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モーツァルト:ピアノ協奏曲全集(アシュケナージ)

昨日は抑うつ症状が酷く、ずっと寝込んでモーツァルトのピアノ協奏曲20〜28を聴いていました。ピアノ:アシュケナージです。僕はうつになってから、一番安定して聴ける演奏がアシュケナージの演奏なので、以前、アシュケナージのピアノ協奏曲全集を買っておいて、助かりました。ショパンも、ピアノ・ソロは、アシュケナージのピアノ・ソロ全集で持っています。日本国内限定版は買う余裕がなかったので、以前買った海外輸入版です(ライナーノーツが全部英語なので読むの苦労しました)。

後、貯金が、どうしてもどんどん磨り減っていくので、病院にも、あまり通えなくて(僕は低収入者なので医療費は月上限負担が掛かってますが、交通費が掛かるので、きついです)、薬を二週間に一度だしてもらうぐらいしかだんだんできなくなってきて、体が薬になれちゃったのか、抑うつ症状が、酷くなってきて(抗うつ剤は処方の限界まででているので、これ以上増やせません)、精神疾患(うつ病)の僕の場合、公的な金銭的支援が受けられるのは、障害年金か生活保護で、障害年金は、国民年金を払う余裕がなかったので、受けられず(以前、民主党がだしていた、国民皆障害年金制度みたいのが、通れば別ですが、今後もおそらく無理でしょう…)、生活保護は、僕が完全に全財産を失って精神疾患で働けない状態にあっても、家族に扶養義務があるということで、今でさえ負担を掛けている家族にたいへんな迷惑を掛けるシステムなので、どうにも使えそうになくて、もう、自分の貯金がなくなったら死ぬ覚悟を昨日は音楽を聴きながら決めてました。覚悟を決めちゃうと、苦痛と共に少しだけ楽になるところもありました。

病院の先生とソーシャルワーカーさん(精神保健福祉士さん)にも生活困難のことは相談していますが、これは国(個々の権限的には市町村の社会福祉課・社会福祉事務所が大幅な裁量を持っています)の支援の問題なので、病院側ではどうしようもなくて、貯金が残っているうちに、なんとか労働できるぐらいに健康を回復して、労働して金を稼ぐか、もしくは、自己の全財産を完全に失った後、家族の迷惑になること覚悟で、生活保護申請を出すか、どちらかしかないような状況で、非常に厳しいです。デイケアとか出ても、きちんとした会社員(厚生保健加入)だった方とか、発病が早かった方(20歳前に初診歴がある)ような方は、障害年金が毎月13万5000円とか出ているので、障害者として生活が保障されて、コンサート行ったり、買い物したり、生きて楽しむことができるんですが、僕みたいな、所謂ロスト・ジェネレーション、ある程度若い(35歳以下)くらいだと、会社が非正規雇用に切り替えて保険制度ががたがたになっている時に発病しているので、障害年金を受け取れない方が僕のようにいるみたいで、そういう方々は、結局、無理して働くか、家族に大変な迷惑を掛ける生活保護か、死ぬ(自殺)するしかないようなケースみたいです…。もっと最悪なパターンは、生活費を工面するために多重債務者(サラ金等)になってしまうパターンで、こうなると、意志的に自殺するのではなく、精神的に債権者(金融業者)から追い詰められて自殺に追い込まれるケースが多いそうです。

僕の場合、家族に迷惑はかけたくなく、金融業者に追い詰められるなどというのも、非常に耐え難いので、病状が改善せず、貯金がなくなった場合、なんとか無理して働くか、自殺するしか、方法が二択しかなく、こういったことも、精神科医の先生やソーシャルワーカーさんに相談していますが、どうにもこうにもこういった貧困の問題には解決方法(市町村にもよりますが、現在、生活保護を受けるのは、社会福祉費削減で非常に厳しい状態です)がなく、今はまだ貯金があるので、その間になんとか病状を改善して日雇いでもなんでも、なんとか働き口を見つけましょう、という先送りの答えしか、先生方にも答えられない訳ですので、いずれ貯金がなくなって(貯金を減らさないために現在なるべく限界まで節約しています、HDDレコーダーとかの家電とかもハードオフとかでほとんど売っちゃったので、アニメレビューとかも、もう難しいかも知れません。もし調子がよくなればやりたいのですが、すみません。テレビとビデオとビデオテープだけは、残してありますので完全に不可能ではないです)そのときも働けない状態だったら、なるべく社会に迷惑を掛けない形(活火山の火口とかに飛び込むのが、跡形もなくなる訳で、死体の片付けとかする仕事の人とかにも迷惑かけない形で、最もいいのかなとか、なるべく最大限迷惑をかけず死ぬ方法を考えています)で自殺しようと考えていて、ちょうど、吾妻ひでおさんの「失踪日記」みたいな状態です。

そんな生活(無職で仕事のない生活)をしているうちにだんだん欝と不安と妄想が襲いかかってきて死にたくなってきた。
「どっか人のいない山の中で死のう」
金も無くなったし最後の酒を飲んだ。
「よし酔っ払っているうちに」
山の斜面を利用した首吊りである。
(吾妻ひでお「失踪日記」)

僕も最初はどっか人のいない山奥で動脈をきちんと切断することをうつ病の一番重い時期(病院に掛かる前)考えていたので、自殺しようとする人は同じようなこと考えるのかなと感じました…。吾妻ひでおさんはここで首吊りに失敗して、その後、ホームレスになるんですが、僕は失踪してホームレスとしてやっていくようなバイタリティに自信がないので、先のことはどうなるか分かりませんが、失敗とかは避けたいなと思っています。ショーペンハウエルは「自殺について」のなかで、「苦痛に満ちた生存において、唯一自殺を抑止しうる方法は、キリスト教などの宗教の教えではなく、その人(個人)にとっての最高の倫理的判断のうちにある(逆に云えば、その倫理的判断における自殺もありえる)」みたいなストア哲学っぽいことを確か書いていたんですが(この本も売っちゃって、手元になくて、うろ覚えで申し訳ないです)、僕の倫理的判断では、自己の財産が完全に無くなって、生活不可能になったらやっぱり死ぬしかないのかなと、考えています。お金なくて、食べ物とか窃盗とかして捕まる非常に生活に困窮した犯罪者の方がニュースなどで報道されることがありますが、僕は、やはり倫理的判断として、それは、あくまで僕個人の倫理的判断ですが、そういった行為(生きるために悪事を行う)は僕の倫理的判断に反するので、やはりセネカでも読み返しながら、覚悟しないといけないなと思っています。

ただこれは、現状の日本の社会福祉制度を肯定しているということではありません。現状の日本の社会福祉制度が、働けない人間(お金のない人間)は、家族に負担を強いる(生活保護システム)か、死ぬかのどちらかを選択させる、北欧などとは全く違う、働けない人間、お金のなく生活できない人間に対するある種の殺意的制度によって、成り立っているということは、それは倫理的に反していると僕は思いますし、日本の社会福祉というのはこういう制度であることを皆様に理解して頂けましたらと思います。僕だけじゃなく、皆様方にもいつ働けないという状況が訪れるかは分からなく、そのとき、日本の社会福祉の救済の措置は非常に限定的かつ残酷な選択を迫られる前近代的なものしかないということは、どうか知っておいてほしいです。僕は働けなくなって、社会福祉について調べて、日本の社会福祉システムが非常に残酷かつある種殺意的(基本的に生活苦であっても生活保護を受けさせないというのが日本の社会福祉制度の大前提としてあって、家族・親族を大切にする人や交渉ごとの苦手な穏健な人、自分より人のことを考えるような人ほど生活保護が受けづらく、どうしても死を選ばざる得ないようになっている)に構築されていることを知りました。日本の国家制度の中にあるお金のない人間に対する強烈な殺意をかいまみて、調べれば調べるほどとても恐ろしいです。市町村の社会福祉課・福祉事務所の人が、生活保護を受けられなければ死ぬような状態の人の申請を年々撥ね付けるようになったり、一体、そういう職員の残酷さというものが、官僚制のシステムから生まれて構築されて運用され年々厳しくなっていることが、恐ろしいです。こうの史代さんの漫画「夕凪の街 桜の国」の物語においてシステム的な殺意を向けられた方(被爆者の方)が亡くなる瀬戸際に最後に発するメッセージを思い出して、お腹が痛みます。

嬉しい?

十年経ったけど
原爆落とした人はわたしを見て
「やった!またひとり殺せた」
とちゃんと思うてくれとる?

ひどいなあ

てっきりわたしは死なずにすんだ人
かと思ったのに

ああ風……
夕凪が終わったんかねえ

「このお話はまだ終わりません
何度夕凪が
終わっても
終わっていません」
(こうの史代「夕凪の街 桜の国」)

公的な社会福祉の判定に従事する人は、生活保護申請を撥ね付けて、それで自殺がたとえどれだけ起きても、社会福祉費を削減するという仕事をシステム的にやってゆける訳で、本当に、システム的な強靭な精神の持ち主だと思います。勿論、それは、国家という強大なシステムの巨大な殺意の末端であって、そういったシステムが構築されていることが一番恐ろしいです。

個人的な話に戻りますが、僕が自分の倫理的判断基準に従って死ぬ覚悟を決めるというのは、少し楽になるとともに、やはり苦痛もあって、お腹の痛いのが止まりません。ただこういった身体的苦痛も、逆に考えれば、後押ししていることになるのかも知れません。後は、僕に財産はありませんが(その点は身軽です)、僕が飼っている大好きな猫には、僕よりもずっと長生きしてほしいので、いい飼い主さんを見つけないといけません。

モーツァルトピアノ協奏曲20〜28を聴きながら、寝込んで、寝込んでも眠れないから、ずっとこんなことを考えていた訳ですが、音楽というのは美的に素晴らしいなということを感じられるのが救いでした。今、命を支えているものは、大切な友人や、支援して下さる皆様方からの善意(ギフト券、本当にどうもありがとうございます。アフィリエイト、ありがとうございます)と、もう一つは、クラシック音楽で、ここ数ヶ月、何年分かのクラシックを聴いちゃっている(寝込んでいるときずっと流しっぱなしです)感じで、今までは、陶酔するために音楽(クラシック音楽に限りません)を聴いていたのですが、うつ病を発症してからクラシックしか聴けなくなって、アシュケナージやニキタ・マガロフの演奏などを聴いていると、常に人間にとって不完全である真善美を、なるべく限界まで極めようとする強い美への意志が感じられて、感動を覚えます。アシュケナージのモーツァルトピアノ協奏曲20〜28とか、誰もが素晴らしいと云うが如く、僕も非常に素晴らしいと思います。アシュケナージのショパンのピアノ・ソロ全集と、音楽の形態は違いますが(ピアノ・ソロと協奏曲)、どちらも、人間の手で最高の美を生み出そうとしているところは同じで、こういったものが聴けただけでも、生存の意味はあったかなと感じられて、本当に良かったです。

僕の大好きな漫画に原作:麻枝准、漫画:拠澄れいの「ヒビキのマホウ」という漫画があるんですが、これも大好きでしたけど、持っていた1・2巻売っちゃいましたが(僕の現在の状態だとおそらくは多分2年後ぐらいに出る3巻が読めないであろうこと、心残りです…)、漫画の中で心に残っていた文章を書き留めておいた文章があって、それをご紹介致します。

音が聞こえる。
優しい音。
なつかしい音。
ひとりの少女が紡いだ音。
それは、世界に響き渡る
永遠のクロニクル―ー
(麻枝准・拠澄れい「ヒビキのマホウ」)

音楽の世界はひとりの少女が紡いでいるわけではなく、大勢の人々が紡いでいる訳ですが、それでも、究極的には、上記の言葉のような、人間の真善美の限界(永遠の美)を常に不完全でありながら、極めようとする試みとして、あるのだと思います。常に不完全であっても、美を極めようとする、それが最も純粋に現れている芸術が、音楽なのだと、僕は感じます。

例えば、アシュケナージ、マガロフ、どちらも素晴らしい名ピアニストですが、二人の弾くマズルカの14番の最後とか聞き比べると、全然違う訳ですね。アシュケナージはおそらくマガロフより指が短くて、それで最後のクレッシェンドが、マガロフの方がなめらかで、アシュケナージは音と音が離れているんですよ。少しぎこちない。だけど、アシュケナージは、勿論それが分かっていて、全体的にショパンの作譜に忠実に、そして穏やかに弾いて、その最後のクレッシェンドのハンディを上手く、まとめようと努力している。僕はこういう努力に凄く心打たれます。指の長さとか、もうどうしようもない先天的な運命ですが、そういう運命に抗っても、美の極限を目指している強い意志を感じます。ショーペンハウエルが述べた、最高の倫理的判断基準というのは、僕にとっては、美であるので、強い美の精神と天才としかいえない技量が生み出す素晴らしい音楽が、本当に、最後の命の炎を灯し続けてくれる、最後の糧であります。

僕自身は、アシュケナージのように美を生み出すことは出来ませんが、そういった素晴らしい美を、皆様に、僕自身の最後までご紹介し、お伝えすることができれば、美への大きな長いクロニクルに、ほんのすこしでも参加できたことを思って、最後の刻も安らげるので、美しいものを、これからもご紹介してゆきたいなと思います。

参考作品(amazon)
モーツァルト:ピアノ協奏曲全集(アシュケナージ)
ショパン:マズルカ全集(アシュケナージ)
ショパン:マズルカ集(ニキタ・マガロフ)
ヒビキのマホウ(1)
ヒビキのマホウ (2)
夕凪の街桜の国
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