メルロ=ポンティ・コレクション (ちくま学芸文庫)
うみねこのなく頃に 1 Episode1:Legend of the golden witch (ガンガンコミックス)

これまで未プレイだったうみねこのなく頃にep3ep4を、昨日、本日と二日に渡ってプレイし、先ほどクリアしました。ep1ep2に比べると、提供される『確かな情報』(赤字で表示される確定事項の情報)が格段と増え、推理しやすくなっていますね。ミステリ好きなら、適度な難易度と言えるのではないでしょうか。僕も推理してみました。以下、僕の推理です。

うみねこのなく頃にep1〜ep4共通推理
・犯人は犯行時(1986年)に六軒島を訪れた本ゲームの語り手、ep1〜ep4主人公の右代宮戦人。
・犯人である右代宮戦人にとって不利な情報は語り手視点における語りの取捨選択の形で全て隠蔽されている。クリスティ「アクロイド殺人事件」などに見られる典型的叙述トリック。
・この犯人は1982年前以前に六軒島を訪れていた右代宮明日夢の息子の右代宮戦人ではなく、1982年〜1986年の間に明日夢の息子の右代宮戦人と入れ替わった偽物の右代宮戦人。
・その正体は1967年に六軒島にて転落死したベアトリーチェの息子と推理。
・実父は金蔵、もしくは留弗夫。「縁寿は妹である」と確定しているので、もしこの「妹」が血縁としての妹である場合は留弗夫。
・犯行動機は実母ベアトリーチェを軟禁し死に追いやった右代宮一族への復讐。
・犯人と天草十三は関係があると思われる。天草十三は戦人と入れ替わる前に名乗っていた名であり、明日夢の息子と入れ替わったとき、明日夢の息子から戦人の名を貰う代わりに、明日夢の息子に与えた名?若しくは1986年に死んだと見せかけて別人に成りすましたときの名が天草?どちらかは不明だが、何らかの関係はあると見るべき。
・天草十三はフランス傭兵部隊や自衛隊に所属していた戦闘のプロ。この経歴は犯人(戦人)と被ると推理。これによって手際の良い殺人方法及び銃器や薬物の取扱いに詳しいプロの人物として、それぞれのepにおける殺人の手口及び最終的なカタストロフィ(屋敷炎上爆発?)の手口が説明可能となる。
・ベアトリーチェが魔女の仕業で事件を終わりにしようとしているのは息子であるこの犯人を庇う為。

僕がうみねこをep4までプレイした感じではこんなところかと思います。推理の過程を書くと、プレイしていて見えてくる以下の幾つかの事象、
「事件は右代宮一族を皆殺しにすることが目的のように推測」
「1967年、金蔵の手によって六軒島の隠し屋敷に幽閉されていたベアトリーチェが転落死→ベアトリーチェの関係者、血縁にとっては右代宮一族に対する復讐の動機になる」
「愛がなければ視えない→犯行動機が金ではなく愛憎であることの示唆?」
「ep3にて絵羽が最後に戦人を殺害?することで公然と唯一人生きのびた」
「ep3の絵羽を別にすれば、戦人はいつも最後まで写実的描写世界において生きのびている(幻想的描写世界は狂気の妄想なので、幻想世界で殺害される描写は、実際に起きている事象とは別物)」
あたりを主に勘案しました。

後は、深読みすれば、ep3の1998年世界において、縁寿及び須磨寺霞とその手下達を狙撃して殺害したのは縁寿の護衛役であった天草十三であることはほぼ確定と思いますが、これによって右代宮一族は滅んだわけでして、天草十三は古代宮一族になんらかの恨みがあると思います。天草十三の正体の可能性としては二つ、一つは明日夢の息子の戦人である可能性、もう一つはベアトリーチェの息子の入れ替わり戦人(1986年に六軒島事件の犯行を行った犯人の戦人)である可能性を考えましたが、前者(明日夢の息子)である場合、その動機は1980年の明日夢死亡事件が絡んでいると思います。僕は、明日夢の死因は自然死(病死)などではなく、古代宮一族が絡んでいるのではないかと推理しています。

うみねこの幻想シーンのように、本題と描写が繋がっている「偽」の様相が描かれて、本題と偽の様相が入り混じってどっちがどっちか分からないというのは、中村英夫「虚無の供物」がお勧めです。この作品は本題と繋がって描かれる、本題を撹乱する劇中劇が散りばめられた、読んでいて頭が混乱する(褒め言葉です)ミステリの名編でしてお勧めです。

後は、「うみねこのなく頃に」の作者の竜騎士07さんは後期クイーン問題を拡大解釈して使っていますが、大勢のミステリファンから批判されたように、僕も竜騎士07さんの後期クイーン問題に対する認識はあまりに拡大解釈のしすぎかつ、後期クイーン問題と関係ない問題までも混同してしまっている認識と思います。以下、竜騎士07さんの文章です。

竜騎士07
「アンチミステリーとアンチファンタジーについて」
まず、アンチミステリーを語る前に、ミステリーについて語らなければなりません。ミステリーとは何ぞや、を語るには、このような薄い冊子ではとてもページが足りません。ですので、ここでは非常にシンプルに話を進めたいと思います。

基本的に“ミステリー”と語った場合、これは“本格ミステリー”のことを指します。乱暴なまでに簡単に説明すれば、本格ミステリーとは、作中で説明された情報によって、劇中の解答を待たずに読者が正答可能なものを指します。

これこそがミステリーの本流であり、まさに“本格”と冠するに相応しいでしょう。それは読み物であると同時に、筆者と読者の知恵比べでもあるわけです。その意味において、本格ミステリーとは、あらゆる小説ジャンルの中でもっともゲーム性が高いものであることが理解できると思います。

つまり、高度な本格ミステリーとは徹底的に算数的なパズルゲームであるべきなのです。そしてそれは著名な作家の数々の名作によって、高度に昇華されていったはずでした。しかし、昇華された本格ミステリーは、やがてある問題に行き当たります。それが有名な難問、「後期クイーン問題」というものです。

「後期クイーン問題」とは非常に簡単に説明すると、探偵(読者)の知り得てる情報が“全て”であるとの証明が自身には不可能である、というものです。優れた探偵は、与えられた証拠・ヒント全てをふんだんに使い、非常に優れた推理や合理的見解を導き出すでしょう。しかし、その推理が正解であるためにはひとつの前提が必要となります。

それは、探偵が吟味した証拠・ヒントが“全て揃って”いなければならないということです。多くの場合、探偵は現場を徹底的に吟味し、あらゆる証拠・ヒントを見つけ出して列挙します。しかしです。“探偵が未だ見つけていない決定的な証拠X”の存在を否定することはできません。

つまり、名探偵がどのような優れた推理を見せたとしても、それは“その時点での証拠・ヒントからの構築”に過ぎません。つまり、もしも未発見の決定的な証拠Xが加味されたなら、探偵が導き出した推理が根底から引っ繰り返る可能性が常に否定できないのです。

つまり探偵は、数々の証拠から推理を捻出することに加え、“未発見の証拠が存在しない”ことを立証する義務が生じたのです。そして言うまでもなく、これを証明することはまさに“悪魔の証明”。 ……つまり、探偵には自らの推理が正しいことを証明できないことが発覚してしまったわけです。

徹底的な合理的なパズルであるべき本格ミステリーはこの時、にもかかわらず、解答を合理的に示すことができないというジレンマに陥ったのです。

作中でいくら“マスターキーは1本”と説明したところで、マスターキーの複製がある可能性は否定できません。仮にそれが不可能であることを説明したとしても、“その人物の与り知れないところで複製が作られていた可能性”は常に否定できません。複製不能な形状であると説明したところで、“それでもなお複製する未知の技術”の存在を否定することには至りません。第一発見者がウソをついているかもしれないし、警察の鑑識結果が誤っているかもしれない。あるいは犯人に買収されていて、あるいは探偵を誤推理に誘導するために何かを偽装しているのかも…。それら、全ての“想定外の可能性”を完全否定し切らなければ、問題の提示にすら至れなくなってしまったのです。しかし、言うまでもなくそれは不可能です。

究極的にまで言ってしまえば、仮に探偵(読者)が、非常に合理的な推理に辿り着き、それを犯人が認めて降参するシーンがあったとしても。……未発見の致命的証拠Xが残っており、さらに、真犯人を庇う為に共犯者がウソの告白をして罪を被っている可能性を否定できないのです。

実際、『ひぐらしのなく頃に』の「綿流し編」でも、このジレンマをモチーフにしている箇所があります。実際、「目明し編」を発表するまで、「綿流し編」の犯人をほぼ全ての読者が誤解していたはずです。なぜなら「綿流し編」単体では、レナの推理を犯人が認めたと描かれているのですから、その推理は“完結”しています。つまり、○○が犯人で“その時点の推理は正しい”のです。

にもかかわらず「目明し編」では、「綿流し編」の時点では知り得ない数々の新情報が明かされ、その結果、別の人物が本当の犯人であったことが明かされます。「目明し編」までを終えた読者には納得の行く答えでしょうが、「綿流し編」の時点ではそれは推理不可能です。しかしだからといって「綿流し編」の時点での推理構築は“誤りではない”。誤った犯人に至ったとしても、その推理は“その時点”では正しいのです。その時点で存在する材料を全て構築して至った“本格的な”答えなのだから。でも、紛れもなく。「綿流し編」の段階での犯人特定は間違えているのです。

これこそが「後期クイーン問題」です。そして読者は「目明し編」を読み終え、一定の解答を得て、ある程度の納得はできたはずなのです。しかしそれでもなお。「目明し編」を終えてなお、それが正しい真相であるという保障はないのです。「後期クイーン問題」がある限り。

極端な暴論の一例ですが、後年に竜騎士07が『ひぐらしのなく頃に真』なる真相解明編を執筆し、「綿流し編」「目明し編」の真相は偽装で、実は犯人は意外な人物○○だった! と“未知の新情報を後付けで追加”して発表したならば、それは正しい真相として“上書きされ” 、「目明し編」の真相すら、捻じ曲がり得るのだ、ということになります。(恐ろしいことに、このアンフェアすらも、「綿流し編」「目明し編」「真相解明編」の3つを1つの作品だと見なした場合、フェアであることになります。どのような後付け情報であったとしても、それが後付けであるか否かは証明不能です。そして「後期クイーン問題」がある限り、新情報がいくら後付けされたとしても許されるのです。未発見情報の存在は否定不能なのですから)

言い訳っぽく書きますが、もちろん「綿流し編」と「目明し編」は表裏一体のシナリオです。後付け設定は一切ありません。……もっとも私がそれをここで語ったところでその真偽は証明不能なわけですが。

つまり何が言いたいのかというと、どんな解答も、筆者(神)による真相(神託)でさえも! それは絶対ではないということ。筆者という作品中の最高神でさえ、未来の自分という、より上層のメタ存在によって、いくらでも真相は改竄され得るのです。つまり、非常に乱暴な極論ですが、「後期クイーン問題」を語る限り、ミステリーはパズルたり得ないというジレンマに陥るのです。

ミステリーがミステリーとして高潔であろうとした結果、自らの存在を否定するに至ったことの何と皮肉か…。これは私は皮肉な意味を込めて“アンチミステリー”と呼んでいます。

“悪魔の証明”がある限り、私たちも探偵も、常に未発見の証拠Xを否定できません。“悪魔の証明”を破らない限り、私たちは推理に挑む資格すら、得られないのです。目の前で人が死に、密室が構築され、不審な証拠品が転がっているにもかかわらず、私たちは推理を始めることができないのです。

犯行現場の調査よりも、証拠の吟味よりも、第一発見者の証言よりも! 私たちはまず最初に“それ”を確認しなければならない。“それ”はつまり、……“今この場にある全ての証拠で推理が可能なのか否か”!歴史的名探偵が犯行現場で天を見上げ、全能の神(筆者)に、まず問い掛けるのです。

「この世界(作品)は、本格ミステリー(推理可能)ですか?!」

すると神様はこう答えます。

「ええ、この作品は本格ミステリーですよ。だから絶対に貴方にも解けると、安心して推理をしてください。」

そして探偵は、あぁ良かった、なら安心して推理に挑戦できると胸を撫で下ろし、ようやく犯行現場の調査を始めるのです。現実の殺人事件でも、きっとそういう光景なんでしょうね。警察が現場周辺を封鎖しマスコミを遠ざけた後、刑事たちが拍手を打って天を仰ぐのです。

「あぁ、神様! この事件は解決可能でしょうか?! それを教えてもらわなければ、私たちは捜査も推理もできません…!だって変格ミステリーや社会派ミステリーだったなら、増してや今流行りの伝奇ファンタジーだったなら推理しても無駄なわけですし!」

しかし、現実問題として。 神様がそれに答えることはありません。すると、神託があるまで拍手は続くのでしょうか? 神託がなければ捜査は打ち切りに?

この状況を思い浮かべ、あぁ何と間抜けなのか馬鹿馬鹿しいッ!! と滑稽に思った時、私は初めて、“アンチミステリー”という概念があり得ることを知りました。全ての謎に算数的解答を合理的に求めようとするニンゲンたち。それは一見とても知的に見えますが、実はそれは大きな誤り。“その謎が、合理的な解答が得られるものであるという前提がない限り”、ニンゲンたちは謎に挑むことすらかなわないのです。

そしてそんな前提が与えられることは絶対にない。つまり、ニンゲンは知的を威張り散らし、ミステリーを推理できる豪語しながら、実際は神様からのお墨付きがなければ、「灰色の脳細胞」の一欠けらも使うことは出来ない無知無能無教養の脳ナシ思考ナシ考えナシ。ゾウリムシと同じ程度の知性しかないわけです。

『うみねこのなく頃に』の中でベアトリーチェが嘲笑っているのは、まさにそのこと。全てに算数的解答を求めようと意気込みながら、そのくせ、それが可能であることを保障されなければ挑戦もできない。ボクシングなどに例えたなら、勝てると保証された相手以外とは戦いたくないと言っているボクサーのようなものです。魔女ベアトリーチェには、魔女を否定すると意気込み、合理的に真実を暴こうと意気込むニンゲンたちが、こんな風に滑稽に見えるのです。

あなたは、『うみねこのなく頃に』のEP1を終えたとき、本当に推理に挑戦できましたか?本格か否かの宣言がないからと、挑戦を渋ったのではありませんか?全ての証拠が提示されているという証明がないからと、挑戦を渋ったのではありません
か?………くっくっくっく!! ばァか。そんな証明、貴様らの人生のいつどこにあったというのか?貴様らは高校受験の時、神様に、ここを受験して受かりますか?と聞いて、受かると神託が受けられなければ受験も出来ないのかァ? くっひっひゃっははははははは…!ママが、ボクちゃんならきっと受かるわよ!と言ってくれなきゃ、受験も出来なかったって言うのかよォぉおお?? くっひっひひひひひひひひ!

ニンゲンの語るミステリーが何と下らないものなのかと理解できたそなた。そして妾の笑いたい気持ちが理解できたそなたはようこそ“アンチミステリー”の世界へ。「この世には科学では説明できないことが多々ある」ってよく言うだろォ? そういうことなんだよ。この世の全ては完全証明不能! 常に我々の想定しない未知のXが想定しうる。そしてそれは誰にも否定できない!推理ぃ? ミステリー? 本格ゥ? あっひゃははははははははははは!! ばァかばかしいぃいいぃ!! ボクちゃんはミステリー文庫で新刊を買ったら、まず先にママに読んでもらうといいさ。そして「この本はボクにも解ける?」と聞いて、ママが頷いてくれたのだけ読めばいいさ! ママに咀嚼(そしゃく)してもらった離乳食だけくってりゃあいいんだよゥ、うっひぇっひゃっひゃっひゃっひゃぁぁぁ!!

──だからお嬢様、そういうのが品がないと申しています。

ベアトリーチェさまが使われる「赤き真実」は、それに対するひとつのアンチテーゼと申せましょう。「赤き真実」で語ったことは、まさに神の言葉。何の証拠も証明もなく、それは真実になる。赤き真実で、“扉はマスターキー以外では開錠できない”と言ったならば、それ以外の想定は一切必要なくなります。ピッキングも釣り糸で内側から引っ張るも想定不要です。さらに重ねて赤にて“マスターキーの個数は5本でそれ以外では開錠不能。複製は不可能。”と続ければ、なお完璧となりましょう。

ただ、敢えて最後に一粒、山椒を残していきましょう。真実であると自称する「赤き真実」が、本当の本当に“真実”であるのかは、たとえお嬢様であっても証明不可能です。皆様の中にも、お嬢様の「赤き真実」が、本当に信用できるのかと、未だに疑っておられる方々もおられるでしょう。

そう。この世に、真実であることが証明できる真実など、存在したりはしないのです。だから、もしもその真実を信じることができるかどうかを問うならば、こういう問い掛けになるでしょう。

“貴方は、彼女のことを信じることができますか?”(中略)

この世には真実など何もありません。この世の一なる元素であると謳われる「愛」すらも、所詮は幻想。ファンタジー。全てをミステリーで説明し、ファンタジーを否定しようとする人間には、愛する資格も、愛される資格もないということかもしれませんね。

あなた様は“アンチファンタジー”ですか? “アンチミステリー”ですか?

あらゆるミステリファンに全方位から批判された竜騎士07さんの上記文章ですが、僕もこれは誤謬の多い極論過ぎる文章かなと思いますね…。ミステリにおける後期クイーン問題と、世界観の全てを相対化できるとするポストモダン問題は全くの別物なのですが、この文章は全く別問題である二つを混同してしまっていると思います。

法月綸太郎さんが問題提議した後期クイーン問題(初期クイーン論。「エラリー・クイーン パーフェクトガイド」収録)とは、作者の制御を離れた存在である読者に対しては作者はフェアネス(読者への問題として、ミステリーのルールに沿った全情報の開示を作者が宣言する。クイーン「読者への挑戦状」)を持って振舞えるが、作者のコントロール下にある作中人物である探偵に対してはフェアネスを持って振舞えない(作中人物である探偵の存在が、ミステリの要素として組み込まれている、探偵自身が物語における影響要素となっている)という問題の指摘ですね。

ゆえに、後期クイーン論は竜騎士07さんが主張している『全ては相対化できるポストモダンだから真実なんてどこにもないんだ、ミステリは構造的にフェアでない以上、フェアを心がける必要はないんだ』というご意見とは全く位相の違う問題と思いますが…。

例えば、うみねこep3ep4における1998年の縁寿の状態は心理面においてかなり重篤な状態なのではないかと…。縁寿を暗殺しようとする須磨寺霞とその手下達に囲まれて、銃火器で狙われている状態で「召喚魔法を唱えて脳内キャラに倒してもらう」と妄想状態に入り、外部からの狙撃と思われる攻撃で暗殺者達が倒れてゆくのを「召喚した脳内キャラが悪者達を倒してくれた」と理解しているというのは、妄想と現実の判別がつかなくなっている状態で精神病理学的にかなり重篤な事態です…。

もしこれが、『人には好みの幻想を見る権利がある。縁寿が妄想と現実の区別がつかなくなっていても、それは縁寿にとって真なのだ』という解釈だというなら、その「真」はミステリ的な「真」とは違うとしか申せません…。ミステリにおける「真」は、社会共同体の共通認識として認められる事象の説明として通用する「真」であって、個人の特殊な妄想に依存する「真」ではありませんから…。やはりある程度、日常レベルの基盤(間主観性)というものを考えにいれないと、ミステリとして宙に浮いてしまうと思います。ミステリ作者は神ではないのですから、読者を無視してアンフェアなミステリばかり連発していれば、読者に呆れられて終わるだけです。

日常レベルの我々の共通認識に準拠した世界観のミステリ(謎の殺人事件の正体は召喚魔法で美少女キャラが召喚されて魔法攻撃で人を殺傷していたなどのメチャクチャな落ちの付け方は前提として起こらない一般的なミステリ)はいわば、竜騎士07さんが言うところの「アンチファンタジー」としてのミステリであって、こういったミステリにおけるフェアの問題として後期クイーン問題などの問題が提議されています。

後期クイーン問題は決して、『この世界に真実はないし、虚構にも真実はない。だから、共通認識を無視して好き勝手やっても、それが作者の特権だからいいんだ!!それに逆らうやつは愛のないつまんない連中』などということではないことを、竜騎士07さんが分かってくれるといいなあと思います。僕は唯物論者にして存在論者なので、唯物的なミステリは好きですし、逆に竜騎士07さんの用語としての「(観念的な)愛」などはインチキくさいと感じますね…。

僕は、唯物的な愛(例えば、貧しい人に施したりして助けるのは唯物的な愛の一例です)は尊ぶべきものと思います。そして実体としての存在様式を持たない観念的な愛(心の中で、貧しい人々を憐れむけれど、実際の行動は何も起こさないのは観念的な愛の一例です。竜騎士07さんのいう愛はこちらかと思います)は、それは実際的には愛が無いとの同じだと思います。世界感の前提として常にあるのは唯物的なもの、物質としての実体的なもの、存在であると思います。僕の好きな哲学者に、メルロ・ポンティという人がいるのですが、彼は愛がないところで愛を騙ることを批判し、こういっていますね。以下、ちくま文庫「メルロ・ポンティ・コレクション」より。

歴史が存在するということは、各人が自らの行為において、たんに自分の名において行動するのではなく、自分だけを処理するのではなく、他人を巻き添えにし、他人を処理しているということである。だからわたしたちは生まれたときから、善性というアリバイを失っているのである。わたしたちは、他人に対して行う行為(自己の外の世界を侵犯する行為)によって(全ての行動が)規定されているのであり、「美しい魂」(何も侵犯しない神聖)として尊敬される権利を(生まれつき)喪失しているのである。

他者を尊敬しない人物を尊敬する(悪党の不正を見過ごす)ということは、結局は他者を軽蔑する(悪党に消極的に加担している)ということである。暴力に対する暴力を控えるということは暴力の共犯となるということである。わたしたちは、純粋さと暴力のどちらかを選ぶべきなのではなく、異なった種類の暴力のどれかを選ぶべきなのである。

受肉した存在であるわたしたちにとって、暴力は宿命である。誘惑なしの説得というものはない。すなわち結局は、軽蔑なしの説得というものはないということだ。暴力は、すべての体制に共通した出発点である。生も、議論も、政治的な選択も、この土台の上で行われるのである。重要なこと、そして議論する価値あることは、暴力そのものではなく、暴力の意味とその未来である。

人間の行動の法則とは、未来に向かって現在をまたぎ越え、他人に向かって自己をまたぎ越えることである。この闖入は、政治的な生の事実であるだけでなく、私的な生においても起こる。恋愛においても、愛情においても、友情においても、わたしたちはすべての瞬間において絶対的な個人性を尊重できる「意識」に直面しているのではなく、規定された存在――「わが息子」「わが妻」「わが友」――に直面しているのである。そしてわたしたちは彼らを共同の企図に巻き込む。ここで彼らは(わたしたちとともに)一定の権利と義務のある規定された役割を引き受ける。

同じように、集団的な歴史に置いても、<魂をもつ原子たち>は、背後に固有の歴史を引きずっているのであり、互いに自らの行動の糸によって結ばれているのである。それだけではない、彼らは意図して行動するかどうかを問わず、自分が他者と世界に対して行う行動の全体と自分を同一視する。主体の複数性が存在するのではなく、間主観性が存在する。他者に対して加える悪と、他のすべての人々のため引き出す善についての共通の尺度というものが存在するのはそのためである。すべての暴力を断罪するということは、正義と不正の存在する領域の外に出るということであり、世界と人間性を呪うことである。これは偽善的な呪いである。
(ちくま文庫「メルロ・ポンティ・コレクション」)

うみねこの1998年の縁寿の末路における狂気の描写(外部から縁寿の敵対者達へ狙撃が行われているように見受けられるにも関わらず、それを自分の召喚魔法によるものだと心底信じている描写)や「この世には真実など何もありません。この世の一なる元素であると謳われる「愛」すらも、所詮は幻想。」などの竜騎士07さんの文章が端的に示す通り、竜騎士07さんの小説(ノベルゲーム)における最大の弱点は、物語の登場人物達の主観性が肥大しすぎていて、「社会共同体の相互理解の基底としての共通認識」(間主観性)がすっぽり抜け落ちているという部分だと思います。

例えば、うみねこの真里亞の魔法(妄想することで苦しみから逃避する)とか、僕は非常に良くないものを感じますが(メルロ・ポンティが批判した、不正に対して何もしないという行為による不正への消極的コミットメント、人間離れした聖性への逃避を感じます)、真里亞はまだ小さい子なので仕方ないとして、既に18歳の縁寿がそれを肯定しているのが不気味でした…。不正に対して抵抗せず、妄想で現実の不正を無かったことにしまうというのは良くない聖性だと思います。

『暴力に対する暴力を控えるということは暴力の共犯となるということである。わたしたちは、純粋さと暴力のどちらかを選ぶべきなのではなく、異なった種類の暴力のどれかを選ぶべきなのである。』

本作「うみねこ」における『魔法』とは外部をシャットアウトする肥大化した主観のことと思います。それが「愛」であると作中にて言われても、読者としてはなんともはや…。少なくとも僕にはとても「愛」とは思えないです…。うみねこの「魔法の愛(真里亞の「うーうー」など)」は「愛」ではなく、「独りよがりな妄想的思い込み」とでも呼ぶべきものと考えます。冷静に考えれば、真里亞がローザの意志を無視して「うーうー」をローザと仲良くなるおまじないにして延々と唸っていてもしょうがないわけですよ。まだ小さく、現実と幻想の区別のつかない真里亞の場合は、責任の所在は真里亞ではなく、真里亞を虐待している母親のローザにあるんですが…。ただ、個人の主観性(魔法)が物語内でクローズアップされることでそういった、客観的な見方が物語から消えてしまっている。個人の主観性のみをクローズアップするのではなく、共同認識、間主観性の問題認識を、作家としてきっちり持つと、後期クイーン問題の問題提議の意味も分かってくると思いますし、竜騎士07さんの小説(ノベルゲーム)の出来も今より良くなってくるんじゃないかなと思いますね…。

『主体の複数性が存在するのではなく、間主観性が存在する。他者に対して加える悪と、他のすべての人々のため引き出す善についての共通の尺度というものが存在するのはそのためである。』

参考作品(amazon)
うみねこのなく頃に 1 Episode1:Legend of the golden witch (ガンガンコミックス)
うみねこのなく頃に 1 Episode1:Legend of the golden witch (ガンガンコミックス)
うみねこのなく頃に Episode1:Legend of the golden witch 2 (ガンガンコミックス)
うみねこのなく頃に Episode1:Legend of the golden witch 3 (ガンガンコミックス)
うみねこのなく頃に Episode2:Turn of the golden witch 1 (Gファンタジーコミックス)
片翼の鳥 TVアニメーション「うみねこのなく頃に」OPテーマ
ナビゲーションドラマCD「うみねこのなく頃に」 Vol.1:黄金のカケラたち
ナビゲーションドラマCD「うみねこのなく頃に」 Vol.2:黄金蝶の見る夢は
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