2010年05月

2010年05月31日 21:05

洋梨形の男 (奇想コレクション)
(お徳用ボックス) 明治製菓 カールチーズあじ 72g×10個

アメリカのエンターテイメント作家、ジョージ・R・R・マーティンの短編集「洋梨形の男」読了。ユーモアに溢れたトワイライトゾーン風味の奇妙な物語集で、とても面白かったですね。海外の小説は、日本の小説に比べると、どうしても読みやすさで一歩劣るところがありますが(翻訳というプロセスを経ている為)、この本は、吃驚するほど読みやすく、楽しく気軽に読める本です。全体的にどの話も、たとえシリアスな話であっても、どことなくユーモアに富んでいて、すいすい読めるんですね。あと、最初から笑わせに掛かってる話(「終業時間」など)は、まさに「バカ話」であり、ラストのオチがぶっ飛びすぎ&楽しすぎて吹きます。こういう話大好きだなあ…。

本作はSFの賞であるネビュラ賞や、ホラーの賞であるブラム・ストーカー賞を受賞した珠玉の短編ばかりを収録した、奇妙な味の物語を書く作家ジョージ・R・R・マーティンの傑作短編集。一話目からユーモラスで、ぐいぐい引き込まれる面白い短編集で、一気に読了しました。全体的にユーモアがあるので、読んでいて実に楽しい本です。どの物語も、主人公に襲い掛かる事態は、主人公にとっては大変な災厄ですが、読者からすると喜劇的なところが、サイレントのコミカルなドタバタ喜劇映画みたいな感じで面白いんですね。一話目、ダイエットをしようと決心した太った男に襲い掛かるドタバタ悲喜劇を描いた「モンキー療法」の最初のページから引用致しますね。

ケニー・ドーチェスターは太った男だった。

もちろん、はじめから太った男だったわけではない。オギャアと生まれたときは、ほどほどの体重の完璧に標準的な新生児だった。しかし、ケニーの場合、標準的だったのは短期間だけだった。まもなく彼は、子供らしい脂肪にたっぷりとくるまれ、頬をぷっくりとふくらませたヨチヨチ歩きの幼児となった。それ以来、ケニーの体重は増加の一途をたどった。彼はぽっちゃりした子供、でっぷり太った思春期の少年、豚そっくりの大学生と順を追って成長し、成人するころには、これらの中間段階を卒業し、完全な肥満体になっていた。

人が肥満体になるにはさまざまな理由がある。生理的な理由もあれば、心理的な理由もあるだろう。ケニーの理由は比較的単純だった――食べものである。ケニー・ドーチェスターは食べることが大好きだったのだ。(中略)

ケニーはペパローニ・ピザが大好きだった。プレーン・ピザでも、アンチョビーやらなにやらを載せたミックス・ピザでもかまわなかった。牛であれ豚であれ、バーベキューにしたリブ(肋つき肉)をぺろりと平らげられたし、ソースはスパイスが効いていればいるほど好みだった。

レアに焼いたプライム・リブとロースト・チキンとライスを詰めたロックコーニッシュ種の鶏も嫌いではなかったし、上等のサーロインや海老フライやキールバーサ・ソーセージにも目がなかった。ハンバーガーはいろいろと挟んだのが好みだった「ポテトフライとオニオン・リングも添えてください」。ポテトを見ればよだれがとまらなくなる質だったが、パスタとライスも、砂糖漬けのヤムイモも、そうでないヤムイモも好物だったし、つぶしたカブさえ好きだった。

「デザートがいけないんだよなあ」と、こぼすときもあった。甘いものならなんでもござれ、とりわけ、こってりしたチョコレートケーキやカンノーロ(イタリアのペストリー菓子)やホイップクリームをかけた熱々のアップルパイに目がなかったからだ。

「パンがいけないんだようなあ」と、こぼすときもあった。もうこれ以上はデザートが出てきそうにないときである。そういいながら、サワーブレッドをもうひと切れちぎったり、次のクロワッサンにバターを塗ったり、とりわけ弱点であるガーリック・トーストにまた手を伸ばしたりするのだ。

ケニーには、とりわけ弱点といえるものがたくさんあった。彼は超一流レストランとファーストフードのチェーン店双方の権威を自認しており、どちらについても際限なく知識豊富に語ることができた。ギリシア料理も中華料理も日本料理も韓国料理もドイツ料理もイタリア料理もフランス料理もインド料理も好物で、「ぼくの文化的地平を広げて」くれそうな新しい民族グループには絶えず目を光らせていた。サイゴンが陥落したとき、ケニーの頭をよぎったのは、何人くらいのヴェトナム難民がレストランを開くだろうという疑問だった。旅行すれば、地元の名物料理をかならず賞味し、全米の主要都市二十四のどれをとっても、各地で味わった食事を楽しく思い出しながら、どの店が最高かを人に教えることができた。お気に入りの作家は、ジェイムズ・ビアード(アメリカの料理研究家)とカルヴィン・トリリン(アメリカの食べものエッセイスト)だった。

「ぼくはおいしい生活を送っているんだ」ケニー・ドーチェスターは満面の笑みで、そういってはばからなかった。じっさい、彼はおいしい生活を送っていた。しかし、ケニーには秘密の悩みもあったのだ。そのことはめったに考えないし、口に出したりもしないが、それでも分厚い肉の下、体の中心にそれはあった。そしてソースをもってしても水没させられず、頼りになるフォークをもってしても遠ざけておくことができなかった。

ケニー・ドーチェスターは、太っているのが好きではなかったのである。

ケニーは二人の恋人の間で引き裂かれた男のようだった。永遠につづく情熱で食べものを愛するいっぽう、もうひとりの恋人、女性との愛も夢見ていたからだ。そして片方を手にいれるためには、もう片方を諦めなければならないことはわかっており、そのことが彼を密かに苦悩させるのだった。
(ジョージ・R・R・マーティン「洋梨形の男」「モンキー療法」より)

こんな感じで、ユーモアたっぷりなんですね。このモンキー療法以外にも、全編ユーモアたっぷりで、主人公にとっては大変な悩みだが、読者からすると笑えるという感じの展開が多いです。例えば、表題作「洋梨形の男」は、主人公が恐怖するのは、カールのチーズ味を常に持っている神出鬼没のカールおじさんなんですね。確かに主人公にとっては怖いと思うけれど、『カールのチーズ味を差し出してくるカールおじさんの恐怖!』というところで、読み手はどうしてもユーモラスに感じずにはおれないという面白みがありますね。カールおじさんの恐怖を描いたこの小説、明治製菓の人はどう読むのかなあと思ったり。
洋梨形の男

もちろん、あなたは彼を知っている。だれもが洋梨形の男のことを知っている。
(ジョージ・R・R・マーティン「洋梨形の男」)

(お徳用ボックス) 明治製菓 カールチーズあじ 72g×10個
(お徳用ボックス) 明治製菓 カールうすあじ 75g×10個

極めてシリアスな話(「子供たちの肖像」など)であっても、こういったとぼけた味わいのユーモアが深刻さを中和させ、読者が物語を読みやすくしている。お勧めの短編集ですね。作者さんのエンタメ作家としての名人芸をたっぷりと味わえる良質の娯楽短編小説集、お勧めです。

最後に余談ですが、この小説を読むときは、ガーシュウィンをBGMにすると、コミカルな音楽のテンポと小説が良くあって、いい感じですよ〜。あと、読むときに一緒に食べるおやつはカールチーズ味だと、小説とのシンクロ度が高まると思われます。

「きみが来るのはわかっていた。ほら、きみにあげるよ」
それをポケットから引っぱり出し、さしだす。
「いらないわ」とジェシー。「お腹は空いてないの。本当に」だが、お腹が空いている、と彼女は悟った。ぺこぺこだった。ふと気がつくと、彼の指にはさまれた太いオレンジのスナックをじっと見つめていた。不意にそれが欲しくてたまらなくなった。「いらないわ」彼女は重ねて言ったが、その声はいまや弱々しく、ささやき声も同然、そしてチーズ・カールは目と鼻の先にあった。
(ジョージ・R・R・マーティン「洋梨形の男」)

参考作品(amazon)
洋梨形の男 (奇想コレクション)
Gershwin Plays Gershwin
ガーシュウィン・ファンタジー
(お徳用ボックス) 明治製菓 カールチーズあじ 72g×10個
(お徳用ボックス) 明治製菓 カールうすあじ 75g×10個

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2010年05月30日 14:11

Dvorak: The Symphonies [Box Set]
ドヴォルザーク:マスターワークス(40枚組)
ドヴォルザーク:交響曲第9番

昨日、図書館に行きましたら、ドヴォルザーク交響曲全集の金字塔として有名なイシュトヴァン・ケルテス「ドヴォルザーク交響曲全集」(海外盤)が入っていたので、さっそく借りて聴いておりまして、先ほど、全曲聴き終わりました。

感想としては、素晴らしいです!!間違いなく傑作です。これまでドヴォルザーク交響曲全集では、ヴァーツラフ・ノイマンの全集と、コシュラー(1〜7番)メニューイン(8番)ヤルヴィ(9番)のごちゃまぜ全集を聴いたことがありましたが(クーベリックの全集はまだ聴いたことないです)、今回聴いたケルテスの全集、圧倒的ですね…。パフェークトです、ケルテス!

ドヴォルザークの曲の特徴としては、彼がアメリカで生活し、アメリカで作曲活動を行ったことの反映と言われていますが、とにかく、『曲が物凄く派手である』ことが挙げられます。彼はそのままハリウッド映画に使えそうな、ど派手な曲を多く作曲した音楽家でして、派手好みのアメリカ人の最も好むクラシック作曲家と言われています。

僕も感性がアメリカンなのか、派手なドヴォルザークの曲の数々、クラシック音楽の中でも特に物凄く大好きなんですが、そんな派手な曲の数々の中において、最も派手なのが、彼の曲の真骨頂たる交響曲、第一番「ズロニツェの鐘」から第九番「新世界より」までの九つの交響曲なんですね。

ケルテスは、この九つの交響曲を、素晴らしく派手に鳴らしており、聴いていて、もう、最高としか…。ケルテスはオーケストラを派手に鳴らすことでは他の追随を許さぬ比類なき指揮者でして、そんなケルテスの個性と、ケルテスの指揮に答えるロンドン交響楽団、そして派手さこそが真髄であるドヴォルザークの交響曲、これら三つの要素が最高の形に重なり合って、完璧な演奏のドヴォルザークの交響曲を地上に顕現させたという想いが、この全集を聴いていると湧き上がりますね!!

お勧めを越えたお勧めという感じですね。素晴らしいです。特に第九番の素晴らしさに深く感涙です。ドヴォルザークの曲はヨーロッパのクラシック音楽の形式とアメリカのポピュラー音楽の形式を見事に融合させたものですが、間違いなく彼の最高傑作と断言できる交響曲第九番「新世界より」のケルテス指揮ロンドン交響楽団の演奏は、この世に望み得る限りの最高の演奏であると心から想わずには入られません。

ケルテスの指揮は、クラシック音楽における三大交響曲(ドヴォルザーク第九番「新世界より」、シューベルト交響曲第八番「未完成」ベートーヴェン交響曲第五番「運命」)の一角たるドヴォルザーク交響曲第九番の第一楽章から第四楽章までを素晴らしく聴かせてくれます。「新世界より」は、全ての楽章の最初から最後まで、全てが見せ場であり、全てが盛り上がりでありますが、それを完璧に、最初から最後まで物凄い盛り上がりで、ケルテスは聴かせてくれます。激しく感動したとしか言い様がありません…。まさに疾風怒濤の名演です。第一番〜第八番も素晴らしいですが、第九番は、凄まじく神懸かった、超越的名演であり、音楽好きは、絶対に聴く価値があります。ケルテスの第九番を聴いていないのは人生の損失と心から断言できます。

ドヴォルザークの曲は、クラシック音楽の形式よりも、聴衆の聴きやすさや聴衆の感動を重視したクラシック音楽であり、とても聴きやすいです。ゆえにアメリカ人に大人気なんですね。形式よりも聴きやすさと感動を重視というところではワーグナーと通じます。僕は歌曲・オペラが苦手なので、インストゥメント(器楽曲)の作曲家であるドヴォルザークが、より好きですね。僕は派手で盛り上がる見せ場の息も突かせぬ連続であるドヴォルザークの曲の数々が好きなのですが、特にど派手な交響曲第九番「新世界から」が一番好きでして、ドヴォルザークの最も素晴らしい特色である派手さを、僕の予想を遥かに超えて、驚くほどにすばらしい形で見せてくれたケルテスの名演には、感動としか言い様がないですね…。

(ワーグナーの音楽を楽しんでもらえるように)意欲促進剤を差し上げたいのは、音楽の専門知識がないために「指輪」(ニーベルンゲンの指輪)を楽しむ資格がないとお感じになる慎ましいお方々である。そうした不安はさっぱりと捨ててしまって結構。もし楽音に人を動かす力があるのなら、ワーグナーはそれ以上を求めはしないとわかるだろう。

「指輪」には「古典派音楽(形式音楽)」的なところはただの一小節もない――ドラマに音楽的表現を与えるという直接の目的以外に目指すものがあるような音符は、ただの一つもない。古典派音楽(形式音楽)だと、プログラム解説に出てくるように、第一主題と第二主題、自由なファンタジア、再現部、そしてコーダがあるし、フーガには対主題や、ストレッタ、通奏保続音がついていたりするし、グラウンド・ベースに乗ったパッサカリア、下五度のカノン、その他諸処の巧妙な仕組みがあるのだが、結局は単純極まる民謡と同様、それらはきれいにできているかどうかで成功も失敗もしてきた。ワーグナーは、こういったもの(形式)を狙って作曲することは決してない。それは、シェイクスピアがソネットとか二様押韻八行詩という詩法の形式を狙って芝居を書いたことがないのと同じだ。

だからこそ、ワーグナーは音楽評論家教育を受けていない天性の音楽好きにとって優しいのだ。学者どもは、ワーグナーの音楽が演奏されるとたちまち叫び出す――「何だこれは?アリアか、レチタティーヴォか?カバレッタがないぞ――完全終止も?どうしてこの不協和音が準備されていないのだ?なぜ正しく解決されないのだ?すぐ前の調性と共通した音が一つもない調に移るとは、なんとけしからん、禁則の移行をやりおって。あの誤った関係を聞きたまえ!ティンパニ六つにホルン八本で何をやろうというのだ、モーツァルトはどちらも二つだけで奇跡を起こしたというのに。あの男は音楽家ではない」

素人にとっては、そんな懸念など与り知らぬことだ。もしもワーグナーがドラマに対する率直な目標を捨てて、ソナタ形式の正しい実践で学者たちのご機嫌を取ろうとしていたら、素直な聴き手にとって彼の音楽はたちどころに理解不能となり、例の恐るべき「古典派」的刺激がインフルエンザの如く襲いかかることであろう。

(クラシック音楽だからといって)何事も恐れるには当たらない。技も学もない音楽好きは、大胆にワーグナーに近づくがよい。彼らとワーグナーの間に、誤解の起こる余地はないからである。「指輪」の音楽は、純にして容易である。古ぼけた学校で学を詰め込んだ音楽評論家こそ、頭の中は捨てたほうがマシなものばかり。
(バーナード・ショー「完全なるワーグナー主義者」)

音楽好き、そして大のワーグナー好きで知られる劇作家バーナード・ショーの音楽評論集「完全なるワーグナー主義者」から引用させて頂きましたが、オペラとインストゥメント(器楽曲)の違いはあれど、ここでバーナード・ショーがワーグナーの音楽について述べていることは、ドヴォルザークの音楽についても完全に当て嵌まることだと思いますね。ドヴォルザークの音楽を聴いていると、

『もし楽音に人を動かす力があるのなら、ドヴォルザークはそれ以上を求めはしないとわかるだろう。音楽評論家教育を受けていない天性の音楽好きにとって優しいのだ。彼らとドヴォルザークの間に、誤解の起こる余地はないからである。「新世界より」の音楽は、純にして容易である。』

と、心から感じますね。ケルテス指揮のドヴォルザーク交響曲全集、特にクラシック音楽の中でもずば抜けているケルテス指揮第九番「新世界より」は、クラシック音楽好きのお方々は勿論のこと、普段クラシック音楽を聴かないお方々にも、ぜひ聴いて欲しい演奏です。ケルテス「ドヴォルザーク交響曲全集」素晴らしい名演ですね。特に第九番は例えようのない伝説的素晴らしさ、心から深くお勧めです。音楽好きには第九番だけでも聴いて欲しいですね…。ケルテス指揮第九番はこの世のものとしてありえぬほど素晴らしいので…。

参考作品(amazon)
Dvorak: The Symphonies [Box Set]
ドヴォルザーク:マスターワークス(40枚組)
ドヴォルザーク:交響曲第9番
シューベルト:交響曲第8番「未完成」/第9番「ザ・グレート」
モーツァルト:交響曲第25番/第29番/第35番「ハフナー」
完全なるワーグナー主義者

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2010年05月29日 09:18

My Soul, Your Beats!/Brave Song 【初回生産限定盤】

Angel Beats!二次創作ゲーム「THE 成仏〜成仏タイムアタック〜」を作りました。Angel Beats!の世界を舞台にした簡単なアドベンチャーゲームです。Angel Beats!を見ているお方々に楽しんで頂けたら嬉しく思います。

Angel Beats!二次創作ゲーム「THE 成仏〜成仏タイムアタック〜」
http://www7.tok2.com/home/kagamigame/AngelBeats.exe

Angel Beats!第9話を見ていたら火の鳥の有名な台詞を思い出しましたね。

天使「ゆり。お前はもう成仏するのです」

ゆり「私が成仏?私はまだ生きたい!私はまだ神への復讐を果たしてないのです。それとも生まれ変わってまた、この世界に来れるチャンスをくれるのですかっ」

天使「いいえ。おまえは成仏すれば、すぐフジツボになって、生まれ変わるのです」

ゆり「フジツボに?なんという運命だ!じゃあそのフジツボのあと人間にしてくれるのですね?」

天使「フジツボが死んだらまたフジツボに生まれ変わります」

ゆり「フジツボのあとフジツボに?」

天使「おまえにはもう永久に…この世がなくなるまでフジツボ以外に生まれかわるチャンスはないのです」

ゆり「そんな!そんなバカな!いやだ!また人間にしてくれっ!せめてフジツボ以外に生まれたいーッ」

天使「だめです。もうおまえの運命は全部決まっています。さあ!おいでゆり。おまえはもう成仏しました」

ゆり「おまえは………いったいだれだ………」

ゆり「…………………」

Angel Beats!の世界は輪廻転生がある世界のようですが、成仏した後、前世の記憶を持った人間に生まれ変われるとは限らない。例え人間に前世があったとしても、前世の記憶を全て忘れていて思い出すのも不可能であれば、前世は全くないのと同じでしょう(この問題はスマリヤン「哲学ファンタジー」などで考察されています)。

また、成仏した後、人間に転生するのではなく、フジツボに生まれ変わったり、完全消滅したりするかもしれない。ミニマックス法で考えるならば、成仏をなるべく先延ばしにして、なるべく長くあの世界に留まろうとするSSS団の考え方は、最も合理的な考え方でありますね。人間がなるべく死ぬことを先延ばしにしようとするのも、ミニマックス法の思考によるところが大きいですから…。

音無と天使が、SSS団メンバーを騙し討ちのような形で本人の意向を無視して、彼らを成仏させようとしているのは、倫理的に見て重大な問題があるのではないかと思います。Angel Beats!見ていて、今回初めて、SSS団メンバーに同情したなあ…。彼らは、音無と天使の企みごとによって、自分の存在を「成仏」という形で消されようとしている訳ですから…。第9話を見る限り、とても「天使ちゃんマジ天使」なんていえないと思います…。

「ミニマックス戦略」
ミニマックス戦略とは、代替案ごとの最悪の状況を考え、その中で損失が最も少ない案を採用する戦略。このような意思決定方法をミニマックス法と呼ぶ。複数の選択肢の中から、各選択肢を採用した場合の最悪のケースを想定し、その最悪のケースの中で最も利益が大きいものを選ぶ戦略。

参考作品(amazon)
My Soul, Your Beats!/Brave Song 【初回生産限定盤】
Angel Beats! 1 【完全生産限定版】 [Blu-ray]
Angel Beats!2 【完全生産限定版】 [Blu-ray]
Angel Beats! 1 【完全生産限定版】 [DVD]
Angel Beats!2 【完全生産限定版】 [DVD]
哲学ファンタジー
入門 ゲーム理論―戦略的思考の科学
火の鳥 4・鳳凰編
真・女神転生 STRANGE JOURNEY(ストレンジ・ジャーニー)
真・女神転生 STRANGE JOURNEY オリジナル・サウンドトラック
ドラマCD「真・女神転生 STRANGE JOURNEY」

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スヴャトスラフ・リヒテル名演奏集(5枚組)
ショパン:バラード、スケルツォ全曲

先日、演奏者のユニークなパワフルさが出るリズミカルな曲ジャンルとしてジョプリンのラグタイム・ピアノ曲を始めとするラグタイムのご紹介をさせて頂きました(http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1181714.html)。こういったユニークでパワフルな演奏がクラシック・ピアノ曲にないのかというと、決してそんなことはないのですね。音楽は演奏者の解釈によって十人十色、千差万別の姿を聴かせるもの。クラシック・ピアノ曲も、演奏者によって、オーソドキシー(正統的)から、非常にユニーク(個性的)なものにまで、あらゆる方向に変化してゆきます。

今回は、ユニークでパワフルなクラシック・ピアニストとして、スヴャトスラフ・リヒテル、サンソン・フランソワの二人をご紹介させて頂きます。この二人は、僕の非常に好きな、解釈の幅の大きいユニーク・ピアニストです。聴くと一聴瞭然という形で分かるんですが、この二人の演奏は、物凄く荒っぽいパワフルな陶酔的演奏と、非常にデリケートで繊細な、ある種神経質とまで言えるであろう繊細で丁寧な演奏が、1つの演奏の中に同居するんです。他のピアニストは絶対このようには弾かないであろう、動と静のありえない同居が、聴いていて非常にユニーク、面白いのです。

解釈の幅の大きい現代のユニーク・ピアニストとしてはマルタ・アルゲリッチが有名ですね。アルゲリッチも非常に優れたユニーク・ピアニストです。ただ、アルゲリッチの場合は、個性が1つの纏まった形(パターン)になっていて、誰が聴いても「ああ…これはアルゲリッチの演奏だ」ということが分かる、個性がきちんと整然とした綺麗な形で1つに纏まっているピアニストです。

リヒテルやフランソワの面白いのは、アルゲリッチに感じるような個性の纏まりを感じないところです。聴いていて何が飛び出すか分からないビックリ箱のようなドキドキ感のある演奏です。これが何ともいえず面白い。リヒテルもフランソワも聴衆が予想不可能な形でピアノを弾くんですね。吃驚するほど荒々しい動の演奏の後に、動の荒々しさからは考えられない繊細で柔らかな静の演奏が来る。演奏の振幅が非常に大きく、聴いていると、聴きながら思っている音の未来予想をしばしば超えてゆく。それが非常に面白い。二人とも、通常ありえないような解釈を行って演奏します。聴いていると、「ええ、こんな解釈をしていいの?」みたいな思いが湧き上がる演奏ですね。

そして何より、面白いだけではなく、演奏を聴いていると凄まじく感情が揺さぶられる。しかも揺さぶりの感覚がどこから来ているのか分からない。この二人の演奏は「神秘的」と称されることが多いですが、僕も同感に思います。一体どうして演奏を聴いてこんなに感情が揺さぶられるのか分からない、分析できない。確かに「神秘的」としか言い様のないものを感じますね…。

具体的なお勧めとしては、リヒテルでは「スヴャトスラフ・リヒテル名演奏集」(五枚組)がとてもお勧めですね。リヒテルの壮年期の最高傑作を集めたベスト五枚組でして、一枚目から聴いているだけで素晴らしさで震えが走る出来です。僕が先ほど書いた「動と静の驚くべき落差」というのが実感して分かって頂ける出来と思います。特にCD1〜CD3のベートーヴェンの解釈は驚くべきもので、聴いていると予想を次々と裏切る驚くべき展開の連続、心地よい驚き、現代の聴衆の皆様方にも新鮮な喜びに満ちた感銘が味わえると思います。また、リヒテルの音楽を好まれるお方々には、「ラフマニノフ前奏曲集」も、リヒテルの名盤として心からお勧めするアルバムです。

スヴャトスラフ・リヒテル名演奏集(5枚組)
スヴャトスラフ・リヒテル名演奏集(5枚組)
ラフマニノフ:前奏曲集
ラフマニノフ:前奏曲集

リヒテルが、荒々しく力強くパワフルに弾いているのは壮年期までで、老年期に入ると、そういった演奏は陰りを見せてしまうので、彼の演奏を聴くならできるなら壮年期の演奏をお勧めします。リヒテルは録音少ないですが…。ちなみにリヒテルの若い頃は、鉄のカーテンにて東西の交流が閉じられていた頃であり、若きピアニストであるリヒテルは当時のソビエト連邦の中で身動きとれない状態だったため、若き日の彼の実際の演奏の録音はないんですね…。非常に残念なことです…。リヒテルは素晴らしいピアニスト、ぜひ一度は聴いて欲しいピアニストですね…。下記のユーチューブで、リヒテルのベートーヴェンがさわりだけちょこっと聴けます。僕の書いた文章の意味が、分かって頂けたら嬉しく…。

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第23番op57「熱情」:リヒテル
http://www.youtube.com/watch?v=Bxh5i0lXj1Q&feature

サンソン・フランソワは、リヒテルに比べると、全体的に落ちるといっても仕方がないかなと思いますが、それはリヒテルがあまりにもユニークにずば抜けすぎた天才であるだけで、彼もまた優れたピアニストであることには変わりありません。彼もまた、リヒテルと同じく、静と動の強烈なコントラストが素晴らしい、心地よい驚きを持った演奏を行うピアニストです。

先日紹介したキーシン(http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1179592.html)が「キーシンの為のショパン」を弾くことを抑えて、「ショパンの為のショパン」を弾いている、楽譜に対して中立性を保って弾こうとして努力しており、その結果、素晴らしく美しい透明性を持っているのに比べると、フランソワは、「フランソワの為のショパン」を弾いていて、ショパンがフランソワの色に染まっているのですね。キーシンにある美しい透明性は失われていますが、その代わりに、フランソワの演奏は美しい色ガラスのように、彼の独自の色彩を輝かせている。下記ユーチューブなどをご参考にどうぞ。彼のショパン解釈は素晴らしいです。

ショパン:バラード第1番ト短調Op.23:フランソワ
http://www.youtube.com/watch?v=1XUpOt30Kfc&feature

フランソワのお勧めとしては、やはりショパン、それとドビュッシーも挙げられると思います。僕はラヴェルよりドビュッシーを推しますね。あと、今年がショパンイヤーであるということに合わせて、彼のショパン全集が極端な廉価(2000〜3000円程度)で出るみたいです。この今年出る全集は聴いていませんが、ばら売りの彼のショパンアルバムが素晴らしいこと、過去に出た彼のピアノ全集が数万くらいすることを考えれば、極めてお買い得かなと思います。残念ながらamazonには入荷しないようなので、僕は購入できず無念ですが…(HMVサイトhttp://www.hmv.co.jp/product/detail/3739973より)。僕がバラで聴いた中でお勧めとしては、「バラード、スケルツォ全曲」「別れの曲ピアノ名曲集」それとドビュッシーの「月の光」などを集めた名曲集が良かったですね…。

ショパン:バラード、スケルツォ全曲
ショパン:バラード、スケルツォ全曲
ショパン:別れの曲(ピアノ名曲集)
ショパン:別れの曲(ピアノ名曲集)
ドビュッシー:月の光(ピアノ名曲集)
ドビュッシー:月の光(ピアノ名曲集)

素晴らしい音楽にて、皆様方のお心に安らぎとそして深き喜びがあることを、心から願います。アーノンクールが「音楽は人の心を癒すだけでなく、さらに何かを与えなくてはならない」と述べておりますが、今回ご紹介させて頂いた音楽はこの条件を満たしていると、僕は思いますね…。人生が良き音楽と共にあらんことを…。

音楽とは常に人々の生活と関与すべきものなのです。音楽は人の神経を慰めたり、落ち着かせたりするだけにあるのではなく、人々の眼を開けさせたり、揺り動かしたり、更には驚きを与えるためにあるのだというのが、私のずっと抱き続けている信念です。もし、音楽がそれを為しえないのならば、私が音楽を演奏することはないでしょう。
(ニコラウス・アーノンクール。「バッハ 音楽の捧げ物BWV1079」より)

参考作品(amazon)
スヴャトスラフ・リヒテル名演奏集(5枚組)
ラフマニノフ:前奏曲集
ショパン:バラード、スケルツォ全曲
ショパン:別れの曲(ピアノ名曲集)
ドビュッシー:月の光(ピアノ名曲集)
バッハ:音楽の捧げ物

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2010年05月28日 22:13

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)

障害者の負担軽減へ 自立支援法改正、今国会成立見通し
http://www.asahi.com/politics/update/0528/TKY201005280373.html
障害者の福祉サービスに原則1割負担を課す障害者自立支援法の改正法案が28日、衆院厚生労働委員会で、民主と自民、公明など各党の賛成多数で可決した。今国会で成立の見通し。共産党と、与党の社民党は、政府内で同法廃止に向けた検討が進んでいるとして、反対に回った。
 今回の議員立法では、1割の自己負担を課す原則を、支払い能力に応じて支払う「応能負担」の仕組みに転換。位置づけがあいまいだった発達障害もサービスの対象とする。グループホーム利用への助成制度も盛り込んだ。

僕は大うつ病障害三級で通院しており、障害者自立支援法の一割負担で、診察費・薬費・交通費で毎月医療費が一万円以上掛かっていて、凄くやりくりがたいへんで辛いので(失業しており、収入はご善意あるお方々から贈って頂くamazonギフト券、購入していただくamazonアフィリエイトのみです)、これで、負担が少しでも下がってくれたら、助かります…。やっと、改正されたんですね…。余りにも改正が遅くて、政府が貧困障害者を日干し(兵糧攻め)にして処分しようとしているのかと思っていました…。はやく、一日も早く、少しでも負担を減らしてくれないと生きてゆけません…。いつから、医療費は安くなるんでしょうか…。一日も早く、医療費を安くして欲しいです。貧困の心労から助けて欲しいです…。

湯浅誠さんの講演「“溜め”のない若者と貧困」
http://www.news.janjan.jp/living/0805/0805197370/1.php
このような人たち(貧困層)がどうして生まれてきたのか。その理由について湯浅さんは、3つのセーフティネット(1.労働のセーフティネット 2.社会保険のセーフティネット 3.公的扶助のセーフティネット)がないからだと指摘しました。

 いまや、非正規雇用は雇用の3分の1に達しており、女性の場合は50%、15歳〜24歳は48%が非正規雇用です。働いても食べていけない人が増え、フリーターの平均は年収140万。非正規雇用の人は失業しても失業保険をもらえません。フルタイムで働いても雇用保険に入っていないと、雇用のネットからはじかれる。国民の25%が貯蓄ゼロ。収入が途絶えたとたんにスッカラカン。生活保護しかないが、若い人は申請しても99%追い返される。重い病など重篤な状態にでもなっていない限り、追い返される。 (中略)

 生活保護の申請をすると追い返される。わらにもすがる思いで相談に行くと、けんもほろろに追い返される。そのような体験をした人たちの話を聞くと、だれもが「尊厳を踏みにじられた」「人間扱いされなかった」と語るそうです。正社員の採用試験に何度も落ちた男性は、落ちるたびに社会から要らないと言われているような気になると語っていたそうです。

 最近はベンチに横になっているだけで、警備の人がやってくる。隅田川では24時間ガードマンが巡回しているので、横になることもできない。追い込まれていくと、最後は「自分自身」の排除。生きていてもしょうがない、どうでもいいという気持ちになる。弱いとかガッツがないとかそういう問題ではなく、人間、だれでも4つの排除(「教育課程」「企業福祉」「家族福祉」「公的福祉」からの排除)を受けると、最後はそういう気持ちになる、と湯浅さんは訴えました。

弱者を追い詰め、死に追いやる社会
 自殺者3万人(年間)のうち、1万人は経済的理由による自殺だそうですが、湯浅さんは、「生活が逼迫すると、生きていてもしょうがないという気持ちになって自殺をする」と自殺に追い込まれる人たちの心情を代弁しました。

手薄な障害者福祉と貧困(東洋経済)
https://www.toyokeizai.net/business/society/detail/AC/9b01324fd110a42db637d895d44c17fd/page/3/
 あまり知られていないが、日本の障害者関連予算は先進国でも際立って低い水準だ。対GDP比での障害者分野の社会支出はスウェーデンの約8分の1、米国の約2分の1にとどまる。「障害者の範囲が狭い一方、年金の対象者が少なく、水準も低いためだ。就労や社会参加の場が少ないことも一因だ」(尾上浩二・DPI日本会議事務局長)。

 日本社会事業大学の佐藤久夫教授(障害者福祉)は、「障害者はごく一部の特別な存在であるとの日本人の障害者観は、そうした障害者観に基づく政策の反映だ」と指摘する。

 実は、障害者自立支援法の見直しは、障害者観や障害者福祉政策の抜本的転換の好機だ。というのも、自立支援法施行から1年半後の07年9月、わが国は障害者権利条約に署名し、抜本的な権利保障の拡充を世界に向けて公約したからだ。障害者権利条約は、従来の医学的な観点とは異なり、障害は社会との関係性において生じると見なしている。そして障害のある人が障害のない人と同じように権利を保障されるための「合理的配慮」がなされていることを、条約は締結国に義務づけている。政府与党は、障害者自立支援法を見直す際、障害者権利条約の趣旨をしっかりと受け止め、抜本的な改正を視野に入れるべきだった。

 障害は貧困とも深くつながっている。生活保護を打ち切られ、07年6月に「おにぎりが食べたい」と書き残して亡くなった北九州市の男性は、肝臓に障害があり、寝たきりの生活だった。しかし、肝機能障害は障害者手帳の交付対象でないため、障害者福祉サービスを受けることができなかった。今年4月に東京都内で開催された「派遣村」相談会でも、来場相談した124人のうち47人が疾病や障害を持っていたが、障害者手帳の所持はわずか5人だったという。これは、障害者福祉のセーフティネットが機能していないことを意味する。制度のあり方は再検討を迫られている。

上記東洋経済の記事を補足しますと、僕は障害者手帳持っていますけど(精神障害3級の手帳です)、手帳を持っていても、バスの運賃が割り引かれる以外のメリットは特にないです…。遠距離にバスで旅行するとかいうときはメリットかも知れませんが、旅費ないですし、そんなことしませんし…。貧困層・障害者の生存を保障する欧米諸国に比べて、日本には生活を助けてくれる福祉が何もありません。日本は貧困層、障害者にとって、トマス・モアが社会福祉論の中で批判した、残忍な統治者の治める国そのままだと思います…。
民を貧困に置くことが平和を齎すなどという統治者の考え方は全く間違った考え方であることは事実が示している。
(トマス・モア)

参考作品(amazon)
反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)
脱「貧困」への政治 (岩波ブックレット)
経済成長って何で必要なんだろう? (SYNODOS READINGS)
医者からもらった薬がわかる本〈2010年版〉

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未来をつくる図書館―ニューヨークからの報告― (岩波新書)
図書館に訊け! (ちくま新書)

「ipad」発売されましたね…。さきほど、5時からのTVニュースで「ipad」のような電子ブックのみでの書籍販売も有り得る、既存書店への影響は大きいかも知れないということをやっていましたが、そうなると「ipad」(電子ブック)のみで書籍販売される場合、その本は『図書館で読めない・図書館で借りられない』ということになるんでしょうか…。物凄くがっくりしてショックです…。

僕は失業しており、精神障害三級(三級なので障害年金は出ないです)のうつ病で薬を飲んで何とか日常生活を送っているので、収入がない上に医療費が掛かり(民主党は一体いつになったら障害者自立支援法を改正してくれるのでしょうか。政権が変わっても医療費負担は何も変わっていません)、物凄く生活費に困っています。

日々の生活はamazonギフト券を贈って頂き(ありがとうございます、とても助かっています、深く感謝しております)、毎月一万円くらいの収入であるamazonアフィリエイト(僕のところから購入して頂き、ありがとうございます)、ご善意ある皆様方に助けて頂いているのと、以前の貯金の取り崩しと借金で暮らしていて、毎月非常に心労が激しいギリギリの生活なので、本はほぼ図書館オンリーに頼りきりです…。電子書籍化が進んで、図書館で本が読めなくなるということだと、更に辛いです…。生活費を得るためライブドアのブログ奨学金に応募したりしていますが、たぶん無理だろうなと、酷く諦めが強いです…。

図書館というのは人々の共有知である書籍に、貧富の差関係なく誰でもアクセスを可能にするということを理念とする公共の社会福祉を担っています。もし万が一、電子ブックによる電子書籍オンリーの書籍が出てくるようになると、貧富の差で書籍へのアクセスが妨げられる、その書籍へのアクセスはコントロールされることになる。ipad(もしくはそれに類する電子ブック)と電子書籍を購入できるお金持ちにしか、その書籍にアクセスできない訳です…。貧乏人にとって、非常に惨憺とした未来ですね…。辛いです…。

僕は図書館に頼りきりなので、既に、図書館に入ることの少ないオタク娯楽文化関連の本や、図書館にはほとんど入らない漫画などの文化には、昔に比べ、ほとんどアクセスできない状態なので、電子書籍化で、いよいよ通常の本にもアクセスできなくなるということだと、本当に辛いです…。

元々、日本は、誰でもアクセスできる公共財としての書籍という概念に乏しく、図書館を使って書籍にアクセスするのが困難な図書館後進国であり(G7中日本が最下位です)、僕のような貧しい人間は書籍、そして書籍がつくり出す知の豊かな文化にアクセスできにくい、最初からアクセスを拒否されている国なんですね…。

各国の図書館というのは、貧しき人々を知によってサポートする機能、貧困の拡大再生産を、公共財としての知(書籍へのアクセスとそのサポート)によって少しでも食い止めるように働く機能があるんですが、日本においては、図書館のそういった機能は完全に蔑ろにされています…(菅谷明子「未来をつくる図書館――ニューヨークからの報告」より)。それが更に加速するのかと思うと、涙が滲んできます…。

僕のように、日々の生活に困っていて、図書館でしか書籍にアクセスできない貧乏人にも配慮した、バランスの取れた電子書籍化を求めます…。貧乏で苦しい生活をしている本好きとして、電子書籍という形で、書籍がコントロールされ、貧しき者は書籍へのアクセスから排除されるような未来は、暗いディストピアに他ならないと思います…。電子ブック用の電子書籍化へのニュースを見て、辛い気分になりました…。技術(電子書籍)が貧しき人々を排除するのではなく、貧しき人々への配慮を持って技術があることを心から望みます…。

参考作品(amazon)
未来をつくる図書館―ニューヨークからの報告― (岩波新書)
図書館に訊け! (ちくま新書)
リストラされた100人貧困の証言 (宝島社新書)

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僕の先に書いたエントリ(http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1181520.html)、かーずSPさんのこれまでの言動から考えるとおかしいのではないかとご指摘を受けまして、聞きましたら、かーずSPさん、昔から、『外でエロゲをすること、電車の中でエロゲをすること』を肯定していまして、『萌えオタクは外でのエロゲプレイを目指すもの』と発言して、その行為を萌えオタク全体に延長する形で正当化して、そのためにノートPCを新調しているんですね…。すみません、そのことを全く知りませんでした…。

話を聞くと、確かに、これはちょっと、擁護のしようがないというか、いくらなんでも、道徳的にあまりにもどうかと思いました…。かーずSPさんのこの論法に従えば萌えオタク全体が反道徳的行為者(もしくは未遂者)ということになる。確かにこれはないですね…。すみません、このこと全然知らなかったので…。先のエントリについて、訂正いたします。ごめんなさい。指摘されて知った発言を引用しますね。

かーずSP×伏見つかさ(「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」作者)対談
かーず:(小説「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」の中に)あと外でモバイルエロゲーをするオタクが出てくるんですけど、こんな奴がいたんですか?

伏見:私の友達にですね、電車の中でエロゲーをやる人がいるんですよ。

かーず:へぇー、そんな事をする奴が……まあ、ときには、いるかもしれないな。……っていうかそれ僕の事ですよね!ASCII.jpさんで(外でエロゲをプレイする為のPC新調について)書かせていただきましたからね!

伏見:私は(このエピソードを)直接かーずさんから聞いたんですが、その時から「そんな人がいるんだ。いつか絶対ネタにしよう」と思ってました。

かーず:またネタにされちゃった!でも外でもエロゲーを遊ぶのって、萌え系オタの目指すところと思うんですよね。

外でエロゲをやるのを正当化することは、18禁のポルノ雑誌を外で堂々と開陳するのを正当化することと同じですし、それを『萌え系オタの目指すところと思うんですよね。』と語っちゃうのは流石にどうかと…。僕はかーずSPさんのサイトやその面白い行動が好きなので、かなりかーずSPさんに好意的な立場だと思いますが、それでも、そのように一般化されては、「問題がある」と言わざるを得ないと思います…。電車の中という逃れようのない場所で、否応なくポルノを見せられて辛い思いをする方々に対する思いが、全く欠如しているかと…。

前回のエントリで書いたときは、かーずSPさんは深夜の空いている電車で、人の迷惑にならないようにして、お笑いのネタとして、電車の中でエロゲというネタを撮影して、ツイッターに書き込みながら画像を上げたのだと思っていて、そのつもりで、エントリを書いたのですが、どうも、そういう配慮とか、最初から吹っ飛んでいたみたいですね…。

大勢の人が、「見たら嫌と感じる」であろうものを公共の場で提示して見せるということは、1つの暴力の形であり、公共の場のマナーに反しているわけで、それを芸としてやるなら、最低限その意識(反道徳的なことを芸能としてやっているという意識とそれによる自省と自制)が必要だと思いますが、それを、『萌えオタクは外でのエロゲプレイを目指すもの』なんてメチャクチャな理由で正当化しちゃいけないと思います…。この発言を見る限り、反道徳的な暴力であるという意識はないみたいです…。

すみません、前回のエントリ書いたときは、まさか、『萌えオタクは外でのエロゲプレイを目指すもの』なんて発言しているとは全然思わなかったので、かーずSPさんが、自分を特殊な芸人だと自覚した自省と自制の上で、敢えてやっているものだとばかり…。僕の捉え方が間違っておりまして、本当にごめんなさい…。

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Ragtime: The Music of Scott Joplin [Collector's Edition Music Tin]

先日、ガーシュウィンの10枚BOXについて紹介させて頂きましたので(http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1177858.html)、今回は、ガーシュウィンの音楽を聴く上で書かせない、ガーシュウィンのルーツ、イージーリスニング・ポピュラー音楽の基礎を築いたスコット・ジョプリンの「ラグタイム音楽」をご紹介致します。ジョプリンの作曲したラグタイム・ピアノ曲は、とてもノリが良く、ガーシュウィン以上にノリが良くて、聴いていると踊り出したくなるようなうきうきした明るいポップ・クラシカルな音楽です。

スコット・ジョプリン「メープル・リーフ・ラグ」
http://www.youtube.com/watch?v=pMAtL7n_-rc

ラグタイムは、ブルースなどの伝統的な黒人音楽を、19世紀末〜20世紀初頭に掛けて、聴きやすくポピュラーに手直しした黒人音楽でして、現在のポピュラー音楽、イージーリスニングの基礎になっています。チャップリンやバスター・キートンなどのサイレント喜劇映画で流れているコミカルな音楽を想像してもらうと分かりやすいです。分かりやすく親しみやすいリズムとメロディ、覚えやすいリフレイン形式、聴いている人々の気持ちを高揚させる明るいハーモニーなどが特徴です。日本で流れる曲では、キューピーマヨネーズの三分クッキングの音楽とか、天気予報で流れる音楽とか、運動会などの学校行事の時に流れている明るくテンポの良い音楽とかを考えて頂けるとラグタイムの感じが分かりやすいかと思います。「メープル・リーフ・ラグ」や「ジ・エンターテイナー」など、ラグタイムの音楽はシンプルで親しみやすく、映画やTVなどでもよく使われているので、誰でもどこかで聴いたことがあるかもです。アルバム「スコット・ジョプリン ジ・エンターテイナー」から引用致しますね。

ラグタイム・ピアノというとスコット・ジョプリンの名前を思い浮かべる人が多い。ジョブリン作のオリジナル・ラグ(ポピュラー・チューンをラグ的に変奏したものではなく最初からラグタイムの曲として書かれたもの)である「メープル・リーフ・ラグ」や「ジ・エンターテイナー」といった曲は、誰もがそのメロディに耳覚えがあるのではと思えるくらい人々に親しまれている。(中略)

ラグタイムは黒人独特のシンコベーションのきいた躍動感溢れるリズムに西洋音楽のハーモニーを乗せて黒人が作り出した音楽である。西洋音楽の形式や記譜法を取り入れることによって、きわめて偶発的であったこの音楽は一つのスタイルとして定着したことを考えれば、ラグタイムがその音楽性においてクラシック音楽的要素を含んでいることは当然と言える。(中略)しかしながらいくらラグタイムに格式や品格を求めたところで、ラグタイムは構築された繊細な美しさとは全く正反対の粗野で猥雑さを持って生まれてきた音楽であり、最終的に西洋音楽の形式によってそのスタイルを完成させたとはいえ、やはりその魅力は黒人独特の躍動感のあるリズムや西洋音楽から見た意外性の心地よさにあると思う。(中略)

「ラグタイム・ピアノとは」

ラグタイムは19世紀に黒人達が黒人霊歌や労働歌、当時の黒人流行歌など身近にあったあらゆる音楽に、アフリカ的リズムと黒人独自の慣性を盛り込んで生み出したアフロ・アメリカン・ミュージックである。(中略)ピアノは当時(ラグタイムが流行した19世紀末〜20世紀初頭)最も親しまれていた楽器であったことや、一人でメロディ・リズム・ハーモニーを同時に表現できるので、リズムとメロディの組み合わせに特色を見い出した音楽であるラグタイムに最も適したことから、一躍人気を集め、ラグタイム・ピアノという一つの独立したスタイルが確立された。

ラグタイム・ピアノはダンスや娯楽のための音楽であり、祭りや紅灯街の売春宿で、あるいはミンストレル・ショーやバレルハウスなどで演奏され、育まれてきた音楽である。だから本来、荒削りでありながら、エモーショナルで生き生きとした音楽である。ジョプリンも若くしてサロンやバレルハウスに出入りし、ピアノを弾くようになった。そうした場所で彼は先輩格のピアニストからアフロ・アメリカ的なピアノ・スタイルを学び取ると同時にクラシック音楽の教育も受けた。彼のように音楽的教育を受けたピアニスト達が、とりとめがなく一貫性のみられなかったアフロ・アメリカ的なピアノ・スタイルをうまくまとめあげ、ラグタイム・ピアノは完成したのである。
(「スコット・ジョプリン ジ・エンターテイナー」ライナーノーツより)

僕の好きな映画に「スティング」という映画があるのですが、この映画は、今回紹介するスコット・ジョプリンのラグタイム音楽(メープル・リーフ・ラグなど)を使っていましたね。良い意味でのシンプルさと、味のあるチープ感覚を持つジョプリンのラグタイムが、映画「スティング」の三流詐欺師を主人公にしたコン・ゲームの物語にとてもマッチしていて、非常に嬉しく思ったのを覚えています。映画と音楽がベスト・マッチしていましたね。

スティング 【プレミアム・ベスト・コレクション\1800】 [DVD]
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スコット・ジョプリンはラグタイム・キングと呼ばれる、ラグタイムの代表的な黒人作曲家です。彼はブルースを分かりやすく親しみやすくし、誰でも楽しめるラグタイムピアノ曲とすることで、大衆的な人気を集めました。しかし、彼の死によって、彼はアメリカ音楽史からすっかり忘れ去られてしまいました…。1960年代後半から彼の曲の再評価が始まり、1973年、映画「スティング」で彼の曲が使われ大ヒット、彼の曲はアカデミー音楽賞を受賞、彼はようやく再び日の目を見る存在となりました。

「スコット・ジョプリンについて」

キング・オブ・ラグタイムといわれるスコット・ジョプリンは1868年11月24日、テキサカーナで生まれている。父は白人主人の経営するプランテーションでヴァイオリンを弾き、母はバンジョーを演奏し、歌を歌うという音楽一家に育った。子供の頃から楽才を示したスコットは町でドイツ人の音楽教師に師事し、クラシック教育を受ける一方で、町のバレルハウスや売春宿に出入りするようになり、そういった場所でピアノを弾くようになった。(中略)

ミズーリ州セダリア(ラグタイムの主都といわれるラグタイム隆盛の地)の町に移った彼は、黒人のためのスミス大学で作曲を学び、再度音楽的基礎を固め、やはり同時に町の赤線地帯でクラブ・ピアニストとして働いた。1899年に生涯の傑作「メープル・リーフ・ラグ」を出版するや最終的に100万部の大ヒットとなり、彼は一躍ラグタイム・キングの名声を手に入れたのである。
(「スコット・ジョプリン ジ・エンターテイナー」ライナーノーツより)

彼のラグタイムピアノ曲は、どれも明るく親しみやすく聴きやすい、BGMにするにぴったりの曲です。複雑な曲をBGMにしていたらそれだけで疲れますが、彼の曲は「シンプル・ザ・ベスト」を地で行く曲なので、BGMとして流しておくに相応しい曲です。「底抜けに明るくテンポの良いサティ」「シンプルなガーシュウィン」みたいな曲ですね。どれも、何度聴いても飽きない名曲が揃っています。お勧めですね。ぜひ、一度聴いて欲しいラグタイムの作曲家さんです。

お勧めアルバムとしては、3枚組のBOXアルバム「Ragtime: The Music of Scott Joplin [Collector's Edition Music Tin]」がダントツで一押しです。現在amazonで1500円切ってますね。ラグタイムの猥雑さにしてパワフルな魅力が良く出ている演奏、ジョプリンのピアノ曲がアルバム3枚に多数収録されており、コストパフォーマンス抜群です。ケースもなかなか凝っていて、ブリキっぽいBOXに、ラグタイムを演奏している黒人ピアニストの絵が浮き彫りで描かれています。ケースの中にはCDの他にも当時(1900年前後)の黒人の人々を描いたポストカードが六枚入っていたり、CD以外も楽しめるBOXですね。お勧めです。ただ難点として、3枚とも録音状態が良くなく音質がかなり悪いので、ボリュームをあげると音が割れます…。ただそれでも、パワフルな演奏でラグタイムの全体像をつかめるという点で、高い価値のあるBOXセットだと思います。

Ragtime: The Music of Scott Joplin [Collector's Edition Music Tin]
Ragtime: The Music of Scott Joplin [Collector's Edition Music Tin]

あとは変り種のアルバムとして、スコット・ジョプリンが残したピアノ・ロールを、ラグタイム当時(1910年)のロール・ピアノを使って演奏させて、デジタル録音したアルバム「スコット・ジョプリン ジ・エンターテイナー」が面白いですね。これがスコット・ジョプリン本人の演奏かと思うと感慨深いです。ジョプリンの演奏ははっきりいって物凄く下手でありますが、『名曲を書いたジョプリンはピアノ演奏が本当に下手だったんだなあ…』と歴史的なことを思いながら聴けるという点では、なかなか面白いアルバムかなと思います。

Scott Joplin: The Entertainer
Scott Joplin: The Entertainer

本CDはスコット・ジョプリンのラグタイムの名曲をロール・ピアノに自動演奏させ、それをデジタル録音したものである。中でも最初の3曲「メープル・リーフ・ラグ」「サムシング・ドゥーイング」「ウィービング・ウィロー・ラグ」は、スコットジョプリン本人の演奏を記録したロールを再生したもので、ロール・ピアノという機械的媒体を通してはいるものの、本人による生演奏の録音が存在しないことを考えると、間接的とはいえ本人の演奏に接することができる唯一貴重な機会と言える。演奏内容ははっきり言って上手とは言い難く、同じバイオグラフ社からでているユービー・ブレークやジェームス・P・ジョンソンのピアノ・ロールと比べると、その差は歴然としているが、曲の中の至るところに、オリジナル・スコアと違う装飾音や左手のベース・パートの経過音などが挿入されているのはなかなか興味深い。
(「スコット・ジョプリン ジ・エンターテイナー」ライナーノーツより)

「Ragtime: The Music of Scott Joplin [Collector's Edition Music Tin]」、「スコット・ジョプリン ジ・エンターテイナー」どちらも楽しく聴ける良いアルバムだと思います。ラグタイムの醍醐味は、親しみやすい明るさにありまして、聴いているとそれだけで心が明るくなるような音楽です。皆様方に心からお勧めできる素敵な音楽です。また、ラグタイムのアルバムは他のジャンルに比べると廉価なアルバムが多く(値段が500円〜1000円前後程度のアルバムが多い)、アルバムが色々と聴きやすく、黒人民衆音楽だけあって、貧しき音楽好きに優しい音楽と感じますね…。

参考作品(amazon)
Ragtime: The Music of Scott Joplin [Collector's Edition Music Tin]
Scott Joplin: The Entertainer
Joplin: Rag-Time Music; Previn: A Different Kind of Blues
ジ・エンターテイナー〜ジョプリン / ピアノ・ラグ集
ジョプリン:ラグタイム・ピアノ
Joplin: The Red Back Book / Schuller, Grierson, New England Ragtime Conservatory, Southland Stingers
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2010年05月27日 21:55

このエントリ、全面的に訂正いたします。ごめんなさい。下記の訂正エントリを読んで頂けると助かります。
http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1181820.html

道化の民俗学 (岩波現代文庫)

電車内でエロゲなう
http://twitter.com/karzusp/status/14625348738

大手ニュースサイト「かーずSP」管理人にして、芸能活動も行っている芸能人オタクライターのかーずSPさんが、「電車の中でエロゲをプレイした」と告白したことが、かーずSPさんはマナー違反だ!と責められて問題になっているみたいですね…。どうして問題になるのか不思議です。僕は「かーずさんなら仕方がない!」という擁護意見に心から同意しますね。かーずSPさんは痛いオタクを演じるお笑い芸人(道化)なのですから、お笑い芸人が行ったお笑いの為の活動を、厳しい公共道徳的観点から批判するのはどうかと思います。かーずSPさんのような、みんなの笑いのために自虐的に身体を張るお笑い芸人さんは大切に寛容に扱われて欲しいと思います。それは社会においてユーモアを許容するゆとり、寛容ではないでしょうか。

かーずSPさんの芸能活動を見れば分かるように、彼は「痛いオタク」のキャラクター(素じゃなくて、自分で作っている痛オタのキャラクター)のイメージを全面に出して色々な芸能活動をするのが独自の芸なのですね。これに怒るのはお笑い芸人の芸が下品すぎて許せない!って怒るのと同じようなことだと思います。これが封じられたらかーずSPさんは「痛いオタク」を売りにした芸能活動ができなくなってしまう。芸人の芸を、素の公共道徳に絡めて批判するのは上手くないなあと。芸人の芸としての行動と公共道徳はある程度は別々に考えるべきだと思います。そうしないと、世の中、つまらなくなってしまいますよ…。

勿論、芸人の芸の許容にも限度はあります。けれど、芸人の芸能活動というのは、大昔から、一般的な公共道徳の枠をある程度は拡大して乗り越えることが許される、通常なら「不道徳だ」とされることを敢えてやることで、社会にユーモアを齎す役割を担うことを許されている活動なのです。それは、芸人のこういった活動は、「敢えてやる自虐ネタ」としてのメタ的な要素(自らの行動に対する自省的要素)を持っているからです。今ではすっかり世界的映画監督の大御所として振舞っているビートたけしさんの過去の芸能活動なんか、不道徳なものだらけでしたよ。かーずSPさんは痛いオタクを演じる芸人なのですから、今回くらいの芸は、許容されて然るべき範囲の行いだと僕は思います。

かーずSPさんが今回「電車内でエロゲなう」とツイッターに投稿してその画像を上げたことは、ネットに面白いお笑いのネタを自分の身を張って提供するという、お笑い芸人かーずSPさんならではの渾身のギャグネタなわけでして、「流石かーずSPさん!お笑いの為に体張ってくれてる!」と僕は内心で快哉を叫びましたね。普通の人なら恥ずかしくてとてもできないことを敢えてやることで、「痛いオタクは羞恥心もマナーも持たない、本当に最低の屑なんですよ〜!!」ということを、身体を張って自虐的に表現し、それがユーモア(笑い)を生んでいる。かーずさんを責めている人達は、笑いの為に身体を張って自虐ネタを披露しているお笑い芸人を責め立ててどうなるんだと思いますね。そんなの、とても無粋な、つまらないことですよ。

今回、かーずSPさんを責め立てている論は、「かーずSPさんは公共道徳に反している」という意見が大勢を占めていますが、かーずSPさんは、「痛いオタク」というイメージで芸能活動をしているんですよ。かーずSPさんは、身体を張って痛いオタク的行動をして、『かーずSPって、本当に最低の屑だわ!』と言われることが最高の褒め言葉である(エロゲにおいて「本当に最低の屑」とはエロゲ「姫騎士アンジェリカ」から来ている褒め言葉として扱われています)、自虐的なお笑い芸人さんであることを考えるならば、彼は大きな意味で公共道徳に反しているとは言えないと思います。かーずSPさんが、自らの行動に意図的なお笑い芸人であることはもっと加味されるべきかと…。

あと、僕としてこの一報を聞いて一番思ったことは、

どき魔女を電車でプレイすることに比べればたいしたことはない(キリッ

僕はどき魔女に嵌っていた頃、空いている電車の中でどき魔女プレイしてみようかと思ったことはありますが(お笑いのネタではなく、実際にプレイしたかったので)、実際にはそれはどうしても恥ずかしくてできなかったですね…。電車のなかでエロゲとかギャルゲをプレイするということは、公共道徳がどうとか言う前に、多くの人々にとっては、恥ずかしくてできない行為だと思うんですね。それを、みんなの笑いのために勇気を出して『敢えて行った』かーずSPさんに、僕は心からの感動を覚えました。こういう『みんなの笑いのために自虐的に身体を張るお笑い芸人さん』はもっと大切に寛容にされるべきだと思います。そうしないと、社会がつまらなくギスギスしたものになっちゃいますよ…。

ただ、最後に重要なことを一言付け加えるとしたら、かーずSPさんが電車内でエロゲをしたことで、実際にその電車に乗り合わせて、不愉快になった人がいたら、その人は、かーずSPさんに抗議をする権利が充分にありますし、抗議してもよいし、その抗議はちゃんと扱われるべき正当性を持った抗議である、これは忘れてはならないことだと思います。

ただ、今現在、かーずSPさんを責め立てている人達は、かーずSPさんと電車内に乗り合わせた人達ではないですよね…。公共道徳を盾にかーずSPさんを責め立てる人々に、かーずSPさんの行動はみんなの笑いのために痛いオタクを演じるお笑い芸能活動であるということも、考えて欲しいですね…。勿論、公共道徳は大事ですが、芸能は、公共道徳をメタ的な視点から揺さぶることでユーモアを生み出す活動であることも、忘れられるべきではないと思うのです。

参考作品(amazon)
道化の民俗学 (岩波現代文庫)
道化の宇宙 (講談社文庫)
文化と両義性 (岩波現代文庫)
トリックスター (晶文全書)
どき魔女ぷらす(特典無し)
どきどき魔女神判!2(Duo)(通常版)(特典無し)
どきどき魔女神判!(1) (チャンピオンREDコミックス)
どきどき魔女神判! (2) (チャンピオンREDコミックス)
どきどき魔女神判2 1 (チャンピオンREDコミックス)
どきどき魔女神判2 2 (チャンピオンREDコミックス)

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ルネサンス・リュート曲集

前回(http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1180868.html)、総領冬実さんの、チェーザレ・ボルジアをメインとしたイタリア・ルネサンス歴史物「チェーザレ」についてご紹介させて頂いたので、今回は、当時の音楽についてご紹介致します。当時のヨーロッパの民衆的な音楽としては、小型弦楽器のリュート(現在のギターに近い弦楽器)による音楽が挙げられます。リュートは、どこでも誰でも持ち歩いて弾けるため、教会でのみ弾く・聴くことが可能なオルガンなどの楽器とは違い、一般市民に膾炙しました。ちょうど、チェーザレ・ボルジアが活躍した頃は、イスラムからヨーロッパに伝わったリュートの最初の全盛期でして(ちなみに日本に伝わったリュートの原型は「琵琶」になりました)、総領冬実さんの「チェーザレ」に出てくる実在の登場人物達もおそらくはその響きを耳にしていたと思われます。リュートはルネサンスに興隆した最大の楽器であり、その特徴は、奏でられるのが宗教音楽ではなく、民衆音楽であるということです。

ヨーロッパにおけるリュートの興隆の最大の決め手となったのは、ルネサンス期の芸術において繁栄を極めたイタリアです。イタリアはルネサンスにおいてリュート音楽の大国でした。1507年、奇しくもチェーザレ・ボルジアの没年に、リュートの楽譜本、リュート・タブラチュアがイタリアで出版されたことで、リュートはヨーロッパ中で大きな発展を遂げます。16世紀を通して、イタリアはリュート音楽の最盛国となり、各国の宮廷にもその影響を与えました。現代でいうところの「流しのギター弾き」みたいな感じで、旅の音楽家が「流しのリュート弾き」をやっていると考えて頂けると、分かりやすいかなと。リュートは、教会で奏でられる宗教音楽の為の楽器ではない新しい楽器、民衆音楽を宮廷や街の広場・街路で奏でるための楽器として大いに使われたのです。

これは音楽史を考える上でかなり重要なことで、音楽が教会の音楽(オルガン曲、賛美歌など)から、民衆の音楽(教会と関係の薄い民衆音楽家達が奏でる音楽、ルネサンス・リュート曲など)に移行した流れの一環としてあるのです。チェーザレ・ボルジアなど、ルネサンスの立役者達が、民衆に対する教会の支配的権威を弱めたことで、音楽に対する教会の支配的権威も弱まり、リュートが誰でもどこでも弾ける楽器であることとあいまって、「民衆の音楽」としてリュート音楽が人々に膾炙したとされています。リュートという楽器自体も、キリスト教文化が生み出したものではない、イスラムから入ってきたもの(発祥はササン朝ペルシアとされています)ですから、このことを考えると、歴史のうねりを感じますね…。

僕はリュートがチェンバロと並んで大好きな古楽器でして、よく聴くことが多いですね。良い意味で素朴さを感じさせる、郷愁に満ち溢れたリュートの音色が奏でられるルネサンスの音楽を聴くと、チェーザレ達もこの音楽を聴いていたのだろうか、と感慨深い想いが浮かび上がります…。

最初のリュート・タブラチュア本が印刷出版されたのは、1507年のイタリアにまで遡る。16世紀を通してイタリアのリュート奏者と彼らの作品は、ヨーロッパ全土に強い影響を持っていた。イタリアのリュート音楽は質の面でも量の面でも圧倒的だった。
(イェラン・セルシェル「ルネサンス・リュート曲集」)

リュート曲は数ありますが、僕が好きで良く聴いている、「チェーザレ」の新刊が出たときにBGMとして流しているアルバムは、イェラン・セルシェルの「ルネサンス・リュート曲集」です。ルネサンス・リュート音楽のなかで僕が知る限りにおいて、一番聴きやすいアルバム、穏やかで郷愁を感じさせる、心を打つ音楽アルバムだと思いますね…。ただ、このアルバムは高いので(3000円もします)、安く手軽に聴きたいという場合は、500円で売っている「涙のパヴァーヌ ルネサンス・リュート名曲集」や、1500円前後で売っているキルヒホーフのものなども、ちゃんと聴ける演奏ですので、そちらのアルバムでも、ルネサンス・リュートの味わいは確りと味わえると思います。デッカの1200円のダウラント・リュート曲集もとても良い出来です。

イェラン・セルシェルの「ルネサンス・リュート曲集」についてご紹介させて頂きますと、イェラン・セルシェルはルネサンス音楽の第一人者であるギタリスト、ヨンソンに師事したギタリストでして、リュートという古楽演奏に行いながら、なおかつ、現代ポピュラー音楽の娯楽性(現代の聴衆)を意識した演奏を行う音楽家です。古楽を当時のまま弾くのではなく、古楽を現代の人々に分かりやすく弾くタイプの演奏者ですね。ビートルズなどの近現代ポピュラー音楽の演奏も手掛けているので、他のリュート音楽演奏者に比べると、彼の演奏は非常に聴きやすいのが特徴です。リュート演奏における最高峰の弾き手と言える人物の一人だと僕は思いますね。

彼は、アルト・ギターという、ヨンソンが開発した、リュートの音を出す為の特殊なギターの弾き手でして、彼の奏でるルネサンス・リュート曲は、ルネサンスという遥か古い時代の郷愁を感じさせる優れて切なく胸に響く、名演奏であると思います。セルシェルの奏でるルネサンス・リュート音楽は、心からお勧めする美しい音楽ですね…。お勧めです。「チェーザレ」を読むとき、流しているのに相応しい音楽だと思いますね。ルネサンスの時代に民衆によって奏でられていた、美しい音楽です…。僕は「チェーザレ」読むときは、いつもこのアルバムを聴いています。

参考作品(amazon)
ルネサンス・リュート曲集
涙のパヴァーヌ~ルネサンス・リュート名曲集
ルネサンス・リュート
ダウランド:リュート集

チェーザレ 破壊の創造者(1) (KCデラックス)
チェーザレ 破壊の創造者(2) (KCデラックス)
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