2010年01月25日 06:34
「ツイッターは政治を変えるか」引用しますね。津田大介氏に回答です。ツイッター・コマーシャル・抑圧・幻
僕が昨日書いたエントリについて、津田大介氏のツイッターから『俺が言ってもいないことを書いた印象批評』というメッセージだか愚痴だかつぶやきだか非難だか、なんだかよくわからない放言が届いたので一応回答しておきます。まず、ツイッターは政治を変えるかをスキャン致しましたので、まだお読みでないお方々はよろしければご一読どうぞです。
津田氏の文章は、ツイッターを称揚するための出汁に政治が使われているなあと、上記を読んで思いました。特に一番おかしいなと思ったのは次のところです。政治的なことが絡むので、僕はツイッターの問題を政治的な問題にしたくなかったので昨日のエントリではわざと書かなかったのですが、以下の津田氏の言葉です。
ツイッターの政治利用については、アメリカのオバマ大統領がツイッターを使っていなかったことが発覚したときに、津田大介氏は『まぁ普通に社長ブログとか有名人ブログとかゴーストが書いてたりすること多いしね。オバマは象徴的存在としてよく語られるけど、post(投稿)数は本当に少なかったし、メルマガ的なリアルタイム情報告知が中心で使われていたから、その意味ではあんま不思議ではないかな』(http://news.biglobe.ne.jp/social/329/jc_091117_3297856303.html)とコメントしており、僕が以前、鳩山総理のツイッター利用について書いたとき(http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1059008.html)、このコメントを参考にしたのですが、今回の朝日新聞の記事では、津田氏はツイッターの政治利用を『政治家が実際にツイッターを使っている』という前提の上で素朴に讃美しており、言っていることが突然変わっていて妙だなと思わずにはいられません。
実際につぶやいているのは以前の津田氏の言った通り「ゴースト」(ゴーストライター、メディアを熟知した側近や秘書、広告代理店関係者等)の可能性があるでしょうし、「ゴースト」が国民に親近感を持たせる為に政治家本人を装って書いているつぶやきは、政治家本人とは関係のない虚像であって、政治家の本来的な判断材料とはならないと思います。
また、谷垣氏の「私はつぶやかない」という言葉が、なぜツイッターへの批判と受け取られているのか、『批判としてナンセンス』などと言われているのかが分かりません。僕はツイッターを使っていませんから「私はつぶやかない」ですが、『つぶやかないこと=ツイッターを使わないこと』がツイッターへの批判と受け取られるなら、みんなツイッターを使っていなくてはならないことになります。ここを鑑みて「ツイッターを使わずば人にあらず」のような論調だと評させてもらいました。谷垣氏の発言はこれ(http://www.asahi.com/politics/update/0107/TKY201001070363.html)だと思いますが、批判というよりツイッターのシステムは好みではないという個人の意見表明であって、特に問題があるようには思いません。
「自分の性格としてつぶやきを言うのはあまり好きではない。ものを言う時は論旨明快に言いたい」というのは僕もそう思っていますので、これがツイッター批判とされるのは、あまりにもどうかと思います。たった140字で他の人へ向けた文章の論旨をきちんと説明するのは不可能です。また、津田氏は『ツイッターは入り口』と述べますが、実際は、ツイッターのつぶやきはツイッターだけで完結していることが圧倒的に多いです。結果、ツイッターは、ひたすら放言する言いっぱなしのツールとなってしまっています。これはツイッターの大きな弱点であると思います。政治的に考えれば、影響力の大きい社会的責任のある人物が公に放言しまくるシステムの存在が、良いものだとは僕にはとても思えません。声の大きい方に小さい方が潰されてしまう、抑圧のシステムとしてしか働かないのではないかと思います。
具体的に例を出せば、東浩紀という、以前多少知り合いだった、なんだかよく分からない有名人物(東工大の大学教授で新聞やテレビに時々出ています、一応哲学者を名乗っているらしいです)がいるのですが、この人物は、僕がうつ病で失業し、食費もなく困り果てて、頼れる人もおらずご相談をお願いできませんかというメールを数年前に出したら、急に縁を切られまして、それはそれでそういう人だったんだ、ということで良いんですが、その後もこの人は妙に偏執狂的で、弟子達を連れてメール内容や病気を笑いの種にして、弟子達がそれをツイッターで放言したりしていて凄く嫌な気持ちになりました。今回もさっそく津田大介氏にコメントして、『Aとか言っている言論人ってバカじゃね?」という批判のほとんどは、実際には存在しない発言に向けられている』とあてつけを書いていますが、有名人であるこの人の影響力と僕の影響力では、月とすっぽんですから、この人の意見だけが大きく流通していくことになるんですね…。この人は、タチの悪いお笑い芸人みたいな人で、人を傷つけるような放言をするのが大好きですから(もっと前にこの人物がこういう人間であることが分かっていたらメールを出したりはしなかったのですが…)、昨今はツイッターを使ってひたすら無責任な放言を毎日何時間も繰り広げているようですが(教え子が本当に気の毒です)、こういった状況を作り出すツイッターのシステムの無責任さ(短い言葉で放言し、ログも残らないシステム)というのは、ツイッターの信用を落す大きな弱点であると思います。
上記を考えれば「私はつぶやかない」というのは、倫理的な一つのスタンスとして有り得る立場だと思います。ツイッターのシステムの弱点を度外視して、『「私はつぶやかない」というのは、「拡声器を使わない」というのを同じで、批判としてナンセンスだ』などというのは、ツイッターに一方的に肩入れしていると取られても仕方がないと思います。また、津田氏の言う通り、ツイッターがネットの拡声器だと考えても、僕は政治家の選挙カーが拡声器で大声を出すのが耐え難く、これは日本における最悪の騒音公害の一つであると思っていますので、「拡声器を使わない」ということは良いことだなあという感想を持ちますね。僕は、声が大きいことが優れているという価値観には与しません。
僕は民主党の方が自民党よりはマシだと思っているので、政治的なこととは関係なく受け取って欲しいのですが、ツイッターが政治に利用されるようになることは、テレビで政党のコマーシャルが流れたりすることと違いがありましょうか。テレビのコマーシャルにはないツイッターの独特に奇妙なところは、双方向性が制御されているにも関わらず、オープンな双方向性を持っているように見せているところです。政治家がゴーストではないという仮定の前提の上で語りますが、政治家のツイッターをタイムラインで読んで、政治家にフォローしてもらっていれば、その政治家と繋がっているように思えるかも知れませんが、それは単にお互いのひとり言が流れているだけで実際には繋がっていない。実際に繋がっていると言えるのは、チャットのようにメッセージを交換するときだけです。ここを勘違いすると危険だと思いますね…。コマーシャルを、自分へのメッセージであると受け取ってしまうことは危険です。コマーシャルというのは、「多」に対して影響力を与える為に送られているメッセージであり、そこに個人と個人の繋がりはないのです。
コマーシャルは幻であり、困っている人を実際に助けてはくれません。テレビでいくら美味しそうな食べ物が出ていても、素晴らしい美辞麗句が政治家のツイッターで並べられても、それでお腹が膨れたりはしません。僕は今現在、うつ病で通院しており、無職でお金がなく、食費にも事欠き、生活に大変困っておりますが、ギフト券を贈って下さったり、アフィリエイトで買い物をして下さったりして、生活を支援して頂けるお方々に助けて頂いて、なんとか暮らしております。実際の行動として助けて頂き、深く感謝しております。
政治は国民1人1人の負託に応えて行われるものであり、ツイッターなどを使ったコマーシャルとしての美辞麗句に彩られた幻想の政治、レトリックの政治ではなく、困っている人々1人1人を実際に助ける、個人と個人の実のある繋がりの政治、実践の政治があることを望みます。
ツイッターでどれだけ美辞麗句が並べられようとも、お腹が空いている苦痛が癒されることはない、これだけはどうしても僕は実感として伝えたいです。今もお腹が空いていて辛い僕から見ると、ツイッターは生活に余裕のある人々がひたすら放言することで暇を潰しながら心地良い気持ちになるためのサービスなのではないかとしか思えません。厭世家ショーペンハウアーは『人生にあるのは退屈と苦痛だけであり、富裕なものには退屈が、貧しきものには苦痛が与えられる』(ショーペンハウアー「意志と表象としての世界第3巻」)と述べましたが、まさにツイッターのサービスは先に挙げた東浩紀氏のような影響力の大きいもの、富裕なものの暇つぶしの為の心地よさに大きく特化しており、生活に苦しむ貧しきものにとっては、そこに喜びを全く何も感じられない幻のようなサービスであるように僕は思います。本来的な喜びは、ツイッターのような選民主義的・幻想的な形ではなく、豊かなものにも貧しきものにも共に感じられる実のあるものだと思います。
参考作品(amazon)
ラッセル幸福論 (岩波文庫)
意志と表象としての世界〈1〉 (中公クラシックス)
意志と表象としての世界〈2〉 (中公クラシックス)
意志と表象としての世界〈3〉 (中公クラシックス)
amazonトップページ
津田氏の文章は、ツイッターを称揚するための出汁に政治が使われているなあと、上記を読んで思いました。特に一番おかしいなと思ったのは次のところです。政治的なことが絡むので、僕はツイッターの問題を政治的な問題にしたくなかったので昨日のエントリではわざと書かなかったのですが、以下の津田氏の言葉です。
政治家が普段から政策についての考えをつぶやいていれば、有権者に判断材料ができる。(中略)谷垣禎一さんが首相のツイッター使用を批判したが、ツイッターは単なる道具。「私はつぶやかない」というのは、「拡声器を使わない」というのを同じで、批判としてナンセンスだ。むしろツイッター上で鳩山さんと党首討論をするくらいのことを考えてはどうか。
ツイッターの政治利用については、アメリカのオバマ大統領がツイッターを使っていなかったことが発覚したときに、津田大介氏は『まぁ普通に社長ブログとか有名人ブログとかゴーストが書いてたりすること多いしね。オバマは象徴的存在としてよく語られるけど、post(投稿)数は本当に少なかったし、メルマガ的なリアルタイム情報告知が中心で使われていたから、その意味ではあんま不思議ではないかな』(http://news.biglobe.ne.jp/social/329/jc_091117_3297856303.html)とコメントしており、僕が以前、鳩山総理のツイッター利用について書いたとき(http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1059008.html)、このコメントを参考にしたのですが、今回の朝日新聞の記事では、津田氏はツイッターの政治利用を『政治家が実際にツイッターを使っている』という前提の上で素朴に讃美しており、言っていることが突然変わっていて妙だなと思わずにはいられません。
実際につぶやいているのは以前の津田氏の言った通り「ゴースト」(ゴーストライター、メディアを熟知した側近や秘書、広告代理店関係者等)の可能性があるでしょうし、「ゴースト」が国民に親近感を持たせる為に政治家本人を装って書いているつぶやきは、政治家本人とは関係のない虚像であって、政治家の本来的な判断材料とはならないと思います。
また、谷垣氏の「私はつぶやかない」という言葉が、なぜツイッターへの批判と受け取られているのか、『批判としてナンセンス』などと言われているのかが分かりません。僕はツイッターを使っていませんから「私はつぶやかない」ですが、『つぶやかないこと=ツイッターを使わないこと』がツイッターへの批判と受け取られるなら、みんなツイッターを使っていなくてはならないことになります。ここを鑑みて「ツイッターを使わずば人にあらず」のような論調だと評させてもらいました。谷垣氏の発言はこれ(http://www.asahi.com/politics/update/0107/TKY201001070363.html)だと思いますが、批判というよりツイッターのシステムは好みではないという個人の意見表明であって、特に問題があるようには思いません。
「自分の性格としてつぶやきを言うのはあまり好きではない。ものを言う時は論旨明快に言いたい」というのは僕もそう思っていますので、これがツイッター批判とされるのは、あまりにもどうかと思います。たった140字で他の人へ向けた文章の論旨をきちんと説明するのは不可能です。また、津田氏は『ツイッターは入り口』と述べますが、実際は、ツイッターのつぶやきはツイッターだけで完結していることが圧倒的に多いです。結果、ツイッターは、ひたすら放言する言いっぱなしのツールとなってしまっています。これはツイッターの大きな弱点であると思います。政治的に考えれば、影響力の大きい社会的責任のある人物が公に放言しまくるシステムの存在が、良いものだとは僕にはとても思えません。声の大きい方に小さい方が潰されてしまう、抑圧のシステムとしてしか働かないのではないかと思います。
具体的に例を出せば、東浩紀という、以前多少知り合いだった、なんだかよく分からない有名人物(東工大の大学教授で新聞やテレビに時々出ています、一応哲学者を名乗っているらしいです)がいるのですが、この人物は、僕がうつ病で失業し、食費もなく困り果てて、頼れる人もおらずご相談をお願いできませんかというメールを数年前に出したら、急に縁を切られまして、それはそれでそういう人だったんだ、ということで良いんですが、その後もこの人は妙に偏執狂的で、弟子達を連れてメール内容や病気を笑いの種にして、弟子達がそれをツイッターで放言したりしていて凄く嫌な気持ちになりました。今回もさっそく津田大介氏にコメントして、『Aとか言っている言論人ってバカじゃね?」という批判のほとんどは、実際には存在しない発言に向けられている』とあてつけを書いていますが、有名人であるこの人の影響力と僕の影響力では、月とすっぽんですから、この人の意見だけが大きく流通していくことになるんですね…。この人は、タチの悪いお笑い芸人みたいな人で、人を傷つけるような放言をするのが大好きですから(もっと前にこの人物がこういう人間であることが分かっていたらメールを出したりはしなかったのですが…)、昨今はツイッターを使ってひたすら無責任な放言を毎日何時間も繰り広げているようですが(教え子が本当に気の毒です)、こういった状況を作り出すツイッターのシステムの無責任さ(短い言葉で放言し、ログも残らないシステム)というのは、ツイッターの信用を落す大きな弱点であると思います。
上記を考えれば「私はつぶやかない」というのは、倫理的な一つのスタンスとして有り得る立場だと思います。ツイッターのシステムの弱点を度外視して、『「私はつぶやかない」というのは、「拡声器を使わない」というのを同じで、批判としてナンセンスだ』などというのは、ツイッターに一方的に肩入れしていると取られても仕方がないと思います。また、津田氏の言う通り、ツイッターがネットの拡声器だと考えても、僕は政治家の選挙カーが拡声器で大声を出すのが耐え難く、これは日本における最悪の騒音公害の一つであると思っていますので、「拡声器を使わない」ということは良いことだなあという感想を持ちますね。僕は、声が大きいことが優れているという価値観には与しません。
僕は民主党の方が自民党よりはマシだと思っているので、政治的なこととは関係なく受け取って欲しいのですが、ツイッターが政治に利用されるようになることは、テレビで政党のコマーシャルが流れたりすることと違いがありましょうか。テレビのコマーシャルにはないツイッターの独特に奇妙なところは、双方向性が制御されているにも関わらず、オープンな双方向性を持っているように見せているところです。政治家がゴーストではないという仮定の前提の上で語りますが、政治家のツイッターをタイムラインで読んで、政治家にフォローしてもらっていれば、その政治家と繋がっているように思えるかも知れませんが、それは単にお互いのひとり言が流れているだけで実際には繋がっていない。実際に繋がっていると言えるのは、チャットのようにメッセージを交換するときだけです。ここを勘違いすると危険だと思いますね…。コマーシャルを、自分へのメッセージであると受け取ってしまうことは危険です。コマーシャルというのは、「多」に対して影響力を与える為に送られているメッセージであり、そこに個人と個人の繋がりはないのです。
コマーシャルは幻であり、困っている人を実際に助けてはくれません。テレビでいくら美味しそうな食べ物が出ていても、素晴らしい美辞麗句が政治家のツイッターで並べられても、それでお腹が膨れたりはしません。僕は今現在、うつ病で通院しており、無職でお金がなく、食費にも事欠き、生活に大変困っておりますが、ギフト券を贈って下さったり、アフィリエイトで買い物をして下さったりして、生活を支援して頂けるお方々に助けて頂いて、なんとか暮らしております。実際の行動として助けて頂き、深く感謝しております。
政治は国民1人1人の負託に応えて行われるものであり、ツイッターなどを使ったコマーシャルとしての美辞麗句に彩られた幻想の政治、レトリックの政治ではなく、困っている人々1人1人を実際に助ける、個人と個人の実のある繋がりの政治、実践の政治があることを望みます。
ツイッターでどれだけ美辞麗句が並べられようとも、お腹が空いている苦痛が癒されることはない、これだけはどうしても僕は実感として伝えたいです。今もお腹が空いていて辛い僕から見ると、ツイッターは生活に余裕のある人々がひたすら放言することで暇を潰しながら心地良い気持ちになるためのサービスなのではないかとしか思えません。厭世家ショーペンハウアーは『人生にあるのは退屈と苦痛だけであり、富裕なものには退屈が、貧しきものには苦痛が与えられる』(ショーペンハウアー「意志と表象としての世界第3巻」)と述べましたが、まさにツイッターのサービスは先に挙げた東浩紀氏のような影響力の大きいもの、富裕なものの暇つぶしの為の心地よさに大きく特化しており、生活に苦しむ貧しきものにとっては、そこに喜びを全く何も感じられない幻のようなサービスであるように僕は思います。本来的な喜びは、ツイッターのような選民主義的・幻想的な形ではなく、豊かなものにも貧しきものにも共に感じられる実のあるものだと思います。
愛と単なる性的魅力の違いを考えてみるがいい。愛は日照りのあと、草や木が雨で生き返るように、私達の全存在が蘇り、新たにされる一つの経験である。愛のない性交にはこういうものがみじんもない。束の間の快楽が果てれば、疲れと、嫌悪感と、人生は虚しいという感じだけが残る。愛は大地の生(実際の生活)の一部であるが、愛のないセックスはそうではない。
現代の都市に住む人々が悩んでいる特別な退屈は、彼らが大地の生から切り離されていることと密接に結びついている。それは、生活を砂漠の中の旅のように、暑苦しく、埃っぽく、喉が渇くものにしている。自らのライフスタイルを選べるぐらい富裕な人達において、特に彼らが感じている耐え難い退屈は、逆説的に聞こえるかもしれないが、退屈への恐れに由来するものである。実りある退屈から逃げることで、もっと悪い種類の退屈のえじきになるわけだ。
幸福な生活は、おおむね、静かな生活でなければならない。なぜなら、静けさの雰囲気の中でのみ、真の喜びが息づいているからである。
(ラッセル「幸福論」)
参考作品(amazon)
ラッセル幸福論 (岩波文庫)
意志と表象としての世界〈1〉 (中公クラシックス)
意志と表象としての世界〈2〉 (中公クラシックス)
意志と表象としての世界〈3〉 (中公クラシックス)
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