2010年05月22日 06:25

ガーシュウィン10枚組全集、素晴らしい!とてもお勧めです!!初音ミクと芸術的逸脱(artistic deviation)

Gershwin Plays Gershwin

ガーシュウィンが自分で弾いている10枚組自作自演全集「Gershwin Plays Gershwin」を購入。さっそく数時間前から聴いているところでして、これ、とても素晴らしいですよ!!amazonを始めとして、HMV、タワレコなど、どこのショップでも、1500円前後で簡単に買えます。コストパフォーマンスは超絶に良く、とてもお勧めです。1920〜1930年代のアメリカの匂いが音楽を通して伝わってくる感じですね…。なんか、この10枚組BOXが1500円で買えるということが涙でそうです。1920〜1930年代の録音の為、音質は悪いですが、それが当時のアメリカのライブ感覚を伝えてきて、逆に味があるんですね。聴いていると純粋に、ああ、音楽は素晴らしいなあと感じさせてくれます。
Gershwin Plays Gershwin
Gershwin Plays Gershwin

フルトヴェングラーの6枚組戦時録音集(http://www.hmv.co.jp/product/detail/1288745 僕が発売当初HMVで買ったときは1800円くらいだったと思うのですが、いつのまにか値段が上がってますね…ユーロ安円高進んでいるのになぜ…)なんかもそうですが、昔の録音はスタジオ編集で夾雑物を削ぎ落とすということをやっていないので、音にずれたところ、ざわざわした熱気のノイズがあって、それが味になっていていいなあと思いますね。1944年のフルヴェン指揮ベートヴェン交響曲第三番の第二楽章の盛り上がりとか熱気が素晴らしい!

例えば、フルトヴェングラーの戦時録音は「これがドイツ精神だ!!ドイツ!!ドイツ!!ドイツ!!」みたいな壮絶に素晴らしい演奏ですし、ガーシュウィンの10枚組は、「アメリカだよ!!このノリのよさがアメリカなんだよー!!」みたいな感じです。上手く表現するのが難しいのですが、それぞれの国のお国柄が曲と演奏に出ている感じなんですね。あと、ガーシュウィンの音楽が特にアメリカ的と感じさせるのは、彼がラグタイムの影響を受けていることとも関係があると思われます。

ウィキペディア「ラグタイム」
ラグタイム(ragtime)は、19世紀末から20世紀初頭にかけ、アメリカで流行した音楽のジャンル。

19世紀、ミズーリ地方の黒人ミュージシャンが黒人音楽(ブルース)を基本に独自の演奏法を編み出し、これが従来のクラシック音楽のリズムとは違う「遅い」リズムと思われたことから「ragged-time」略して「ragtime」と呼ばれるようになった。

リズム的特長としては「シンコペーション」と呼ばれるリズム構成が主体で、これは拍の弱部を強調する事によって、従来のクラシック音楽とは異なる印象を与えることができる。音階的には音階が上がるとき(アップビート)よりも下がるとき(ダウンビート)のときに拍が強調され、これは「裏拍の強調」とも呼ばれ、聴く者に意外感を与える効果を持つ。また「シンコペーション」の別定義では「中間音の省略」といった記述もあり、これは小節の間、もしくはその終わり、あるいは小節から小節へ移るとき、休止符を置く、または音符そのものを省いてしまうことにより、リズムにスピード感が増し、それが結果的に曲そのもののスピード感を増すことにもつながる。この「裏拍の強調」はその後の「ジャズ」にも受け継がれ、今日のロックやポップスなどのポピュラーソングの基本として、その手法は健在である。また、そのスピード感の強調はヨーロッパへ輸出され、いわゆる「ユーロビート」の源流となったことはよく知られている。

ラグタイムは20世紀初頭のアメリカで流行し、このリズムを用いた楽曲が「ポピュラーソング」として第一次世界大戦後まで好んで歌われた。当時、ロシア革命や第一次世界大戦後の動乱でヨーロッパを追われた著名作曲家たちも新大陸でこのリズムに出会いルビンシュタインなどがラグタイムの作曲を試みたりしている。ラグタイムは歌曲が中心であったことから、当時、短時間しか録音できなかったレコードやピアノロール、短時間しか再生できなかった自動ピアノなどに取り入れられ、アメリカの20世紀文明とともに急速に広まった。このラグタイムに影響を受けたのがジョージ・ガーシュインであり、彼はラグタイム風の楽曲「スワニー」を作曲し一躍スターダムにのし上がることになる。

Ragtime: The Music of Scott Joplin [Collector's Edition Music Tin]

音楽研究では、演奏のゆらぎ(楽譜解釈及び演奏の不完全性、artistic deviation)の大きさに模倣不可能な個性がでる(例えば、この世の誰もフルトヴェングラーの演奏と同じように指揮することはできない)、特に音楽録音文化初期の録音(〜1950年代くらいまでの録音)は、解釈のゆらぎ=人間ならではの演奏の不完全性によるダイナミズムがより大きいと言われています。20世紀前半は、楽譜のより大きな解釈が主流だったのですね。初音ミクなんかも、こういったゆらぎを持っていると感じられて、面白いですね。少し前まではDTMに人間的なゆらぎ・不完全性をだすことは不可能とみなされていたので…。

僕は子供の頃、ピアノをやっていたのですが、楽譜っていうのは、物凄く曖昧かつ自由度が大きい形で書かれているんですね。楽譜を見ながら何も考えずに弾いても、どうしても一人一人違う演奏、そしてその時々によって違った演奏となる。ピアノで言えば速さも打鍵の大きさも何もかも、究極的には自分で自分流に解釈して弾く訳ですし、演奏者が人間である以上、自分の肉体を完璧に把握して完璧に弾くことはどうやってもできない。楽譜の解釈も演奏の不完全さも、人間(演奏者)に任されている。過去のDTMは、プログラムが楽譜に忠実に一定の規則的テンポで弾いてしまう為、こういった人間的ゆらぎ(不完全さによる個性)を出すことはできないと言われていたのですが、初音ミクらボーカロイドによって作られた音楽は、こういったゆらぎをきちんと持っていて、凄いなあ、どうやってゆらぎ(=不完全性)を出しているんだろうかって感じですね。初音ミクらボーカロイドのアルバム、それこそ、音楽録音文化初期録音のように、ある種極端にゆらぎが大きいですからね。

パーソナル・コンピュータの性能の向上と低価格化により、個人でも比較的気楽にコンピュータミュージック、デスクトップミュージック(DTM)を楽しむことができるようになった。しかし、楽譜をそのままコンピュータに打ち込んで演奏させると、いかにも機械的で不自然な演奏になることはよく知られている現象である。楽譜に忠実でどのような曲でも間違いなくこなす点では、人間の演奏よりもはるかに優れているはずである。それにもかかわらず、コンピュータによる演奏は音楽性に乏しいと感じるのは、なぜであろうか?

これにはいくつかの理由が考えられる。まず、楽譜というものは、一軒、演奏されるべき音の情報を正確に書きとめたものに見えるかも知れないが、実際にはかなりの曖昧さが含まれているものである。(中略)演奏家は、音楽様式などの暗黙の知識に基いて、楽譜に記されていない情報を適切に補って演奏している。さらには、自分自身の音楽的解釈も付け加えながら、最終的に生き生きとした音楽に仕立て上げていくことができる。つまり、楽譜をもとに音楽演奏をつくり出すこと自体が、すでに大きな創造行為といえるのである。このような楽譜と実際の演奏との乖離をシーショアは「芸術的逸脱(artistic deviation)」と呼び、音楽演奏に見られる基本的原理の一つにあげている。

また、人間による演奏は、必ず何かしらの揺らぎや一定のズレが含まれているものである。たとえば、音楽的な解釈をまったく加えずに、できるだけ楽譜に忠実に機械的に演奏したとしよう。ところが、このような演奏を分析してみると、実際には音の強さや長さはかなり大きくばらついているのである。これには大きく二つの要因が考えられよう。一つは楽器(声楽の場合は発声器官)のコントロールに関わる要因で、いわば身体的な能力の限界である。もう一つの要因は、自分の演奏の正確さをモニターする知覚的な精度の限界である。たとえば、二つの音を聞き比べたとき、その強さや長さの違いを聞き分ける能力には限界があるのである。

これらの能力は訓練によってある程度向上させることは可能であろうが、揺らぎやズレをまったくゼロにすることはできない。私たちはこのような揺らぎを持つ人間の演奏に馴染んでいるためか、逆に揺らぎのない、コンピュータによる演奏をむしろ「不自然」と感じてしまうのである。
(谷口高志「音は心の中で音楽になる 音楽心理学への招待」)

ここで書かれている、人間的ゆらぎみたいなものが、ボーカロイドのアルバムには強烈にあるのが面白いですね。ミク達ボーカロイドが人間的ゆらぎを持っている訳ではないので、ミク達を使って音楽を製作する製作者の持つゆらぎなんでしょうが、それが、ミク達から出てくる(曲を聴く)と、まるでミク達が人間的ゆらぎを持っているように感じられるのが、とても楽しいなと。今聴いているガーシュウィンの曲が否応なしにアメリカを感じさせるアメリカ的な音楽であり、フルトヴェングラー&ベルリンフィルが否応なしにドイツを感じさせるドイツ的音楽であるように、ミク達ボカロの曲に否応なしに日本を感じさせる日本的音楽があるように僕は感じますね。勿論、別の国の人々が作れば、その国の味を持つボカロ音楽になるでしょう。
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下記引用先のように、音楽を機械的にフラットにすることで、国際的な多様性を失わせてしまうのではないかとこれまで危惧されていた、コンピュータミュージック、DTMを通して、逆に、地域的なリズム感が出ているというのは、本当に面白いですね。しかもそれが日本発というのが、また実に面白いなと。

多くの日本人学生を私はベルリンと東京で教えてきた。(中略)かれら(日本人の音楽家)はつねに非常に勤勉で、不気味なほどの適応能力であらゆる状況に対処した。いっこうに適応できないものがあるとすれば、まったく自分ひとりで独自の感情によって(音楽解釈の)方向を定められなければならないときで、そうなると彼らは慇懃な微笑を浮べ、さらに詳しい指示を欲しがるのだった。(中略)

(日本人は日本において)与えられた目標に向かって調整され、あるいは調教され、個人のオリジナルな表現の可能性は犠牲にされた。この技術と実用に傾注した熱意の帰結として完璧な思考者と作為者の大群が生まれ、それは他の諸国民から脅威と感じられるに違いない。(中略)

日本人があれほど強くコンピューターゲームに打ち込むのは、私の見方によれば、彼らが幼い頃から、性能の良い、誤りなく機能する「コンピューター」になるよう躾けられていることと関係がある。コンピュータ人間はおのれの情動を隠すすべを心得ている。(中略)

日本の音楽家は今日では世界中の著名なオーケストラの楽員になっており――それが決して悪い奏者ではないのは、彼らはその社会適応力ゆえに、どこでも最善の形で順応できるからだ。だが日本人がそのために高い代価を払った。彼ら自身の音楽文化はあらかた博物館芸術に零落してしまった。(中略)

さらに問うならば、独自の音は個人にのみ属するのか、それとも共同体の、オーケストラの、さらには民族独自の音も存在するのだろうか。民族の心というくらいだから、集団の心もあるだろうし、まちがいなくオーケストラの心もあるだろう。なにしろ音楽共同体は心の篭った音を出す為にあるのだから。ベルリン・フィルの同僚と同じく、私が常に前提にしているのは、我が集団(ベルリン・フィル)は紛れもなく(固有の、ベルリン・フィルだけの独特の)響きをだせるということだ。長年論議されてきた問題、我々が有しており、守らねばならぬと信じている固有の響きを失わずに、何人の外国人を(楽団員として)わがオーケストラは許容しうるかという問題も、この観点から見るべきだろう。
(ヴェルナー・テーリヒェン「あるベルリン・フィル楽員の警告」)

こういうの読むと、ああ、ドイツはどこまで行っても無限に純粋にドイツであろうとしており、ドイツ音楽はどこまで行っても無限に純粋にドイツ音楽であろうとしているなと感じますね…。日本や日本の音楽にはない感覚、民族的純粋さと民族的音楽(ドイツ的音楽)を徹底的に信じて守ろうとする感覚ですね。

アメリカは開放的な演奏が結構多いですが、ヨーロッパのクラシックはアメリカとは逆に、「民族的音楽を守り抜く」という歴史的感覚が強く一本通っている演奏が多いです。オーケストラの団員構成はインターナショナルになってますが、それとはまた別なんですね。そしてこれがまた実に素晴らしい演奏だったりする。こういった感覚に更なる新風を吹き込むためにも、僕は日本の音楽・音楽家に個性的に頑張って欲しいですね。日本ならではの見事な個性的解釈を聴くことを楽しみにしています。

(それぞれ地域的・民族的な特質を強く持つ音楽感覚である)「リズム感」というものは一体どのように決まるのであろうか?小島(小島美子、民族音楽学)による解説は心理学的な観点からのものではないが、リズム知覚を考える上で参考になる事柄が含まれている。(中略)

小島は、「リズム感はその人々が歴史的に長い間どんな身体の使い方をしてきたかによって決まる」と述べ、リズム感というものが民族によって異なることを指摘している。例えば、日本と地理的に近い韓国朝鮮の人々の人々のリズム感は、日本人のそれとはたいへんに異なっている。韓国や朝鮮の音楽は三拍子ととらえることのできるリズムが多く、二拍子系の音楽が圧倒的に多い日本の音楽とは対照的である。

こうした違いが現われるのは、暮らし方、日常的な身体の動かし方や、文化の指向性や教育の質的違いなど、種々の原因が考えられるという。(中略)

世界の中にはさまざまな環境・多様な文化のもとで生まれた音楽があり、リズムがある。音楽心理学におけるリズム研究は、普遍的・一般的法則性の解明に注力されているが、将来的には、民族や文化の違いとリズム知覚の間にどのような関係があるのか、などといった問題についても、比較文化心理学的な観点から体系的な研究を行う必要があるであろう。
(谷口高志「音は心の中で音楽になる 音楽心理学への招待」)

クラシックも、ガチガチに中立的にお行儀よく演奏している曲ほどつまらないものはないですし、逆に、それぞれが個性を出して弾いているとそれだけで楽しいですからね。ベネズエラの指揮者ドゥダメルが受けているのは、物凄く陽気でラテンなノリで指揮して、その音楽解釈が物凄くアクが強いからですし。ガーシュウィンがアメリカでフルトヴェングラーがドイツであるように、ドゥメタルはベネズエラであると強く感じさせる個性の強さが素晴らしい。ミク達ボカロの音楽にも、初期に比べ、最近は、こういったアクの強さがどんどん出てきていて、それは日本的な個性を感じさせて、とても良いことだと思いますね。

ガーシュウィンの自作自演10枚組全集「Gershwin Plays Gershwin」の話に戻りますと、これ凄く良いですよ。アメリカの個性が伝わってくる素晴らしい個性的な演奏、とてつもないコストパフォーマンス(CD1枚当り150円前後)ですし、皆さんにとてもお勧めの全集ですね。演奏者(ガーシュウィン達)がとても情熱的に弾いていることが熱気として伝わってくる好演奏です。

「フルトヴェングラーの音楽には、無邪気さとか、ひたむさがあるでしょう。ときに子供っぽい。計算がないのです。フルトヴェングラーの響きは、感情から作られる。オーケストラと指揮者が互いに感情を享受しあい、その結果できあがってくる響きです。たとえば、フルトヴェングラーのディミヌエンドは、音が弱くなるに連れて逆に緊張が高まっていくのです。そして、音が消えた後でさえ、何か余韻のようなものが残る。感情のなせる業です」
(川口マーン恵美「フルトヴェングラーかカラヤンか」)

参考作品(amazon)
Gershwin Plays Gershwin
Ragtime: The Music of Scott Joplin [Collector's Edition Music Tin]
フルトヴェングラー・コンプリート RIAS レコーディングズ (Wilhelm Furtwangler - The Complete RIAS Recordings) [12CDs + Bonus CD] (Import CD from Germany)
フィエスタ!
音は心の中で音楽になる―音楽心理学への招待
証言・フルトヴェングラーかカラヤンか (新潮選書)
あるベルリン・フィル楽員の警告―心の言葉としての音楽
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