2009年11月01日 15:42

昨日図書館に行ったらみんなクシャミしていたので、インフルエンザ流行ってるんだなあと感じました…。

黒猫・アッシャー家の崩壊―ポー短編集〈1〉ゴシック編 (新潮文庫)
モルグ街の殺人・黄金虫―ポー短編集〈2〉ミステリ編 (新潮文庫)

昨日久々(2週間ぶり)に図書館に行ったら、くしゃみしている人が多かったので、インフルエンザ流行ってるんだなあと感じました…。僕も咳が止まらず、喉がかすれて痛いので困っています…。薬を買うお金はなく、うがいはするようにしているのですが、治りません…。図書館にSF評論家としても有名な翻訳家巽孝之さんによるポーの短編集新訳が入っていたので借りて読んでいたのですが、精神的に参っている時特有の暗い描写が、僕自身の心情にシンクロして心を打ちます。こんな感じです。

ひっそりとひそみかえった、もの憂く暗いとある秋の日、空に暗雲の重苦しいばかり低く垂れこめた中を、わたしは終日馬にまたがり、ただひとり不気味にうらぶれた地方を通りすぎていた。そして夜の帳のおりかかるころ、やっと陰鬱なアッシャー家の見えるところまで辿りついた。なぜかは知らぬが――邸の姿を一目見るなり、堪えがたい愁いがわたしの胸にしみわたった。堪えがたい、とわたしは形容した。なぜならそのときのわたしの気持は、荒涼たるもの、身の毛のよだつものの、もっとも仮借ない姿でさえ心が受けとめる、あの詩的なるがゆえに半ば快ろよい感情によって、いささかも和らげられることがなかったからである。わたしは眼前の光景を――何の変哲もない低とまわりの景色を――寒々とした壁を――うつろな眼のような窓を――生い茂ったわずかな菅草を――朽ち果てた数本の木の白い幹を、めいるような気持で打ち眺めた。さしずめ阿片耽溺者の酔いざめ心地――現実の生活への痛ましい転落――夢の帳の恐ろしい脱落――と他に例えようもない気持であった。心は凍てつき、沈み、むかつき――いかに想像力をかき立てようと、とうてい崇高なものとはなし得ぬ、救いようもないわびしさに満たされた。
(ポー「アッシャー家の崩壊」)

自分ではどうにもならない陰鬱さを描かせたら、作家ポーの右に出るものはありませんね…。真に迫った暗い筆致は筆者のポー自身が、貧困、アルコール中毒、メランコリックなノイローゼなどの精神的な病、愛妻ヴァージニアとの別離による孤独などに深く悩まされていたことの反映だと思います。インフルエンザが拡大感染している今、明るい物語は世相(外部環境)にあいませんし、ポーの小説などはシンクロできる物語としてお勧めです…。僕はお金がなくてお腹が減っているので、暗い物語は、心の支えですね…。

ナチス・ドイツ時代を舞台にした皆川博子さんの三部作「死の泉」「伯林蝋人形館」「薔薇密室」のメインテーマとして、「物語を必要とするのは、不幸な人間だ」(薔薇密室)ということが挙げられますが、「幸福な物語を心から楽しめるのは、幸福な人間だ」と言えるかも知れませんね…。不幸な人間にとっては、不幸な物語の方が心から読むことのできる物語であるかなと思います…。三島由紀夫などは、物語自体が存在的に不幸を持つ本質であり、読む書くと言う行為は本質的に暗いものであると唱えていますね。豊饒の海に出てくる以下の文章などそれが分かりやすいです。三島の友人澁澤龍彦をモデルとした登場人物の今西が、ユートピアとして、柘榴の国について語るところです。

「ちかごろ『柘榴の国』ではどんなことが起こってゐるの?」

「あひかはらず人口はうまく調節されてをりますよ。近親相姦が多いので、同一人が伯母さんで母親で妹で従妹などといふこんがらかつた例がめづらしくないけれど、そのせゐかして、この世ならぬ美しい児と、醜い不具者とが半々に生れます。

美しい児は女も男も、子供のときから隔離されてしまひます。『愛される者の園』といふところにね。そこの設備のいいことは、まあこの世の天国で、いつも人工太陽で適度の紫外線がふりそそぎ、みんな裸で暮して、水泳やら何やら、運動競技に力を入れ、花が咲き乱れ、小動物や鳥が放し飼いにされ、さういふところにゐて栄養のよい食物を摂つて、しかも毎週一回の体格検査で肥満を制御されますから、いよいよ美しくならざるをえませんね。但しそこでは本を読むことは絶対に禁止されてゐます。読書は肉の美しさを何よりも損ふから当然の措置ですね。

ところが年ごろになりますとね、週一回この園から出されて、園の外の醜い人間たちの性的玩弄の対象にされはじめ、これが二、三年つづくと、殺されてしまふんです。美しい者は若いうちに殺してやるのが人間愛といふものぢやありませんか。

この殺し方に、国の芸術家のあらゆる独創性が発揮されるんです。といふのは、国ぢゆういたるところに性的殺人の劇場があつて、そこで肉体美の娘や肉体美の青年が、さまざまの役に扮してなぶり殺しにされるのです。若く美しいうちにむごたらしく殺された神話上歴史上のあらゆる人物が再現されるわけですが、もちろん創作物もたくさんありますよ。すばらしい官能的な衣装、すばらしい照明、すばらしい舞台装置、すばらしい音楽のなかで壮麗に殺されると、死にきらぬうちに大ぜいの観客に弄ばれ、死体は啖はれてしまふのが普通です。」
(三島由紀夫「暁の寺」)

澁澤の訳したサドの著書から三島が影響を受けていることが分かる文章ですが、幸福なユートピアの描写で「但しそこでは本を読むことは絶対に禁止されてゐます。読書は肉の美しさを何よりも損ふから当然の措置ですね」というのは、サドよりも遥かに率直、驚くぐらい非常に率直に、真を得た文章であるかなと、豊饒の海を読んでいて思いましたね…。読む書くという行為で成り立っているインターネットが、主に貧しい人々に利用され、爆発的に世界を覆いつくしていることは、それだけ世界中が不幸と苦しみで満ち溢れているということかなと感じます…。豊饒の海の最終巻は、今読むと先見性があったなと感じますね…。

今にして本多は、生きることは老いることであり、老いることこそ生きることだったと思い当たった。この同義語がお互いにたえず相手を謗って来たのは間違いだった。老いてはじめて、本多はこの世に生まれ落ちてから八十年の間というもの、どんな歓びのさなかにもたえず感じてきた不如意の本質を知るに至った。

この不如意が人間意志のこちら側またあちら側にあらわれて、不透明な霧を漂わせていたのは、生きることと老いることが同義語だという苛酷な命題を、意志がいつも自ら恐れて、人間意志自体が放っていた護身の霧だったのだ。歴史はこのことを知っていた。歴史は人間の創造物のうちでもっとも非人間的な所産だった。それはあらゆる人間意志を統括して、自分の手もとに引き寄せながら、あのカルカッタのカリー女神のように、片っぱしから、口辺に血を滴らせて喰べてしまうのであった。

われわれは何ものかの腹を肥やすための餌であった。火中に死んだ今西は、いかにも彼らしい軽薄な流儀を以って、このことに皮相ながら気づいていた。そして神にとっても、運命にとっても、人間の営為のうちでこの二つを模した唯一のものである歴史にとっても、人間が本当に老いるまで、このことに気づかせずにおくのは、賢明なやり方だった。
(三島由紀夫「天人五衰」)

参考作品(amazon)
黒猫・アッシャー家の崩壊―ポー短編集〈1〉ゴシック編 (新潮文庫)
モルグ街の殺人・黄金虫―ポー短編集〈2〉ミステリ編 (新潮文庫)
死の泉 (ハヤカワ文庫JA)
伯林蝋人形館 (文春文庫)
薔薇密室
春の雪 (新潮文庫―豊饒の海)
奔馬 (新潮文庫―豊饒の海)
暁の寺 (新潮文庫―豊饒の海)
天人五衰 (新潮文庫―豊饒の海)

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