2010年06月27日 08:30

Angel Beats!全話視聴完了。あまりにもひどすぎる終わり…。これなんてガイアナ人民寺院?

Little Braver
Keep The Beats!

先週は体調が悪く、Angel Beats!第12話をまだ見ていなかったので、先ほど、Angel Beats!第12話と、最終話である第13話を視聴…これはひどい…。体調がまだ良くないので、見終わった後、あまりにもひどい終わり方に、咳がとまらなくなり辛いです…。第12話の序盤で、SSSの主要メンバー達が「私達、音無教祖様の演説に感動したわ!!喜んで自殺するわ!!」と言い出した時点で、ガイアナ人民寺院事件を思い出し、非常に嫌な予感がしていましたが、その予感は完全にあたり、音無教祖の「死ぬことこそ素晴らしい」という思想の信者となったSSS団メンバー全員&奏&教祖自身が全員集団自殺(成仏)して終わりました…。

Angel Beats!全話見終わって、感想はただ一言――なんじゃこりゃあ!!!!!!!!!!

この話を簡単に纏めると、

「自分が死んだことの記憶がある人々が送り込まれる謎の世界(死後の世界かどうかは、最後まで明らかにされなかったので不明)がある。
 その世界において人々は、自分のこれまでの人生に対して、自己啓発セミナーばりの満足を覚えてしまうと、その世界から消滅してしまう。消滅したくない、まだ生きていたい人々は、その世界に対して抗っている。
 そこに教祖音無が現れる。彼は『自分に対し自己啓発セミナーを行い、自分の人生に(セミナー的)満足を覚えて世界から消滅する自殺こそ最善であり正しき道である』という集団自殺思想を唱え、抗っていた人々を次々と信者にして消滅(自殺)させてゆき、他の人間全員が自殺した後、最後は音無自身も自殺する。そして誰もいなくなった。完」

という話です…。

あまりにもひどすぎる…。これってガイアナ人民寺院事件とどう違うというのか…。

ウィキペディア「人民寺院」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%AF%BA%E9%99%A2
 人民寺院(じんみんじいん、Peoples Temple)とは、1978年にガイアナで集団自殺を行ったことで知られるアメリカのキリスト教系新宗教。カルトの典型とされる。(中略)
 集団自殺の模様を録音したカセットテープが残されており、ジョーンズは、ライアンら「一部の嘘つきたち」の訪問によってこれ以上教団での生活が不可能になったと主張し、信者たちに対し、これは「革命的自殺」であり、「別世界への旅立ち」だと訴えていた。

第12話でゆりが言っていますけど、たとえ、万が一、音無教祖が唱えるような「生まれ変わり」があったとしても、前世の記憶はなく、生育環境も性格もまったく違う人間に生まれ変わるなら、それは全く別人な訳ですよ。自己というのは、記憶と環境によって自己を連続的な自己としてアイデンティファイ(同一化)している人間の存在状態を自己と呼ぶ訳です。自己(記憶と環境によって連続的に自己認識を同一化していく存在)が消滅して、記憶も環境も自意識も異なる、全くの別人に生まれ変わったら、それは自己ではなく、他人であり、自己は消滅した、すなわち『死んだ』としか言い様がない。

Angel Beats!の世界で消滅することにより、自己の連続性が永久に断たれるのならば、それは『死』以外の何物でもなく、それを、『生まれ変われば記憶はなくなっても魂に刻まれる』とか音無がいうのは、「革命的自殺」「別世界への旅立ち」とかと同じ単なるレトリック(言葉遊び)、人々を死=永遠の消滅に導く最悪のレトリックであるとしか言い様がない…。

僕はこのアニメの死生観がたまらなく嫌です…。Angel Beats!は、『自己の人生に満足して自殺すれば全ては解決する』という音無個人の思想を徹底的に物語として讃美している。舞台となる世界でその思想が讃美される理由がさっぱり分からないので、見ていて、極めて不気味で奇怪に謎めいた展開なんですね…。なぜ死(消滅)が讃えられているのか、さっぱり分からない…。自己啓発セミナー的言動によって人々を自殺させてゆく音無は、物語や彼の信者達(=SSS団)が持ち上げるメシアなどではなく、ただの危険な大量殺戮者にしか見えないです…。

僕は無神論者かつ唯物論者で、死後に続く連続的な自己とか全く信じていない、死んだら自己は消滅してそこで終わりだと思っています。もしかしたら、死後も連続的に自己が続く、いわば「現実の生にもリセットボタンがある」みたいな考え方をしている人々は、Angel Beats!で描かれた「死(消滅)」の後も連続的に自己の生が続くと考えて、人々の死に対して何も怒りや哀しみを覚えることがないのかなと推測します…。

ただ僕は、人々が死んでも、その死を乗り越えて自己の連続は保たれるから、死を気にかける必要はない、人々の死を悲しむ必要も悼む必要もないというAngel Beats!のような考え方はたまらなく嫌です。それは、人間を、無理矢理『死を乗り越えた不死の存在』にしてしまっている考え方です。実際の人間は不死の存在ではないのです。

人間は、死を乗り越えることはできず、死すれば自己は消滅する。だからこそ、掛け替えのなき、今、ここに在る瞬間にだけ在り続けることのできる自己は、その限りある生=自己を、生きられる限り、精一杯生きなくてはならないのだと心から思いますよ…。

死んだら、もう二度と、アニメを見て楽しむこともできないのです…。死とは、その生の持つ全ての可能性が永久に奪われること、生の持つありとあらゆる可能性が永遠に剥奪される不可逆の事象なのです。だからこそ、人の死、その人の生の全ての可能性が奪われたことは深く激しく悲しい。生きている人々、世界における可能性を持っている=生きている人々は、全ての可能性を奪われた死者を悲しみ、悼むのです。Angel Beats!の死を讃美する思想(転生不死思想)を肯定している人は、このこと、命(生命の可能性)のかけがえなき尊さを、今一度、鑑みて欲しいと、願います…。

社会福祉がどんどん削減されて、新自由主義(市場原理主義)の名の元に、弱肉強食が肯定されて、命、生きることが蔑ろにされてきている21世紀現代日本の世の中で、不遇な者が啓発セミナーで洗脳された挙句死を選ぶというAngel Beats!の物語が爆発的にヒットするというのは、僕は、本当に怖いと思います…。Angel Beats!の物語は、貧しき者、不遇な者に分かち与えることで救うのではなく、貧しき者、不遇な者は自らの人生に満足して死ねというメッセージを発信している。そして爆発的にヒットしている。それが非常に怖いです…。本当ならば、Angel Beats!で描かれる貧しき者、不遇な者に、自己啓発セミナーによる満足感と死を与える物語ではなく、その辛さを共に受苦し、明日の喜びを共に分かち与える生、自己を自己として続く生の物語こそがあるべきだったと思います…。

神は死人たちの神などではなく、生ける者たちの神だ。
(マルコ福音書12−27)

一般的に、神(また仏)は死人を弔うために役立つ存在なのではなく、生きることの意味を問う(生きている)人間にとって不可欠な存在である、の意味で用いられる。
(聖書名言辞典)

参考作品(amazon)
Little Braver
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Thousand Enemies
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