懐疑論者の事典 上 (1)
懐疑論者の事典 下 (2)

科学・疑似科学・宗教について、僕の考え方を述べておきます。僕は無神論者・唯物論者ですが、決して信仰を一概に否定するものではありません。例えば、輪廻転生については、僕は唯物論者なので、このように解釈することもあります。僕が死んで土葬されます(日本は通常は火葬ですが、仮定として土葬の方が分かりやすいので土葬にします)。土葬後、身体が腐敗して腐り土の一部分となって、腐敗した有機的な死骸の部分が腐敗の化学変化で有機的栄養素となって、そこからその養分を摂取する草が生えたら、僕の物質としての部分(肉体)が死後、他の生命の生育に役立ったと考えることができます。このような解釈(生命活動停止後の物質としての変化移動、例えば死骸についた腐敗菌の増殖は、その腐敗菌に死骸としての肉体の物質が養分として一部が移動したと考えられます)としての輪廻転生はありえると僕は考えています。ただ、霊魂等の経験不可能な存在可能性には否定的です。こういった考え方(科学的解釈の様々)につきましては以前、ご紹介いたしました哲学ファンタジーが詳しいです。

ただ、基本的に、僕は科学(science)に、第一義に信頼を置く、科学を第一原則としての世界観を抱いております。僕が信頼を置く原則としての述べる科学の定義はロバート・T・キャロルの「科学」(science)の定義と基本的に同じ指針です。ロバート・T・キャロル「懐疑論者の辞典」の科学の項目は翻訳して公開して下さっている方がいます。こちらのリンク先さんです。

科学(science)
http://www.genpaku.org/skepticj/science.html

日本語訳版ロバート・T・キャロル「懐疑論者の辞典」とは訳が僅かですが違います(リンク先さんの頁の翻訳は原書の直訳に近く、日本語訳版懐疑論者の辞典は直訳を日本語文法的にして分かりやすくしてあります)ので、その点を一応補足しておきます。以下、日本語訳版懐疑論者の辞典の項目の「科学(science)」を引用します。以下の引用内の中略以外の()は僕が付ける括弧ではなく、日本語訳版懐疑論者の辞典に掲載されております括弧です。心身の痛みと疲労が酷く、全文引用する体力がないので、中略を何度かはさむ形での引用のご紹介になり申しわけありません。

ロバート・T・キャロル日本語訳版「懐疑論者の辞典」
科学(science)
(少なくとも、本稿の焦点である自然科学とは)何よりもまず経験的現象を理解するための体系的な観察を可能にしてくれる一連の論理的・経験的手法のことである。(中略)科学的説明は、超自然現象についてなされるというよりは、自然現象について自然に即した用語でなされるものである。ただし科学は超自然のことを容認も否認もしていない。
また科学は論理的・経験的手法を用いることによって得られる経験的世界に関する知識をまとめたものである。(中略)

科学的方法は非個人的なものである。ある科学者にできることは必ず他の科学者にも再現できなければならない。ある人が他人には再現できない完全に主観的な方法で、何かを測定・観測すると主張した場合、その人がやっているのは科学ではない。科学者が別の科学者の仕事を再現できないという場合は、まさにそのことこそが、計画、方法論、観察、計算、較正[測定器の狂いを直すこと]のいずれかが誤っていることを明白に示すしるしとなる。

科学では、経験的世界に関する真実は先験的[経験することなし]にわかる、とは想定されていない。科学では、経験的世界に関する真実は発見していかなくてはならない、と想定されている。(創造論やインテリジェント・デザインの論者たちは)経験論的真理は先験的にわかる、などと主張するが、彼らは科学的知識について話しているはずがないのである。また科学では、自然に一定の秩序がある、というのが前提であり、自然現象のはたらきに基本原則がある、と仮定されている。そしてこうした原理や法則は、比較的安定したものである、と考えられている。しかし、”これらの原則がなんであるか”や”経験的現象に関する実際の秩序がなんなのか”について先駆的にわかる、とは科学では想定されていない。(中略)

経験的なテストに合格したというだけではまだ理論が証明されたということにはならない。数々のきびしいテスト(日本訳では検証にテストの振り仮名があり、検証の意味)に理論が合格すればするほど、確証度は高まり、理にかなった理論だということにはなる。けれども検証するというのは論理学や数学での証明するということと同じではない。絶対事実だと証明されうる科学理論などないのである。(中略)

科学的知識もしょせんは人間の知識だし、科学者も人の子であって神ではない。だから、科学もまちがいと無縁ではない。だが依然として世間一般では、科学的主張が絶対確実な真理のように考えられる場合も多い。確実でないものは科学的なものではなく、科学的ではないとする非科学的見解と同じである、とみなされてしまっているのである。こうした誤解が、科学理論についての本質についての理解の一般的な欠如の(少なくともいくぶんかの)原因となっているように思われる。

ちょっと小休止しますと、このあとの文章が科学的に考えるということにおいて非常に重要だと僕は思います。以下、引用を再開します。

ロバート・T・キャロル日本語訳版「懐疑論者の辞典」
科学(science)
もうひとつ、よくある誤解がある。それは”科学理論も人間の知覚に基づくものである以上、どうしても相対的なものにならずをえず、したがって科学理論は現実の世界について、何も教えてくれない”という誤解である。一部のポストモダン主義者によれば、経験的世界がじつはどういうものなのかについて真相を教えてあげよう、と科学が主張することはできないのであって、科学が明らかにできるのは経験的世界が科学者の目にどううつるかということだけである、という。科学的真理などというものはないし、科学理論もたんなるつくり話にすぎないというわけだ。

けれども、現実に対する唯一・絶対・究極の、神によるような見方がないからというだけで、どのような見方も似たり寄ったりということにはならない。科学が人間による見方しか提案できないからといって、科学的真理などというものはない、ということにはならない。原子爆弾が一部の科学者の予想どおりはじめてさく裂したときにも、経験的世界に関するひとかけらの真理がまた新たに明かされたではないか。わたしたちは科学理論を経験によってテストすることで、何が真で何が偽なのかわかりかけているところなのである。外なる宇宙空間と内なる原子を探るのを可能にするこうした科学理論を「ただの相対的な」もので、現実について「たんなるひとつの見方しか表さない」と言うのは、けっきょくのところ科学や科学的知識の本質をひどく誤解することになる。

あと、宗教と科学が争わないで手を取り合っているケースは国際的には色々とあります。例えばバイオテクノロジー分野、胚研究などの生命科学分野でとても研究が優れて進んでいる国は中東の大国イランです。イランでは、宗教指導者がバイオテクノロジーの研究に対して極めて柔軟で良い意味でバランスの取れた科学的な考え方の許容をしております。アメリカ等の『バイオテクノロジーは宗教的にダメ、絶対』みたいなガチガチのキリスト教プロテスタント右派諸国やその諸国の縛り(プロテスタント右派アメリカの縛りで研究が制約される属国日本等)でなかなか研究が進められない国々などと違って、バイオテクノロジーの研究分野の先端を走っている優れた科学立国の一つです。いずれ、バイオテクノロジー分野の一部、人間に関するバイオテクノロジーの分野はイランが最も高度な生命科学技術を制することになると僕は予想しています。イランと組んでいるロシアはそういったこと(イランの科学技術の先進性による将来性)も見ていて手を結んでいる訳で、先見の明があるなと思います。顧みて日本はプロテスタントアメリカの宗教縛りが掛かっている完全属国なので、こういった科学分野ではかなり絶望的です。

アメリカの完全属国であるということはメリットの数々とともにこういったデメリット(科学研究がアメリカの宗教的意向で制限される等)の数々もある訳で、対米従属一本槍の方には、アメリカの属国であるデメリットの数々ということも、どうか、科学的に検討してみて欲しいです。

後、僕は「水は意識ある生命体である」とか、多くの人々は単なる冗談だと思うような擬似科学の問題よりスケールの大きい疑似科学の問題が今後世界に拡大していくことを恐れています。インテリジェント・デザインの問題です。この問題は今後、世界的に非常に危険な問題になってくると思います。これは、アメリカの政治的パワーを持つ宗教勢力(一部の科学者達も含みます)が強力に「形而上学ではなく『自然科学』である」として推し進めている危険な問題なので、アメリカ圏域の自然科学が宗教(キリスト教神学)に支配されてしまう可能性を持っております。先に挙げたロバート・T・キャロルの定義的に『科学』を考えている自然科学者達も非常に警戒心を募らせています。インテリジェント・デザインの問題は今後拡大し、非常に危険な事態に入っていくと思います。既に日本でも著名ブロガーのお方などもこのID論に賛成の説を、僕のブログとは比較にならない巨大ブログで公開しておりますし、日本でインテリジェント・デザインが「科学」としていずれ流行りだすかもしれぬ可能性に強い危機感を覚えます。ID論が自然科学を名乗り支配力を増すことに、僕はキリスト教神学が自然科学を支配する西欧中世へのゆり戻し、重大な自然科学の危機を感じます。以下、ロバート・T・キャロル日本語訳版「懐疑論者の辞典」より引用致します。インテリジェント・デザインは以下の文中で略してIDと呼ばれます。

ロバート・T・キャロル日本語訳版「懐疑論者の辞典」
インテリジェント・デザイン(ID)
自然や生命系を調べればそこにデザインの存在を経験的に察知できる以上、宇宙の各部分は知的原因の結果としなければ説明がつかない、という理論。インテリジェント・デザイン(ID)の提唱者たちは、IDを学校の科学の授業で教えるべきだ、IDは自然淘汰説の科学的代案なのだから、と主張する。けれどもじつは、IDの主な目的は形而上学的なもの――神の存在を証明すること――なのだ。(中略)

宇宙は神が設計してもしなくても見かけはかわらない。経験的な理論があつかうのは、わたしたちの目に世界がどのようにうつるか、ということである。形而上学的理論ならば、世界がなぜこのように見えるのか、ということに思いをめぐらせられるのだが。

宇宙が(またその働きの一部が)設計によるものだと信じたところで、そのはたらき方を理解しやすくなるわけではない。なるほど、科学は有神論者にも無神論者にも一様に開かれている。にもかかわらず、デザインのことを信じると、そうすることならではの難点が生じる。

仮に宇宙がインテリジェント・デザインの所産かもしれないとか、もっと進んで所産だろうとまで認めてしまったら、次はどういう段階に進むことになるのだろうか?たとえば、ある特定の生態系が知的設計者の産物であると想定したとしよう。この知的設計者がわたしたちと同じ人間ではなく、われわれにこれに似たような設計者の創造の営みがないとすれば、いったいどうやってこの生態系のことを調べはじめられるというのだろう?それはIDの産物だが、当の設計者は人間とは別の階梯に属す、ということしかわからないのであれば、どうやってこの系の研究に取りかかるつもりなのか?系と設計者の関係について何を問うても同じ形の答えしか返ってこない、IDだからこうなのだという答えしか返ってこない袋小路の状態にはまらないだろうか?こういう理論はなんでも説明しつくしてしまう。しかし、何も啓発はしない。

科学の進歩がいくぶんか可能なのは、科学者は自然現象のはたらきについて、その成り立ちやデザイン、究極の目的とは無関係に述べたてようと試みるからだ。もしかすると宇宙や自然法則は神がつくったのかもしれない。しかしそれでも、大自然はやはり機械である。機械的に変化を重ね、そういうものとして把握できるようになっている。自然がどうはたらくのかについて説明を求めるにあたっては、神の仮説はいらないのである。

僕は無神論者・唯物論者なので、神の存在を『信仰的』に唱える人々は、その人々の自由であると思いますが、神の存在を『真理としての科学』として強制してくるようになったら、それはとても恐ろしい歴史逆行の事態(西欧中世の復活)だと思います。アメリカの覇権が崩壊したのは、自然科学にとってはある種の幸いとしての側面を持っています。もし、宗教右派が大きな力を持つアメリカの強大な覇権がそのままだったら、インテリジェント・デザインが勢力を世界に大きく伸ばしてくる可能性は今よりも大きかったと推定されるからです。しかし、アメリカの覇権が崩壊したとはいえ、アメリカが世界最大の大国であることには変わりはなく、インテリジェント・デザインが及ぼす自然科学の危機は、依然として存在します。それは、今現在も存在する自然科学の危機なのです。

先日より酷い心痛多く、長文を書きへとへとで疲れました。もしよろしければ、懐疑論者の辞典はとても優れた著作なので、未所有のお方々はお買い上げになって頂くと、生活がとても助かります。このような文章を書いてしまい、申し訳ございません。

最後に軽く余談を致します。僕は無神論者(不可知論者ではなく、唯物論的無神論者)ですが、お仲間(無神論者の人々)は2000年度の世界統計結果だと、世界に8%しかおりません。無神論者は少数派だなあと思います。僕は無神論者ですが、神社仏閣が好きで、うつ病に掛かる前はよくお参りしていましたし、オカルティズムの文献なども読むのが好きで、タロットなんかもよくやっていました。うつ病にかかってからも、調子のよいときは占いをやっていました。ただ、究極的に考えて、自分が世界をどう見ているかということをいえば、唯物的無神論者です。ただ、無神論は流行らない思想です。大勢の人々は死後の救いを求めますがゆえに。論理的には神の存在の問題と死後の世界の存在の問題は問いが違いますが(「神は存在するが死後の存在しない世界」「死後は存在するが神の存在しない世界」などが論理的には仮定できます)なぜか、神が存在する=死後が存在するという混同が行われることが多いようです。僕のような唯物論的無神論者は世界的に少数派です。ただ、それでも僕が唯物的無神論者なのは僕の生得気質でもあり環境もあるでしょうしまた自分自身で選び取った道でもあり、例え目の前で人知をはみ出した奇蹟が起きたとしても、僕はそれを科学的に検証・解明したい出来事の発生と心底から思うでしょう。

ロバート・T・キャロル日本語訳版「懐疑論者の辞典」
無神論者
神の存在を信じないこと、と古くから定義される思想。(中略)

無神論者は、人が「神秘」体験や「宗教的」体験をして、神の存在を感じたり、森羅万象はひとつのもので、あらゆるものに意味があるという感覚を味わったりすることも否定しない。さらにまた、日常生活において神の存在を肌で感じる人が多いということも否定しない。無神論者が否定するのは、こうした感覚や体験は脳の状態に起因するのに、その原因を超自然や地球外のものに求める、という態度である。

無神論は現在、どのくらい広まっているのか?
2000年に行われた世界規模のギャラップ調査では、霊も人格神もライフフォースも存在しないと考えている人が八パーセント、どちらとも言えないという人が十七パーセントだった。ただし人格神については、世界の人口の半分以上、世界中の科学者の九十パーセント以上が信じていない。そうした人を無神論者とみなすキリスト教徒も多いことだろう。

参考作品(amazon)
懐疑論者の事典 上 (1)
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哲学ファンタジー
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