モーツァルト:後期交響曲集

先日深夜、激しい雷鳴雷光と凄まじい豪雨で、もともと不眠なので、完全に眠れず、こういう天の怒りを感じるようなときは、それに合わせた音楽を聴こうと思いまして、最初はワーグナーの「ワルキューレの騎行」を選んだんですが、これは「ワルキューレ」からの抜粋なので、6分弱しかなく、すぐ終わってしまうので、天に君臨し、雷を起こすゼウスのことを思って、モーツァルトの交響曲第41番ジュピター(バーンスタイン指揮、ウィーン・フィル)を聴いていました。雷鳴雷光豪雨の自然の轟音と交響曲「ジュピター」は素晴らしく相性が良く(ギリシア的美の造形・ゼウスで繋がっています)、久々に(うつ病になってから初めて)モーツァルトを感動的に聞けました。

モーツァルトの交響曲は40・41番だけでもなく39番も凄く(交響曲として40・41に並ぶ究極的な完成度)、多く出回っている40・41番しか聴けない安めのCDよりも、名指揮者の39・40・41番が揃って聴けるCDの方が多少高くてもお勧めです。僕は40・41番の安めのCD買ってから、39番の凄さを聴いてそちらの方も買ったので、金額的に最初から39・40・41で買っておけばよかったなと、昔買った時に思いました。39・40・41、どれも素晴らしいですが、凄まじい雷鳴豪雨の中の41番はとても格別でした。

特にこの第41番がギリシア的造形美の極致とまで高く表現されるのは、一つにはその華麗な曲調にもよるだろう。なお《ジュピター》という愛称は、まさにその造形美にふさわしいものだが、モーツァルト自身は知らないもので、当時の作曲家で興行師でもあり、ハイドンと所縁の深かったザロモンの命名といわれる。
(「モーツァルト交響曲第40番・41番ジュピター」ライナーノーツより)

自然の轟音とマッチした素晴らしい演奏で、聴いていたらクラシックの昔の想い出が蘇ってきました。例えば、今は日本も海外もクラシック音楽CDの値段があまり変わらなくなってきますが、昔は海外盤の方が圧倒的に安く(特に全集が、海外盤だと5000円なのに、日本だと15000円とか、海外だと10000円の全集が、日本版30000円とかでした)海外盤をよく買っていたんですが(ライナーノーツは当然全部英語なので辞書片手に必死で読んでました)、海外盤って、日本の音楽CDだときちんとCDがプラスチックケースか、CD用の特別な布みたいなのにCDが入っていますが、海外盤の全集などは、ただの厚紙の中にCDが入っているんですね。最初買った時、出し方が分からなくて(逆さにして振ってもCDがでてこない)、CDの表面の穴に指入れて引きずり出すように出していて、この出し方だと、表面に指紋が思い切りついてしまって、指紋てついちゃうと取れないんですね…。

あるとき、厚紙を斜めにして、CDをくるくる回しながら出せば、指紋がつかずに出せるんだ、って気づいて、「ああ、厚紙に入っているCDはこうやって出すんだったんだ」って初めて気づいて、だから僕の持っているクラシックの全集は指紋がついちゃっているバージョンと、ついていないバージョンがあるんですね。こういうクラシックへの懐かしい想い出とともに、もう、いずれこのまま音楽も聴けなくなるのだろうかという、貧困困窮の悲しみも感じました…。

今、無職で収入がなく、大変困窮しておりますので、これからもっと困窮したらこういった音楽も聴けなくなり、そして困窮の果ての死によって、全ては無に帰すのだろうなということを、感動的な演奏に感銘を受けながらも、考えておりました…。

僕の治療をしてくれている精神科医の先生とソーシャルワーカー、カウンセラーさん達医療スタッフさん達は、とても良い人で、助けられていますが、精神科・精神病院だけでは、うつ病は治せないし人は救えないというケースは一杯あるんですね…。

それは、社会的要因によるうつ病、特に貧困状態で、うつ病でなくても貧困の果てに死を選ばされる、困窮した状態の人のうつ病の場合、いくら薬を飲んで、面談・カウンセリングで心を軽くしても、貧困困窮がますます進んで苦しんでゆくことの助けにはならないんですね…。

僕は無年金障害者(国民年金三分の二未納)で精神疾患が長引いても障害年金も受けられず、生活保護は、現在、新規の申請については徹底的に審査が厳しく、いくら困窮していても音楽を聴けるような環境でははねられる(各自治体によっても違うようですが、社会福祉費を徹底的に削減するように国(政府)から指示がきているので、新規の申請は基本的に受け付けないようにしているようです)ので、もう、絶望的なんですね…。

今日の朝日新聞にも、うつ病を引き起こす社会的要因(孤立・孤独・貧困等)が解決されない限り、うつ病による自殺を精神科医が止めることはできないという、精神科医の方の悲鳴のような記事が載っておりますが、本当にその通りで、僕が生活困窮で貧困死(餓死)かもしくはその直前に自死しても、それは僕を治療してくれている精神科医の先生や、精神治療の医療スタッフさん達のせいではなく、社会的要因(無職で収入がなく貧困で生活が不可能になる)によるものです。朝日新聞の記事、スキャンしたので、よろしければご覧ください。

朝日新聞2008年8月29日「自殺予防 精神科医だけに任せるな」

上記記事の最後の段落、「社会学者デュルケームは、1897年に著した「自殺論」で、予防の医療モデルを不可能とし、社会的共同体で個々人の連帯を高めることが予防の実践だと結論している。その状況はいまも変わらない。自殺予防を精神科医だけに頼らず、社会全体で取り組むことが必要ではないだろうか。」と書かれていますが、今の日本はこの逆を完全に行っている訳で、いったん経済共同体(収入がある人々の共同体)から転落すると、もう、連帯も何もなく、完全に個として分断されて、孤独と貧困のなかで自死を選ばざるを得ないようにシステムが構築されています。社会福祉費削減で新規の生活保護認可が極めて難しくなっています。

僕が貧困について「頭から離れず非常に辛いです」と精神科医の先生に相談すると、貧困妄想ではない(僕には低収入者の医療費上限負担額制限が掛かっていることを病院側も知っているので貧困妄想ではないことを先生も理解してくれていると思います)実際にたいへんなので、先生が困った顔して、今はうつ病を治すことを専念して考えましょうということを仰られます。精神科・精神病院は、精神の病を治療してくれますが、貧困から救うということは、現在、極めて難しくなっているんですね…。

精神疾患や身体障害の場合、昔なら障害年金制度などがこういう時の救いになっていましたが、就職が非正規雇用に切りかえられて、保険制度ががたがたになっているので、正規就職(厚生年金加入)ができなかったため、国民年金三分の二未納者が僕のように若い人に増えているみたいで、その場合障害年金も受けられず、もう精神科でも貧困のうつ病者(または他の精神疾患の患者さん)を助けられないんですね…。これは精神疾患に限らず、他の病気の方や身体障害の方でも同じみたいです。病気や怪我で働けなくなり、貧困の果ての死という形です…。

僕が貧困の果てに死んだら、大切な家族や大切な友人、またネットのギフト券やアフィリエイトで僕を支援してくださった大切な方々、そして一生懸命治療してくださる精神科医の先生や医療スタッフの皆さんに、心の負担を掛けるわけで、それが、心残りです…。なんとか貧困から脱したいと思っていも、貧困者でうつ病(または他の病の病人)だと、現在の日本は、そういう人々を抹殺するように動くシステムになっているんですね。国家的に社会福祉費を削減するという目標を掲げていますから…。それでも、生活費節約して、治療を受けて、なるべく生きられる限りは、努力して生きようと思っています。

こういうシステムが構築されている日本の社会(僕のような経済共同体から転落した人々を「自己責任」の名目で自死や餓死やホームレスにするような形で人間性と生命を抹殺してゆく社会)を、僕が生きている間には、おそらくあまり変わらないと思いますが、それでも、少しずつでも、改善して行って欲しいです。それが僕の今の願いです。

自民党は現行の財界(経済共同体から転落した人を抹殺するシステム)そのものですから、なんとか、財界の意向を掲げる自民党ではなく、社会福祉を充実させることを掲げる野党がいずれ、勝利して欲しいです。僕がなんとかまだ生きている間に、それが見られたら、嬉しいなと思います…。少しずつでも、社会を、社会福祉を充実させ、競争と個と絶望しかない社会ではなく、人間性を回復する、人々が助け合い、連帯する社会になっていってくれたら、それが、僕が貧困の挙句死んだ後も、いつの日か、そういう社会が来てくれたら、いいなと思います…。

参考作品(amazon)
モーツァルト:後期交響曲集
ワルキューレの騎行〜ワーグナー:管弦楽名曲集

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