2010年02月

2010年02月06日 21:12

Arrietty's Song(借りぐらしのアリエッティ・主題歌)
Kari-gurashi〜借りぐらし〜(借りぐらしのアリエッティ・イメージ歌集アルバム)

今年公開されるスタジオジブリの新作映画「借りぐらしのアリエッティ」、音楽はケルト音楽の歌い手セシル・コルベルさんが起用されるとのこと、エンヤやアルタン、ダン・ア・ブラースやチーフタンズといったケルト音楽を愛好する僕としては実に朗報、完成が楽しみですね…。

僕はケルト音楽が好きでして、昔からよく聴いています。僕は人間の歌声は苦手なのですが、ケルト音楽のアルバムは「歌声のないインスト曲が幾つか+涼やかな歌声の曲が幾つか」という形でとても聴きやすく、好みですね。人間の情念というものが良い意味で薄く、涼やかでクールで聴きやすくて、僕の大好きな音楽ですね…。

ケルト音楽というのは、滅ぼされ離散したケルト民族と民族の絆としての古き言語ゲール語という、大きな歴史的な視野を持っており、歌詞も個々の人間的情念を超えた歴史的な流れ、大きな世界の流れを歌っているので、男女の付き合いがどうしたこうしたというような歌詞の歌とは違って、非常に壮大で、人間的な感傷の入る余地は少ないんですね。あくまで世界に対して歌っていて、神に対して歌っている賛美歌と同じく、人間的な情念を超えた世界を歌いますので、聴いていて情念に引っ張られるということがなく、その美しさを適切な距離を取って聴くことが出来るのです。

美しさを感じるには美の対象に対しての適切な距離が必要であって、人間の距離を狂わせる情念の強さは、美の観賞においては障害になることが多いです。ケルト音楽はクラシック音楽と同じく、人間の情念を超えたところに位置する音楽、世界に対して美を捧げる歌であって、音楽の美を心から堪能できる素晴らしい音楽ですね…。

僕のお勧めとしては、エンヤとアルタンのアルバムは全部お勧めですね。エンヤは「エンヤ オールタイム・ベスト」、アルタンは「ザ・ベスト・オブ・アルタン」というベスト盤がそれぞれ出ていますので、初めて聴くお方々はこちらをまずは聴くのが良いかなと思います。お気に入りましたら、クラナドとかデ・ダナンとかダン・ア・ブラーズとかチーフタンズとかいろいろ聴いて下さいますと、ケルト音楽の素晴らしき豊穣が味わえて良きかなと思います。

後、最初に挙げたスタジオジブリの新作ですが、映画音楽にケルト音楽を採用して頂けるのはケルト音楽好きとしてとても嬉しいのですが、ただ、ケルト音楽の歌い手であるセシル・コルベルさんに、彼女には全く馴染みのない異邦言語である日本語でケルトの歌を歌わせるというのはあまりにもどうかと思います…。日本側(スタジオジブリ側)のケルト音楽文化を無視したごり押し過ぎます…。本来は違う言語の歌を日本語で歌わせるような、文化の違いを無視したやり方は好きではないです…。ケルト音楽とゲール語は歴史的文化として一体化しており、ケルト音楽はゲール語で歌われてこそ、美しいのですから…。最後に、ダン・ア・ブラースのアルバム「ケルトの遺産」より「Language Of The Gaels」の歌詞を引用しますね…。

モルド・マクファーレン作詞・作曲
「Language Of The Gaels」

北からの雪でもない霜でもない
東からの身を切るような風でもない
西からの雨と嵐でもない
それは南からやってきた災厄に他ならない
私達の美しい言語の根も茎も葉も
そして花までも枯らしてしまう

来るが良い、私達の地、西の地へ
そこではフィンガリアンの言葉が語られる
来るが良い、私達の地、西の地へ
そこではゲールの言葉が語られる

谷間にキルトを着た者を見かけたならば
彼が話すのはまさしくゲールの言葉

けれど、彼らが地面から根こそぎにされたなら
とって代わるのは南のローランダーの言葉
その土地はもはや今までの土地ではない
戦争屋達が支配する土地

『ここに金の燭台を与えよ
そして白い蝋燭を据えて
追悼の部屋にその炎を点けよ
古きゲールの言葉の葬式の為に』

往年の敵どもはこう歌う
しかし私達ゲールの言葉はなお生き続ける

私達の言葉は谷間の空へ飛び立った
もう街では誰もその言葉を話さない

マッケイの地から北へ
ドラモクターの山間の小道へ
遥か西の島々では
そこではいまだ人々の愛すべき美しき言葉

ケルトの言葉で歌われてこそ、ケルト音楽の素晴らしさはあると僕は思いますね…。

参考作品(amazon)
Arrietty's Song(借りぐらしのアリエッティ・主題歌)
Kari-gurashi〜借りぐらし〜(借りぐらしのアリエッティ・イメージ歌集アルバム)
エンヤ~オールタイム・ベスト CD+DVD
The Best of Altan: The Songs
ケルトの遺産

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2010年02月05日 22:14

崖の上のポニョ [DVD]
崖の上のポニョ [Blu-ray]

――ルルイエの棲家にて死せるクトゥルフ夢見るままに待ちいたり
(ラヴクラフト「クトゥルフの呼び声」)

再び海の時代が始まるのだ。
(「崖の上のポニョ」)

「崖の上のポニョ」視聴中。映画館で見たときも思いましたが、クトゥルフ神話体系そのものですね…。星辰の動きが狂いルルイエが浮上する、ああ、宇宙的恐怖!!

そのような巨大な力を有するものの生き残りが今なお現存することは考えられる……それは意識体が形を成し始めた悠久太古の時代の存在であって、潮のごとき人類の進出の前に姿を消して久しい……その姿は詩と伝説のみが遥かの記憶の裡に捉えて、それに神とか、怪物とか、諸々の神話の存在の名を与えるのである。
(アルジャーノン・ブラックウッド)

『崖の上のポニョ』 クトゥルー神話
http://budouq.blog5.fc2.com/blog-entry-625.html
この作品は、だいぶ「クトゥルー神話」を踏襲した創りになっており、そういう見方をするといろんなことに説明がつき、全然わからないことなんかなくなります。てゆか、さっき自分で「難しいこと考えるな」って言ってたのに。でも、どうしてもこの駄目脳ミソがそういう観かたをしてしまうのですテケリ・リ。

まず、よく言われてる「ポニョって何よ?」、「魚の子じゃないの?」という点。ヤツは、「父なるダゴン」と「母なるハイドラ」、そして全ての水棲生物の支配者である「大いなるクトゥルー」を崇拝する「深きものども」に違いありません。

ヤツが魔法を使う時に垣間見せるあの「インスマス面」が、その何よりの証拠。魚というより、両性類に近いソレらは、人類と交配してその数を増やしながら、「大いなるクトゥルー」の復活の日に備えて準備を進める、旧支配者の眷属に他ならないのです。

「かつては私も人間だった」というポニョの父親による台詞。否応なく、マサチューセツ州の港町インスマスに「深きものども」を引き込んだ、かのオーベッド・マーシュ船長を彷彿とさせます。オーベッド船長を含めたマーシュ家の人間は、「深きものども」を妻に娶り、その見返りとして巨財を築きあげました。

しかし、その「深きものども」の血を受け継いだ子孫たちは、生まれてからある程度の期間は普通の人間と変わらない姿をしてはいるものの、同族との接触や極度のストレスなどをきっかけに「インスマンス面」と呼ばれる「蛙に似た容貌」に変容するのです。

そして、ポニョの父親の「悪い魔法使い」という設定については、ダンウィッチにて「ヨグ=ソトース」を召還する儀式を執り行い、ソレを実の娘に娶らせた「魔法使いノア・ウェイトリー」の所業をも想起させます。というか、環境保護思想も潔癖すぎるとああなるよっていう逆説的なメッセージにもとれますけど。

さらに、あの「巨大なお母さん」について。アレが「ダゴン」なのか「ハイドラ」なのかはわかりませんが、デボン紀の海を懐かしむソレは、間違いなく「大いなるクトゥルー」の崇拝者であり、正史以前の地球に君臨していた「旧支配者」に違いありません。

しかも、ポニョパパがアレを「あの人」と呼び、決して名前を口にしないのは、その名前が「忌み名」だからです。旧約聖書の唯一神「YHWH」のように、その名をみだりに唱えてはならないほど、アレは高い神格だってことをも示しているわけです。メガテンでいうとLv90ぐらい。

あと、諸星大二郎の漫画『栞と紙魚子』シリーズに出てくる、「クトゥルーちゃん」の「お母さん(巨大。ドアを開けるといつも顔だけしか見えない。)」が、あの母親にそっくりなんですよね。ていうか、その夫「段一知(普通の人間)」とその娘「クトゥルーちゃん」の家族関係が、ポニョの家族と被ります。パクリとかそういう低脳な指摘はしないけど、全く意識してないとはいえないでしょう。

最後に、主人公?の男の子がたどるであろう今後の運命について。クトゥルー的に考えると、「犬に噛み殺される」とかろくな死に方はできなそう。あと、「生まれた双子の子供のうち一人はあまりにも異次元の血が濃く、その巨大な姿を世間の目から隠すために納屋の改築を繰り返す人生」とか。

ラヴクラフトの原典から引用しますね…。

グレート・オールド・ワンズ(偉大なる古き支配者)は、血と肉によって在るものではない。形はあった――星辰の映し出す映像がその証拠となる――が、それは物質ではない。星辰が古き正の位置にあったとき、彼らは世界から世界へ天空を飛び回ったが、星辰の動きが狂うと、生きられなくなった。彼らはもはや生きてはいないが、死んでもいない。かれらはルルイエの巨大都市の石の棲家で、星と地球が再び正の位置に戻る栄光の復活の日を待ちながら、クトゥルフの偉大な呪文に護られ横たわっている。(中略)

無限の混沌の後に最初の人類が生まれたとき、グレート・オールド・ワンズは夢を創り出し、人間のうち最も繊細な者に語りかけた。それは哺乳動物の肉体を持つ精神にかれらの言葉を伝える唯一の方法であった。

そして、とカストロ老人は囁くように言った。この最初の人類は、グレート・ワンズが見せてくれた像を中心として宗教を作り上げた。測り知れぬ時代を超えて、暗黒の星々からもたらされた像である。この教義は星辰が再び正の位置に戻る日まで絶えることはない。秘密の信徒達は偉大なクトゥルフを墓から起き上がらせ、彼の臣徒達を蘇らせ、彼らの地球支配を取り戻すだろう。そのとき人類は、グレート・オールド・ワンズのように無限の自由を得て、善悪を超越し、法と徳は消え去り、万人が歓喜のうちに叫び殺し合い浮かれ狂うだろう。そして蘇ったグレート・オールド・ワンズは人間に、殺戮と狂喜乱舞する法悦の味わい方を教え、地球は恍惚と自由に満ちた大殺戮の焔で焼かれ尽くされるのだ。そのときまで、この教義は、独特の祭儀で古代の記憶を保ち続け、彼らの復活の予言を伝えてゆかねばならない。

遥か昔は、選ばれた人々は横たわるオールド・ワンズと夢の中で交信していたが、その後、何かが起こった。巨石都市ルルイエは、石碑や墓地もろとも海の底へと沈み、思考を超えた原始の謎を深い海が飲み込み、その霊交を断ち切った。しかし記憶は絶えることなく、祭司達は、星辰が正しき場所を得るときルルイエは再び浮上するであろうと告げた。爾来、忘れられた海底からのおぼろげな言葉を伝えるべく、黴くさい影のような黒い地霊が底から現われ出る。(中略)

奥義を伝授された者のみが読む、狂気のアラビア人アブドゥル・アルハザードが著した「ネクロノミコン」の中の、特に論議の対象となる対句には、二重の意味があるという、それは…

『久遠に伏したるもの死する事なく、怪異なる永劫の内には死すら終焉を迎えん』

(中略)クトゥルフは依然として生き続けていると私は思う。太陽がまだ若かった頃から彼を庇護している、あの巨石の深い深淵の中で生き続けているだろう。呪われた都市は再び海底に沈んだ。四月の嵐以降、ヴィジラント号はその地点を航行しているのである。しかし地上の祭司どもは今なお、人気なき場所で、偶像を抱いた石碑の周りで吼え、跳ね、殺戮を繰り返しているのだろう。「かれ」は再び暗黒の深淵に沈んだに違いない。さもなければ今頃は、世界は恐怖と狂乱で泣き叫んでいるであろう。

いつ終局が訪れるのか、誰にもわからない。浮かび上がったものはいずれ沈み、沈んでいたものはいずれ浮上するであろう。忌まわしく奇怪なものが、深淵で浮かび上がる日をうかがいながら夢見ており、頽廃は危機に瀕した人類の都市の上に広がりつつある。やがてその日はやってくるだろう――
(ラヴクラフト「クトゥルフの呼び声」)

ぽ=にょぽ=にょぽ=にょ だごんの子
深い海からやってきた
ぽ=にょぽ=にょぽ=にょ はいよった
インスマンス面の深きもの

ああ!ポニョが!窓に!窓に!

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ラヴクラフト全集 (2) (創元推理文庫 (523‐2))
ラヴクラフト全集 (3) (創元推理文庫 (523‐3))
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ラヴクラフト全集〈5〉 (創元推理文庫)
ラヴクラフト全集〈6〉 (創元推理文庫)
ラヴクラフト全集7 (創元推理文庫)
ラヴクラフト全集〈別巻上〉 (創元推理文庫)
ラヴクラフト全集〈別巻 下〉 (創元推理文庫)
萌え萌えクトゥルー神話事典
這いよれ! ニャル子さん (GA文庫)
這いよれ! ニャル子さん 2 (GA文庫)
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Another

僕が昔から大好きなミステリ作家さん、大傑作ミステリシリーズ「館シリーズ」の著者である綾辻行人さんの久々の新刊「Another」の出版を記念して、昨日(2月4日)の朝日新聞夕刊に、綾辻行人さんのインタビュー記事が載っているので、引用してご紹介致します。
ayat
(クリックで記事拡大します。)
いつもつながっていたいね、とか宣伝されるのを聞くと、つながりすぎだよと綾辻さんは思う。肝心なところでつながればいいじゃないかと。

「常にだれかや情報とつながっていないといけないという強迫観念に違和感がある。ひとりで考え、本を読む時間、孤独な時間をもっと大事にしていい」

上記の綾辻行人さんの言葉、僕は心底から同感に思います。僕は携帯やツイッターから『常に繋がっていること、常に未来へ進むことは正しく、孤独であること、過去を想起することは間違っている』というイデオロギーの押し付けがましさを感じて、どうしても好きになれないので…。孤独な営み、沈思黙考の営み、夢見る営みに、価値を見い出すという考え方があっても良いと思いますね…。今の状況は、まるで伝道の書一章十一節に謳われるが如き状態で、余りにも一切の全ての速度が速過ぎて、僕はついていくのが辛いです…。もっとゆっくりしたいです…。

昔の人々のことは誰も覚えていない。これから先に現われる人々のことも後の世の誰も覚えていないだろう。
(旧約聖書伝道の書一章十一節)

携帯やツイッターは、人間が携帯やツイッターに接続される『物』であるかのようになっているのが、堪らないです…。そこでは速度のみが重要視され、他の全ては捨てられてゆく…。全ては速過ぎて、全ては忘れ去られ、助けを求める声は速さに押し流されて届くことのない世界です…。僕は、ゆっくりしている猫の時の世界の方が、機械の速度の世界よりも、ずっと命に適した世界だと思いますね…。

ラ・フォンテーヌ、レッシング、ゲーテまでは、動物が寓話の主人公であったのは決して偶然ではない。寓話では、動物が人間と同じように行動し会話する。――人間は動物である(動物的な性質を持つ)ということの逆の表現なのである。(中略)

今日人間が「非人間的」だと思われるのは、人間が「動物的な」性質を持っているからではない。今の人間は(動物のような生命の性質ではなく)『物の機能』と化しているからである。このため今日の寓話作家は『人間は物である』というスキャンダルを強く攻撃するため、物が生き物として登場する寓話を作らねばならない。そういう結論を出したのがカフカである。それは彼が最初であった。少なくとも、ほとんど最初であった。彼には1人の先輩がいたからである。

(カフカの先輩が書いた)ある書物にはこう書かれている。『机は感覚的でありながら超感覚的な物に変わってしまう。それはもはや自分の足で大地の上に立っているのではない。それは逆立ちしていて、ひとりでに踊り出すときよりもはるかに不思議な妄想を、その木製の頭で展開する。』これはカフカのオドラデク(カフカが創造した謎の生物。カフカ短編集収録「父の気がかり」に出てきます)ではない。ティークやポーやゴーゴリのものでもない。これは、マルクスの『資本論』の第一巻の第一篇第一章の第四節にある商品となった机のことである。(中略)

近づき難い王や近づき難い女性は「美しい」が――これは、彼らが「美しい」から「近づき難い」のではなく、彼らは「近づき難い」ゆえに「美しい」という意味である。『創世記』の誘惑の物語が教えているのもこのことであり、これはショーウィンドウの前に立っている子供を見ればよく分かることである。(中略)

「美しい」と感じさせるものは、まず日常の社交から掛け離れた「格調高い言葉」である。それは、同じ階の隣室の人が使うような言葉ではなくて、「より高度の領域」から語りかけてきて「高める」ような言葉である。どのような文化であっても、最初に「美しい=厳かな」とみなされたのがシャーマンの言葉であったのは偶然ではない。
(ギュンター・アンダース「世界なき人間」)

携帯やツイッターには、速度のみののっぺりとした平坦な世界が心理的に迫ってくるような圧迫感を覚えて辛いですね…。速度が全ての平坦な世界では量れない、時の流れから外れた領域として、善きこと、美しきこと、愛ということはあると僕は感じます。

参考作品(amazon)
Another
カフカ短篇集 (岩波文庫)
カフカ寓話集 (岩波文庫)
小型聖書 - 新共同訳
聖書名言辞典
世界なき人間―文学・美術論集 (叢書・ウニベルシタス)

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2010年02月04日 00:10

ベスト・モーツァルト100 6CD
ベスト・オブ・ベスト・モーツァルト

昨日は朝から喉が痛く風邪気味だったので、市販の風邪薬を飲んでにゃんこのお世話して(久々にブラッシングしたら、少し毛色が変わってきた感じで、にゃんこ、五才近い壮年になって年取ったからかなと思いました)、後は横になって音楽を聴きながらぐったりと寝ていました…。音楽を、最初はシチェドリン「封印された天使」とマックス・リヒター「memoryhouse」を聴いていたのですが、どちらもとんでもなく暗い曲(封印された天使はクラシック合唱曲、memoryhouseはポストクラシカル)でして、横になって聴いていたら、気分が真っ暗になってきて、悲しくなってきました…。

そこで、なんとか元気を出そうと、明るく、なおかつ気が落ち込んでいる時にも聴きやすい音楽として、モーツァルトを選んで、「ベスト・モーツァルト100」「ベスト・オブ・ベスト・モーツァルト」から何枚か選んで聴いていました。どちらも、明るく楽しい曲の数々を作曲したモーツァルトのベストアルバムだけあって、明るくて良いアルバムでした。

ただ、もう何度も何度も聴いているので、初めて聴いたときの深い喜びに満ちた感銘を得るというところまでは行かず、素晴らしい音楽を初めて聴くときの喜びが経験したことによって過ぎ去ってしまったことの悲しみについて思いました…。詩人のフェルナンド・ペソアが、「不安の書」のなかでたびたび書いている悲しみですね…。

子供の頃、すでに詩を書いていた。その頃はとても下手な詩を書いていたのだが、完璧だと思っていた。もはや申し分ない作品を生み出すという本当ではない喜びを感じることはないのだろう。今日書いているものはずっと良い。実際、最良の詩人が書きうるものよりもよい。しかし、書ける、あるいは、おそらく書かなければならないとなぜか感じていたものよりもずっと劣っている。少年時代のまずい詩を、死んだ子供、死んだ息子、ついえてしまった最後の希望のように嘆く。

『ピクウィック・クラブ遺文録』(ディケンズの小説の題名)をすでに読んでしまっているというのは、私の人生の大悲劇の一つだ。もはやそれを初めて読むことはできない。
(フェルナンド・ペソア「不安の書」)

モーツァルトを初めて聴く人は幸いかな。明るく楽しい音楽を聴いてこのように感じてしまうなんて、自分は精神的に参っていて感じ方がダメだなあと思いました…。過去に経験したことであっても再度経験するときは新しい喜びのように感じることが出来ればいいのですが…。過去の経験がそれをどうしても阻んでしまう。それが一回性であり、私達が過去の経験に縛られた存在であり、それゆえに私達は常に新しい経験を求めて前へ進んでゆく、ということなんだとは、頭では理解しますが、モーツァルトの人を元気付ける魔法のような音楽は本当に素晴らしいだけに、このように感じることは残念です…。悲しい音楽は何度も聴きやすいのは、何度も聴くことの悲しみと曲の悲しみがマッチするからかなと…。

君たちに、この世界の秘密を教えてやろうか、それはわれわれがこの世界のうしろしか知らないということなんだ。
(チェスタトン「木曜の男」)

人が以前味わったことのある体験を初めての時と同じ喜びを持って感じられることが出来たら、世界は深く充足した幸せに満ちていただろうと思いますね…。

参考作品(amazon)
ベスト・モーツァルト100 6CD
ベスト・オブ・ベスト・モーツァルト
シチェドリン「封印された天使」 (ハイブリッドSACD) [Import]
Memoryhouse
不安の書
木曜の男 (創元推理文庫 101-6)

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2010年02月02日 12:44

ラッセル幸福論 (岩波文庫)

以前、何度か述べたツイッターについてですが、ツイッターの構造を僕よりもずっと分かりやすく解説している優れたエントリを見つけましたのでご紹介致します。日比嘉高研究室さんの「ツイッターは教祖/信者の構造を強化する、と言ってみる」です。ツイッターをやっていない僕に比べると、ツイッターを実際にやっているお方の分析は流石という感じですね…。

ツイッターは教祖/信者の構造を強化する、と言ってみる
http://d.hatena.ne.jp/hibi2007/20100201/1265041211
「返信」は届かない
ツイッターのもう一つの側面は、多少誇張していえば、教祖/信者の構造を再生産し、強化するというところにあると感じている。ツイッターの利用者への訴求力の一つに、有名人の個人的なつぶやきが読める、ということがある。広瀬香美がなんとかとか、バラク・オバマがなんとかとか、鳩山由紀夫です散歩しましたとか、そういうのが同時性の感覚とともに手元に届く楽しみである。そして「返信」できる。

だがその「返信」は本当に「届く」のだろうか。私がハーバーマスの「つぶやき」に「返信」したとして、ハーバーマスのもとに私の反応は「届く」だろうか。仕組みとしては「届く」。ハーバーマスは私をフォローしていないからそのままでは届かないが、私が私の返信の中に@JHabermasと埋め込み、彼が自分の「ホーム」にある「@JHabermas」をクリックすれば、私の「返信」は彼の見るモニタ上に現れるはずである。

だがその可能性は、ゼロとは言わないが限りなく低いだろう。ハーバーマスは「フォローしている人」0というまさに極限的な例だが、フォロワーが集中している著名人は、「フォローしている人」に比べ「フォローされている人」の数が圧倒的に多いのが普通である。後者の数が200、300を越えたあたりから、一般フォロワーの「返信」は現実的には届かなくなるのではないかと思う。4桁になり、5桁になると、ほぼ見ず知らずの「有名人」に何かを届けられる確率は激減する。そして、ツイッターはこのとき、著名人=教祖のつぶやきを、一般フォロワー=信者がまちうける、というトップダウン型の相貌を現す。

教祖は「お立ち台」に上る
このことは、書き手の側の意識からもたぶん言える。私のフォロワーは60数名という零細小売業状態なので、教祖の気持ちは想像するしかないが、あまり外していない気がする(たぶん)。 ツイッターの書き手は、フォロワーの数を相当気にしている。一人増える度に「増えました」とメールが届くので、当たり前である。そして、ツイートを投稿するとき、その言葉がそれらのフォロワーのもとに、リアルタイムでダイレクトに届いていくことを強く意識する。数千人〜数万人の読者のところに直接言葉が届く場において、何かを発言する、書くという行為を想像してみるといい。そこにはある種の陶酔をともなった高揚があるはずである。

私がフォローしている著名人の中には、何人かそういう場に身を置いてほぼ毎日、毎晩のように発言と返信を行っている人たちがいる。最初ツイッターに慣れない間は、彼らはひたすら本当に一人で「つぶやいている」のだ奇特なことだと思っていたが、すぐにそうではないことに気がついた。何人かのフォロワーたち(私は彼らをフォローしていないので私からは見えない)に、個人的に、あるいはいくつかまとめて返信を投げつつ、また新しくツイートしつつ、という形で、長時間の持続的投稿を行っている、というのが実態のようだ。

私には、この風景は、「お立ち台」に見える。特定の存在がオーディエンスのアテンションを惹きつつ舞台にのぼり、周囲のレスポンスを受けながら、パフォーマンスをしてみせる。パフォーマーはオーディエンスの反応を受けて演技を変える、という意味においてそれは双方向的だが、両者の関係性はフラットではない。

つぶやきを浴びると
人は、ある人の姿や言葉、身体に接触する回数が増えると、その人についての関心度が上がり、好意的な感情を持っていればその好意は増大する傾向がある。ここ二週間ほど、かなりツイッターにつきあってきた私は、いま述べた大量ツイートをする著名人たちの言葉をうんざりするほど(失礼)浴び続けた。また、大量ではないけれど、ぼそぼそとした他の著名人たちのつぶやきを聞いてきた。どちらも、ツイッター以前にはありえなかった著名人への接し方である。面白かった。が、その結果、私の彼らへの関心度は、確実に上昇してしまった。あぶないことだ。

自分が好きでフォローしているわけだから、あぶないもなにもなかろう、というのが正しい反論だが、ツイッターには、こういう面があるということを書き留めておきたい。これって、あぶない、と。

念のため補足すると、私は、ツイッターがフラットではなく教祖/信者のコミュニケーションだ、ということを言いたいのではない。ツイッターというシステムは、フラットな関係性を築くツールにもなりうるが、同時に同じシステムの上で、教祖/信者の関係性の再生産と強化も起こりうる、ということが言いたいのである。とくにそれはフォロー/被フォロー関係の非対称性が増大する規模に相関して、その様相を変えるだろう。

僕はここまで的確に分析していた訳ではないのですが、ツイッターのシステムを見て直感的に危険だなと思いました。ツイッターは数万〜数百万という多数のフォローを持つ少数の有名人と、数十〜数千程度のフォローのみの大勢の無名人が、ピラミッド型の構造で繋がっていて、メッセージはピラミッドの上から下へのみ流れて行き、下から上へはほとんど流れない。少数の有名人の言葉は大勢の無名人に届くけれど、大勢の無名人の言葉は少数の有名人にほとんど届かない構造になっている。そして、これがツイッターの最も危ないと思うところですが、本当は上から下への単方向であるにも関わらず、上と下が双方向で繋がっているような錯覚を与えている。この錯覚を与える点で、単方向であることがはっきりしているテレビより危険だと感じました。

ツイッターのシステムと言うのは、結局は有名人がリアルタイム性の高い個人テレビ(ラジオ)局を持ってそれで延々と放送を行っているという仕組みなんですが、大勢の人々がこれを相互通信だと錯覚している。結果、ただひたすら有名人に影響を与えられるだけの受動的な視聴者になっているにも関わらず、それを意識せず、有名人にひたすら影響される。これは気をつけた方が良いことだと思いますね…。

強い単方向性を持つテレビの場合は、自分は受動的な視聴者であるという認識があるので、それがテレビに対する抑制的な姿勢として機能します。インターネットのメールやチャットは必ず届く1対1の双方向性を持ちます。ホームページやブログは一対多で手紙を公開しているような弱い双方向性を持っています。ツイッターはテレビとほぼ同じ強い単方向性ですが、チャットに近い双方向性の錯覚と、テレビやラジオの生放送時のようなリアルタイムで繋がっているという幻想性があり、テレビ視聴の時に働く抑制的な姿勢が働きにくい。結果、『教祖/信者の関係性の再生産と強化も起こりうる、ということが言いたいのである。とくにそれはフォロー/被フォロー関係の非対称性が増大する規模に相関して、その様相を変えるだろう。』と言うことは極めて起こりやすくなっていると思います。

ツイッターはごく少数の有名人の為の個人テレビ(ラジオ)局としての機能を持ち、ツイッターをやっている人々の多くはそこに視聴者としてアクセスしているのだという意識を、きちんと持つようにした方がいいと思いますね…。ツイッターに対しては、テレビと同じく、没入しすぎない抑制的な姿勢でいることが大切だと思います。

そして何よりも、僕は、多くの人間には、有名人の生活を延々とリアルタイムに見続けることよりも、もっと自分自身にとって喜びを見い出して世界と向き合い善、美、愛を感じることのできる、やりがいのあることは沢山あると思うのですね…。ささやかな趣味、猫を可愛がったりする日々の生活、自ら抱く理想まで、それらは様々に沢山あると思っています…。僕自身が猫を飼っていて、音楽と読書とアニメなどのオタク趣味が好きでして、何よりも、生活に困っているところをamazonギフト券を贈って下さる、アフィリエイトで購入して下さる、穏やかで優しいご善意で生活を助けて頂き、人間の世界には、ちょっと恥ずかしい言葉ですが、「愛」というものがあると信じられて、深く感謝しておりますゆえ…。この世界には、自らと他者の行為のうちに善きこと、美を感じることが、何より尊くやりがいあることとして様々に存在すると思います。

善き行為を為しつつ、それが善であることを楽しみ、美しきものを眺めながら、それが美しきものであることを楽しみたいのだ。自意識という言葉を僕は好まぬ。僕の目論んでいることは精神の自律性であり、物質のメカニズムに対する精神のメカニズムをこしらえあげることである。いいかえれば、物質のメカニズムを楽しむにはこれと一定の距離を保たねばならぬ。
(「福田恆存評論集〈第2卷〉藝術とはなにか」より)

西欧の最高の教育を受けた若い男女に見いだされるような冷笑的な態度は、安楽さが無力感と結びついて生じるものだ。無力感は、人々にやりがいのあるものは何一つないと感じさせ、安楽さは、こうした感情の苦しさをやっと耐えられるものにする。(中略)

(何かに情熱を傾ける人は)彼は無力でもないし、安楽でもないので、改革者または革命家にはなっても、冷笑家にはならない。(中略)忘れもしない、1人の中国人の青年が私の学校を訪ねたことがあった。彼は帰国して、同じような学校を中国の反動的な地域に設立しようとしていた。彼は、その結果、首を刎ねられることになるのを覚悟していた。それでいて、なにかうらやましいとしか言えないような静謐な幸福に浸かっていた。(中略)

仕事の喜びは、(その仕事が好きで、その仕事によって)何か特技を伸ばせる人なら誰にだって感じられる。ただし、大向こうをうならせることなど考えずに、己の技術を生かすことで満足を得ることができれば、の話である。私の知っている人で、ごく幼いときに両足が使えなくなったのに、長い生涯を通じてずっと平静で幸福であった男がいる。彼がこんな幸福を掴んだのは、薔薇の胴枯れ病に関する五冊の本を書いたからであった。この方面で彼は一流の専門家だと私はいつも理解していた。私は残念ながら貝類研究者を多数知っている訳ではないが、私の知っている人たちから推して、貝類の研究はこれに従事する人々に満足をもたらすものであることをかねてから承知している。私のかつての知り合いに、世界一の植字の名人がいたが、彼は、美しい活字を造り出すことに専念している全ての人の間で引っ張りだこになっていた。彼が喜びを得たのは、軽々しく人を尊敬しない人から本当に尊敬されたということよりも、むしろ、自分の技術を行使することに生き生きとした愉悦をおぼえたからであった。(中略)

多くの人々にとって、主義主張を信じることは幸福の源泉である。私が考えているのは、圧政の下であえぐ国々の革命家や社会主義者や国家主義者などののみのことではない。同時に、多くの、もっとささやかな信念のことを考えているのである。私の知っている人々で、イギリス人はイスラエルの失われた十支族であると信じていた人たちはほとんど例外なく幸福だったし、一方、イギリス人はエフライムとマナセの支族にほかならないと信じていた人たちときたら、その至福に際限がなかった。私は、読者にこの種の信条を奉じるように言っているのではない。というのは、私は、自分には誤っていると思われるような信念に基いた幸福を擁護することはとてもできないからだ。(中略)しかし、いささかも奇異でない主義主張を見つけることはたやすいし、そうした主義主張に本物の関心を寄せている人々は、人生はむなしいという感情への完全な解毒剤を与えられていることになる。

つつましい主義主張に献身することとあまり違わないのは、趣味に熱中することだ。現存の数学者の中で最も高名な1人は、自分の時間を数学と切手収集に二分している。たぶん、数学の研究が行き詰まったようなとき、切手収集が慰めになるのだと思われる。切手収集でいやせる悲しみは、なにも数の理論の命題を証明する困難さのみではないし、また収集できるのは切手のみではない。古い陶器、嗅ぎ煙草入れ、ローマのコイン、矢じり、石器などに思いを馳せるとき、どれほど広大な陶酔の世界が想像の眼に開けてくることか、考えてみるがいい。(中略)(仕事とは関係のない趣味は子供のものであって、大人のするべきことではないという考え方があるが)これは完全な間違いだ。他人に害を及ぼさない楽しみは、どんなものでも尊重されるべきである。私は川(著者のラッセルは川下りが趣味)を収集している。(中略)

私は、アメリカの一流の文学者に会ったときのことを覚えている。私は作品から、この人はふさぎの虫にとりつかれているのだと思っていた。ところが、たまたま、ちょうどそのとき、野球の最も決定的な結果がラジオから流れてきた。彼は、私も、文学も、そのほかこの世の生活の悲しみのことごとくを忘れてしまった。そして、肩入れしている球団が勝利を得たとき、喜びのあまり歓声をあげたものだ。それからというもの、私は彼の作品を読んでも、登場人物たちの不幸に気がめいらずに済むようになった。(中略)

根本的な幸福は、ほかの何にもまして、人や物に対する友好的な関心というものに依存しているのである。人に対する友好的な関心は愛情のひとつの形であるが、貪欲で独占欲の強い、常に強い反応を求める形はそうではない。後者の形は、まま不幸の源になる。幸福に寄与する愛情は、人々を観察することを好み、その個々の特徴に喜びを見い出すたぐいの愛情である。接触するようになった人々の興味や楽しみが存分に生かされる機会を与えたいと願うのみで、その人たちを左右する力を獲得したいとか、その人たちの熱烈な称賛を得たいとか願わないたぐいの愛情である。他人に対して真にこうした態度をとれる人は、幸福の源になるだろうし、相互的な親切の受け手にもなるだろう。彼の他人との関係は浅いときも深いときも、彼の興味と愛情の双方を満足させるだろう。
(ラッセル「幸福論」)

参考作品(amazon)
ラッセル幸福論 (岩波文庫)
福田恆存評論集〈第2卷〉藝術とはなにか

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夜の海辺にて〜カスキ:作品集

夜更けに雪がしんしんと降っていますね…。僕はどうしても眠れなくて、クラシック作曲家ヘイノ・カスキの音楽を聴いていました。ヘイノ・カスキは、可愛らしく静かで優しい感じのクラシックの小品を作曲したフィンランドの近代音楽家で、生前、生後ともに無名だったのを、日本のピアニスト舘野泉さんが楽譜を発掘して演奏し、名を知られるようになった作曲家です。

カスキの曲は派手な技巧はありませんが、穏やかで優しい静かなメロディが特徴で、そのレベルは決して低くはありません。現在入手可能なカスキのアルバムとしては、カスキ演奏の第一人者である舘野泉さん演奏の「夜の海辺にて カスキ:作品集」がありますが、これには、夜寝る前や、眠れないときなどに聴くのがぴったりな、優しく静かな曲の数々が収録されており、僕は夜眠れないときなどに精神安定剤代わりに聴くことが多いですね…。

カスキの曲を聴くと、本当に惜しいなと思わずにはいられません。カスキが作曲していた頃のフィンランドは戦争と政変に見舞われた激動の時代で、シベリウスのような民族的で壮大な音楽家が好まれ、カスキのような優しく静かなメロディの小品を作る音楽家は「音楽に国民を鼓舞するメッセージ性がない」とされて相手にされなかったんですね…。もしも、カスキが、アンビエント・ミュージックやヒーリング・ミュージックが世界的に地歩を得た1980年以降に現われた作曲家だったら、アンビエント・ミュージック、ヒーリング・ミュージックの優れた作曲家として必ずや評価されていたと思います。彼の曲は特に技巧が凝らされているという訳ではないごく普通のクラシック(作風は印象派クラシック)ですが、聴いているととても心が安らぐんですね…。優しく静かなメロディは、皆の心が疲れている現代社会にとってオアシスのように貴重なもの、カスキがもっと遅く生まれていれば必ずや評価されただろうなと思います…。カスキについてのホームページさんと、「夜の海辺にて カスキ:作品集」ライナーノーツより引用致しますね。

My favorite 音楽家ヘイノ・カスキ
(フィンランド 1885年〜1957年) 
http://www5.plala.or.jp/mako-pf/ongakuka.html
カスキは、1才になる前に母を亡くしている。母は明るい反面、繊細すぎるほどの性格の持ち主で、その性格をすっかり受け継いだカスキも傷つきやすくデリケートな感受性を持ち、生涯独身を通し、友人との交流もごく少数に限られていたようでした。(中略)

晩年のカスキは、
「自分の生涯も終わりに近づいた今、いやでも自分の舞台は終わりに、心は好んで憂愁の歌を言葉なき秋の調べをかなでてしまうのに気付かざるを得ない」
と書いている。

いつしか、世の中から忘れ去られ、妻子もなく親しい友人も少なく、年々作曲意欲も衰え、孤独な日々を過ごしていたであろう寂しさがにじみ出ている。

1957年 9月20日、72才の生涯を閉じる。

その日は、フィンランドの偉大な作曲家J・シベリウスの亡くなった日でもある。

カスキは1911年の留学前、シベリウスに何度か会う機会に恵まれ作品において批評と助言を得ている。
シベリウスは貧しかったカスキに、プライドを傷つけぬよう心を配りながら、何度がお小遣いをくれたこともある。
シベリウスはこの純朴な青年に好感を持ち、シベリウスの推薦状のお蔭で1911年からの留学が実現した。

1957年 9月20日 J・シベリウス没 92才  国葬
1957年 9月20日 H・カスキ没   72才

カスキの死には誰も気付かなかった。

ヘイノ・カスキとその作品
叙情的で繊細な作品は、文学作品にしても音楽作品にしても、その生まれた時代によっては受け入れられることがなく、それが真に芸術的な作品であってもその価値を正当に評価されることは少ない。(中略)ヘイノ・カスキの生きた時代は、フィンランドにとってまさに激動の時代であった。カスキの生まれた1885年、フィンランドはロシア統治下の下、民族ロマン主義運動の盛んな頃であった。しかし1899年、ニコライ2世によって2月宣言が発令され、フィンランドのロシア化政策が強化され、さらに第一次世界大戦、フィンランドの独立へと時代はめまぐるしく進む。またその後第二次世界大戦で敗戦国となったフィンランドにとって、ヘイノ・カスキの繊細で叙情的な音楽を受け入れる余地がなかったのも仕方のないことなのだろう。(中略)

(シベリウスの推薦とカレリア交響曲の作曲で前途有望な若手作曲家として評価されベルリン・イタリア・フランスに音楽留学した後)フィンランドに戻ったカスキは生活の為、1926年から37年までヘルシンキ音楽院のピアノ教師となり、また28年から50年までは小学校で歌を教えることになる。しかしこれらの曲はカスキから大作への意欲と集中力を奪うことになり、ピアノや歌の小品以外に新しい意欲的な作品が生まれることはもはやなかった。1957年9月20日、ヘイノ・カスキは帰らぬ人となった。(中略)そしてこの時(カスキの死)からヘイノ・カスキの名は人々の脳裏から消し去られてしまった。

それ以降に執筆されたフィンランドの作曲家について書かれた権威ある書物を開いてみても、ヘイノ・カスキについて書かれたページは決して多いとは言えない。しかし1996年に出版された現在最も権威のある、延べ2400ページにのぼる4巻編成の『フィンランド音楽史』の中には、カスキ個人についてかなりのページが割かれており、その中にカスキの叙情的なフィンランドの心を日本人ピアニストの舘野泉が現代に伝えていると述べられている。フィンランド人すら忘れていたヘイノ・カスキを日本人である舘野泉が現代に蘇らせたといっても過言ではない。

カスキはピアノ作品も100曲以上残しているが、フィンランドで出版されたものはその1割にも満たなかった。それを思えば今から15年も前に舘野の手によって全音から一冊の曲集として17曲も出版されたことは特筆に価しよう。
(「夜の海辺にて カスキ:作品集」ライナーノーツより)

上記ライナーノーツに書かれている通り、誰からも忘れ去られ誰からも演奏されることのなかったカスキの楽譜を発掘し、その演奏で名を馳せ、カスキを現代に蘇らせたのは、日本のピアニスト、舘野泉さんなんですね。同じ日本人としてなんだか嬉しくなりますね…。カスキの曲は、優しく甘やかなメロディ、静かで安らげる可愛らしい曲でして、アンビエント・ミュージック、ヒーリング・ミュージックとして、とても優れています。カスキが評価されなかった要因である『メッセージ性のなさ』は、今の時代の音楽評価から見ればむしろ『押し付けがましくない、静かな優しさ』として評価に値するものです。彼はまさに『50年早過ぎてしまった作曲家』としか言いようがありません…。1900〜1950年代はまだ、アンビエント・ミュージック、ヒーリング・ミュージックは理解されない時代だったのですね…。

カスキの曲、良い意味で『音楽による精神安定剤』という感じで、聴いているだけでとても安らげる綺麗で可愛らしい、穏やかで優しい曲です。疲れた時や辛い時に、静かに聴けて心慰めてくれる曲だと思います。お勧めの癒しの音楽です。

参考作品(amazon)
夜の海辺にて〜カスキ:作品集

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2010年02月01日 10:46

THE STAR ONIONS FINAL FANTASY XI -Music from the Other Side of Vana’diel
Sanctuary/THE STAR ONIONS
Passages

先日、「Jポップとは何か」を読んで、日本の音楽の自由を奪うJポップとは全く違ったやり方、僕自身の感想として少しでも音楽の良さを伝えていければいいなあと思いましたね…。そんな訳で、日本のお勧めインスト曲(器楽曲)をご紹介致します。スクウェア・エニックスのオンラインRPG「ファイナルファンタジー11」(FF11)のBGMを作曲した水田直志さんが自身の手でそれをアレンジしたアルバム、「THE STAR ONIONS」「Sanctuary/THE STAR ONIONS」の二枚です。両方とも良いアルバムですが、特にファーストアルバム「THE STAR ONIONS」がお勧めです。

「THE STAR ONIONS」「Sanctuary/THE STAR ONIONS」は、両方ともFF11をプレイしていなくとも楽しめるアルバムです。僕自身、FF11を一度もプレイしたことないのですが、何気なく聴いたら、とても良い出来で深く感激致しましたね…。ゲームプレイ中の長時間、ずっと繰り返しで聴くことになる和製RPGのBGMはアンビエント・ミュージック(環境音楽)を意識した楽曲が多いのですが、本アルバムの楽曲もまさに、アンビエント・ミュージックとして、繰り返し聴いて安らげる出来です。お勧めですね。曲の基調は西洋クラシック音楽ですが、そこにインド音楽とか入ってそうな、ちょっと東洋音楽っぽいところも良いですね。僕はインド音楽のラビ・シャンカールとか好きで、西洋クラシック音楽と東洋民俗音楽が混交した音楽は昔からとても好きなんですね…。

僕は西洋音楽の作り手、ミニマル・ミュージックの作曲家フィリップ・グラスとインド音楽のラビ・シャンカールがコラボレーションしたアルバム「Passages」とか昔から好きです。僕は「Passages」を1990年アルバム発売から20年聴いていますが、いまだにこれを越える東西混交音楽は出てこない、この分野の最高傑作、混交音楽のマイ・ベストですね。amazonで現在新品854円という破格の値段なので、ぜひ一度お聴きになって頂けると嬉しいです。インド音楽入門としても素晴らしいアルバムと思います。インド音楽のリズムパターンは日本のゲーム音楽っぽいところがあるので、ゲーム音楽好きにもお勧めです。

「パッセージズ」 ラヴィ・シャンカール&フィリップ・グラス
http://c-cross.cside2.com/html/g10ha002.htm

Passages
Passages

日本の作曲家、例えば今回取り上げるスターオニオンズ・FF11の音楽を製作した水田直志さんや先日取り上げた目黒将司さん、こういった日本の器楽曲作曲家が西洋クラシックを意識した音楽を作ると、「Passages」のような西洋音楽と東洋音楽が交じり合ったようなところが出てきて、それが聴いていて楽しくとても好きですね。「THE STAR ONIONS」「Sanctuary/THE STAR ONIONS」はFF11の舞台である、西洋と東洋が入り混じったようなインターナショナルな不思議な世界「ヴァナデール」の雰囲気が良く出ています。西洋と東洋の音楽の混交について、「パッセージズ」ライナーノーツから引用致します。

ラビ・シャンカールとフィリップ・グラス。かたやインド音楽を代表するシタール奏者/作曲家、かたやスティーヴ・ライヒやテリー・ライリーなどとともにミニマル・ミュージックを代表する作曲家である。(中略)インドの伝統音楽との出会いは、グラスのキャリアのターニング・ポイントになった。グラスは現在でもシャンカールと彼のグループのタブラ奏者アラ・ラーカが彼の創作に根本的な影響を及ぼしていることを指摘している。(中略)

グラスが魅了されたのは、ロック・ミュージシャンたちのようなシタールの神秘的な響きではなく、インド音楽の複雑な構造、特に北インドの音楽の反復されるリズムパターン、そのパターンを長くしたり短くすることによって、加算されたり差し引かれたりする構造だった。こうした構造がグラスにとって未知の時間の流れを作り上げていた。ドラマチックな構造を持つ典型的な西洋音楽とは違って、インド音楽は、発展したり、どこかに進んでゆくというようなことがなく、同じエネルギーのレベルをずっと維持し続けるのだ。
(フィリップ・グラス/ラビ・シャンカール「Passages」ライナーノーツより)

フィリップ・グラスはクラシックの技法の中へインド音楽を積極的に導入することによって独特のミニマル・ミュージックを築き上げました。ラビ・シャンカールはグラスとは逆に、インド音楽の中へ西洋音楽の要素を導入し、これまた新しい音楽を築き上げました。こういった、東西を越えた混交は音楽に豊かさをもたらしていると思いますね…。世界的評価を受けたクラシックの作曲家武満徹さんもまた、東西を越えた混交音楽、西洋クラシックに日本の伝統音楽を導入したことによって高い評価を受けた作曲家です。

東西の混交音楽は、雑音・余計な音をそぎ落として、東西それぞれの音楽のエッセンス、根源的なところを組み合わせますから、静かで、シンプルで美しい曲になることが多く、とても僕好み、聴くのが好きですね…。「THE STAR ONIONS」「Sanctuary/THE STAR ONIONS」はそんなシンプルさがあって、東西混交音楽、調性の静かで穏やかなダウナー系のアンビエント・ミュージックとして、とても好きです…。心からお勧めのアルバムです。武満徹さんが言うところの『おだやかで、きめこまかな、シンプルな音楽』ですね…。

題名(系図 FamilyTree)が示すように、この曲の主題はファミリィというものです。ズービン・メータさんから『子供のための音楽を書くことに興味はないか』と問われて、その時は考えもしなかったのですが、(1990年代に)この騒々しさだけが支配的で、ほとんど人工の音に浸かっている日常生活を送っている、殊に若い人たちのために、なにか、おだやかで、きめこまかな、シンプルな音楽を書いてみたくなったのです。(中略)

私のこの音楽(系図 FamilyTree)では、詩のこころを生かすことに専一して、専門的なこだわりなど捨てて作曲しました。結果としてはたいへん調性的な響きのものになりました。しかし私は、単なる郷愁で調性を択んだのではなく、調性というものを、この世界の音楽大家族の核にあたるものだと信じているからそれを用いることに躊躇しませんでした。そこから多くの個性的な響きが、個性的な音楽言語が生まれています。そしてそれらは互いに敵対するものではないはずです。「FamilyTree」で私が意図したのは、この作品を聴いて下さる方や、特に若いひとが、人間社会の核となるべき家族の中から、外の世界と自由に対話することが可能な、真の自己というものの存在について少しでも考えてもらえたら、ということでした。そして、それを可能にするものは愛でしかないと思います。
(武満徹。「武満徹 レクイエム」ライナーノーツより)

参考作品(amazon)
THE STAR ONIONS FINAL FANTASY XI -Music from the Other Side of Vana’diel
Sanctuary/THE STAR ONIONS
Passages
武満徹:レクイエム

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