2010年01月

2010年01月31日 19:45

Jポップとは何か―巨大化する音楽産業 (岩波新書)
A year

ジャーナリスト鳥賀陽弘道さんがJポップを徹底的に分析した力作「Jポップとは何か」読了。電通・テレビ局が主導するJポップが政治と結びつきながら活動し、如何に音楽シーンの可能性を実際に狭めているかが詳細に書かれており、洋楽・クラシック・現代音楽などを中心に聴いている僕の知らない驚くべきJポップ(日本のポピュラー音楽シーン)の実態が明らかにされ、とても驚きましたね…。一刻も早くJポップは衰退するべき、Jポップ複合体(テレビ曲・電通・レコード会社や音楽プロダクション)から、音楽を聴く一般の人々の手に音楽自身が取り戻されるべきだとの思いを心から強く致しました。

非常に簡略化してご説明すると、均一的で個性を持たず一切の当たり障りのない、わざと平凡・下手に作ってある音楽的可能性を失った歌=Jポップで日本国内のみの音楽シーンを囲い込む戦略を、巨大広告代理店(電通)がテレビ局を使って行い(タイアップ)、その企みは大成功、そのことにより音楽の多様な可能性を収奪され失い続けてきたのが、これまでの日本の音楽であるということですね…。読んでいて愕然とする衝撃を受けました。Jポップ複合体(電通・テレビ局・ポピュラー音楽レコード会社と芸能プロダクション)により日本の音楽シーンがここまで酷い状態にあることを、これまで知りませんでした…。僕はもっぱらクラシック、洋楽、現代音楽、インスト曲しか聴かず、カラオケに行くこともないので、Jポップという悪魔的としか言い様のない収奪と抑圧のシステムにより、日本の音楽がここまでの惨状になっていることを始めて知り、ショックですね…。以下、本書より引用してご紹介します。

日本のタイアップで結び付けられるのは、音楽とCMあるいはドラマである。(中略)この手法(タイアップ)によって、ポピュラー音楽が、テレビという極めて影響力の大きいマスメディアの力を借りることができるようになった。(中略)筆者はこの「ポピュラー音楽産業」「広告代理店」「テレビ」の三産業を、人材や予算、情報を交流させるひとまとまりの産業体と考え、「Jポップ産業複合体」と呼んでいる。(中略)ビクターエンタテインメント社の幹部だった生明俊夫・広島経済大教授は、『ポピュラー音楽は誰が作るのか』の中で、レコード会社、広告代理店、スポンサーといった「Jポップ産業複合体」の「合議」で音楽がつくられていく様子を詳しく紹介している。

「テレビドラマやテレビCMで使われる曲、いわゆるタイアップ曲が作られる場合も、そこにはさらに広告代理店やその広告主=スポンサーなども含む広範囲の関係者によるプロジェクトチームが形成される。現在のタイアップでは音楽はそのタイアップのために新しく作られる。その音楽はテレビの映像とほぼ同時進行で製作されることがほとんどである。そして音楽は映像のイメージにあったものが要求される」

こうした広告産業との垣根の低さは、日本のポピュラー音楽産業の大きな特徴である。アメリカでは、歌手やバンドがテレビCMに出演したり、楽曲を書きおろしたりすることは、「アーティストの品格を落とす」としてむしろ敬遠されるからである。まず間違いなく批評家から手ひどく批判される。だから、欧米のミュージシャンの中には、CMへの曲提供や出演を地元ではせずに、日本に限っているという例もある。
(鳥賀陽弘道「Jポップとは何か」)

僕は、ピーター・グリーナウェイ(映画監督)とマイケル・ナイマン(作曲家)のように、製作者とアーティスト・作曲家の信頼関係を基盤とした上でのアーティスト・作曲家の自由な独自性として曲があるのかと思っていたんですね(グリーナウェイ&ナイマンは、映画における最も優れた監督&作曲家コンビ、最後は音楽の方向性の相違で衝突しコンビ解消)。しかし、Jポップは全然そうではなく、ただただ利益のみのために広告代理店(電通)が介入してわざと当たり障りをなくした平凡な歌を作らせ、それを広範囲に売り出しているんですね…。歌詞作りに自由はなく、アーティストが歌を作っているのではなく、電通が歌を作っているとか、ショックです…。更に引用を続けます。

タイアップは、ポピュラー音楽にどんな影響を残したのか。第一に、少しでも物議をかもしそうな曲は極端に回避する傾向を、音楽産業が強めた。(中略)企業経営者(スポンサー)がテレビで大量に露出される音楽(タイアップ曲)を決めるということである。経営者はあくまで企業経営の専門家であって、音楽を判別するセンスや知識、経験は期待できない。企業イメージを損なうような音楽あるいはミュージシャンは敬遠される。(中略)広告代理店はこの辺の事情をよく承知しているから、そういった企業が嫌がりそうな作風、あるいは「何かやらかしそうな」歌手やバンドはキャスティングの対象から最初から外している。レコード会社もこうした力学を承知の上で、楽曲や歌手を開発する。結局、タイアップの力を借りて売ろうとするなら、曲や歌い手を「無難」な線にまとめようとする力学が各所で働く。

これが重なるうちに、日本のメジャーレコード会社は、物議をかもしそうな歌の発売をことごとく自主規制する、神経質なまでのリスク回避体質に陥っていった。違法行為といった明らかなスキャンダルだけではない。現実の生生しい社会事象を取り上げたり、批判的に歌ったりする、社会性を帯びた作品でさえ敬遠される。

例えば、阪神大震災の被災者のような社会的弱者を励ます歌ですら、排除された。95年、被災者を訪問し演奏を聴かせるボランティア活動を続けていたバンド、ソウルフラワー・ユニオンが、関東大震災の直後に流行した「復興節」をソニー・ミュージックエンタテインメントから出そうとしたことがある。「復興節」は、当時の被災者の明るさとたくましさを歌った曲だ。ソウルフラワーはその個性はそのままに、歌詞の一部を変更した「阪神大震災バージョン」をつくった。被災者には非常に評判のいい曲だったが、ソニーは発売を認めなかった。

「震災をネタに浮かれていると取られる可能性が1%でもある限り、発売はできない」というのが、筆者の取材に対するソニーの答えだった。復興節は(ソニーなどのメジャーレコード会社と無関係な)インディーズCDとして発売され、三万枚が売れた。

こうした規制のプロセスには、外部からの圧力や妨害どころか、明文化されたルールさえ存在しない。「復興節」の例のように発売元の(メジャー)レコード会社が先読みして自ら「検閲」してしまうのが特徴だ。こうした「自己検閲」傾向は、日本のメジャーレコード会社はどこも共通している。そのうちにメジャーレコード会社の出す曲や歌い手は「無難」で「物議をかもさない」という点ではどれも大同小異になっていった。(中略)

こうした現象が意味するのは、広告の表現基準がポピュラー音楽に持ち込まれた、ということである。広告と同じ内容基準でポピュラー音楽が作られるようになったのだ。広告は基本的に、最大多数の消費者が商品を購買するよう説得するのが目的であり、そのため「社会のマジョリティ(多数派)が合意済み、あるいは合意可能」な表現の範囲内でつくられる。逆に音楽表現は本来、マジョリティの合意を目的としない。マジョリティが合意していなくても、ふだんは社会に届かないような少数の人々の声を言葉にしたり、マジョリティが気づかないような内容を歌にして世に出したりできいる、極めてレンジの広い表現形態である。

しかし、タイアップの成功のせいで、日本のメジャー音楽産業は、この広い表現レンジの大半を自ら放棄してしまった。その意味で、タイアップの力でヒットチャートの上位に顔を出すような曲は、最初から表現の多様性を放棄し、最大多数が合意可能な範囲でつくられている。(中略)

タイアップによって表現のレンジを狭めることにより、幅広い表現の自由を追求するタイプの音楽家は冷遇されがちになる。またタイアップがつかないような歌手・バンドであっても、レコード会社の自主規制基準(検閲)だけは適応されるため、表現の自由度や多様性はますます損なわれる。

筆者は「音楽が企業の営利活動と手を結ぶことそのものが商業主義で許されない」というような原理主義的な芸術至上主義には賛同しない。しかし、ヒットを出すという目的のために広告タイアップの力を借りるなら、音楽は、その表現の自由のかなりのレンジを放棄しなくてはならない(当たり障りのない平凡な曲しか作ることを許されない)。広告(タイアップ)が持つ表現上の制限を受け入れることを覚悟しなくてはならない。これは、広告が表現の自由に敵対するという意味ではない。前述のように、広告表現と音楽表現は、そもそも最終目的がまったく違う、というに過ぎない。

『メガヒットか無名かの二極構造』第二にタイアップは、大物と中堅・新人の人気の差を一層拡大し、固定してしまった。企業は自社イメージや広告予算をリスクにさらすことは好まない。また無名の新人の音楽をCMにつけるよりは、すでに名の売れた大物を好む傾向がある。(中略)(タイアップ戦略により)中堅層がすっぽり抜けてしまい、「少数のメガヒット組か多数の無名組か、どちらかしかいない」という「二極分解」が起きた。例えば01年のエイベックス社の売り上げの四割は浜崎あゆみ、東芝EMIの売り上げのやはり四割は宇多田ヒカルに依存している。(中略)これは、ヒットを放つのはいつも似たような顔ぶれ、ということである。ここでも多様性は損なわれている。(中略)

第三にタイアップは、楽曲が送り出されるサイクルをどんどん短くした。(中略)タイアップによる楽曲のヒットとは、つまるところ、テレビで曲を耳にした人々がCDを買ったということだ。テレビでのオンエアが終われば売れ行きが低下するのは自然の理である。(中略)

日本という国は、音楽産業としてはどんな形をしているのだろうか。(中略)宇多田ヒカルの例でもわかるように、欧米でデビューした、コンサートをした、CDを録音したなど「海外で活躍するJポップ」のファンタジーがマスメディアによく登場する。では現実にはJポップはどれくらいインターナショナルになったのだろうか。これまで何度か書いたとおり「欧米と肩を並べるポピュラー音楽」がJポップのファンタジー(電通が行っている国内向けイメージ戦略)であるだけに気になる。

結論を先に言えば、日本は世界第二位の巨大な音楽消費地でありながら、そのポピュラー音楽の日本国外での売り上げやオンエアはゼロに等しい。つまりポピュラー音楽を消費するばかりで、世界へ発信することがほとんどない。(中略)

日本の音楽が世界でどれくらい流通しているのか、もっとも正確に把握する方法は、著作権使用料の流れを辿ることである。(中略)(03年にJASRACが海外から徴収した額は)わずか5億5483万円。全体の徴収料のうち、たった0.5%でしかない。これは何を意味するかというと「日本人が作る音楽の99.5%は日本国内で消費される。日本国外で消費されるのはわずか0.5%でしかないということだ。(中略)

しかも、海外で消費される日本の音楽の大半を占めるのはJポップではなく、アニメのテーマソングや挿入歌、BGMである。03年だと、1位のポケットモンスターBGMだけで海外からの送金のなんと7割を占めるほか、2位のドラゴンボール以下、10位まで全てアニメ音楽である。(中略)

(Jポップは海外では全く評価されていないにも関わらず)日本の音楽産業が(宇多田ヒカルの海外活動報道など)こうしたマスコミ上の(実態を伴わない)「海外進出」を国内向けの宣伝に使っている事実は心に留めておくべきだろう。(中略)音楽業界には「アーティスト対策」という隠語がある。「歌手やバンドのご機嫌取り」という意味だ。チケットの買い取り、旅費など費用を全部まかなうことができれば、海外でコンサートを開くこと自体はさほど難しいことではない。その費用(チケット全席買取費用など)は「宣伝費」「事務所助成費」などの名目でレコード会社なり、マネージメント会社なりが払うことが多い。

むしろ注目すべきは、先に述べた(マスメディアのやらせである)カギカッコつきの「海外進出」がニュースになり、そういう話を喜ぶという日本人の心的特性であろう。「海外でも受容されるインターナショナルなポピュラー音楽」というのはJポップのファンタジー(広告宣伝戦略)であることを思い出して欲しい。そうした日本人の「海外進出願望」を上手に(国内向け)宣伝に使っているともいえるのだ。(中略)

「乏しい音楽アクセスへの多様性」消費者がポピュラー音楽を楽しみたいと思ったとき、日本はその選択の多様性が乏しい環境にある。まず価格の多様性がない。日本盤CDは「再販売価格維持制度」(再販制)によって、全国一律にレコード会社が定めた価格が守られているためだ。(中略)日本のレコード産業は価格競争という他産業(諸外国の音楽分野)ならごく当たり前の競争を公的な規制によって免除された特殊な業態だといえる。(中略)

「公共財として扱われない」特にアメリカと比べると、日本は音楽を公共財として扱う傾向が非常に少ない。(中略)(トークはなく、ひたすら音楽だけを流している多種多様なFM放送ネットワークなどを使い全ての人に開かれた公共財として音楽へのアクセスを担保している欧米に比べ、日本では)お金がなければ、音楽にアクセスする機会が極端に少なくなる。貧乏か金持ちか、所得によって音楽へのアクセスに差が出る。(中略)日本では、レコード産業が音楽を商品として流通させる経路は非常によく発達している。が、その「消費財としての音楽流通」を保管する「公共財としての音楽にアクセスする経路」が非常に乏しい。消費者としての立場で見れば、高値で価格が固定されたレコード(CD)、局数の少ないFM放送と、日本の音楽市場は選択の多様性に乏しい。(中略)

「政治権力との癒着・腐敗」90年代、日本のポピュラー音楽産業が巨大化し、社会的なプレゼンスを大きくした結果、それまでにはなかった現象が見られるようになった。政府行事への協力である。(中略)こうした政府行事への協力は「Jポップ産業複合体」の成立がなければ起こらなかった現象である。というのは、それまでお互いに縁のなかった政府・政界とポピュラー音楽業界の橋渡しをしたのが広告産業(電通)だからだ。

筆者の取材に対して電通広報部は、沖縄サミットを政府とJポップ産業を仲立ちした案件として認めている。05年3月から愛知県久手町で開かれる日本国際博覧会(愛知万博)の公式イメージソングである「I'LL BE YOUR LOVE」は、今上天皇在位10年記念の「奉祝曲」と同じ元X JAPANのYOSHIKIがプロデュースしている。これについて、ある電通グループ社員は、「政府系行事に強い電通パブリックリレーションズ社(政府・政治と密接な繋がりを持つ電通グループの一企業)と芸能界に強い電通本社とのグループ内での協力がなければ、こうした政府系行事のキャスティングは実現できない」と話している。(中略)

(Jポップ産業と政府・政治との癒着・腐敗の)その暗部を露呈させる事件が起きた。沖縄サミットの翌年の01年10月、安室奈美恵が所属するマネージメント会社ライジングプロダクション(現フリーゲートプロダクション)の創業者で、元社長の平哲夫被告ら9人が東京地検特捜部に脱税の疑いで逮捕された。(中略)この捜査の過程で、驚くべき事件が転がり出てきた。かつて自民党きっての実力者として首相候補の1人と言われた加藤紘一元幹事長の事務所代表に、平被告から一億五千万円もの裏金が渡っていた事実が発覚したのだ。(中略)整理すると、こういうことだ。芸能プロダクションから、政権党の実力者事務所に一億五千万円もの裏金が送られた。その芸能プロダクションに所属する安室奈美恵が、サミットで歌うという前例のない厚遇を得た。(中略)

(Jポップ産業が起こした様々な犯罪により)Jポップという華やかな名称とは裏腹に、ポピュラー音楽産業には(暴力団が表立って歌を取り仕切っていた頃の)「興行」と呼ばれていた昔から変わらない「裏の顔」が続いていることが露呈してしまった。同じエンタテインメント業界でも、映画やゲーム業界からはこうした暗部の存在がほとんど聞こえてこないことを考えれば、ポピュラー音楽産業界は今なお近代化されない特異な一面を抱えていると言える。(中略)Jポップ景気が、テレビにその多くを支えられていたことは、第三章で詳しく述べた通りである。(Jポップ産業のテレビ局の不正発覚事件多発を見ると)もちろんすべてのテレビ出演が金銭や饗応によって決まっているとは筆者は考えない。が、たとえその一部分であっても、(いくつかの事件によって明るみに出たように)その影響力が金銭の授受や接待といった不正な取引によって決められていれば、競争の公正さの信用は失われてしまう。それは同時に、「より良い歌を作り、歌い、送り出す」という公正な競争の疎外であり、最終的にはリスナーの利益を損なう。(中略)

本書で述べてきたCDの登場やテレビタイアップ、通信カラオケといった「Jポップ景気の牽引力」のほとんどは、実は全て「歌」や「楽曲」そのものの質とは離れたところにある。こうした「製品」そのものの質を競うのではなく、広告や宣伝で競争することを一般に「製品外競争」という。テレビ出演をめぐる饗応や買収も、広義には製品外競争の一つといえる。(中略)そもそもJポップ景気そのものが、広告産業やテレビが広告・宣伝という大規模な製品外競争を持ち込んだことによってもたらされたとさえ言えるのである。

98年以降、CDの売り上げが急落し始めてから、音楽産業は様々な「犯人」を挙げ、それを潰すことに実に熱心である。「インターネットからの不法ダウンロード」や「逆輸入盤」などがその例だ。しかし、まったく不思議なことに、その最大の製品である「楽曲」についての自省の声がほとんど聞こえてこない。「自分たちが送り出す楽曲は、今のままでいいのか」という真剣な議論や討論の声が聞こえてこないのだ。そういう反省がないまま「外部の敵潰し」ばかりを続ければ、リスナーの反感を買うだけの結果に終わりかねない。そろそろ「タイアップなくとも、人々の心に響く歌を作ろう」というごく単純明快な「製品内競争」が始まってもいいころではないだろうか。
(鳥賀陽弘道「Jポップとは何か」)

日本のマスメディアを支配する巨大プロパガンダ企業「電通」の支配下の一機構として、政治と腐敗しながら癒着し、音楽から可能性を奪い貧しくする抑圧機構そのものと化しているJポップなるものは早く終わるべき、特にタイアップ曲などというものは一刻も早く終わるべき事象であると、本書を読んでいて心から思いました。『電通が支配するわざと平凡に作られたタイアップ曲』などという、音楽を非本来的に貧しくするあり方は、音楽に対する許し難い冒涜としか思えません…!僕は一音楽好きとして、Jポップなるものに非常にやり切れない怒りと悲しみを感じます。Jポップなるものが、日本の人々から自由な音楽を奪い、日本の音楽のクオリティを低下させている巨大要因であることをはっきりと知りました…。

電通・テレビ局による音楽を貧しくしてその可能性を奪う、恐るべき収奪の試みの結集がJポップなるものなんですね…。一刻も早くこの抑圧体制『Jポップ』が滅び、日本の人々に音楽が再び解放される日が来ることを、心から願います。電通とテレビ局に支配される隷従のタイアップ音楽Jポップではなく、多様にして豊かな自由の音楽が日本の人々にあらんことを。

ブライアン・イーノ「A year」より

「未完成」

言葉は発せられ、それは間違っている。「インタラクティヴ」というのはまちがった言葉だ。

ひとつはっきりさせておこう――会話と同じく、文化はその定義上当然のこととしてインタラクティヴである。「インタラクティヴ」な文化について語るのは「インタラクティヴな会話」について語るのと同じく冗漫なことだ。会話においては、少なくとも2人の人間がそれに参加することを選択肢、自分たちの外にある意味と関わり、それらに呼応するのだから、無論それはインタラクティヴだ。文化もこれと同じで、それは、別の世界、あなたや他人の想像の世界と関わってくださいという招待なのだ。その招待を積極的に受けなければ、何も起こらない。あなたは実際には文化の受け身の消費者ではない。なぜなら、「消費する」という動詞がこの文脈で唯一意味を持つのは、それが「関わることに同意する」ということを意味するときだけだからだ。(中略)

では、人々(あなた)が以前作っていたものと、人々(あなた)が現在作っているものの違いは何なのだろう?それは「未完成」というもっと適切な言葉に集約できると思う。その考えは非常に明確だ――使うには、完成させなければならない文化的物体があるということだ。言い方を変えれば、文化の作り手は、純粋に完結した立場の提供から、人々が自分自身の体験を作り上げる足場の提供に移っているということだ。(中略)

根本的には、あなたが買ったレコード(CD)は完成された聖なる品ではなく、あなたが将来変化を加える可能性があるということだ。これは消費者たるあなたが、買ってきたレコードに高価でいわゆる「適正な」装置を与えて尊び、それからスピーカーの間に等距離に置いた椅子に腰掛けあるいはひざまづき、咳をしたり頭を動かさないように気をつけて音楽に奉仕するという考え方であったかつての「ハイファイ」時代と比べてみるといい。事実、文化の使い方に関するこの古典的な考えはほとんど消滅した。(中略)

われわれはもう、文化の作り手と文化の消費者の間に際立った区別を感じていない。文化はわれわれが望むままに使い、生活に組み入れるためにあるのだという感覚だ。われわれは家を掃除するときにフォーレの「レクイエム」を流しても後ろめたさを感じないし、ヴェルサーチのジャケットにジーンズを合わせることも臆さない。ミックスしてマッチさせる。自分自身の文化的主張をするのである。(中略)

「未完成」というコンセプトは、われわれが仕事に使う文化的道具について、われわれが「アーティスト」かつ「消費者」として取るべき態度について、それらに役割がどれほど日増しに重要になっているかについて、新しい考え方を提示する。それはまた、新しい哲学的始まりも提示する。われわれはもはや「完成された」作品の消費者なのではなく、様々なものとの会話とインタラクションを行う人間なのだという考えになれてしまえば、「自分の立場をわきまえろ」的な世界は去り、積極的に関与することが楽しいと感じ始めるようになる。物事を、固定され、変えられない、予め定められたものとみるのをやめ、自分が制御できるアイデアを実行に移すようになる。

おそらくもっとも重要なことは、われわれが自分自身に対しても同じように考え始めるかもしれないということである――われわれは、自分のアイデアやアイデンティティを絶えず再検討しリミックスする未完成な、そして完成され得ない存在である、と。これは私の最も明るい見通しなのだ――人々が、人種、民族性、階級、血統といった、アイデンティティについてのますます危険を孕みつつある古臭い定義を捨てて、それを、多種多様で移り変わり、あいまいで実験的で、柔軟なものと考え始めること。そのような変化をもたらす思考の基盤は、単なるエンターテイメントという形を装って、すでにいつの間にか入り込んできていると思う。

音楽から可能性を奪う収奪と抑圧のシステムたるJポップが一刻も早く消滅し、人々に開かれた永遠の未完成なる多様にして豊かな音楽が生まれることを心から深く願います。

参考作品(amazon)
Jポップとは何か―巨大化する音楽産業 (岩波新書)
A year
Michael Nyman: Soundtracks [Box Set]
アンビエント 1/ミュージック・フォー・エアポーツ(期間限定盤)
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2010年01月30日 17:11

ラフマニノフ:合唱交響曲「鐘」
ポー詩集―対訳 (岩波文庫―アメリカ詩人選)

僕は元々頭痛持ちなんですが、今日は左前頭部の頭痛が特に酷くて、最近あまり食べていないこともあって心身の調子がよくなく、暗い気持ちなので、ラフマニノフの合唱曲「鐘」を聴いていました。フィギュアスケートの浅田真央選手が今年のバンクーバーオリンピックで使う曲もラフマニノフ「鐘」(op3)ですが、浅田選手の使う曲はピアノ曲の方の「鐘」なので、僕が今回取り上げる合唱曲「鐘」(op35)とは別曲です。盲目のピアニスト辻井伸行さんが演奏を得意とする作曲家ということで昨今一躍有名になったラフマニノフは、同郷の作曲家ショスタコーヴィチと同じく、陰欝にて絶望的な音色に満ちた暗い曲を作曲したというのが特徴としてありますので、ピアノ曲と合唱曲のどちらの「鐘」も「暗い」ということは共通していますが…。

ラフマニノフの特徴は、先にも挙げたように、暗いということでして、ショスタコーヴィチと同じく聴いていると気が滅入ってくるのが特徴です。この近代ロシアの二巨匠(ラフマニノフ・ショスタコーヴィチ)にはチャイコフスキーのような明るさは欠片もなく、ただひたすらに、陰陰滅滅とした名曲の数々を作曲しました。その中でも、ラフマニノフop35「鐘 独唱、合唱と管弦楽の為の詩曲」は、ラフマニノフの名声を高めた代表作にして彼の最も暗い曲の一つであり、聴いていると、「ああ…もうだめだ…」みたいな気持ちになってくる曲です…。特に第三楽章〜第四楽章の絶望的な音楽は、聴いていると気が滅入って何もかも全てに絶望的になってくるような凄まじいものがあります。ラフマニノフ「鐘」ライナーノーツより引用致します。

第三楽章、プレスト、ヘ短調、四分の三拍子。
この楽章には、ソリストは登場しない。まず慟哭の鐘が鳴り、幻想的なオーケストラは合唱を伴って、人生の不幸や恐怖を叫びつづけるのだ。

第四楽章、レント・ルクブレ、嬰ハ長調、四分の四拍子
合唱にバリトン独唱が参加する。葬式の鐘がなり、イングリッシュ・ホルンが悲しい調べを吹き、声楽が死への苦しみやそれへの怒りを表現する。やがてオーケストラの苦味に満ちた後奏に達し、終結部は、なお幸福を追い求めようとする人間が、心の中に思い描く虹のように美しい。
(ラフマニノフ「鐘」ライナーノーツより)

この曲は、エドガー・アラン・ポーの詩を題材とした曲で、題名の「鐘」とは「弔鐘」のことです。第一楽章と第二楽章が、愛する人と巡り合い、結婚するまでの喜びを、第三楽章と第四楽章が、愛する人が亡くなり、人生と世界に絶望して悲嘆に暮れる哀しみを描く、悲劇的合唱曲です。第一楽章と第二楽章はあまりたいしたことはないのですが、第三楽章と第四楽章の暗い悲劇の音楽的密度が凄まじく、ラフマニノフ作品の中でも最も高く評価されている曲の一つです。

僕も、気分が滅入っているので、今第四楽章を聴きながらこの文章を書いていますが、まさに、気持ちと音楽がシンクロ(同調)するという感じでして、気持ちが滅入って、全てが暗い底に落ちてゆくような気分です…。この曲は全く救いのない悲劇的楽曲でして、先に引用したライナーノーツに書かれている「終結部の救済」というのは、曲に使われているポーの詩を読んで解釈すると、愛する人を失い悲嘆に暮れる主人公の死のことなんですね…。本合唱曲より、第四楽章に使われる詩文を引用致します。

ラフマニノフ「鐘」第四楽章

聞け、鐘の響きを
悲しげな鐘を
実らぬ夢の苦い終わりを、侘しい哀歌を
荒涼たる世界が、鉄の鐘の響きに宿る
我らは墓場を思い
宿命に身を震わせる
試練は永久に、静寂と闇の中に沈む
憑かれたように
繰り返される
彼らの抑えた響き
うめき声に似た
重いうめき声に似た
抑揚をつけるのは
深い哀しみ
伝えられるのは、兄弟がついた永遠の眠り
それは苛酷に響き渡る
喜びは失われたと
罪人にも正義の士にも
その目は眠りに閉ざされ、頭は塵に化したと
彼らは石の下に眠ると
だが鐘楼に住む魔性のもの
それは不吉に告げる、
告げる、告げる、
鐘楼のまわりを狂ったように踊りながら
大鐘は響き渡る
鐘は激しく響く
鐘は脅すように鳴る
宿命の言葉を告げながら
鉄の鐘は冷たく響く
虚空を抜けて、宿命を告げる
墓の静けさのほかに、安息はないと。

これで、曲は終わります。聴くと心底暗い気持ちになる曲の一つと言えます。曲自体は非常に優れた名曲でして、悲劇的楽曲の最高曲の一つとされています。暗い気持ちのときは、暗い曲を聴くと、ますます暗くなって、気分が無限降下してゆきますね…。クラシック合唱曲として聴き易い曲でもありまして、お勧めの名曲です。

先にも挙げましたように、ラフマニノフの曲の特徴は暗いということなので、浅田真央選手がオリンピックで使うピアノ曲の「鐘」も暗い曲ですし、盲目のピアニスト辻井伸行さんが演奏するラフマニノフも暗いピアノ曲ですし、ラフマニノフが浅田選手や辻井さんの活躍で有名になって、ラフマニノフの暗い曲で日本中が満たされればいいなあと思いますね…。ラフマニノフの曲が暗いのは、近代ロシアの度々の政変の影響、近代ロシアの暗い世相の反映があると考えられており、現代日本の世相はとても明るいとは言えませんから、日本中に響く曲に、ラフマニノフの暗い名曲の数々は相応しいと思います…。

天上の幸せは夢幻
暗闇の中で苦しみ
全てが終わってゆく
何が残るのか
運不運いずれにせよ
苦悩の印が刻まれる
あの昔からの戸惑い
空っぽの宝
朝の喜び
夕べの苦しみ
(W・B・イェイツ)

幼子達の幸せな生活を描いた「はなまる幼稚園」を読んだり、視聴したりしていると、上記のイェイツの詩を思い出しますね…。なぜ人の生活は年を経るに連れて、苦しく辛いものになるのか、考え込まされます…。

はなまる幼稚園、以前第一巻買ったこと書きましたがamazonギフト券を定期的に送って頂いたおかげで二巻以降も買えました(http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1065989.html)。ありがとうございます。心から深く感謝致します。「はなまる幼稚園」第一巻〜第七巻は、ワーズワースの詩のような人生賛歌・生命賛歌で、とても良い作品ですね…。『われらの幼けなきとき、天国はわれらのめぐりにありき』(ワーズワース)ですね…。

残念ながら人間は年月と共にワーズワースの謳う晴れやかさを永遠に失ってしまいますね…。猫がとても可愛いのは、人間の大人が失った晴れやかさを動物たちは持っているというのもあると思います。暗い気持ちのときは、ラフマニノフやショスタコーヴィチが生み出した、悲劇を描いた暗い美の芸術が、心を慰めてくれますね…。

今のわれわれはもはや生活から美を引き出せないので、生活から美を引き出せないということそのものから、せめて美を引き出すとしよう。
(フェルナンド・ペソア「不安の書」)

参考作品(amazon)
ラフマニノフ:合唱交響曲「鐘」
ポー詩集―対訳 (岩波文庫―アメリカ詩人選)
浅田舞・浅田真央 スケーティング・ミュージック2009-10(DVD付)
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番(DVD付)
不安の書
ワーズワース詩集 (岩波文庫 赤 218-1)
イエーツ詩集 (海外詩文庫)
はなまる幼稚園1 [Blu-ray]
はなまる幼稚園2 [Blu-ray]
はなまる幼稚園1 [DVD]
はなまる幼稚園 1 (ヤングガンガンコミックス)
はなまる幼稚園 2 (ヤングガンガンコミックス)
はなまる幼稚園 3 (ヤングガンガンコミックス)
はなまる幼稚園 4 (ヤングガンガンコミックス)
はなまる幼稚園 5 (ヤングガンガンコミックス)
はなまる幼稚園 6 (ヤングガンガンコミックス)
はなまる幼稚園 7 (ヤングガンガンコミックス)

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2010年01月29日 16:23

貧乏物語 (岩波文庫)

僕は食費節約で朝と夜に食べている一日二食の生活なので、この時間(15:00〜)が一番おなかがすきます…。パソコンとインターネットと図書館があると、本と音楽は無料で手に入り困らないですが、食べ物ばかりはどうにもならないですからね…。政府が無収入・低収入者に食料配給支援をやってくれればいいのになあと思います…。米価維持で国が毎年買い取っているお米が大量に余っている筈ですし、それらのお米は倉庫で何十年も保管された後、捨てられる訳で、そのお米を配給してくれればいいのになあと思います…。大量のお米を長期間倉庫に保管するお金(税金)だって相当掛かっている訳でして、そういったことを考えたら、食料配給制度を復活させて欲しいと心から思います…。

アメリカは日本よりこの点において遥かに福祉が進んでいて、無収入・低収入者に対する食料配給制度があります。「フードスタンプ・プログラム」です。アメリカにおいて貧しすぎて食料を調達できない貧困層はこの制度で食べています(アメリカの貧困層3,715万人がこの制度で食べています)。それに比べると、日本の貧困層には餓死者が出ている訳でして、日本の貧困層に対する対応は本当に酷すぎると思います…。「貧困大国アメリカ」で問題点が指摘されているアメリカよりも、更に何もありません…。

ウィキペディア「フードスタンプ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%97
フードスタンプ(Food Stamp)とは、アメリカ合衆国で低所得者向けに行われている食料費補助対策。公的扶助の一つ。形態は、通貨と同様に使用できるバウチャー、金券の一種。一般のスーパーマーケットでも使用できる。対象は食料品であり、タバコやビールなどの嗜好品は対象外となる。(中略)貧困対策として手っ取り早く、かつ、目に見えるものであったためである。需給者資格は、選挙の機会を通じて拡大するようになった。
2000年代に入ると対象枠の拡大とともに所得格差が進行したこともあり、受給者層が拡大。2004年度に約2,200万人であった2007年度には約2,800万人へと拡大した。2008年、ブッシュ大統領は肥大化するフードスタンプ制度について異議を唱え、受給資格を拡大する農業法案に対して拒否権を発動したが、選挙間近という状況もあり、下院議会は大統領拒否権を覆す大差で法案を可決した。

米国で有職者のフードスタンプ利用が急増(2009年9月5/6日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/1705
米国の有職者の間で、政府が無料で発行する「フードスタンプ(食料配給券)」を利用する人が急増し、今回の景気後退が新規失業者だけでなく、有職者にも痛みをもたらしていることを浮き彫りにしている。

【フードバンク】、フードスタンプ受給者が3,700万人突破!その援助も足りない人は?
http://blog.livedoor.jp/usretail/archives/51356969.html
低所得層を対象にした生活保護「フードスタンプ(食料券)」受給者は9月、前月(3,649万人)より68万人増加し3,715万人になった(トップのグラフ参照)。7ヶ月連続で60万人以上増加していることで、半年以上にわたり毎日2万人の割合で生活保護者が増えているのだ。景気後退が始まった07年12月から失職者数は総計1,540万人となり、半年近く仕事が見つからない人は約40%になっている。失業率も二桁となり、今後もフードスタンプ受給者は増える見込みだ。
 一方、フードスタンプだけでは食べられない人や住所が定まらない野外生活者など深刻な生活困窮者も増加している。彼らが頼りとするのは「フードバンク」だ。フードバンクとは、品質に問題がない缶詰や一部生鮮食品を、スーパーマーケットや食品加工業者から寄附を受け、生活困窮者などに教会を通じて配給する団体だ。全米の200以上のフードバンクを統轄するNPO組織「フィーディングアメリカ(Feeding America)」は、昨年の需要が30%も増加したという。需要が2倍以上となる150%増のフードバンクもあると報告しているのだ。9月に行われた調査によると、フードバンク団体の98%が、フードバンクを初めて利用する人が増加しているという。

データで見ると日本の社会福祉は、ヨーロッパは言うに及ばず、アメリカよりもずっと低いものであるということなんですね…。日本の社会福祉は僕みたいな若年層の貧困層に対しては、何一つ援助がありません…。ヨーロッパもアメリカも、若年層の貧困層に、上記のフードスタンプ・プログラムなどで援助しているんですが、日本はそういった制度が一つもなく、どこからも公的な助けを得ることができません…。日本は若年層の貧しい人を完全に見捨てているんですね…。

民主党政権になっても、医療費安くならないですし、生活は自民党政権時代と何も変わらないです…。もう、何か絶望的な気分です…。なぜ、食料配給制度を行ってくれないのでしょうか。コストが極端に高すぎて非現実的なベーシックインカムとは違い、ローコストで行える食糧配給制度はアメリカやヨーロッパが実際に行っている、現実味のある貧困対策です。現与党である民主党政権は、食糧配給制度のような実効性のある貧困対策して欲しいと心から願います…。

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僕は10年ぐらい前に買った象印の炊飯器でお米炊いて自炊しているのですが、先々週くらいからお米を炊くとなぜかお米に謎の芯が大量に残るようになってしまいました。これまで10年ずっと使っていて、保温しすぎた時以外は、お米に芯が残ることは全くなかったのですが、先々週くらいから、いつも通りに普通に炊いても、お米に芯が残ります。今も炊いたご飯を試しに食べてみたら、芯が…。お米の芯、物凄く硬くてまるでプラスチック片を食べてるみたいですし、歯に詰まりますし、物凄くがっくりです…。

お米よりラーメン・パンの方が安いのでそちらを食べていることが多いのですが、お米は好きなので、なんともがっくりです…。炊飯器が壊れちゃったのかな、それとも設定がおかしくなっちゃったのかなと思うのですが、古過ぎて取扱い説明書もどっかにいっちゃっているので設定の確認方法が分からず、どうしようもない感じです…うう…orz

ただ、お米が芯があっても頑張れば食べれない訳ではないのと、お米よりラーメン・パンの方が安いので食費節約の為、ラーメン・パン食の方が多いのとがあるんで、新しい炊飯器をいきなり購入したりはせず、しばらくは直せないか試行錯誤しながら様子を見ようと思います…。お米を少しずつ食べて長持ちさせて使っているので、おなかすいたです…。

「おなかすいたうた」
http://www.youtube.com/watch?v=vWRsIzcEKmI

Miku - Onaka Suita Uta (Remake ver.)
http://www.youtube.com/watch?v=G3E9QZuw4LM

【初音ミク】おなかすいたのうた【オリジナル】
http://www.youtube.com/watch?v=3mNWDF2O1gI

おなかすいたうたを聴いていたらますますおなかがすきすぎて、くらくらします…。貧困対策として収入のない人に政府が食料を配給してくれたら助かるんですが…。貧乏暮らしから言えることは、貧乏は「おなかすいたのうた」のような牧歌的な生活では決してなく、「おなかすいたうた」に歌われる『食べ物が食べたい!』という即物的な苦しみとしてありますね…。

食べたいっ 食べたいっ 食べたい〜よっ♪食べたいっ 食べたいっ 食べたい〜よっ♪
おなかがすいて ふらふら よっろよろ〜 ♪お〜なかがすいた〜♪
(おなかすいたうた)

おなかがすきすぎると思考の制御能力が低下して、ビンボーカロイドとかしょうもない洒落が頭に浮んできます…。カロリーをなるべく使わない為ににゃんこのお世話以外は寝ているという感じです…。おなかがすいてたおれるようにねている状態で以下の曲を無限リピートで聴いています…。おなかすくと寝ていても目が回ってきてくるくるまわるよぐるぐるまわるよくるくるまわるよぐるぐるまわるよくるくるまわるよ

「トロイメライ」
http://piapro.jp/content/on3lgckamskrb3er

くるくるまわるよ
ぐるぐるまわるよ
くるくるまわるよ
ぐるぐるまわるよ
くるくるまわるよ
ぐるぐるまわるよ
くるくるまわるよ
ぐるぐるまわるよ
くるくるまわるよ
ぐるぐるまわるよ
くるくるまわるよくるくるまわるよくるくるまわるよくるくるまわるよくるくるまわるよくるくるまわるよくるくるまわるよくるくるまわるよくるくるまわるよくるくるまわるよくるくるまわるよくるくるまわるよ

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2010年01月28日 15:26

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私の考えでは、もはや音楽に歴史というものはないと思う。つまり、すべてが現在に属している。これはデジタル化がもたらした結果のひとつで、すべての人がすべてを所有できるようになった。
(ブライアン・イーノ)

「音楽業界がいかに危ないか俺が優しく教えるスレ」
http://workingnews.blog117.fc2.com/blog-entry-2525.html
音楽って研究職だから数百年も前からパトロンがいて成立してきた文化なんだよ。 それはクラシックでもPOPSでも変わらなくて 新人のアーティストはレコード会社に支えられてクオリティを保持していた。 その音楽を作ってるやつらが自分達でビジネスを考えなきゃいけなくなったら 音楽がどうなっていくか、 質が下がる。 それが問題だ。

上記の「音楽業界が〜」、物凄くJ-POPより、レコード会社よりの意見で、僕は違和感を覚えますね…。上記によるとエイベックスなどの巨大なレコード会社が支配する音楽業界が廃れているそうでして、それは事実としてその通りだと思います。僕としては日本の大手レコード会社が出すいわゆる「J-POP」を聴くのが、鬼束ちひろさんらごく一部のアーティストを除いては子供の頃から苦手でして、J-POPは縮小して、インストゥメンタル(人間の声のない器楽曲)が拡大して欲しいと常々願っていましたので、J-POPが廃れて音楽が多様化してゆくのは大歓迎という感じです。詳しくは後述しますが、J-POPのクオリティ低下に連動して、他のジャンルのクオリティが低下するわけではないですし、J-POP=音楽業界でもありません。上記ではボカロ界隈はレベルが低いと言っていますが、虚心坦懐に色々聴くと、現在のJ-POPの若い歌手達の歌は余りにも下手すぎて(歌声を抜いて背景音楽だけ聴いていたいと思ってしまう、背景音楽もレベルは低いが歌よりはまだ良い)、聴くのが辛いです。総合的に見るともはやJ-POPのレベルの低さはボカロを含めたあらゆる音楽ジャンルを遥かに凌駕する最下位、最も下の位置にある終わったジャンルではないかと感じてしまいます…。J-POPはマスメディアの宣伝だけで売っているとしか思えないのです…。

J-POPの売り上げが低下することで音楽の質が低下すると「音楽業界が〜」では書かれていますが(確かに現状のJ-POPの質の低さは驚異的です)、J-POPの品質低下が他の音楽の質と連動する訳ではありません。J-POPを聴く人々が減少することで、結果として人々の聴く音楽が若い人々中心に多様化し、J-POP以外の音楽ジャンルの質は年々上がっているように思います。僕は子供の頃からインストゥメンタルをずっと聴いていますが、電子音楽技術の革新的な進歩と、生活に音楽が「水のように溢れている」(byブライアン・イーノ)ことによって、みんな耳が良くなってきて、J-POP以外の音楽のレベルは全体的に上がってきていると思います。日本の音楽シーンにおいて独占的なシェアの支配者であったJ-POPなる時代遅れの巨人にはご退場願ってこそ、更なる多様にして新しいミュージック・シーンの可能性が出てくると思います。優れた歌声を聴くということであれば、サラ・ブライトマンなりエンヤなり、海外に素晴らしい歌い手さん達がきちんといらっしゃいますし…。数十億人のリスナーを持つイーノのインタビューを引用させて頂きますね。

ブライアン・イーノ特別インタビュー
http://www.timeout.jp/ja/travel/feature/138
私の考えでは、もはや音楽に歴史というものはないと思う。つまり、すべてが現在に属している。これはデジタル化がもたらした結果のひとつで、すべての人がすべてを所有できるようになった。レコードのコレクションを蓄えたり、大事に保管しなくてもよくなった。私の娘たちはそれぞれ 50,000枚のアルバムを持っている。ドゥーワップから始まった全てのポップミュージック期のアルバムだ。それでも、彼女たちは何が現在のもので何が昔のものなのかよく知らないんだ。例えば、数日前の夜、彼女たちがプログレッシブ・ロックか何かを聞いていて、私が「おや、これが出たときは皆すごくつまらないといっていたことを思い出したよ」と言うと、彼女は「え?じゃあこれって古いの?」と言ったんだ(笑)。彼女やあの世代の多くの人にとっては、すべてが現在に属していて、“リバイバル”というのは同じ意味ではないんだ。

「でも、本当に大事なものはいくらかそこで失われたのでは?」

何かは失われたし、何か別のものが得られただろうね。特に私の世代で失われたものは顕著だね。なぜなら、私たちにとってレコードは極めて重要なもので、レコードによって文化的なポジションが決められていたし、レコードの嗜好によって人との付き合いも決まった。レコードは文化的な会話の中心を占めていたんだ。その理由の一つは、レコードは金のかかる趣味だったからね。当時は高くてたくさん買えなかったから、それだけお金をかけるならば、真剣になるし情熱も持つようになる。そして、真剣になって情熱を持った分だけ、恩恵も受ける。だが、今や音楽は水のような存在になってしまった。事実、水より若干安くなっているし、音楽に対してはまったく異なる態度が生まれている。この新たな態度の健全な部分としては、さっき説明したように、偏見をまぬがれた差別のないフィールドが生まれたことだね。音楽は以前ほどはイデオロギーの重荷を背負わされなくなった。例えば、ABBAを好きな人は政治的に格好悪いとされたり、ベルベット・アンダーグラウンドを称賛するのが不可欠だとされていた頃のことを思い出すよ。そういった多くのものは過ぎ去ったし、過ぎ去って良かったと思う。

「それだけでしょうか?」

いや、他にも引き起こされたことは、音楽が事実上無料になったことで、コピーできない部分に価値が置かれるようになったことだ。例えばパフォーマンスに関して言えば、ここ数年においておそらく今までにないほどイギリスではライブパフォーマンスが盛んになっていて、バンドはパフォーマンスを真剣に受け止めている。彼らはパフォーマンスのプロモーションをするためにレコードを作るんだ。私たちの時代は、レコードのプロモーションをするためにパフォーマンスをしたものだった。再びパフォーマンスが活性化して注目すべきものになり、全てのレベルにおいて重要になった。大物のバンドがやってくるときはサーカスが街にやってくるときみたいだし、実際に彼らがやっていることその通りなんだ。様々なフェスティバルも以前より増えている。そうした場所は若者にとっての一時的な新しいコミュニティを生み出していて、私はそれが好きなんだ。素晴らしいことだと思うよ。(中略)

(イーノが作曲したWindowsの起動音は)Windows 95のためにずいぶん昔に作ったから、リスナーは数十億人くらいなものだよ…。

読んでいて最後に笑いましたね。ブライアン・イーノは『レコード会社が音楽を支配する形態はいずれ必ず崩れるし、それによってアーティストとオーディエンスが共に創り上げる多種多様で豊かな音楽が生まれるだろう』ということを何十年も前から述べている作曲家でして、僕はイーノのこの意見は正しいと思います。人々の音楽を聴く耳、音楽感性は無数の音楽が湯水のように出回ることで全体的に豊かになっており、その結果としてレベルの低いJ-POPが廃れてゆくのも必然的なことだと思います。まさに以下の言葉通りです。

『今や音楽は水のような存在になってしまった。事実、水より若干安くなっているし、音楽に対してはまったく異なる態度が生まれている。この新たな態度の健全な部分としては、さっき説明したように、偏見をまぬがれた差別のないフィールドが生まれたことだね。音楽は以前ほどはイデオロギーの重荷を背負わされなくなった。例えば、ABBAを好きな人は政治的に格好悪いとされたり、ベルベット・アンダーグラウンドを称賛するのが不可欠だとされていた頃のことを思い出すよ。そういった多くのものは過ぎ去ったし、過ぎ去って良かったと思う。』

J-POPなるものはまさに『過ぎ去ってゆくもの』であると思いますね。クラシックにしても、プレスリーなりビートルズなりの古典的なポピュラー洋楽にしても、僕の好きなミニマル・ミュージックにしても、民俗音楽、例えば演歌にしても、それら様々な音楽の代表的な曲は今から百年後にも今のように聴かれている可能性が高いと思います。しかし、J-POPの曲が今から百年後に今のように聴かれるということはまずないかと…。それはそれで音楽の流れとして然るべき流れだと思います。十年後にも聴きたいと思える曲がはたして現在のJ-POPのトップチャートに存在するでしょうか?

『新人のアーティストはレコード会社に支えられてクオリティを保持していた。』という意見は、今のJ-POPを見ると余りにも説得力を欠くと思います。日本のレコード会社はポップス音楽に対する束縛としてしか機能していないように思いますね…。今のレコード会社は少なくとも日本のJ-POP限定で見れば「イデオロギーの重荷」そのものではないでしょうか。

僕は、エイベックスなどの巨大なレコード会社が音楽において占めるシェアが減少し、その分多様な音楽が生まれた方が、音楽の質は全体的に向上すると思います。『今や音楽は水のような存在になってしまった。事実、水より若干安くなっているし、音楽に対してはまったく異なる態度が生まれている。この新たな態度の健全な部分としては、さっき説明したように、偏見をまぬがれた差別のないフィールドが生まれたことだね。』ですね。日本のインストゥメンタルについて言えば、電子音楽機器の圧倒的な性能向上、そしてTVゲーム音楽の隆盛の影響を受け、ここ数十年において凄まじいほどに質が上昇しています。例えば去年の日本のインストゥメンタルでは、真・女神転生ストレンジ・ジャーニーの音楽は非常に良かったですね。quantum leap symphonic choirsという電子オーケストラソフトで作り出した聖書詩篇のコーラスが絶妙です。初音ミク達ボーカロイドと同じように、人間の声ではなく、ソフトウェアが作り出す電子音声合唱を使っています。合唱に調性が効いている、とても心地よい楽曲です。

真・女神転生ストレンジ・ジャーニーサウンドトラックライナーノーツより作曲家目黒将司さん(著名なゲーム音楽作曲家、日本を代表するインストゥメンタルの作曲家の1人と思います、女神転生シリーズ、ペルソナシリーズの音楽を担当)の言葉を引用します。

男性コーラスの詩には聖書詩篇から引用していると書きましたが、この男性コーラス、ソフトウェアを使って喋らせています。今は絶版となったquantum leap symphonic choirsというソフト。絶版後に買いましたヤフオクで。絶版後も海外で取り扱っていたので安心していたら、購入の段になってじつはもう取り扱っていないということが判明。ヤフオクの個人出品者様に「(株)アトラス」で領収書を切って頂きました。そして開発も終わりを迎えた頃、新しいエンジンを使ったニューバージョンが発売されました…(中略)

絶版となったquantum leap symphonic choirsを使っての曲作りですが、音程が曖昧なコーラスはこの曲のように前半は音程は曖昧だけれども旋律的なものがあるタイプと、後半の四分音符で野太く叫んでるだけっぽいタイプの2種類に分かれます。これ(quantum leap symphonic choirs)、歌詞を入力して鍵盤で弾くと歌詞に合わせて歌ってくれるというソフトなので、テキストで詩(聖書詩篇)を入力したら鍵盤を弾くわけですが、単音だと全然野太くないんですよね。なので、手のひらで鍵盤を叩く!叩き間違えると詩がずれちゃうからまた最初からやり直し。この作業が客観的に見るとスゴく怪しい。特に野太く叫んでいるだけのタイプを弾くとき。私のブースの前を通った人から、小窓から見える目黒の怪しい行為を何度も目撃されています。
(目黒将司。「真・女神転生ストレンジ・ジャーニーサウンドトラック」より)

Quantum Leap SYMPHONIC ORCHESTRA
http://www.crypton.co.jp/mp/do/prod?id=24430

真・女神転生 STRANGE JOURNEY オリジナル・サウンドトラック
真・女神転生 STRANGE JOURNEY オリジナル・サウンドトラック

製作者1人(目黒さん1人)で、人間の声を使わない、合唱としてきちんとしたレベルに達している電子音声合唱曲が作れるというのは、音楽技術の素晴らしい進歩だと思いますね。ボーカロイド界隈でもこういった合唱曲は作られています。この例に限らず、ここ数十年での電子音楽の進歩は驚異的なもので、ゲーム音楽が盛んな日本においても驚くべき発展を遂げています。こういった質の向上を見ずに、J-POPの質の低下を音楽全体の質の低下と結びつけることはあってはならないと思いますね。

海外のインストゥメンタルで言えば、マックス・リヒターの作曲した映画音楽、「戦場にワルツを(Waltz with Bashir、2008年製作)」BGM、素晴らしいと思いましたね。聴いていて感銘を受けたインストゥメンタルです。リヒターはクラシックの技法と電子音楽の技法の両方を活かした作曲を行うアーティストでして、その作曲レベルはただただひたすら感服するとしか言い様のないほどに素晴らしいものです。

Max Richter - Waltz with Bashir (fragments)
http://www.youtube.com/watch?v=BlTdzFSP-jc

Waltz with Bashir
Waltz with Bashir

音楽は近年も豊かに生まれ続けています。例えば、近年の歌曲ではサラ・ブライトマンのようなずば抜けて優れた歌手の歌は心から素晴らしいと思います。日本国内のみのジャンルであるJ-POP、「沢山売れる」だけが存在価値な部分の大きい、音楽の質的にはいてもいなくても影響のないJ-POPジャンルが廃れることは、あくまでそのジャンルの枠内のことで、歌という大きな世界にも、音楽という更に大きな世界にもマイナスの影響を与えるような事象ではないと思います。寧ろ、質的に見れば有り得ないような大きなシェアをこれまで取っていたJ-POPの衰退は他の多種多様な音楽からみれば歓迎するべきことかと。J-POP=音楽業界、J-POPの危機=音楽業界全体の危機である様にいうのはあまりにもJ-POPしか見えていない意見だと思います。洋楽ポップスもクラシックもジャズもロックもボーカロイド界隈も、J-POP以外の無数の音楽ジャンルも立派な音楽ですからね…。「音楽業界が〜」はJ-POP以外の音楽の質が低いかのように書いてありますが、J-POPの背景音楽のレベルはかなり低いものが多々あります。映画音楽、ゲーム音楽のインストゥメンタルの方が、J-POPの背景音楽よりもレベルが高い作品が多いです。映画音楽で言えばジョン・ウィリアムズやマイケル・ナイマンや日本なら久石譲さん、岩代太郎さんetc、ゲーム音楽なら先に挙げた目黒将司さんやドラクエのすぎやまこういちさんetc、大勢のクリエイターが優れた作曲を行っています。

本来レコードってライブを詰め込んだものなのに、いつからそれが逆転したんだ、って
DTMしかやってないヤツらは当たり前のように知らない。

上記、グレン・グールド(スタジオ録音ピアニストの巨匠。徹底して演奏の完成度を突き詰めたピアニスト)が聞いたら卒倒しそうな言葉ですね…。これに関しては、本来レコードってスタジオ録音を(以下略)。スタジオ録音は良質な録音環境での録音であり、なおかつ様々な修正が可能ですから、音楽としての純粋な完成度はライブ録音より高くなります。その利点を忘れてはならないと思いますね…。僕の好きなイーノの環境音楽などはスタジオ録音、電子機器を使ったDTMですが、それについて音楽家アート・リンゼイはこのように述べていますね。

このアルバム(TEH DROP)は
録音機材の上にのせられたイーノの指の感触と、
機材が的確に動作するのを助長させるイーノの内面
のうつろいを蘇らせる。
イーノほど叙情的精神の持ち主はいない。
(アート・リンゼイ)

アムラン作曲のピアノ曲サーカス・ギャロップとか、コンロン・ナンカロウ作曲のピアノ曲などの『人間の演奏限界を遥かに超えている、自動演奏ピアノ用に作られたピアノ曲』などもある訳で、科学技術の力を借りて、人間が演奏するライブでは出来ない音楽、人間の限界を超えた音楽というのを探求してきたのが、クラシックの系譜を受け継ぐ近現代の音楽の歴史としてあるんですね。最新音楽技術の結晶たる初音ミクらボーカロイド技術も近現代の音楽の流れに連なる、新しい音楽を探求する試みとして立派にある。そういったことを、レコード会社で商業音楽製作に携わる人にはわかって欲しいなと、ボーカロイド好き、音楽好きの1人として思いますね。
Player Piano, Vol. 6: Original Compositions in the Tradition of Nancarrow
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Waltz with Bashir
真・女神転生 STRANGE JOURNEY オリジナル・サウンドトラック
真・女神転生 STRANGE JOURNEY(ストレンジ・ジャーニー)
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Player Piano 1: Nancarrow Vol. 1
グレン・グールド 坂本龍一セレクション

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僕の好きなミニマル・ミュージックにスティーヴ・ライヒ「ピアノ・フェイズ」があるのですが、今回はそれの初音ミクバージョン「ミクのフェイズ」をご紹介致します。

「ミクのフェイズ」
http://piapro.jp/content/nl1cv14bc6i3x2s3

聴いていると頭が頭が頭が頭が頭がくらくらくらくらくらくらくらくらくらくらくら…。ちゃんとオリジナルのピアノ・フェイズに最初から最後まで忠実に完成させた出来で感動いたしました。オリジナルの方も終盤は二つのピアノからの音が絶妙に混じりあって、ぽわぽわぽわぽわぽわぽわぽわぽわぽわぽわぽわぽわぽわぽわ…としか聴こえなくなってくるんですが、それが良く出ているなあと。お勧めです。

ミニマル・ミュージック好きとしては、初音ミクを活用したミニマル・ミクがもっと沢山作られてくれたらいいなあと思いますね。良く出来たミニマル・ミュージックは、人間が意志的に制御できない意識の深層(認識形態)を直接制御する力があるので、表面的にさらっと流される音楽よりも面白みがあると思います。人間は外界からの入力情報を認識するとき、個別にそれぞれの情報を認識して頭で組み合わせるのではなく、常に一まとめの全体的なパターンとして認識しようとします(パターン認識、ゲシュタルト心理学の認識理論)。

良く出来たミニマル・ミュージックは『人間が自然に行う外部認識形態』を利用して、それぞれのパターンを瞬時に認識できる最小の旋律にして無数に反復させることで、聴き手に無意識のパターン認識を連続的に行わせます。そしてそのパターン認識の連続自体を音楽にすることで、聴き手の無意識を音楽に極度に集中させて制御することができるんですね。リラックスするような繰り返しのパターンはリラックスを(以前書いたテン・ホルトなどが代表的、ブライアン・イーノなどの環境音楽に繋がる)、高揚するようなパターンの繰り返しは高揚を覚えます(ダンス音楽として一世を風靡したミニマル・テクノ、先日のミクマルテクノなど)。

例えば、スティーヴ・ライヒにpendulum music(振り子の音楽)という、音を振幅によってバラバラに分解されてゆく様子をパラパラ漫画のように描いたかのような音楽があるのですが、聴いているとこちらまで意識が分解してゆく感じでして凄まじい没入深度があります。

Minimal at Liminal (2003) - Steve Reich, Pendulum Music
http://www.youtube.com/watch?v=Z6r3HDn6wFU

通常の歌や器楽曲に比べて、遥かに深いレベルの陶酔を齎すということで、ミニマル・ミュージックはもっと注目されていい音楽ジャンルであると思いますね…。繰り返しを最も得意とするのは電子機器ですから、初音ミクのようなDTMとの相性は抜群なのですが、残念ながら現状のところミクを始めとするボーカロイド達を活用したミニマル・ミュージックの数は少なく、その点が本当に残念です。ボーカロイド人気でミニマルも流行ってくれたらいいなあと心から思いますね。ミニマル・アンビエント・ミュージック、環境音楽の大家ブライアン・イーノが、現在のボーカロイド界隈のミュージック・シーンを予見したかのような言葉を1997年に残しているので引用致します。

ブライアン・イーノ「かつて、今ほどアーティスト(音楽製作者)とオーディエンス(聴き手)のギャップが狭まったことはない。コンピュータなどの技術革新でアーティストになることがとても簡単になった。例えば、君(インタビュアー)にこのスタジオで、今から4時間かけてCDの作り方を教えれば、ランチタイムには君のCDができあがる訳だ。(このインタビューは早朝に行われた)。少し前までは、音楽を作りたいと思う人とレコード会社の間には大きなギャップがあった。そのプロセスは極めて簡単になりえるようになり、『これなら私にもできる』ということが言いやすい状況になった。それはとても良いことで、『キミにも(音楽製作は)できる!』と私が言い続けてきたメッセージの由縁である。」

インターネット上での対話は?

ブライアン・イーノ「インターネットでは受信者は同時に送信者だ。したがって、従来のアーティストとオーディエンスという一方的な構造は存在しない。(中略)インターネットが象徴する大切なものとは、「今の本当のアートは対話である」ということ。なんら編集システム(レコード会社等)を通さない形で人々が互いに対話したいという欲求である。受信者はマスメディアというフィルターを越え、自分達で編集・パッケージング・選択をするという責任を取り出した。これは、先に私が述べた「誰がアーティストで誰がオーディエンスであるか」という問題に関係してくる。インターネットの次のステップはインテリジェントなフィルターだろう。すなわち、必要であったり興味がある情報だけを選ぶ検索機能の質が向上すれば、インターネットも機能し始めるだろう。したがって、次の段階で(これまでレコード会社がやっていた質によるフィルターをネットユーザー達が行う形で)再びフィルターが戻ってくるということだ。」(中略)

アーティストとは?

ブライアン・イーノ「アーティストである最も素晴らしいのは人々の人生の美学、そして文化の質を変える力を持つことだ。すなわち、何が大切で何が価値のあることなのか。例えば、私にとってミニマリズムは大切であり続ける。モア(ますます多く)ではなくレス(応答)の方が素晴らしいという美意識を作りあげることができる。実はこれは、この時代、とても重要なコンセプトである。ミニマリズムは少ししか行われないということではなく、実はもっと多くのことを最小限の形で行うことである。美学や文化を越えたエコロジカルな問題でもありえる。「多いほどいい」という危険な考えをやめることだ。それに気付かないと地球を喰い尽くしてしまうからね。(中略)

『思考することは、賢く、美しく、ヒップだ』というメッセージを伝えたい。思考する人は頭でっかちでパッショネートではないと決め付ける傾向があるが、アーティストであるということは思考者でありパッショネートであるということだ。」
(ブライアン・イーノ。「THE DROP」ライナーノーツより)

上記、1997年の時点で既に現在の音楽シーンを予見しているようで、流石は先駆者イーノ御大、凄いと思いましたね…。イーノ的で素敵だなと思うボカロ音楽をご紹介致します。先に取り上げた「ミクのフェイズ」のアーティストさんが製作している、全てがミクの声で成り立っている環境音楽「家具のミク」シリーズです。全てがミクの和声で成り立っている環境音楽でして、エリック・サティへのオマージュでもある音楽、ミク好きでサティ好きの僕としては堪らない音楽です。

「家具のミク」シリーズ
http://piapro.jp/content_list/?view=audio&keyword=%89%C6%8B%EF%82%CC%83%7E%83N

素晴らしいですね…。他にもミクムシhttp://piapro.jp/content/5rsj9i0v26deym7uなどもお勧めです。

僕はボーカロイド達が人間の歌手を模倣して普通に歌っている曲よりも、ボーカロイドならではの能力、すなわち電子音楽機器としての能力を活かして歌っている曲の方がずっと好きなんですね(上記の家具のミクやミクのフェイズ、ミクマルテクノなどの人間の歌手には不可能な曲、例えば抑揚をゼロにして機械的に歌わせている曲、「イメージがイメージする」http://piapro.jp/content/l6dlalrta25a7waaのような曲)。こういったタイプの曲の製作に取り組むお方々が増えてくれたらいいなあと思いますね…。

参考作品(amazon)
Satie: The Complete Solo Piano Music
Satie: The Complete Solo Piano Music
Steve Reich Works 1965-1995
Steve Reich Works 1965-1995
Steve Reich: Phases [Box Set]
Steve Reich: Phases [Box Set]
Phase Patterns/Pendulum Music/Piano Phase/Four Organs
Phase Patterns/Pendulum Music/Piano Phase/Four Organs
The Drop
The Drop
初音ミクDVD~impacts~[DVD]
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初音ミクDVD~memories~ [DVD]
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EXIT TUNES PRESENTS Vocalolegend(ボカロレジェンド)feat. 初音ミク(ジャケットイラストレーター なぎみそ)
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はじめての初音ミク ボーカロイド2 オフィシャルガイドブック(DVD-ROM付) (キャラクター・ボーカロイドシリーズ)
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メーカー非公式初音みっくす 1 (CR COMICS DX)
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はちゅねミクの日常ろいぱら! (1) (角川コミックス)
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ねんどろいど 初音ミク (ノンスケール ABS/PVC塗装済み可動フィギュア)
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ねんどろいどぷらす ぬいぐるみシリーズ02 「はちゅねミク」
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ねんどろいど らき☆すたOVA  ミックミクかがみ (ノンスケールABS&PVC塗装済み可動フィギュア)
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2010年01月27日 02:02

初音ミクDVD~impacts~[DVD]
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先日バイトの面接に行ったんですが、昨日、不採用の通知が届いて、がっくりです…。出だしが辛気臭い話でごめんなさい…。この話はここまでにします。昨日紹介したミニマル・ミュージックの話の続きをしますね。昨日のエントリ(http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1083909.html)でご紹介したミニマル・ミュージックは、テン・ホルトなどのクラシック系統のミニマルなので、今回はテクノ(ダンスフロアで流す電子ダンス音楽)系統のミニマル・ミュージックについてご紹介いたします。ただ、僕は、昨日取り上げたようなクラシック系統のダウナーなミニマル・ミュージックを主に聴いているので、テクノのアッパーなミニマル・ミュージックについてはあまり詳しくなく、説明に不十分な点がありましたらごめんなさい。

ミニマル・テクノは、僕の知る限りにおいては、クラシック系統の作曲家に見られる「作る曲はミニマル・ミュージックだけ」みたいなアーティストは少ないように思います。また、クラシック系統のミニマルは最小旋律の無限反復にこだわりますが、ミニマル・テクノにおいてはそういったこだわりは薄いように感じます。ミニマル・テクノ作曲の代表的なアーティストとして挙げられるのは、ジェフ・ミルズ、リッチー・ホゥティンの二人かなと。ミニマル好きは二人の曲を聴いておくのがいいかと思います。後、ミニマル・テクノのジャンルに入れていいのか悩むんですが、僕はGlobal Communication(ユニット名です)が好きでして、こちらもお勧めです。ただ、こちらは、ダンスフロアで流す音楽とは言えない音楽(静かで落ち着いたダウナー系ミニマル・ミュージック)なので、よくよく考えればミニマル・テクノとは言えないですね、すみません…。

それぞれのお勧めのアルバムを挙げますと、ジェフ・ミルズ「From the 21st」(ミニマル・テクノの代表作)、リッチー・ホゥティン「Concept 1 96」(2枚組、最小と反復の正統派ミニマル)、Global Communication「76:14」(これしか持っていません…、他のアルバムも欲しいんですが、日本に全く入ってこないです…)ですね。以下のユーチューブで試聴すると感じが掴めるかと思います。

JEFF MILLS: Purpose Maker Mix (part 1/5)
http://www.youtube.com/watch?v=7bLanIfR13A
From the 21st
From the 21st

Richie Hawtin LIVE @ The Warehouse Project 2009 FULL EDIT
http://www.youtube.com/watch?v=mL6BG9rdIyU
Concept 1 96:CD/Concept 1 96:VR
Concept 1 96:CD/Concept 1 96:VR

http://www.youtube.com/watch?v=HAMjHbcWAyM
76:14
76:14

僕はGlobal Communicationがダントツで好きですね。日本で手に入る彼らのアルバムが「76:14」1枚しかないというのは、日本の音楽好きにとってあまりにも悲劇だと思います。優れて叙情性が高く、心に淋しげな情感を訴えかけてきます。夜寝る前に聴いていると、静かで淋しい、涙が滲むような気持ちになりますね…。ちょっとマックス・リヒター(環境音楽作曲家、クラシックの技法を使って叙情的で静かな優しく哀しい器楽曲を作曲、映画「戦場でワルツを」音楽担当、僕の大好きな作曲家です)を思わせるところが良いですね…。

Max Richter - The Nature of Daylight
http://www.youtube.com/watch?v=8rluU6BGpKw
Memoryhouse
Memoryhouse
24 Postcards in Full Colour
24 Postcards in Full Colour

なんか、しんみりした話になってしまいました。ミニマル・テクノの特徴はアッパー系ですのに…。ここで真打登場、ミニマル・テクノの本領発揮と言える、ウルトラアッパーでご機嫌で最高に愉快な曲をご紹介しますね。それは、これです!

ミクマルテクノ【ダークネス・ベースVer.】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1245636

これはどのような音楽かと言いますとミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミク

聴いていると初音ミクのことしか考えられなくなる、驚異的な洗脳音波…じゃなくて驚異的なミニマル・テクノです。『ブレインがウオッシュされる』というのはこういう体験を言うんだなあと…。ああああああ…これを無限ループにして聴いていると頭が頭が頭が頭が頭が頭が頭が頭が頭が頭が頭が頭がミクミク頭がミクミク頭がミクミク頭がミクミク頭がミクミク頭がミクミク頭がミクミク頭がミクミク頭がミクミク頭がミクミク頭がミクミク頭がミクミク頭がミクミク頭がミクミク頭がミクミク頭がミクミク頭がミクミク頭がミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミク

この作品、僕はニコニコ動画殿堂入りしても全然おかしくないハイクオリティな出来と思いますが、まだあまり知名度がないのが残念で仕方がないです。これほど凄いミニマル・テクノが1000再生に届いていないというのは悲しすぎます…。最高に良く出来たミニマル・テクノだと思います。

インストゥメンタル(人の声のない器楽曲)というのは、言葉を入れないことで、言葉が必ず持ってしまう「言葉の意味を意識すること」を音楽から切り離し、より純粋に、音のみのアートとして音楽を成立させようとする試みであるんですね。ミニマルはこの流れのより先鋭的な形で、クラシック音楽の複雑化の原因となったドラマ性(意味の意識)を音楽から切り離し、より純粋に『音の悦楽のみ』を探求するジャンルとしてあります。

ミクマルテクノの面白いのは、マシンの歌姫初音ミクの声は機械の声ですから、ミクが歌っている音楽の全てはある種のインストゥメンタル(器楽曲)といえるのですが、この『声入りのインストゥメンタル』というのをミニマルのやり方で先鋭化させているところですね。ミニマル・ミュージックは音(旋律)の最小要素を無限反復させることで音から意味を剥ぎ取り、ただ純粋に音自体を表現するものですが、ミクマルテクノはミクの声でこれをやっている。結果、ずっとこのミクマルテクノを聴いていると、だんだんとゲシュタルト崩壊が起き始めて、頭がミクのことをミクという言葉して認識するのではなく、意味を持たない純粋な音としてミクを認識し始めてそしてだんだん頭がミクに侵食され始めミクという音がブレインマップに広がって頭の中がミクミクミク頭がミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミク世界がミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミク宇宙がミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミク

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はちゅねミクの日常ろいぱら! (1) (角川コミックス)
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ねんどろいど 初音ミク (ノンスケール ABS/PVC塗装済み可動フィギュア)
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2010年01月26日 05:30

シメオン・テン・ホルト(1923~):ピアノ作品集(11枚組)

僕はクラシック音楽、インストゥメンタル(人の声の入っていない器楽曲)が好きでして、現代音楽では、ミニマル・ミュージックが昔から好きです。昨日図書館に行った時、日本人音楽家のミニマル・ミュージックを集めた3枚組のアルバム「ミニマル・サウンド・インテリア」が入っていたので早速借りてきました。

僕は不眠症なので(最近、睡眠薬があまり効きません…)、寝ようと思いながら聴いていたら、先ほど3枚全部聴き終わっていました。感想は『普通』ですね…。物凄く、『普通である』としか言い様のない出来の曲の数々です。ミニマル・ミュージックというよりは、普通に聴き易いイージー・リスニングの環境音楽集です。僕はアルヴォ・ペルト、テン・ホルト、スティーヴ・ライヒ、フィリップ・グラス、テリー・ライリー、ジョン・アダムズなどが作曲する極限まで切り詰めた音が永遠に反復するエッジの効いた陶酔的ミニマル音楽が好きなので、ちょっと肩透かしな感覚を覚えたことは否めません。本アルバムの曲は良くも悪くもきちんとした起伏のある音楽なので陶酔するのは無理っぽいです。

本アルバム、テレビドラマ音楽を作曲をしている音楽家の曲が多いですが、ちょうど「エリック・サティの曲を日本のテレビドラマ音楽向けに編曲した」ような音楽です。サティの曲は夜寝る前に必ず聴くくらいに大好きなんですが、このアルバムに収録されている音楽の大半はサティに比べるとメロディアスな要素、情緒的な要素に重きを置きすぎていて世俗的すぎるように感じますね…。収録されている音楽の中でショーロ・クラブの曲だけはミニマル・ミュージックと言える出来(最小の旋律の無限反復でありエスニック要素を持っている)ですが、収録時間が1分36秒と極端に短く、陶酔する前に曲が終わってしまいます。ミニマムな旋律が長時間反復するところがミニマルの肝なのに…。

ただ、どの曲もかなりなレベル以上の音楽で、BGMとして気軽に聞くにはぴったりなイージーリスニングアルバムであると思います。エッジなミニマル音楽が好きなのは、あくまで僕の趣味なので…。イージーリスニング・環境音楽の金字塔、ブライアン・イーノの良い意味で「ぽやや〜ん♪」とした環境音楽「ミュージック・フォー・ザ・エアポート」辺りが好きなお方々にはとても良いアルバムではないかと思います。本アルバムは様々な日本人音楽家がアンビエントな曲を寄せていますが、なかでも岩代太郎さんは特に素晴らしいですね。彼の曲はブライアン・イーノ、マイケル・ナイマンなどが代表する海外の環境音楽に肩を並べているように感じます。「弦楽オーケストラの為の悲歌第二番、第三番」が本アルバムに収録されていますが、これなどマイケル・ナイマンの代表作「ピアノ・レッスン」にひけをとらない、実に素晴らしい叙情性を持った良い曲だと思います。岩代さんはナイマンと同じように様々な映画音楽やフジテレビの朝のニュース番組「めざにゅ〜」の音楽を作っているので、皆さんも耳にしたことがあるのではないでしょうか。弦楽オーケストラの為の悲歌はユーチューブやニコニコ動画にはないようですが、amazonの「12vox」のページにて、ちょこっとだけ視聴できます。5〜7曲目の「the elegy for strings orchestra No.1〜3」です。
12 vox - the way to be ourselves トウェルブ・ヴォックス
12 vox - the way to be ourselves トウェルブ・ヴォックス

岩代太郎公式サイト
http://www.its-club.com/

この「ミニマル・サウンド・インテリア」、3枚とも絶盤みたいでして、ミニマル・ミュージック好きとしては残念ですね…。絶盤の為、amazonで中古盤が定価より高く売られてますが、出来としては定価相当という感じなので、定価より高く買うのはお勧めできません。ミニマル・ミュージックは日本にはあまり聴き手がいないジャンルのようで、海外のアルバムがなかなか日本には入ってきませんし、本アルバムのような日本オリジナルのアルバムも絶版なのかと思うと、悲しいです。ミニマル・ミュージックは最初期よりシンセサイザーを活用し電子音楽の分野を探求したジャンルでして、初音ミク人気でブレイクしたDTM(デスクトップミュージック)の先駆けとも言えるのですが、ボーカロイドの聖地であるニコニコ動画でミニマル・ミュージックタグを見ると寂れていて数百人〜数人くらいしか視聴者がいないので悲しくなります…。しかも先日現代音楽動画の大量削除があって、スティーヴ・ライヒ「Piano Phase」などのミニマルの名曲の数々が消えてしまい、現在はほぼ空っぽな状態です…。初音ミクにテリー・ライリーの名曲「in C」を歌わせるとか、物凄く面白い取り組みをしている製作者さんもいるのですが、こちらも見に来ているのが数百人…。
初音ミクにテリー・ライリーのin Cを歌わせてみた
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7069922

上記、『もっと評価されるべき』と心から言える出来、実に見事です。ニコニコ動画は、グラス、ライヒ、ライリーのミニマル御三家やペルト、アダムズは昔は結構な数の音楽動画が上がっていましたが(現在は現代音楽動画大量削除により大幅に消えて空っぽになってしまいました)、僕の大好きなテン・ホルトが元々昔から全く見当たらないのが悲しいです(「タグ テン・ホルト が登録されている動画はありません。」)。テン・ホルト好きとして涙でそうです…。テン・ホルト、もっと評価されていいと思うんですが…。ニコニコ動画はラ・モンテ・ヤングやモートン・フェルドマンのようなアルバム入手が困難なマイナーミニマル音楽を手軽に聴けたのがとても良かったですし(ラ・モンテ・ヤングやフェルドマンをずっと聴いていると気が遠くなりそうです)、テン・ホルトも聴けたら良いなあと心から思いますね…。
Simeon Ten Holt
http://www.netlaputa.ne.jp/~pass-age/MINIMAL/holt.html
オランダの作曲家、シメオン・テン・ホルトは1923年生まれというから、ライヒなどのアメリカ・ミニマル第一世代よりもさらに一回りほど前の世代で、60年代にはセリー技法を用いていたという(つまり調性的で聴きやすい現在の作風とは大きく異なり、前衛音楽の作家だったということである)。以下に紹介するディスクは近作を収録するもので、数時間にも及ぶピアノ中心のミニマル的作品を聴くことができる。

ビート(繰り返し)の陶酔という真っ当な音楽の気持良さを得られるミニマル・ミュージック、実はピアノ・ソロのための作品はそう多くはない。ミニマルの多くはアンサンブルの形態を取っているし、最近ではコンピュータや大編成のオーケストラなどが主流になっている。ピアノは本来旋律楽器と打楽器の特質を併せ持っており、ペダルを踏めばアンビエンス豊かに旋律を歌い、踏まなければタイトなリズムも刻めるこの便利な楽器がなぜかソロで使われることが多くないのは残念なことである。そんな中、テン・ホルトは作品リストの半数程をこの楽器で埋めており、多くは演奏時間が20分を越えるものだ。録音が少なくディスクの入手も難しいために音を聴けるものは少ないが、ミニマルの流れに位置するピアノ音楽の豊富なカタログを持つこの作曲家の存在の独自性に興味を引かれる。

テン・ホルトは非常にお勧めのミニマル音楽家です。彼はラ・モンテ・ヤングやフェルドマンと同じく、非常に長大な曲を作る為、以前はアルバムを入手するのが物凄く困難でしたが、最近は大枚数のBOXセットが廉価でリリースされ、楽に入手できるようになりました。彼の代表作はセリーではなくミニマルなので聴き易いです。ライヒ・グラス・ライリーのミニマル御三家より聴き易いのではないかと思います。フェルドマンと同じく、目を瞑ってひたすら聴いていると、気が遠くなります。

テン・ホルトの最大の特徴は、彼の作品は徹底的にピアノ・ソロにこだわったミニマル・ミュージックであるところです。僕はミニマル好きで楽器ではピアノ好きなので、テン・ホルトとは趣味がどんぴしゃりです。ピアノでひたすら短く美しく馴染みやすい旋律をひたすら反復します。聴いていると、静かで美しい単調な無限旋律の中に音の中に身体が吸い込まれてゆくようで、ダウナー・トリップします。永遠のリフレインの中で音楽と心身が一体化し時の流れが止まるような、言葉で表現できない感覚ですね…。静かな気持ちで陶酔したいお方々にお勧めです。
シメオン・テン・ホルト(1923~):ピアノ作品集(11枚組)
シメオン・テン・ホルト(1923~):ピアノ作品集(11枚組)

ミニマル・ミュージックの入門編としては、1000円で売っているアルバム「ミニマル・セレクション」が入門編として最適です。ライヒ、グラス、アダムズの代表的なミニマル音楽を集めたコストパフォーマンス抜群の優れたアルバムです。聴き易いミニマルの名曲が集められていて、寝る前のお供に最適なアルバムだと思います。このアルバムを試金石に聴いてみて、もし気に入って頂けたら、『ミニマルの世界へようこそいらっしゃいました!』という形でミニマル好きとしてとても嬉しいなあと…。ミニマルがどんな音楽であるか、「ミニマル・セレクション」から引用致しますね。
ライヒ、グラス&アダムズ:ミニマル・セレクション
ライヒ、グラス、アダムズ:ミニマル・セレクション

(ミニマル・ミュージックは)大きく分けてしまうと、二通りのミニマル・ミュージックがあります。一つは決まったリズムとか短めのメロディを、延々とリピートする音楽ですね。もう一つは、ある決まった音を、延々と引き伸ばし、ビローンって、いつまでも鳴らしている音楽です。どちらかというと、前者の方が人気があるようですけれど。(中略)

これはあくまで、西洋クラシック音楽の中での話ですが、まあ、モーツァルト、ベートーヴェン、マーラーと、時代を下るに連れ、音楽はややこしくなりました。戦後の前衛音楽の時代になると、ブーレーズみたいな、ややこしすぎて、何だかわからぬ音楽さえ出てきます。その手の音楽への反動として、シンプルなミニマル・ミュージックが誕生したんです。(中略)

バッハからブーレーズまで、ヨーロッパの音楽は音の流れに起伏を作り、喜怒哀楽でも、静と動の対比でもいいけれど、何かドラマチックな動きを作りだそうとしてきた……。音が複雑になっていったのも、より複雑なドラマを音で表現したかったからと、説明できちゃうわけです。なるほど、確かに人間は、劇的な事柄が好きな生き物で、だからこそ、ワイドショーとか見て喜ぶのですが、といって、のべつまくなしに、劇的、劇的……では、イヤになっちゃう。雲のゆったりとした流れを眺め、ボンヤリしたいこともあるんですね。そんな気持ちを音楽にすれば、劇的な変化のない、単純なくりかえしだけの音楽が出てきます。(中略)

複雑化したのは、無論、音楽だけではありませんよね。その他のあらゆる芸術・文化の諸分野から、政治、経済、社会システム、科学技術……。もう一切合財が近現代の歴史を通して複雑化してきました。その背景には、音楽でも文学でも機械製品でも、複雑に、理屈たっぷりに作られれば作られるほど、より進歩的なんだとの、近現代文明全体を支える信念、即ち、モダニズムの思考があるのです。

それへの反動は、ほとんど周期的に出て来るものですが、(ミニマル・ミュージックが誕生し隆盛した)1960年代後半からは、特にその反動が強かった。

「そうでしたよねえ。学生の反乱、反科学文明運動、反管理社会闘争、遠くへ行きたい……」

そういう時代感情の受け皿として、ミニマルは発展したとも言えるのです。たとえば、近代文明批判は、近代文明が原始的とかローカルとかレッテルを貼り、あまり評価してこなかったアフリカやアジアのエスニックな文化を、いや、これらは欧米の近代文化と対等だと言って、持ち上げます。そんな関心は、ミニマルにあるエスニックな部分とマッチする……。

「ミニマルというのはエスニックなんですか?」

ええ、リズムやメロディのくりかえしのテクニックや、使う楽器なんかは、だいぶ、アフリカやインドの民俗音楽から学んでおりますからね。それから、もうひとつ、近代文明批判は、合理主義とか科学的思考に否定的になるから、神秘的、宗教的なものと結びつく傾向があります。ドラッグとかヨーガとか、70年前後にはとりわけ流行ったでしょう。そこにもミニマルはマッチする……。

「ミニマルはドラッグやヨーガなんですか?」

だって、くりかえしばっかりですから、当然、音による麻酔効果、擬似麻薬効果があります。よって、瞑想やらトリップやら、ミニマルはよく似合うんです。(中略)

(ミニマルには)近現代の文明生活のダイレクトな反映との面があります。

「えっ、(近現代文明の)批判であり、ただの反映でもあるんですか?」

そう。敵味方、1人2役なんです。ほら、現代人の生活は、大量生産、大量コピーで、同じものが世界に溢れているし、人間の生活も何時出勤、何時退社とか、くりかえしばかり。その意味では、ミニマルのくりかえし音楽は現代社会の音楽による反映とも言えるわけです。
(「ミニマル・セレクション」ライナーノーツより)

ミニマル音楽をずっと聴いていると気が遠くなります…。ミニマル・ミュージックならではの音楽の全てを感じ取る陶酔体験は何ものにも代えがたいものとしてあるように思いますね。交響曲に流れる全ての音(音階)を聴き分けて構造を全て理解しながら聴くのは困難ですが、限界まで音と旋律を最小に切り詰めたミニマル・ミュージックはそれが意識せずとも可能でして、無限反復する小さな旋律をずっと聴いていると、音の流れが身体の中と外でなっているような感覚、音楽と身体が同化するような感覚になってきます。そこには何ともいえない音楽の根源的な良さがあると思いますね…。こういう感じの音楽です…。
Steve Reich: Different Trains; Piano Phase
Steve Reich: Different Trains; Piano Phase

Steve Reich 'Piano Phase' (1/2)
http://www.youtube.com/watch?v=JW4_8KjmzZk

「《ピアノ・フェイズ》のプロセスと構成」
http://sound.jp/nishikawa/r2000/0427shh.html
Piano Phaseでは、2人のピアニストが反復音型をユニゾンで演奏し始め、何回かの反復の後に第2奏者の奏者が僅かにテンポを上げることによって次第にずれが生じる。 16分音符1個分だけ先行したところで初めのテンポに戻るのだが、この時第1奏者との間に合成された別の音型が生じる。以後これを繰り返し、周回遅れにした所で次の音型に移る。

ピアノ・ソロのミニマル・ミュージックを聴くと古代ギリシャの劇作家、アイスキュロスの言葉を思い出しますね…。『海のさざなみは無数の微笑みである』(アイスキュロス)。ピアノ・ソロのミニマル・ミュージックでは、「Minimal Piano Collection」というアルバムが非常にお買い得でお勧めです。古今東西のピアノ・ソロ・ミニマル・ミュージックを集めたBOXセットで、永遠に聴いていたい気分にさせられます。とてもお勧めのBOXセットですね。
Minimal Piano Collection [Box Set]
Minimal Piano Collection [Box Set]

他のBOXセットをご紹介致しますと、優れたミニマルの作曲家であるスティーヴ・ライヒ、フィリップ・グラスの代表作を集めたBOXセット、ジョン・アダムズは有名な「ハレルヤ・ジャンクション」を含むベスト版2枚組、それぞれ廉価で出ておりお買い得です。アルヴォ・ペルト、テリー・ライリーはこういった廉価盤がないのでコツコツ集めるしかないように思います。ペルトは「アリーナ」(代表作「鏡の中の鏡」収録)、ライリーは「in C」が代表的なアルバムで初めて聴くときに良いアルバムかなと思います。フェルドマン、ラ・モンテ・ヤングのアルバムの入手は残念ながら日本では困難かと思います。ヤングに至っては海外で定価一万円くらいのアルバムが日本では何十万円もの無茶苦茶な値段をつけて売られています…。
Steve Reich Works 1965-1995
Steve Reich Works 1965-1995
Steve Reich: Phases [Box Set]
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Glass Box [Box Set]
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John Adams: Hallelujah Junction - A Nonesuch Retrospective
John Adams: Hallelujah Junction - A Nonesuch Retrospective(2枚組)
ペルト: アリーナ
ペルト: アリーナ
Terry Riley: In C
Terry Riley: In C

ショーペンハウアーは「音楽は人生の鎮痛剤である」、ニーチェは「音楽は人生の興奮剤である」と述べましたが、僕にとってのミニマル・ミュージックは前者ですね…。昨年の冬から不眠症状が酷いのですが、夜更けに暗い部屋のなかで静かにミニマル・ミュージックを聴いていると、この音楽は眠れない苦痛や様々な苦痛を静める力を持っていると感じます…。

参考作品(amazon)
ライヒ、グラス、アダムズ:ミニマル・セレクション
シメオン・テン・ホルト(1923~):ピアノ作品集(11枚組)
Minimal Piano Collection [Box Set]
ミニマル・サウンド・インテリア~In The Soft Light~
ミニマル・サウンド・インテリア~Sweet Afternoon~
ミニマル・サウンド・インテリア~Emotional Silence~
12 vox - the way to be ourselves トウェルブ・ヴォックス

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2010年01月25日 06:34

僕が昨日書いたエントリについて、津田大介氏のツイッターから『俺が言ってもいないことを書いた印象批評』というメッセージだか愚痴だかつぶやきだか非難だか、なんだかよくわからない放言が届いたので一応回答しておきます。まず、ツイッターは政治を変えるかをスキャン致しましたので、まだお読みでないお方々はよろしければご一読どうぞです。
ツイッターは政治を変えるか1ツイッターは政治を変えるか2
ツイッターは政治を変えるか3ツイッターは政治を変えるか4

津田氏の文章は、ツイッターを称揚するための出汁に政治が使われているなあと、上記を読んで思いました。特に一番おかしいなと思ったのは次のところです。政治的なことが絡むので、僕はツイッターの問題を政治的な問題にしたくなかったので昨日のエントリではわざと書かなかったのですが、以下の津田氏の言葉です。

政治家が普段から政策についての考えをつぶやいていれば、有権者に判断材料ができる。(中略)谷垣禎一さんが首相のツイッター使用を批判したが、ツイッターは単なる道具。「私はつぶやかない」というのは、「拡声器を使わない」というのを同じで、批判としてナンセンスだ。むしろツイッター上で鳩山さんと党首討論をするくらいのことを考えてはどうか。

ツイッターの政治利用については、アメリカのオバマ大統領がツイッターを使っていなかったことが発覚したときに、津田大介氏は『まぁ普通に社長ブログとか有名人ブログとかゴーストが書いてたりすること多いしね。オバマは象徴的存在としてよく語られるけど、post(投稿)数は本当に少なかったし、メルマガ的なリアルタイム情報告知が中心で使われていたから、その意味ではあんま不思議ではないかな』(http://news.biglobe.ne.jp/social/329/jc_091117_3297856303.html)とコメントしており、僕が以前、鳩山総理のツイッター利用について書いたとき(http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1059008.html)、このコメントを参考にしたのですが、今回の朝日新聞の記事では、津田氏はツイッターの政治利用を『政治家が実際にツイッターを使っている』という前提の上で素朴に讃美しており、言っていることが突然変わっていて妙だなと思わずにはいられません。

実際につぶやいているのは以前の津田氏の言った通り「ゴースト」(ゴーストライター、メディアを熟知した側近や秘書、広告代理店関係者等)の可能性があるでしょうし、「ゴースト」が国民に親近感を持たせる為に政治家本人を装って書いているつぶやきは、政治家本人とは関係のない虚像であって、政治家の本来的な判断材料とはならないと思います。

また、谷垣氏の「私はつぶやかない」という言葉が、なぜツイッターへの批判と受け取られているのか、『批判としてナンセンス』などと言われているのかが分かりません。僕はツイッターを使っていませんから「私はつぶやかない」ですが、『つぶやかないこと=ツイッターを使わないこと』がツイッターへの批判と受け取られるなら、みんなツイッターを使っていなくてはならないことになります。ここを鑑みて「ツイッターを使わずば人にあらず」のような論調だと評させてもらいました。谷垣氏の発言はこれ(http://www.asahi.com/politics/update/0107/TKY201001070363.html)だと思いますが、批判というよりツイッターのシステムは好みではないという個人の意見表明であって、特に問題があるようには思いません。

「自分の性格としてつぶやきを言うのはあまり好きではない。ものを言う時は論旨明快に言いたい」というのは僕もそう思っていますので、これがツイッター批判とされるのは、あまりにもどうかと思います。たった140字で他の人へ向けた文章の論旨をきちんと説明するのは不可能です。また、津田氏は『ツイッターは入り口』と述べますが、実際は、ツイッターのつぶやきはツイッターだけで完結していることが圧倒的に多いです。結果、ツイッターは、ひたすら放言する言いっぱなしのツールとなってしまっています。これはツイッターの大きな弱点であると思います。政治的に考えれば、影響力の大きい社会的責任のある人物が公に放言しまくるシステムの存在が、良いものだとは僕にはとても思えません。声の大きい方に小さい方が潰されてしまう、抑圧のシステムとしてしか働かないのではないかと思います。

具体的に例を出せば、東浩紀という、以前多少知り合いだった、なんだかよく分からない有名人物(東工大の大学教授で新聞やテレビに時々出ています、一応哲学者を名乗っているらしいです)がいるのですが、この人物は、僕がうつ病で失業し、食費もなく困り果てて、頼れる人もおらずご相談をお願いできませんかというメールを数年前に出したら、急に縁を切られまして、それはそれでそういう人だったんだ、ということで良いんですが、その後もこの人は妙に偏執狂的で、弟子達を連れてメール内容や病気を笑いの種にして、弟子達がそれをツイッターで放言したりしていて凄く嫌な気持ちになりました。今回もさっそく津田大介氏にコメントして、『Aとか言っている言論人ってバカじゃね?」という批判のほとんどは、実際には存在しない発言に向けられている』とあてつけを書いていますが、有名人であるこの人の影響力と僕の影響力では、月とすっぽんですから、この人の意見だけが大きく流通していくことになるんですね…。この人は、タチの悪いお笑い芸人みたいな人で、人を傷つけるような放言をするのが大好きですから(もっと前にこの人物がこういう人間であることが分かっていたらメールを出したりはしなかったのですが…)、昨今はツイッターを使ってひたすら無責任な放言を毎日何時間も繰り広げているようですが(教え子が本当に気の毒です)、こういった状況を作り出すツイッターのシステムの無責任さ(短い言葉で放言し、ログも残らないシステム)というのは、ツイッターの信用を落す大きな弱点であると思います。

上記を考えれば「私はつぶやかない」というのは、倫理的な一つのスタンスとして有り得る立場だと思います。ツイッターのシステムの弱点を度外視して、『「私はつぶやかない」というのは、「拡声器を使わない」というのを同じで、批判としてナンセンスだ』などというのは、ツイッターに一方的に肩入れしていると取られても仕方がないと思います。また、津田氏の言う通り、ツイッターがネットの拡声器だと考えても、僕は政治家の選挙カーが拡声器で大声を出すのが耐え難く、これは日本における最悪の騒音公害の一つであると思っていますので、「拡声器を使わない」ということは良いことだなあという感想を持ちますね。僕は、声が大きいことが優れているという価値観には与しません。

僕は民主党の方が自民党よりはマシだと思っているので、政治的なこととは関係なく受け取って欲しいのですが、ツイッターが政治に利用されるようになることは、テレビで政党のコマーシャルが流れたりすることと違いがありましょうか。テレビのコマーシャルにはないツイッターの独特に奇妙なところは、双方向性が制御されているにも関わらず、オープンな双方向性を持っているように見せているところです。政治家がゴーストではないという仮定の前提の上で語りますが、政治家のツイッターをタイムラインで読んで、政治家にフォローしてもらっていれば、その政治家と繋がっているように思えるかも知れませんが、それは単にお互いのひとり言が流れているだけで実際には繋がっていない。実際に繋がっていると言えるのは、チャットのようにメッセージを交換するときだけです。ここを勘違いすると危険だと思いますね…。コマーシャルを、自分へのメッセージであると受け取ってしまうことは危険です。コマーシャルというのは、「多」に対して影響力を与える為に送られているメッセージであり、そこに個人と個人の繋がりはないのです。

コマーシャルは幻であり、困っている人を実際に助けてはくれません。テレビでいくら美味しそうな食べ物が出ていても、素晴らしい美辞麗句が政治家のツイッターで並べられても、それでお腹が膨れたりはしません。僕は今現在、うつ病で通院しており、無職でお金がなく、食費にも事欠き、生活に大変困っておりますが、ギフト券を贈って下さったり、アフィリエイトで買い物をして下さったりして、生活を支援して頂けるお方々に助けて頂いて、なんとか暮らしております。実際の行動として助けて頂き、深く感謝しております。

政治は国民1人1人の負託に応えて行われるものであり、ツイッターなどを使ったコマーシャルとしての美辞麗句に彩られた幻想の政治、レトリックの政治ではなく、困っている人々1人1人を実際に助ける、個人と個人の実のある繋がりの政治、実践の政治があることを望みます。

ツイッターでどれだけ美辞麗句が並べられようとも、お腹が空いている苦痛が癒されることはない、これだけはどうしても僕は実感として伝えたいです。今もお腹が空いていて辛い僕から見ると、ツイッターは生活に余裕のある人々がひたすら放言することで暇を潰しながら心地良い気持ちになるためのサービスなのではないかとしか思えません。厭世家ショーペンハウアーは『人生にあるのは退屈と苦痛だけであり、富裕なものには退屈が、貧しきものには苦痛が与えられる』(ショーペンハウアー「意志と表象としての世界第3巻」)と述べましたが、まさにツイッターのサービスは先に挙げた東浩紀氏のような影響力の大きいもの、富裕なものの暇つぶしの為の心地よさに大きく特化しており、生活に苦しむ貧しきものにとっては、そこに喜びを全く何も感じられない幻のようなサービスであるように僕は思います。本来的な喜びは、ツイッターのような選民主義的・幻想的な形ではなく、豊かなものにも貧しきものにも共に感じられる実のあるものだと思います。

愛と単なる性的魅力の違いを考えてみるがいい。愛は日照りのあと、草や木が雨で生き返るように、私達の全存在が蘇り、新たにされる一つの経験である。愛のない性交にはこういうものがみじんもない。束の間の快楽が果てれば、疲れと、嫌悪感と、人生は虚しいという感じだけが残る。愛は大地の生(実際の生活)の一部であるが、愛のないセックスはそうではない。

現代の都市に住む人々が悩んでいる特別な退屈は、彼らが大地の生から切り離されていることと密接に結びついている。それは、生活を砂漠の中の旅のように、暑苦しく、埃っぽく、喉が渇くものにしている。自らのライフスタイルを選べるぐらい富裕な人達において、特に彼らが感じている耐え難い退屈は、逆説的に聞こえるかもしれないが、退屈への恐れに由来するものである。実りある退屈から逃げることで、もっと悪い種類の退屈のえじきになるわけだ。

幸福な生活は、おおむね、静かな生活でなければならない。なぜなら、静けさの雰囲気の中でのみ、真の喜びが息づいているからである。
(ラッセル「幸福論」)

参考作品(amazon)
ラッセル幸福論 (岩波文庫)
意志と表象としての世界〈1〉 (中公クラシックス)
意志と表象としての世界〈2〉 (中公クラシックス)
意志と表象としての世界〈3〉 (中公クラシックス)

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2010年01月24日 15:15

退屈の小さな哲学 (集英社新書)

さっき図書館に行ってきたのですが、今日の朝日新聞は「Twitterは政治を変えるか」と題してTwitter大礼讃と言う感じでびっくりしました。特に津田大介氏の文章が『Twitterを使わずば人にあらず』みたいな論調で凄かったですね…。僕はこういう論調は好きではないです。公正中立を保つべき報道機関がTwitter社のような一企業に強く肩入れするのは公平性としてどうなのかな、という思いもありますが、それよりもTwitterのシステムに対する違和感が一番大きな思いとしてありますね。

Twitterは、140字という短い字数でひたすらつぶやくシステムでして、多くがひたすら自分のことをつぶやく形になっています。人間が文章を書くとき、それは他者に宛てる形式(手紙、随筆、小説など)か、もしくは自分自身に宛てる形式(日記、覚書など)か、大まかに分けてどちらかになります。けれど、Twitterの場合は、どちらでもない。Twitterは自分自身に宛てる形式であって、なおかつ公開されていて、『お互いに自分自身に宛てた文章を公開してコミュニケートする』という仕組みになっています。

『みんな徹底的に自分のひとり言でコミュニケートしている』というのが、僕はどうしても奇妙に感じます。他者に宛てる形式の文章を書くときは、自己を抑制して相手(読み手)に配慮する気持ち、書き手が読み手との対話を意識するバランス、それによって生まれる互いの良心的な距離感覚が、大切なものとしてあると思うのですね。ツイッターの場合は、ひたすら自分のつぶやきをして、相手もひたすらつぶやきをして、という形で、対話ではなく、本当に、ひたすら自らに宛てた言葉をつぶやいているように思います。だからこそ、朝日新聞で津田大介さんが指摘しているように、いざこざなどは起こりにくい(つぶやける文字数が少なく、基本的に他を意識しないひとり言なので、摩擦は起きない)ということに繋がっているようですね。システムとしては良く出来ていると思いますが、大勢が他人を意識しないひとり言をつぶやいて、それがネットワーク化して広範な影響力を持っているというのは少々荒涼とした感を持ちますね…。

Twitterにて、自分について語るひとり言のみではなく、相手(読み手・他者)を思いやる気持ちも含んで、文章が紡がれればいいなあと思いますが、そういった熟考した文章を紡ぐには、Twitterに書ける文章は余りにも字数が少なく設定されている。読み手に配慮した文章を書くということが不可能で、システム的にどうしても、自分のひとり言を短い文をさらっと書くような形になっているんですね。

先に挙げた「自分のひとり言を短くつぶやくことしかできない」という点は、いざこざを起こさずに極めて高速に広範な人的ネットワークを形成するというところに繋がっており、そのことを考えるとTwitterはシステム的に極めて優れていると思います。僕のようなTwitterを使っていない人々も、Twitterを楽しまれて使っているお方々を尊重するべきと思います。

ただ、『Twitterを使わずば人にあらず』のような論調には賛成できません。僕は、人間が文章でコミュニケートする時の基本は、相手のことを認めて『他者に宛てる形式』で文章を紡ぐということだと思います。そこでは、沈黙して時間を掛けて思考し、他者の存在を慮った文章を書くという、Twitterの手軽さとは異なる営みが必要ですし、そういったゆっくりした営みを行う立場からの意見があっても良いと思います。『Twitterを使わずば人にあらず』のような意見に対しては、こういった立場から、『いいえ、それは違いますよ』ということを述べることが出来ると思います。最後に、退屈と熟考の関係について考察しているラース・スヴェンセン「退屈の小さな哲学」より引用させて頂きます。

現在は孤独を肯定的に見る人は少ない。オード・マルクヴァルドが言うように、人間はかなりな程度「孤独の能力」を失ったからだろうか。孤独の代わりにあらわれたのが、すべてを自分に引き戻す傾向で、この自己中心主義は僕達を他人の視線依存症にしている。僕達は自己を主張するために視野を一杯に埋めようとしている。(中略)

しかし、この巨大化した自己との関係はますます難しくなる。これはかなり逆説的だが、自己中心主義者の方が孤独を受け入れる者より孤独になる。なぜなら、孤独な人は他人の場所を見つけられるのに対して、自己中心主義者の周りは鏡(自分自身)だけだからである。(中略)

孤独自体はもちろんよくない。重荷にも感じられることが多いのだが、しかし可能性も秘められている。人間は全て孤独であり、他の人より孤独な人もいるが、誰もそこから逃れられない。全ては孤独にどう立ち向かうか、欠如と見るか、休息の手段として見るかで違ってくる。(中略)

良心は孤独の一部である。なぜならそこで非難すべきはつねに「自分」だからである。孤独は全ての人間の定めとはいえ、まったく個人のものである。僕の孤独であり、孤独が僕「そのもの」であることも多い。そして、孤独と良心が僕のものであるように、退屈も僕の退屈である。退屈の責任は僕にあるのである。

良心があると人はその求めに応じて自分の人生について熟考する。そして、それには時間を要する。現代は、能率こそ価値ありとされ、僕達は全てを記録的な(短い)時間でやり遂げたいと望んでいる。しかし、僕達の最も深いところに関わるこの手の熟考には、まさに時間が必要だ。そうでなければ、僕達は本質的なことを避けて通ることになる。

現代は、外的条件を見る限り、退屈とじっくり向き合うには理想的でないことが多い。それでも売るほど時間があるのが退屈の特性だ。しかし、僕達は時間をかける代わりに、時間を無駄遣いするほうを選んでいる。楽しみ全て――休暇やテレビ、飲み物、ドラッグ、乱交――これらは僕達を幸せにするのだろうか。僕達の大部分にとっては、たぶんそうではないだろう。せいぜいほんのつかの間に少し不幸ではないだけだろう。

いずれにしろ人はこう問いかけることはできる。これらの楽しみはその時間が過ぎても価値はあるのだろうか。生まれてから死ぬまでの楽しいだけの旅は、恥じてもいいかもしれない。人生の苦しみを放棄すると、自分自身の人間性を奪うのと同じになる。

僕達には自らの存在を正当化したい欲求が強くあり、何の深みもなく孤立した体験を並べるだけでは不十分である。もし孤立した行動すべてを正当化できたとしても、これらの行動の全体、つまり僕達が送っている人生の正当化まではできない。

僕達を苦しめる人生を生きるのは義務であり、同時にこの人生は、クンデラの表現を借りるとつねに「他に」ある。この義務は僕達を仮借なく退屈に引きずり込む。そこからある種の退屈の倫理が湧き出る。僕達は退屈を生きる時間を取らなければならない。なぜなら退屈にはよりよい人生を約束する響きがあるからだ。
(ラース・スヴェンセン「退屈の小さな哲学」)

参考作品(amazon)
退屈の小さな哲学 (集英社新書)

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