2008年06月19日 13:58

山田風太郎「戦中派闇市日記」 苦しいときに楽しい本

戦中派闇市日記―昭和22年・昭和23年

九日(月)晴
米食わざること既に一周、常食はいんげんなり、野菜もぴたりと町に見えずなりぬ。あるものとては大根のみ、されば大根漬けを菜にいんげんばかりくうに、十歩歩めば足重く、想をかまえんと欲するも頭脳まとまらず、登校しかけてくたびれて止める。
(山田風太郎「戦中派闇市日記」)

僕は昨日、馬鹿なことに、生活費全然ないのに本一万円分ぐらい買っちゃって、もうマジでヤバイ状態(頑張れますの大丈夫です)なので、こういうときは、山田風太郎さんの若い頃の日記とか読むのが好きです。凄く鬱な状態で、心が苦しい状態だったけど、山田風太郎さんの日記読んでると思わず笑っちゃって、なんか嬉しいんですね。山田風太郎さんが日記に、『貧乏で食うものなくて精神的にも苦しい!!嫌なことばかりだ!!苦しいよ!!うあああああ!!』みたいなことじゃんじゃん書いているんだけど、それが凄く素直に、なんていうのかな、爽快な感じに書いてあって、苦しいときに読むと思わず笑っちゃって、ああ、自分も笑えるんだなって感じて、凄くいいんですね。僕の大好きな文章引用します。読んでて笑っちゃいました。僕もこういう日記書きたいな、素直に全部出てて、もしよければ笑って楽しんでもらえる人がいたら嬉しい、そんな文章書きたいなって読むと思います。

六日(金)曇
霧雨に入れるもののごとし。霧雨けもり、夜はしょうしょうたる雨となる。
己は一体、こんな日記を書いて何になるのか、他人が読んで面白いだろうとは考えられない。
日記を読んで面白いのは書いた当人だけである。しかし、書いた己が、己の日記を後に読み返して、面白がって、それが何になるというのか、アミエルの日記が思い出される。
われわれは貧乏とか苦しみというものに理由のないメッキをかぶせて飾る滑稽な癖がある。
立志伝中の人はその伝記に若い日の苦しみを得意気に書いているから、われわれは苦しみが成功の主要なる原因であると考える傾向があるらしい。あたかも都会人は歯をみがく。都会人は虫歯が多い。故に歯を磨くことは虫歯の原因になると考えると、同じような愚かしさだ。成功の原因は決して苦しみではない。苦しみに苦しみ、虫けらのように死んでゆく人間は百万人中九十九万九千九百九十九人である。稀有な一人を自己と連想するのは自惚にすぎない。自惚にもまんざら理由のないこともないが先ず殆ど価値のないものである。
併し小説などでは苦しみに苦しむ人をよく描く。勿論、ハッピー・エンドとなる小説が多いので、われわれもいつかハッピー・エンドの時代が来るだろうと、御伽噺を自ら描いてうつつを抜かすのであるが、真面目なすぐれた小説は、必ずしもハッピー・エンドに終わらない。併し、終わらなくとも、芸術の中の人は、如何に惨めな人であっても一種の芸術的反射をうけて、光沢を具えているから、例えユーゴーの如く、その悲惨を意識して英雄化せんと努める作品でなくとも、それは明らかに現実の全く救われない、芸術味のない、真の意味で憐れむべき無数の人々とは違う。
現実の貧乏は、辛いものであり、芸術味のないものであり、しかして、豊かであるより価値のないものである。精神的苦しみなんてものも精神にとってさほど有意義なものとは思われない。精神というものの力を知ることが出来るから?――生命力の底を知り得るから?そんなことはつまらぬことだ。快楽に対する精神の力を知る方がよいではないか。幸福の天界を知る方がよいではないか。
己は貧乏に負けて愚痴を言っているのではないが、抽象的に貧乏や苦痛を公平に考えるとき、これが金持ちや快楽に比して、真の意味に於て立派なものであるとは考え難いのだ。

F・W・クロフツ『ポンスン事件』読。――参った!この凄まじいばかりの克明さには確かに参った。
(山田風太郎「戦中派闇市日記」)

こういう山田風太郎さんの文章読むと、元気が少し出てくる感じで大好きです。シオランという哲学者がいるんですが、山田風太郎さんは優しいシオランという感じがします…。

戦中派闇市日記―昭和22年・昭和23年
戦中派動乱日記―昭和24年・昭和25年
戦中派復興日記―昭和26年 昭和27年
戦中派虫けら日記―滅失への青春 (ちくま文庫)
新装版 戦中派不戦日記 (講談社文庫)
戦中派焼け跡日記―昭和21年
敗者の祈祷書 (叢書・ウニベルシタス)


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