2010年01月24日 15:15

Twitterを使わずば人にあらずみたいな論調は好きじゃないです…。考えて書くということについて。

退屈の小さな哲学 (集英社新書)

さっき図書館に行ってきたのですが、今日の朝日新聞は「Twitterは政治を変えるか」と題してTwitter大礼讃と言う感じでびっくりしました。特に津田大介氏の文章が『Twitterを使わずば人にあらず』みたいな論調で凄かったですね…。僕はこういう論調は好きではないです。公正中立を保つべき報道機関がTwitter社のような一企業に強く肩入れするのは公平性としてどうなのかな、という思いもありますが、それよりもTwitterのシステムに対する違和感が一番大きな思いとしてありますね。

Twitterは、140字という短い字数でひたすらつぶやくシステムでして、多くがひたすら自分のことをつぶやく形になっています。人間が文章を書くとき、それは他者に宛てる形式(手紙、随筆、小説など)か、もしくは自分自身に宛てる形式(日記、覚書など)か、大まかに分けてどちらかになります。けれど、Twitterの場合は、どちらでもない。Twitterは自分自身に宛てる形式であって、なおかつ公開されていて、『お互いに自分自身に宛てた文章を公開してコミュニケートする』という仕組みになっています。

『みんな徹底的に自分のひとり言でコミュニケートしている』というのが、僕はどうしても奇妙に感じます。他者に宛てる形式の文章を書くときは、自己を抑制して相手(読み手)に配慮する気持ち、書き手が読み手との対話を意識するバランス、それによって生まれる互いの良心的な距離感覚が、大切なものとしてあると思うのですね。ツイッターの場合は、ひたすら自分のつぶやきをして、相手もひたすらつぶやきをして、という形で、対話ではなく、本当に、ひたすら自らに宛てた言葉をつぶやいているように思います。だからこそ、朝日新聞で津田大介さんが指摘しているように、いざこざなどは起こりにくい(つぶやける文字数が少なく、基本的に他を意識しないひとり言なので、摩擦は起きない)ということに繋がっているようですね。システムとしては良く出来ていると思いますが、大勢が他人を意識しないひとり言をつぶやいて、それがネットワーク化して広範な影響力を持っているというのは少々荒涼とした感を持ちますね…。

Twitterにて、自分について語るひとり言のみではなく、相手(読み手・他者)を思いやる気持ちも含んで、文章が紡がれればいいなあと思いますが、そういった熟考した文章を紡ぐには、Twitterに書ける文章は余りにも字数が少なく設定されている。読み手に配慮した文章を書くということが不可能で、システム的にどうしても、自分のひとり言を短い文をさらっと書くような形になっているんですね。

先に挙げた「自分のひとり言を短くつぶやくことしかできない」という点は、いざこざを起こさずに極めて高速に広範な人的ネットワークを形成するというところに繋がっており、そのことを考えるとTwitterはシステム的に極めて優れていると思います。僕のようなTwitterを使っていない人々も、Twitterを楽しまれて使っているお方々を尊重するべきと思います。

ただ、『Twitterを使わずば人にあらず』のような論調には賛成できません。僕は、人間が文章でコミュニケートする時の基本は、相手のことを認めて『他者に宛てる形式』で文章を紡ぐということだと思います。そこでは、沈黙して時間を掛けて思考し、他者の存在を慮った文章を書くという、Twitterの手軽さとは異なる営みが必要ですし、そういったゆっくりした営みを行う立場からの意見があっても良いと思います。『Twitterを使わずば人にあらず』のような意見に対しては、こういった立場から、『いいえ、それは違いますよ』ということを述べることが出来ると思います。最後に、退屈と熟考の関係について考察しているラース・スヴェンセン「退屈の小さな哲学」より引用させて頂きます。

現在は孤独を肯定的に見る人は少ない。オード・マルクヴァルドが言うように、人間はかなりな程度「孤独の能力」を失ったからだろうか。孤独の代わりにあらわれたのが、すべてを自分に引き戻す傾向で、この自己中心主義は僕達を他人の視線依存症にしている。僕達は自己を主張するために視野を一杯に埋めようとしている。(中略)

しかし、この巨大化した自己との関係はますます難しくなる。これはかなり逆説的だが、自己中心主義者の方が孤独を受け入れる者より孤独になる。なぜなら、孤独な人は他人の場所を見つけられるのに対して、自己中心主義者の周りは鏡(自分自身)だけだからである。(中略)

孤独自体はもちろんよくない。重荷にも感じられることが多いのだが、しかし可能性も秘められている。人間は全て孤独であり、他の人より孤独な人もいるが、誰もそこから逃れられない。全ては孤独にどう立ち向かうか、欠如と見るか、休息の手段として見るかで違ってくる。(中略)

良心は孤独の一部である。なぜならそこで非難すべきはつねに「自分」だからである。孤独は全ての人間の定めとはいえ、まったく個人のものである。僕の孤独であり、孤独が僕「そのもの」であることも多い。そして、孤独と良心が僕のものであるように、退屈も僕の退屈である。退屈の責任は僕にあるのである。

良心があると人はその求めに応じて自分の人生について熟考する。そして、それには時間を要する。現代は、能率こそ価値ありとされ、僕達は全てを記録的な(短い)時間でやり遂げたいと望んでいる。しかし、僕達の最も深いところに関わるこの手の熟考には、まさに時間が必要だ。そうでなければ、僕達は本質的なことを避けて通ることになる。

現代は、外的条件を見る限り、退屈とじっくり向き合うには理想的でないことが多い。それでも売るほど時間があるのが退屈の特性だ。しかし、僕達は時間をかける代わりに、時間を無駄遣いするほうを選んでいる。楽しみ全て――休暇やテレビ、飲み物、ドラッグ、乱交――これらは僕達を幸せにするのだろうか。僕達の大部分にとっては、たぶんそうではないだろう。せいぜいほんのつかの間に少し不幸ではないだけだろう。

いずれにしろ人はこう問いかけることはできる。これらの楽しみはその時間が過ぎても価値はあるのだろうか。生まれてから死ぬまでの楽しいだけの旅は、恥じてもいいかもしれない。人生の苦しみを放棄すると、自分自身の人間性を奪うのと同じになる。

僕達には自らの存在を正当化したい欲求が強くあり、何の深みもなく孤立した体験を並べるだけでは不十分である。もし孤立した行動すべてを正当化できたとしても、これらの行動の全体、つまり僕達が送っている人生の正当化まではできない。

僕達を苦しめる人生を生きるのは義務であり、同時にこの人生は、クンデラの表現を借りるとつねに「他に」ある。この義務は僕達を仮借なく退屈に引きずり込む。そこからある種の退屈の倫理が湧き出る。僕達は退屈を生きる時間を取らなければならない。なぜなら退屈にはよりよい人生を約束する響きがあるからだ。
(ラース・スヴェンセン「退屈の小さな哲学」)

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退屈の小さな哲学 (集英社新書)

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