「ばるぼら」と比べても極めて特異な作品です。

人間昆虫記のヒロインは手塚さんの作品における極めて特異なタイプ、つまりタイプ(類型)を持たない存在、ミメーシス(模倣)の化身として描かれていて、様々な登場人物達を模倣し、その性格・才能を模倣し、模倣された登場人物達はみなヒロインに全てを奪われ破滅していくんですね。ただ模倣された作品だけは残る。手塚さんは一般的にヒューマニストということになっていますが、この二作品から感じることは、これは手塚さんの芸術論としての物語であり、そこにおいては、人間ではなく、芸術至上主義がとられているということ、どうしても感じずにはおられません。

両作品に通ずるのは、非常に儚い人間達の脆く消えてゆく存在性の無常と、それと同じように消費され消えていくであろう芸術の無常。ただ、ばるぼらでは、たとえ作者がどうなろうとも、芸術が人の寿命を越えて残る可能性に僅かな救いを持たせています。

たぶん彼の行方は永久にわかるまい だが彼の作品は永久に残るのだ。
(手塚治虫「ばるぼら」)

ただこれが、人間昆虫記ではもっと突き放した形になっています。人間昆虫記では「美(芸術の創造)」=「模倣」=「ヒロイン」という形になっており、特別な価値があるとみなされるもの(そこには一般的な美的価値・芸術だけでなく、人間それ自体の存在まで入ってしまう)をヒロインは全て完璧に模倣し、模倣された人々の作品を自分の作品とし、模倣された人々を破滅させながら芸術分野に留まらず次々とあらゆる分野に多彩な活躍をしていく、まさに、美の化身そのもののような女性がヒロインで、そして、美は孤独なんですね。

それは、純粋な美であるゆえに、他との繋がりを模倣するという形でしか繋ぐことが出来ないゆえに。ここに、手塚さんの非常にシビアな芸術論を見て取ることができると僕は考えます。つまり、芸術は全て模倣と組み合わせであるという、ある種の芸術限界論的な視野があるのだと思います。それが、模倣の女神である、芸術的には多彩な大成功を収めているヒロインの悲劇的な孤独に繋がると考えます。

また、彼女が模倣(それはほとんど盗作といっていいものです。彼女は完全に模倣できるうえ、模倣する人物の作品を奪い取ることを躊躇しません)によって芸術的には多彩な大成功を収めているというのも、ばるぼらと読み比べるとわかりますが、非常な皮肉です。「ばるぼら」における芸術を鑑賞する立場(ばるぼらでは超越的な芸術の女神ムネーモシュネーと娘がそれを果たします)から人間を見れば、Aという作品を創ったのがBだろうがCだろうが、純粋に芸術を鑑賞する立場にとっては、なんの変わりもないという、俗世から一切から切り離された孤独な、何とも繋がらない美の悲劇、純粋芸術審美主義の哀しみを手塚さんはこの二作品で描いているのだと思います。非常に芸術論として優れている漫画(勿論、漫画としての出来栄えも抜群です)でお勧めの作品です。

人間昆虫記 (秋田文庫―The best story by Osamu Tezuka)
ばるぼら (1) (手塚治虫漫画全集 (145))
ばるぼら (2) (手塚治虫漫画全集 (146))

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