2009年02月20日 03:52

日中寝ていて夜眠れないです。悲しい暗い気持ちです。クレメラータ・バルティカ「ヴァスクス:遠き光・声」

ヴァスクス:遠き光・声
静かなる決闘 [DVD]

先日より心痛が辛く、眠れず、うつ病治療の抗うつ剤・抗不安剤・睡眠薬とは別にお薬(レボトミンその他)を出して頂いているんですが、僕の身体には効き過ぎるお薬みたいで、日中の眠気が抑えられず、日中どうしても寝てしまい、夜眠れません。夜起きていると暗い気持ちになります。今日は、NHKの衛星放送で黒澤明監督の病者に対する差別問題と病者の苦悩を描いた見事な名作「静かなる決闘」が深夜放映していたので、ぼんやり見ていました。以前ならシナリオが頭に入ってきたのですが、頭がふらついて、ぼんやりとしか世界が見えません。

とても、悲しい気持ちです。感情が戻ってきた形でとても悲しいです。とても暗い気持ちで、辛く、僕の好きなヴァイオリニストクレーメルが、バルト三国の音楽家の人々と共に結成したクレメラータ・バルティカの代表的な作品の一つ「ヴァスクス:遠き光・声」(原題名「Vasks: Distant Light / Voices」)を聴いていました。本アルバムはクレーメルの演奏の中で最も悲しいアルバムであると思います。残念ながら日本盤・海外盤とも絶盤のようです。暗い現代音楽は、一般受けしないのかなと思います。とても悲しいときに明るい音楽を聴くことはできないので、この音楽を聴くことで、悲しい音楽が、僅かでも、気持ちを少しだけ悲しみにむき合わせてくれます。

本CDのライナーノーツにクリストフ・シューレンのヴァスクスについての文章と、ラトヴィアの作曲家ヴァスクス自身が声・遠き光について思いを語った文章が掲載されているので引用してご紹介致します。

クリストフ・シュレーレン
「ペーテリス・ヴァスクスについて」

バルト三国の国民はソビエトの圧制に苦しめられていたが、ラトヴィア、エストニア、リトアニアの国民は、自由と民族としてのアイデンティティ、言語、文化を求め、それは強い力(レジスタンス、抵抗)となって三国の独立が導かれた。ラトヴィアの作曲家「ペーテリス・ヴァスクス」の音楽には、ラトヴィアの国民ならば誰もが持っている感情や自由への意志が写しだされている。しかし、ヴァスクスの音楽に込められたメッセージは普遍的なもの(人間の絶望と希望)である。

ヴァスクスの音楽で扱われるものは、ほとんどいつも「原型」の衝突である。一方には、人間的なもの、素朴なもの、儚くも美しいものが存在する。それらはラトヴィアの民謡を思わせる素朴な旋律や、(静かで優しい)内向的な和声に象徴されている。その一方で、粗野なもの、攻撃的なもの、破壊的なものが存在する。それは荒々しく断片的に現れる響き(優しさを荒々しく引き裂き胸を打つ響き)や、アレアトリーの技法で書かれた(不安感をかきたてる)カオス的な響きの増殖に聞かれ、そこではどの声部ももはや共通の秩序に従うことはない。

ヴァスクスは運命論に屈したペシミストではない。だからカオスが勝利を占めることはない。(ヴァスクスの音楽はいつも静けさを湛えていて、静かに終わる。)しかし、世間離れした楽天家ともいえない。だからヴァスクスの作品は、ほとんどいつも「遠き光」のように、あるいはグルジアの作曲家、ギヤ・カンチェリの作品のタイトルを借りるならば、「明るい悲しみ」のように終わってゆく。打撃に打ち勝った愛の勝利。(傷ついたものを表現するヴァスクスの音楽は)柔らかで静かなものだ。(常に深い悲しみが湛えられている。)ヴァスクスの作品にはいつも鳥の声が現れる。それは純真さと自由を象徴するかのようだ。(交響曲「声」では「命の声」の役割をも果たしている)。ヴァスクスはあるとき「音による説教者(宗教者)」と呼ばれたことがある。

ペーテリス・ヴァスクスは1946年、ラトヴィアのアイズプーテに生まれた。宗教を禁じたソビエト政権下にあって、バプティスト派の聖職者の息子として生まれたヴァスクスは、生まれながらにして「国家の敵」だった。(聖職者の子ということで様々な差別を受け、音楽も学ばせてもらえず)ヴァスクスはほとんど独学で作曲を学んだ。(中略)

ヴァスクスは(弾圧された人々の為に)「リテネ」や「ゼンガレ」のような極めて先鋭的な合唱曲を作曲した。これらの作品は悲劇的で激しい表現力に満ち、ラトヴィア国民が受けた深い傷に真正面から取り組んだものである。
(クレーメル「ヴァスクス:遠き光・声」ライナーノーツより)

次にヴァスクス自身の言葉を引用してご紹介致します。

ペーテリス・ヴァスクス
「《声》と《遠き光》について」

弦楽のための交響曲《声》は1991年に完成した。それは末期症状にあったソビエト帝国の弾圧と、バルト三国の国民による(バルト三国の人々の文化・生活も全て含めた)徒手空拳の抵抗のさなかだった。(バルト三国のレジスタンスを軍事制圧する)戦車、流血、ラトヴィアとリトアニアにおける(ソ連邦の弾圧で命を奪われた)犠牲者。忘れたがいバリケードの日々。1991年6月14日に私はスコアを書き終えた。その日、バルト三国ではいたるところで半旗が翻っていた。

ちょうど五十年前の1964年6月14日、ソビエト支配下における最初の大量国外追放措置が生じた。女子供を含むバルト三国の国民数十万人が、(ソ連邦の支配に逆らう抵抗勢力として)窓に格子をはめられた貨車に乗せられてシベリアの強制収容所に運ばれた。それは死を意味した。(シベリアでの強制労働を行う強制収容所の囚人の余命平均は五年以下、脱出は不可能であり、実質的な大量処刑。)

《声》は1991年9月8日、ユハ・カンガス指揮のオストロボスニア室内オーケストラによってフィンランドで初演された。まさにその初演の日、バルト三国の国旗がフィンランドのあらゆる新聞の第一面を飾り立てた。ソビエト連邦はとうとう三国の独立を認めたのだ。

私の交響曲(ヴァスクスの代表作である「声」)は三つの部分から成っている。

第一部《沈黙の声》
無限に広がる星空に耳を傾ける。弦楽器による永遠の静けさのコラール。止むことのない時の流れにいくらか悲しみを感じる。従うべきものへの序曲。

第二部《命の声》
雄大な音楽によって目覚めつつある造物主《大自然》を描く試み。鳥の声。美の象徴としての、存在の象徴としての鳥たち。太陽が昇り、たぶんひとりの子供が生まれる。祝福――ただし短調で。それ(子供が生まれることを手放しで喜ぶ音楽は作れないこと)は私の個人的な性格的特徴なのだろうか、それとも、(ソ連邦に支配され秘密警察と密告と処刑が支配する中で50年間ものあいだ生活し)自由というものをほとんど知らなかった私たちラトヴィア国民に本質的な特徴なのだろうか。

第三部《良き良心の声》
現実への回帰。私たちは20世紀末を生きている。差し迫る環境破壊。戦車、巡航ミサイル(ソ連邦崩壊後もアメリカの湾岸戦争等、圧倒的軍事力で人々を抑圧する諸国の批判)、圧政にあえぐ人々の存在。聴き手にも私にも、私たちすべてに直接関わる問題だ。音楽は暗くなる。全滅のヴィジョン。

ここで再び《沈黙の声》のコラールが鳴り響く。それはたぶんずっと鳴り続けていたのかもしれない。慰めと問いかけ。星に満ち満ちた空が私たちの上に大きく広がり、それと対位法をなすものとして心臓の鼓動の響きを表す低音楽器が聞かれる。
(クレーメル「ヴァスクス:遠き光・声」ライナーノーツより)

とてもよいアルバムだと思うのですが、海外盤も日本盤も絶盤というのは、悲しいです。僕は、世界は悲しいものだと思います、そしてその悲しいことを真剣に考えることが大切なことだと思います。ヴァスクスの音楽はとても静かに悲しく、それはとても意味のあることだと思います。

あと、「ヴァスクス:遠き光・声」は残念ながら絶盤ですが、以前ご紹介したヴァスクスの曲も演奏されている僕のベストアルバム「わが故郷からーバルトの音楽」は、日本盤は絶盤ですが、海外盤(原題「From My Home」)は絶盤になっておらず、きちんと売っていました。良い音楽CDが絶盤にならずに売っているのは良いことだと思います。以下のエントリと以下のリンクです。

バルト三国と今後の日本。僕のベストアルバム「わが故郷から−バルトの音楽」静謐な美の響き。
http://nekodayo.livedoor.biz/archives/685715.html


From My Home
From My Home

また、アートと政治についてお考えになるお方々にお勧めのアルバムは、クレーメルがシュトニケの音楽を演奏した「Kremer Plays Schnittke」をお勧め致します。音楽アルバムとしても良い作品であり、人々の生命を蔑ろにする体制と戦うアートということを、深く考えさせてくれます。amazonのベスト10レビュアーのvoodootalkさんがこう書かれています。

「自らの音楽を通したシュニトケ(シュトニケはソ連邦から弾圧されました)を演奏する意思というもの自体が旧ソ連のアーティストには大変なことだったのだ。そういうことを頭においてこのアルバムを聴くとやはり違う。」

僕も心から同感に思います。人々の生命を蔑ろにする政治権力と戦うアートは、その背景と共に生命の価値を信ずるという普遍性を持っていて、その要素があってアートとして完成していると僕は音楽を聴いていて深く感じます。アートには背景があります。その背景を思いながらアートが鑑賞されてほしいと僕は願います。

Kremer Plays Schnittke
Kremer Plays Schnittke

現在の世界の体制が人々の生命を蔑ろにするものである以上、いつまでも、世界の未完性さ、悲劇を訴え続けるヴァスクスやシュトニケの音楽はずっと永遠に悲劇的で未完成であり、そこにこそ、永遠の絶望のなかの最後の希望が永遠にあるのだと思います。

最後に、とても僕の生活は困窮しており、もしよろしければ、ギフト券やアフィリエイトでお助けしてくださるお方がいらっしゃれば、僕は心から感謝致します。最後の文章がこのような文章になり、誠に申し訳ありません。ごめんなさい。心がとても落ち込み、お腹の痛みが辛く、食欲もなく(レボトミンは食欲を増加させる副作用があるようですが、僕の場合それは全く当てはまらないようで、食事が喉を通りません)、とても疲れており、今後更新が滞りましたら申し訳ありません。

参考作品(amazon)
ヴァスクス:遠き光・声
From My Home
Kremer Plays Schnittke
静かなる決闘 [DVD]

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