寄生獣―完全版 (1) (アフタヌーンKCDX (1664))
ヘウレーカ (ジェッツコミックス)

昨日よりも、体調が急激に悪化し、全身に酷い疲労と倦怠感があり、背中が物凄く痛くてたまりません。朝から食事が取れず、一日一食(夕食のみ)になってしまいました。なんとか、生活に規律(朝と晩)を持って生きていられるのは、猫の世話をしているおかげであり、それがなかったら、死んでいるように思います。非常に心身状態酷く、自分の文章があまり書けそうになく、申し訳ございません。今日のエントリのメインは昨日、以下のエントリで触れた村上春樹さんのエルサレム賞受賞についてです。

勇気ある強くて優しく思いやりについて。ダニエル・バレンボイム「無言歌集全48曲」
http://nekodayo.livedoor.biz/archives/700606.html


筒井康隆さんが、文学の政治性について論じているので、それを引用してご紹介致します。自分の言葉で書けず、申し訳ありません。筒井康隆さんの「文学部唯野教授の女性問答」から引用させて頂きます。婦人公論に連載されたQ&Aで筒井康隆さん(文学部唯野教授)が婦人公論の読者からの手紙の質問に答えていくコーナーを単行本化した本です。

筒井康隆「文学部唯野教授の女性問答」

Q(筒井康隆さんの読者の葉書からの質問)
先生(筒井康隆さんの「文学部唯野教授」の唯野教授の小説内講義の)の「文芸批評論」の講義に圧倒されました。わたしは長らくソ連、東欧の文学を中心に勉強してきましたが、こんなにもダイナミックな現代文学史の捉え方に出会ったのは初めての体験で、感激しました。文字通り目からウロコが落ちた思いです。

ただひとつだけ残念だったのは、マルクス主義文学論についてほとんど触れられていないことです。わたしはルカーチの初期論文に敬意を表する者ですが、彼のような存在を先生はどう位置づけていらっしゃいますか。とくに東側の「民主化」が進み、かの国々の文学にも新しい状況が生まれつつある今日、その問いの意味は逆説的であれ重要になってくるはずです。

マルクス主義文学論をはじめ、文学と政治の問題について、ぜひご高説をお聞かせください。

そして、できましたら、わたしのいちばん尊敬する日本の作家、筒井康隆の存在が現代日本の政治・社会状況とどう対応するものなのかも、あわせてご教授いただけましたら幸いです。(千葉県市川市・大学院生・25歳)

A(文学部唯野教授=筒井康隆さんからの答え)
ルカーチやったんだって。凄い凄い。ルカーチってのはご存知のように、ハンガリーのマルクス主義者でもって、筒井先生の好きなハイデガーを批判して、ハイデガーの歴史性ってのは実際には無歴史性だなんて言った人なんだよね。さらにまた、筒井先生が『文学部唯野教授』を書くときこっそり下敷きにしたT・イーグルトンが、『文学とは何か』を書くときにこっそり下敷きにした人です。初期の論文って何を読んだのかな。「リアリズム論」かな。「理性の崩壊」かな。

さて「マルクス主義批評」なんだけど、ぼくはこれ、「政治的批評」のひとつとして捉えていて、それ以上でもそれ以下でもありません。だけどここで言っておきたいのは、そもそもどんな批評も政治的批評にしかなりようがないってことなの。

あなたの言う「東側の『民主化』」だとか「湾岸戦争」だとかいった重大な問題よりも文学理論の方が大事だ、なんて言う人がいたらぼくだって「馬鹿。何言ってるんだ」って言っちゃうだろうけど、実際にはそんなこと言うまでのことさえなくって、どんな文学理論だって、政治の中から抜け出すことはできません。(「文学部唯野教授」の中の)「ポスト構造主義」の講義でも話したけど、どんな文学だってイデオロギー的なんだし、歴史や政治を無視しようとした文学理論ほど、かえって明確にイデオロギー的になっちまうの。たとえば日本にいて日本語で書いてるというだけで、日本という国家の束縛や制度からは逃れることができません。いくらそれに反逆する文章を書いても、それがまたイデオロギー的になっちまって、いわば公認されたイデオロギーのひとつに分類されちまうんだものね。

たとえば多くのSFは機械技術文明に嫌悪を示し、テクノロジーの暴走を批判してきました。そして個人の自由や選択の権利を主張してきたわけで、こういうのはSF以外の小説にもたくさんあるよね。しかしこれも、実は現代の資本主義社会にとって、実に都合のいい主張なの。大企業の中の個人にとっても機会技術文明やテクノロジーを選択する自由や権利があるって主張できるんだものね。おまけに最近の文学理論なんてものは、政治との無関係や公正さを装って、かえって科学技術的、機械技術的になっちまってる。月刊誌『すばる』で渡辺直己ってひとのやってる、○×△式の機械的批評ごらんなさい。

いくら文学や文学理論が、政治から超然としていようってんで、生なましい現実から逃避して、ことばそのものだとか、美そのものだとか、想像だとか、夢だとか精神分析だとかをテーマにしたって、そうはいかない。そういうものにはかえってブルジョワ意識、プチ・ブル意識、小市民的日和見主義、エリート意識、男権意識、差別意識、個人主義なんてものが入りこんできちゃう。

文化全般の問題に拡げて見ると、現代資本主義社会や機械文明への否定をあらわしたバレエやドラマが、最近そういうことに熱心になった大企業からのどう見たって偽善行為なんだけど文化援助金だの賞金だのを貰ったり、それによって建てられたホールに招かれたりして演じています。笑っちまうよね。

でも、文学だって例外ではありません。これもやっぱり偽善行為なんだけど、各地の市町村がやたらに文学賞を出してるよね。ここで要求されてることは、社会的に認められている方法(出版社から出版)で、日本語を使って(賞が認める形式的に)書くということです。大学の文学部だってそうだよね。どんな危険思想を論文に書こうが、そんな内容はどうでもよくて、問題は日本語がきちんとしていて、文学用語を正確に使っているかどうかだけが判断基準になって、それで卒業させて貰ったらもう、あとはその自分の資格に束縛されて生きていくしかないでしょ。ちょっと変った自分の考え方に忠実に、違う書き方したりしたら、たちまち文学用語の管理人たる批評家から、たとえば「……などと、はなはだ非文学的な表現をしているが」とか、中上健次みたいに「日本語になっていない」などとやられてしまう。この点、文学制度と大学制度は(政治権力・政治権威・政治形式の組織化された制度として)からみあってるよね。こうした批評の言説の権力は筒井先生もさんざ感じてるんじゃないのかな。その権力ってのはつまり言語表現を管理する権力でもって、たとえば文学と非文学、純文学とエンターテイメントを分類したりする権力だからね。

政治的、ということでは、だから筒井先生だって例外じゃないんだよね。政治的には無党派で、時には無政府主義者だなんて言われたりもしてるけど、(政治体制側の出した)金沢市の出してる泉鏡花文学賞貰ってるんだしさ。もう、どんな批評家だって、作家だって、否応なしに政治的にならざるを得ないんです。でも別にそれがいけないってわけじゃないの。いちばんいけないのはむしろ、文学理論の中には政治に左右されない純粋なものがあり得るって考え方です。何度も言うけど、無自覚に政治を無視したりしていると共犯関係がもっと密接になっちまうんだよね。ぼくがマルクス主義批評を評価するのは、あなたの言う「逆説的に」とは違うかもしれないけど、そうした立場(文学の逃れられない政治性を自覚している立場)からです。
(筒井康隆さんの回答終了)

長文引用で疲れました。腕と指が痺れてあまり自分の言葉書けそうになくごめんなさい。僕は上記の筒井康隆さんの考え方に全面的に賛同しています。他者に文学(文章)を公表するという行為自体が政治的であり、他者に公表されながらも非政治的な言説はどこにも存在しません。僕は中学生の頃から筒井康隆さんの大ファンで、筒井康隆さんの文章は、うつ病になってからは本がほとんど読めなくなり分かりませんが、それ以前に公表された文章は僕の知りえる限り全てを読んでいます。村上春樹さんの方は、「羊をめぐる冒険 」「ノルウェイの森」「ダンス・ダンス・ダンス」「海辺のカフカ」「アフターダーク」、後はエッセイ程度しか読んでいません。なので、村上春樹さんの本の批評をするのは難しいですが、どの本も僕が読んだ上記においては、ノンポリティクス(非政治性)を意識的に装うがゆえ、筒井康隆さんの言うところの

『いくら文学や文学理論が、政治から超然としていようってんで、生なましい現実から逃避して、ことばそのものだとか、美そのものだとか、想像だとか、夢だとか精神分析だとかをテーマにしたって、そうはいかない。そういうものにはかえってブルジョワ意識、プチ・ブル意識、小市民的日和見主義、エリート意識、男権意識、差別意識、個人主義なんてものが入りこんできちゃう』

というのが入り込んだ、極めて政治的な小説やエッセイの文章であると僕の読んだ限りでは思います。

しかし、村上春樹さんは意識的にそれを無意識的なレベルに落とし込んで本を書いていると思います。村上春樹さんの読者にも二種類いると僕は感じています。政治的なものが巧妙に無意識的なレベルに落とし込まれていることを理解しながら読む読者さんと、文学の政治的な無徴という特権を信じて、村上春樹さんの描く『政治的無徴』に自己を同一化しながら読む読者さんの二種類がいると感じます。後者は村上春樹さんの政治的イデオロギーにコミットメントする政治関係(政治性)に入ってしまっています。

そして、今回、村上春樹さんがエルサレム賞を受賞するのは、極めて政治的なものであるにも関わらず、村上春樹さんの無政治性を唱えて、村上春樹さんを政治から離れた無徴というどこにも存在しない特権的な立場に置こうとしている村上春樹さんの一部の読者の人々がいらっしゃいます。その一部の読者の人々においても、『文学の無徴性などどこにもないけど、自分の立場を優位にするためにあえて分かってやっている人(村上春樹さんと同じく、何かを作ったりするクリエイターさんやファンの一部さん等)』と『文学の無徴という特権性を信じている人(ファンの一部の人さん)』の二種類がいて、両者とも村上春樹さんの政治的イデオロギーにコミットメントしています。

例えば、今回の村上春樹さんのエルサレム賞受賞について、文学(芸術)の無徴性を主張するPCゲームライターの高橋直樹さんなどが前者の立場におられると思います(文学・芸術が非政治的でありえないことは分かっているけれど、あえて文学・芸術を非政治的なものとしての立場におき特権化する自覚的な人々)。そして前者の人々の言説に素朴に賛同してしまう人々、例えば「魔王14歳の幸福な電波」さんの管理人さんとかは、後者にあたると思います。

前者の人々は分かっていて、あえてやっている(政治的な立場として動いている)から、僕としては何も言うことはないのですが、後者の人々、文学の非政治的な無徴という特権性を信じる人々には、どうか、次の筒井康隆さんの言葉を考えて欲しいと、僕は心から望みます。

『政治的、ということでは、だから筒井先生だって例外じゃないんだよね。政治的には無党派で、時には無政府主義者だなんて言われたりもしてるけど、(政治体制側の出した)金沢市の出してる泉鏡花文学賞貰ってるんだしさ。もう、どんな批評家だって、作家だって、否応なしに政治的にならざるを得ないんです。でも別にそれがいけないってわけじゃないの。いちばんいけないのはむしろ、文学理論の中には政治に左右されない純粋なものがあり得るって考え方です。何度も言うけど、無自覚に政治を無視したりしていると共犯関係がもっと密接になっちまうんだよね。ぼくがマルクス主義批評を評価するのは、あなたの言う「逆説的に」とは違うかもしれないけど、そうした立場(文学の逃れられない政治性を自覚している立場)からです。』

ぜひ、文学の無徴性、非政治性というものを信じるお方々には、いかに文学、そして文学賞が政治的なものであるかを描いた筒井康隆さんの「大いなる助走」を読んで欲しいです。例えば、川端康成と三島由紀夫がノーベル賞候補になったとき、川端康成がノーベル賞を受賞した理由の一因は、川端康成の方が村上春樹的(非政治的に振舞う政治性の持ち主)だったからと言われています。作品自体の海外の一般的な評価ではどちらかというと三島由紀夫の方が評価が上でしたが、三島は自らの政治性を自覚して政治的に振舞っていた(川端康成ほど老獪ではなかった)ゆえに、ノーベル賞受賞を逃したと言われています。また、川端と三島は深い師弟愛で結ばれていたため、川端の自殺の一因は、三島の自殺(盾の会自決事件)にあり、三島の自殺の原因の一因は、彼が非常に欲しがっていたノーベル文学賞受賞の夢が断たれたからだと言われています。文学は、非政治的に自らを見せかけることのできる政治的なものです。哲学者プラトンはそれに気が付いていたゆえに、芸術(詩)の全てを一切追い払おうとしたのです。プラトンのように極端になることはありませんが、文学・芸術、そして文学・芸術に関わらず、他者と関わる人間の行為とは常に政治的なものであることは、決して忘れてはならないことだと思います。

最後に、こういったテーマ(人間が他者・そして他の生命と生きて行動する以上、どこにも非政治的な立場などありえない)を描いた作品では岩明均さんの名作コミック「寄生獣」、そして同じく岩明均さんのローマ対シチリア戦争を描いたコミック、あまり評判になりませんでしたが、僕は高く評価するコミック、古代のローマ・シチリア戦争を描いた作品「ヘウレーカ」をお勧め致します。

両方の作品とも昨年生活費捻出のために売ってしまったので、正確な引用ができないのですが、「ヘウレーカ」のなかにこんな言葉がありました。手元に本がないので正確な引用ではないのですが、確か、「一人殺せば殺人犯、世界の半分の人を殺せば英雄、人間全部殺せば神だ」という言葉です。

「ヘウレーカ」の主人公はローマ人の恋人がいるシチリア在住のスパルタ人の青年で、彼は殺人犯にも英雄にも神にも決してなろうとしない、全ての人命を尊重するコスモポリタンな人道的理念を持つヒューマニストですが、ローマとシチリアの戦争の中で、彼はどうしても、どのように動いても、極めて政治的に大きな動きをせねばならない羽目になり、苦悩しながら軍事戦略家として働くのですが、最後は悲劇を迎えてしまう物語で、僕の好きな物語です。この物語の良いところは、主人公は国と国との政治(戦争)のなかで政治的に振舞いながらも、常に自らの政治性に自覚的で、最後までコスモポリタンな人道主義、誰も殺さない、全ての人命を助けるという政治性の立場にいようとする努力を忘れないところです。ゆえに、悲劇的で無常観の漂う物語ですが、僕はとても好きな作品です。お勧め致します。

また、岩明均さんの「寄生獣」や「ヘウレーカ」に比べると、かなり分かり辛く、娯楽性も削った形でですが、『他者と関わる以上、この世界のどこにも無徴という特権的な非政治性は存在しない』ということを、見事に描いたコミック作品として、岡崎京子さんの「うたかたの日々」があります。この作品も昨年売ってしまって手元にないです。

この作品は、フランスの持つ芸術性及びアカデミズム(哲学)によって偽善的に糊塗されている世界(実際はフランスは世界有数の軍事国家・軍需産業国家であり、なおかつ国内に格差と貧困と争いを抱えていること)を背景に、その世界の実相が明らかになるに連れて、周囲の人々と共に破滅してゆく無垢な、そして無垢なゆえに戦争(軍需産業)に加担することになるブルジョワの主人公(主人公の造形はドストエフスキーの小説「白痴」の主人公ムイシュキン公爵が下敷きにされていると思います)の悲恋を描いた恋愛小説、ボリス・ヴィアンの「うたかたの日々」を岡崎京子さんがコミック化した作品です。両作(コミック・小説)とも優れた作品と思います。「うたかたの日々」はコミック版の方が読みやすいので、始めて読む方は先にコミック版からお読みになることをお勧め致します。

参考作品(amazon)
寄生獣―完全版 (1) (アフタヌーンKCDX (1664))
ヘウレーカ (ジェッツコミックス)
文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)
文学部唯野教授の女性問答 (中公文庫)
文学部唯野教授のサブ・テキスト (文春文庫)
[オーディオブックCD] 筒井康隆 著 「文学部唯野教授 」(CD10枚)
大いなる助走新装版(文春文庫)
文学とは何か―現代批評理論への招待
新文学入門―T・イーグルトン『文学とは何か』を読む (岩波セミナーブックス)
うたかたの日々
うたかたの日々 (ハヤカワepi文庫)
白痴 (上巻) (新潮文庫)
白痴 (下巻) (新潮文庫)

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