2008年11月17日 01:44

非常に体調悪く、更新滞りましたら申し訳ございません。井浦秀夫「少年の国」「神の存在証明」について

少年の国―MYSTERY OF NEW RELIGION (1) (双葉文庫―名作シリーズ (い-39-01))
少年の国―MYSTERY OF NEW RELIGION (2) (双葉文庫―名作シリーズ (い-39-02))

非常に現在体調悪く、不安と不眠頭痛とても酷く、更新今後滞りましたら、申し訳ございません。今のうちに書いておかないと、もう、いずれ体調不良で、文章が書けなくなるかも知れないので、先日の「神の存在証明」のエントリの続きを書いておきます。

僕は、論理的に論理実証学者パトリック・グリムと同じ立場を支持します。本当は自分の言葉で説明すべきかと思いますが、疲労の極に達しており、まことに申し訳ながら、引用することで、ご説明を致したく思います。

グリム(パトリック・グリム)の神の非存在論によれば、(ゲーデルの)不完全性定理が、中世以来の神学論争を決着させることになります。というのは、「神」が、すべての真理を知る無矛盾な存在であれば、そのような「神」は存在しないからです!証明は非常に簡単です。すべての真理を知る「神」は、もちろん自然数論も知っているはずであり、自己矛盾するはずがありません。ところが、自然数論の不完全性定理によって、ゲーデル命題に相当する特定の他項方程式については、矛盾を犯すことなく、その真理を決定できません。よって、すべての真理を知る「神」は存在しません。(中略)
グリムも、彼の証明が否定しているのは、「人間理性によって理解可能な神」であって、神学そのものを否定するわけではないと述べています。ただし、少なくとも、神は、いかなる形式的あるいは合理的な考察からも、本質的に認識不可能でなければならないことは明らかと言えます。
(高橋昌一郎「理性の限界」)

論理的に考えることは、とても重要だと思います。それは、神を信じるのは理性や合理性ではなく、生理(非論理的・非合理的な直感・感覚)だとオットーが「聖なるもの」で述べていますが、僕もそれは、分かるような気がするからです。

僕の場合は、論理実証学者スマリヤンが揶揄している神秘的唯物論者(無神論・唯物論を直感的に正しい、即ち、神の非洞察を非論理的・非合理的に直感している)なところがどうしてもあり、どうしても神は非存在であると直感的・感覚的に思いますが、それが論理的ではない帰結であるということは、いつも戒めとして胸に思っています。

そうしないと、僕は神を信じないという信仰を信ずる信仰者になってしまう、それは、論理的に誤っていると僕は考えるゆえ、自分の考え(無神論・唯物論への論理的でない部分における感覚的直感・非合理的洞察)に理性(合理的思考)によってブレーキを掛けています。そうしないと、僕の神秘的唯物論者としての部分が神を非合理的帰結を持って絶対に信じないという狂信に走ってしまう恐れがあるからです。

以前、紹介した優れた宗教漫画、たかもちげんさんの「祝福王」は、狂信が、カントの普遍立法として万人の人々に祝福を与える様相を描いた優れた漫画ですが、逆に、狂信が、悪意なき破滅を引き起こす様相を描いた、「祝福王」と対極に位置する優れた宗教漫画もあります。「弁護士のくず」でベストセラー漫画家となった井浦秀夫さんの宗教漫画「少年の国」です。これは、宗教について、神について考えるうえで、「祝福王」と並んで必読文献として読んでおくべき優れた宗教漫画だと思います。

ごく当たり前の高校生や大学生の生態をユーモラスに描いてきた井浦(井浦秀夫さん)は、そうであったからこそ、享楽主義が理想主義に転じ、理想主義が狂信主義に突き進む様子を見事にドラマ化した。すなわち、本書「少年の国」である。
(呉智英「少年の国」文庫版解説)

この物語(少年の国)は神がかりの少女を利用して、狂信的な宗教団体が発展し、理想主義の名のもとに、暗殺などの行為にまで手を染める、宗教団体が反社会的活動を行うまでに至る物語で、とても優れた作品です。「祝福王」が宗教の狂信における肯定的側面を重視しているのに比べ、本作は宗教の狂信における否定的な側面を重視しています。

神がかりの少女は、教団の教祖として祭り上げられますが、彼女の神がかりは、極めて彼女にとって有利なエゴイスティックな神がかりで、なおかつ、少女は正気の時(神がかっていない時)、そのこと(自分のトランス状態における神がかりの予言によって、教団が反社会的に暴走すること)に非常に苦しんでいます。少女は、神がかり状態(トランス状態)によって、自分(教団)に都合の良いように、神のお告げを行いますが、そのことを少女はコントロールできず、そこに少女の激しい苦悩があります。

最終的に、少女を教祖とする集団は周囲を巻き込んだ自己破滅への道をひた走りますが、最後に、教祖の少女が、完全に逆説的な神学(否定神学)によって、今までの自らが神がかりにおいて発言したことを全て否定します。これが、非常に興味深い、逆説神学になります。

それまでの少女は、神かがり状態において、絶対者として人々に君臨していましたが、最終的にそれ(神がかり状態における今までの自らの絶対命令としての発言)を逆説的な神学で否定致します。それはつまり、人間は孤独で弱い生命ゆえ、超越者(神)に縋りたがる。しかし、神は一切の答えや命令を人間にださない。人間の世は人間に任されている。人間が、その孤独に耐えうること(神に縋らないこと)によって、その孤独に耐えうるものにこそ、神の祝福はあるであろう、という極めてグノーシス的な逆説神学に到達します。

これは「逆パスカルの言説」と呼ばれるもので、パスカルの言説が逆転している考え方です。つまり、僕のような、どうしても神(超越的存在)を信じられず、不完全な世界で不完全に生きるという、神無き孤独に耐える無神論者、唯物論者は、この考え(逆パスカルの言説)で考えると、神を信じない、信じられない、孤独の生を生きることで、死後は無だと考えています。僕自身も死後は無だと考えています。しかし、この「逆パスカルの言説」においては、パスカルの言説が逆転します。

つまり、神の不在を前提として考えると、神がいなかった場合、死後は無です。僕はこの立場です。そして、もし神が不在ではなく超越的に存在し、超越的なものに縋らず、神を信じないという孤独に耐える生を送る人を神が救うとしたら、神がもし不在であれば、死後は無であり、神がもし存在し孤独に耐える生を送る人を救うとしたら、無神論者・唯物論者が神に救われるということで、神を信じないことによるリターンは、ゼロもしくは無限大になるということです。「パスカルの論理」を逆転することで、まったく逆の論理が導かされるのです。

「少年の国」は、この論理をとことんまで突きつめており、「祝福王」と並ぶ、日本の宗教漫画の白眉であると思います。ぜひ、一読をお勧め致します。

最後に、体調が極めて困難な状況であり、今後更新が滞ることがありましたら、まことに申し訳ございません。

参考作品(amazon)
理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書 (1948))
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少年の国―MYSTERY OF NEW RELIGION (1) (双葉文庫―名作シリーズ (い-39-01))
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