哲学ファンタジー
まず、お詫びいたします。先日書いた「麻生首相の支持率が急落し、野党支持率が与党支持率を上回っているそうです。」というのは、各統計調査結果によって、違っており、統計調査によっては、そうなっていないところもあるようです。ただ、少なくとも、総合的に見て麻生首相の支持率が低下し、野党支持率が上昇して与党支持率は低下しているようです。僕は、先日書いたとおり、政権交代して野党連立リベラル左派政権ができて、社会福祉が拡充されることが最後の望みなので(もう一つ最後の望みがあり、それは死ぬ前にせめて嗜好品の一品でも、紅茶でも飲みたかったなあという気持ちです)、もう、喉痛・腹痛が先日に続いて酷く、一日も早く精神病院の診察日になることを、願っている状態です。
非常に困難した状態なので、ご余裕あり、ご善意ご慈悲あるお方々におきましては、どうか、ご慈悲賜りたくお願いしたく、どうかお願い申し上げます。
本題について入ります。先日の同人誌即売会における資本とアカデミズムの恣意的強権が同人誌即売会の自発的自由とルールを破壊した例に見られるように、デリダなどのフランス観念論は、アカデミズムを東大閥が恣意的に専制する日本においては残念ながらその根幹的意義を失い、基本的に現支配層(資本家層)と組み、現支配層の支配の仕組みの補助・強化の為に使われています。よって、僕は、論理的に考えること、論理学・論理実証学を、支配層ではない、世の中の大勢の人々に有用な学問としてお勧め致します。論理学・論理実証学というのは、日本の権力層と組んでいる人文系アカデミズム権威層が支配の道具として使っている観念(デリダやレヴィナスなどの観念哲学の恣意的乱用等)を、打ち破ることができる、万人に公正な優れた学問です。
本当はもっと詳しく説明したいのですが、腹痛が酷く、あまり長い文章が書けそうにないので、まず、僕がいずれ死んだときのために、論理実証学の初学者向けで最も優れた、読み物としてもとても面白い、優れた著作を紹介します。論理実証学者レイモンド・スマリヤンによる「哲学ファンタジー」という本です。この本は、読み物としても、ユーモアたっぷりで面白く、そして、読了すれば、論理実証学の基礎が学べる、優れた著作です。日本も含め、世界の大学の論理実証学の初級テキストとしても、使われている本です。ぜひ、一読お勧め致します。
哲学ファンタジー
この本はユーモアたっぷりに、論理実証学について理解してゆける本です。例えば、観念論者の一種である唯我論者にとって他者はいないということを、とても分かりやすく、しかもユーモアたっぷりで笑える形で記述しています。少し引用いたします。
僕はうつ病に掛かる前、この本読んで、ここで爆笑しました。この文章を読んで笑えるお方々ならば、きっと楽しめる著書であると思います。心からお勧め致します。
現在、僕は衰弱していて、あまり文章が書けそうにないので、本題に入ります。本当はもっと詳しくご説明する大きな論理なのですが、説明する気力がうつ病と心身症と生活困窮と風邪による心身衰弱であまり書けそうにないので、非常に簡略化して、神の存在について、論理実証学的なご説明を致します。
まず、神学論争としては有名な「パスカルの賭け」があります。果たしてこれは正しいのでしょうか。論理実証学は、この賭けになるということは、寧ろ恐るべきことなのではないかと、グノーシス主義的な逆転の発想を検討します。再び、「哲学ファンタジー」より引用致します。
これも、僕はうつ病になる前、グノーシスト(超越的な完全世界は仮にあったと仮定してもその存在を現実世界で検証できない以上、超越世界は現実世界と完全に切り離されており、現実世界と無縁の世界だと考える人々)的なところがあり、グノーシス主義が好きで、その文献をよく読んでいましたので、読んで笑った部分です。グノーシス主義は、上記と同じような考え方をします。ひじょうに乱雑にまとめると、グノーシス主義はこう考えます。「神を信仰するものは救い、神を信仰しないものを罰する神がいるならば、その神は万人に対する愛ではなく、その逆の思考、友敵理論の思考を行う専制支配的な欲望に囚われた神である。それはすなわち妬む神デミウルゴス、狭量な識見(専制支配の野望)に囚われた不完全な神であり、そのような専制的傲慢を振るう神の作る世界は闘争の絶えぬ不完全な世界である。そして、この現実世界は闘争の絶えぬ不完全な世界である。よってこの世界は、不完全な神に創られた不完全な世界であり、この世界の創造主なる神に祈ることは、闘争の絶えぬ不完全な現実世界を信仰することに他ならない。Q.E.D. 」グノーシス主義は論理を重視するため、論理実証学に近い部分があり、とても興味深く思いました。
上記であげた様にこの本はユーモアによって優しく、観念論のドグマを解きほぐしてゆく本です。ガチガチの無神論(論理を忘れて観念論化してしまった無神論)についても、ユーモアたっぷりに語っています。
これも初読時、非常に笑ってしまった部分で、ガチガチの無神論はガチガチの有神論と同じであることをからかっているんですね。ちょっとだけ論理学の公式を出すと、『命題「性質Pを持つ対象xは存在しない(〜∋xPx)は、命題「全ての対象xは性質pを持たない」(∀x〜Px)と同値であり、この命題の真偽を決定するためには「すべて」を検証しなければならない。』
僕は無神論者ですが、無神を信仰する無神論者ではなく、論理的に考える無神論者でありたいと思っています。例えば、純粋な無神論の立場からすれば、他者が有神論を信仰することの善悪の是非の帰結をだすことが出来ないのです。僕は、だからこそ、無神論者でありたいと思います。逆に有神論の立場からすると、有神のアプリオリの位置づけにおいて、善悪が帰結してしまうことが多くの宗教に見られ、それが、人間同士の闘争を生む一つの大きな問題になっているのだと、僕は考えるゆえです。しかしそれは、僕の考えであり、純粋に論理学的な無神論から導き出される論理的帰結ではないのです。
これが、僕が無神論者である最大の理由です。僕は、無神論を信仰するのではなく、論理的に無神論者でありたいと思っています。僕の考える自由と公正において、論理的に無神論者であることが最適解であると考えるからです。
最後に、骨休めに、軽いパラドックスを出します。このパラドックスを解けるような人々と、死ぬ前にお話したかったです。どうか、もし、ご余裕あるお方は、お買い物のご購入などでご善意ご慈悲ご支援によって、どうか、僕を少しだけでも、生きながらさせてくださることを、どうかお願い申し上げます。後、僕のメールアドレスは、ne.ko.tan@hotmail.co.jpです。このメールアドレスはamazonギフトメールだけ受け取れる形になっておりますので、まことに申し訳ながら、通常のメールをお出し頂いても、拝見することは出来ません。まことに申し訳ありません。どうか、よろしくお願い致します。では、パラドックスを出します。再び哲学ファンタジーからの出題です。僕はこのパラドックスがとても面白くて好きです。どこにパラドックスがあるか、よろしければ、ぜひ考えてみて欲しいと思います。
どうしてこうなってしまったのか、ハイパーゲームにとってノーマルとノーマルではない意味はどこにあるか、それを観念哲学における「神の存在証明」などと一緒に考えてみると面白いと思います。
最後に、論理学の基本的原理の一つは「偽の命題はすべての命題を導くこと」です。
参考作品(amazon)

哲学ファンタジー

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まず、お詫びいたします。先日書いた「麻生首相の支持率が急落し、野党支持率が与党支持率を上回っているそうです。」というのは、各統計調査結果によって、違っており、統計調査によっては、そうなっていないところもあるようです。ただ、少なくとも、総合的に見て麻生首相の支持率が低下し、野党支持率が上昇して与党支持率は低下しているようです。僕は、先日書いたとおり、政権交代して野党連立リベラル左派政権ができて、社会福祉が拡充されることが最後の望みなので(もう一つ最後の望みがあり、それは死ぬ前にせめて嗜好品の一品でも、紅茶でも飲みたかったなあという気持ちです)、もう、喉痛・腹痛が先日に続いて酷く、一日も早く精神病院の診察日になることを、願っている状態です。
非常に困難した状態なので、ご余裕あり、ご善意ご慈悲あるお方々におきましては、どうか、ご慈悲賜りたくお願いしたく、どうかお願い申し上げます。
本題について入ります。先日の同人誌即売会における資本とアカデミズムの恣意的強権が同人誌即売会の自発的自由とルールを破壊した例に見られるように、デリダなどのフランス観念論は、アカデミズムを東大閥が恣意的に専制する日本においては残念ながらその根幹的意義を失い、基本的に現支配層(資本家層)と組み、現支配層の支配の仕組みの補助・強化の為に使われています。よって、僕は、論理的に考えること、論理学・論理実証学を、支配層ではない、世の中の大勢の人々に有用な学問としてお勧め致します。論理学・論理実証学というのは、日本の権力層と組んでいる人文系アカデミズム権威層が支配の道具として使っている観念(デリダやレヴィナスなどの観念哲学の恣意的乱用等)を、打ち破ることができる、万人に公正な優れた学問です。
本当はもっと詳しく説明したいのですが、腹痛が酷く、あまり長い文章が書けそうにないので、まず、僕がいずれ死んだときのために、論理実証学の初学者向けで最も優れた、読み物としてもとても面白い、優れた著作を紹介します。論理実証学者レイモンド・スマリヤンによる「哲学ファンタジー」という本です。この本は、読み物としても、ユーモアたっぷりで面白く、そして、読了すれば、論理実証学の基礎が学べる、優れた著作です。日本も含め、世界の大学の論理実証学の初級テキストとしても、使われている本です。ぜひ、一読お勧め致します。
哲学ファンタジー
この本はユーモアたっぷりに、論理実証学について理解してゆける本です。例えば、観念論者の一種である唯我論者にとって他者はいないということを、とても分かりやすく、しかもユーモアたっぷりで笑える形で記述しています。少し引用いたします。
唯我論者とは、「私しか存在しない」と主張することの人である。私は、(唯我論者が私しかいないと本当に信ずるならば)実際に唯我論者がそんなことを(他者に)言う必要があるのかと思う。そう信じているだけで十分なはずだが!(中略)
唯我論者が言った。
「私しか存在しない」
「そうだ」と私は答えた。「私しか存在しない」
「違う、違う!」と彼は言った。「私は、私しか存在しない、と言っているんだ」
「それは私が言っていることだよ。私しか存在しない」
「違う、違う、違う!」と彼は興奮して叫んだ。「存在しているのは、君じゃなくて私だ!」
「そのとおり」私は繰り返した。「存在しているのは、君じゃなくて私だ。完全に意見が合いますね!」
この時点で、彼は完全に混乱したようだ。
(レイモンド・スマリヤン「哲学ファンタジー」)
僕はうつ病に掛かる前、この本読んで、ここで爆笑しました。この文章を読んで笑えるお方々ならば、きっと楽しめる著書であると思います。心からお勧め致します。
現在、僕は衰弱していて、あまり文章が書けそうにないので、本題に入ります。本当はもっと詳しくご説明する大きな論理なのですが、説明する気力がうつ病と心身症と生活困窮と風邪による心身衰弱であまり書けそうにないので、非常に簡略化して、神の存在について、論理実証学的なご説明を致します。
まず、神学論争としては有名な「パスカルの賭け」があります。果たしてこれは正しいのでしょうか。論理実証学は、この賭けになるということは、寧ろ恐るべきことなのではないかと、グノーシス主義的な逆転の発想を検討します。再び、「哲学ファンタジー」より引用致します。
パスカルは、神を信じないより信じる方が得だと言う。なぜなら、もし神が存在しないにもかかわらず神を信じる場合の損失は、神が存在するにもかかわらず神を信じない場合の計り知れない損失に比べて、微々たるものだからというわけである。(パスカルの論法に従うと)もし神が本当に存在し、その神を信じなければ、天罰は永遠に下されるだろうから、損失は無限大である!それゆえにパスカルによれば、純粋な確率理論から客観的に考察した上から、神を信じることは(パスカル個人にとっては)合理的なのである。
さて、もし神を信じることが少しでも(死後の)救済の確率を増加させるのであれば、私も神を信じる方が得であることに同意しよう。しかし、なぜこの仮定が真だと言えるのだろうか?一人の魂に天罰を永遠に下すほど非道な神に対しては、どんな議論においても信用できないように思えるのだが!
(レイモンド・スマリヤン「哲学ファンタジー」)
これも、僕はうつ病になる前、グノーシスト(超越的な完全世界は仮にあったと仮定してもその存在を現実世界で検証できない以上、超越世界は現実世界と完全に切り離されており、現実世界と無縁の世界だと考える人々)的なところがあり、グノーシス主義が好きで、その文献をよく読んでいましたので、読んで笑った部分です。グノーシス主義は、上記と同じような考え方をします。ひじょうに乱雑にまとめると、グノーシス主義はこう考えます。「神を信仰するものは救い、神を信仰しないものを罰する神がいるならば、その神は万人に対する愛ではなく、その逆の思考、友敵理論の思考を行う専制支配的な欲望に囚われた神である。それはすなわち妬む神デミウルゴス、狭量な識見(専制支配の野望)に囚われた不完全な神であり、そのような専制的傲慢を振るう神の作る世界は闘争の絶えぬ不完全な世界である。そして、この現実世界は闘争の絶えぬ不完全な世界である。よってこの世界は、不完全な神に創られた不完全な世界であり、この世界の創造主なる神に祈ることは、闘争の絶えぬ不完全な現実世界を信仰することに他ならない。Q.E.D. 」グノーシス主義は論理を重視するため、論理実証学に近い部分があり、とても興味深く思いました。
上記であげた様にこの本はユーモアによって優しく、観念論のドグマを解きほぐしてゆく本です。ガチガチの無神論(論理を忘れて観念論化してしまった無神論)についても、ユーモアたっぷりに語っています。
かなり若い頃、私は興味深い会話の交わされた場面にいた。一人が(絶対的に有神論を信ずる人が)、「僕は神が存在することを知っている!」と言った。
すると、別の一人(絶対的に無神論を信ずる人)が「そうかい。僕は神が存在しないことを知っている」と言った。
二つの相反する命題が両方とも知られているとは、驚くべきことである。実際、これらの命題は、どちらにしても、いかにして知る(=検証する)ことができるのだろうか?もし本当に神が存在するとして、その事実は、ただ信じられるばかりでなく、知られうるものだろうか?おそらく、(検証不可能な)何か神秘的な洞察によって知ることができるのかもしれない。一方、もし神が存在しないとして、その事実は知られうるものだろうか?もちろん、どんな科学的な方法(検証)によっても、それは不可能である!すると、やはり何か神秘的な洞察によって(神の非存在を)知ることができるのだろうか?こちらは、(検証不可能な)何ものかの存在ではなく、(検証不可能な)何ものかの非存在を洞察するという、興味深いタイプの神秘主義だと考えられるだろう!
(レイモンド・スマリヤン「哲学ファンタジー」)
これも初読時、非常に笑ってしまった部分で、ガチガチの無神論はガチガチの有神論と同じであることをからかっているんですね。ちょっとだけ論理学の公式を出すと、『命題「性質Pを持つ対象xは存在しない(〜∋xPx)は、命題「全ての対象xは性質pを持たない」(∀x〜Px)と同値であり、この命題の真偽を決定するためには「すべて」を検証しなければならない。』
僕は無神論者ですが、無神を信仰する無神論者ではなく、論理的に考える無神論者でありたいと思っています。例えば、純粋な無神論の立場からすれば、他者が有神論を信仰することの善悪の是非の帰結をだすことが出来ないのです。僕は、だからこそ、無神論者でありたいと思います。逆に有神論の立場からすると、有神のアプリオリの位置づけにおいて、善悪が帰結してしまうことが多くの宗教に見られ、それが、人間同士の闘争を生む一つの大きな問題になっているのだと、僕は考えるゆえです。しかしそれは、僕の考えであり、純粋に論理学的な無神論から導き出される論理的帰結ではないのです。
私のような現実主義者(論理実証学者の著者スマリヤン)にとっては、宗教が文明に有害か否かというよりは、むしろそれが真実であるかどうかが問題(検討に値する)と思われる。(中略)
多くの親は、子供に宗教的な教育を与えることについて、それが子供のためになるからだと正当化している。しかし、私は、親自身が宗教を信じるかどうかが、教育に大きな影響を及ぼしていると思う。ただし、常にそうだというわけでもない。「私自身は宗教を信じないんだが、それでも私は、全ての子供が宗教教育を受けるべきだと思う」と言う父親がいた。(中略)
一方、これ(無神論者であり、なおかつ他者の信仰を認める人々)とは逆に、神を信じるにもかかわらず、宗教教育が子供のためによくないと思う人の話は、これまで聞いたことがない。つまり有神論と無神論の間には、興味深い非対称性があるようだ。多くの無神論者は、神を信じることは悪いこと(プロレタリアートの意識を資本家に都合の良いように惑わして、下位の人々の闘争を増加させること)だと思っている。しかし、この悪いことだという感覚は、無神論から(論理的に)導き出された帰結ではない。一方、全てではないだろうが、多くの現存する宗教においては、神を信じないことの悪は、神を信じることの善と同じように、宗教自体によって(アプリオリ・先天的に)導かれている。事実、多くの宗教は、教義の一部に明確にその善悪を提示している。
(レイモンド・スマリヤン「哲学ファンタジー」)
これが、僕が無神論者である最大の理由です。僕は、無神論を信仰するのではなく、論理的に無神論者でありたいと思っています。僕の考える自由と公正において、論理的に無神論者であることが最適解であると考えるからです。
最後に、骨休めに、軽いパラドックスを出します。このパラドックスを解けるような人々と、死ぬ前にお話したかったです。どうか、もし、ご余裕あるお方は、お買い物のご購入などでご善意ご慈悲ご支援によって、どうか、僕を少しだけでも、生きながらさせてくださることを、どうかお願い申し上げます。後、僕のメールアドレスは、ne.ko.tan@hotmail.co.jpです。このメールアドレスはamazonギフトメールだけ受け取れる形になっておりますので、まことに申し訳ながら、通常のメールをお出し頂いても、拝見することは出来ません。まことに申し訳ありません。どうか、よろしくお願い致します。では、パラドックスを出します。再び哲学ファンタジーからの出題です。僕はこのパラドックスがとても面白くて好きです。どこにパラドックスがあるか、よろしければ、ぜひ考えてみて欲しいと思います。
「ハイパーゲームのパラドックス」
ゲームは、それが有限手の指し手で終了するとき、ノーマルと呼ばれる。ノーマルゲームの分かりやすい例は三目並べである。チェスも、トーナメント・ルールに従っていれば、ノーマルゲームとなる。さて、ハイパーゲームの最初の一手は、どのノーマルゲームをするか宣言することである。
例えば、あなたと私でハイパーゲームをしていて、私が最初の一手を進めるとすれば、「チェスをしよう」と言う。すると、あなたはチェスの最初の一手を指し、最後までチェスを続ける。もちろん、ハイパーゲームの最初の一手は「三目並べをしよう」や「ポーカーをやろう」といった具合に、ごく普通の好きなゲームを選んでもかまわない。
しかし、(ハイパーゲームの規則として)最初の一手に選ぶゲームはノーマル(有限手で終わるゲーム)でなくてはならない。ノーマルでないゲーム(無限手のゲーム)を選ぶことは許されない。
さて、問題である。ハイパーゲーム自体は、ノーマルだろうか?ノーマルだと仮定してみよう。すると、ハイパーゲームの最初の一手はどんなノーマルゲームを選んでもよいわけであるから、「ハイパーゲームをしよう」と宣言することができる。ここで、ハイパーゲームが始まり、次に相手の番になるが、相手も「ハイパーゲームをしよう」と宣言することができる。それに対しても、私は再び「ハイパーゲームをしよう」と宣言することができるわけで、ゲームを無限に続けることが可能になり、ハイパーゲームはノーマルだという仮定に反してしまう。したがって、ハイパーゲームはノーマルではないことになる。
ハイパーゲームが(上記の証明で)ノーマルではないならば、最初の一手でハイパーゲームを選ぶこともできない。ハイパーゲーム(の規則)では、最初の一手でノーマルゲームを選ばなければならないからだ。ところが、ノーマルゲームを選べば、ゲームは有限手の指し手で終了する。そうなると、ハイパーゲームはノーマルゲームではないという、既に証明された事実に反してしまう。
(レイモンド・スマリヤン「哲学ファンタジー」)
どうしてこうなってしまったのか、ハイパーゲームにとってノーマルとノーマルではない意味はどこにあるか、それを観念哲学における「神の存在証明」などと一緒に考えてみると面白いと思います。
最後に、論理学の基本的原理の一つは「偽の命題はすべての命題を導くこと」です。
乳母「(走ってきたので)息が切れてしまいました」
ジュリエット「息が切れてしまっているのに、どうして『息が切れてしまいました』というだけの息があるの?」
(シェークスピア「ロミオとジュリエット」)
参考作品(amazon)

哲学ファンタジー

新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)

論理トレーニング101題

詭弁論理学 (中公新書 (448))

逆説論理学 (中公新書 (593))
ロミオとジュリエット シェイクスピア全集 〔10〕 白水Uブックス

ナグ・ハマディ写本―初期キリスト教の正統と異端

禁じられた福音書―ナグ・ハマディ文書の解明
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