2009年02月

2009年02月19日 10:49

ヴィヴァルディ:協奏曲集「四季」
証言・フルトヴェングラーかカラヤンか (新潮選書)

心痛が辛く、また今飲んでいる向精神薬が極めて強力なため、頭がふらついて、なかなか文章が書けず、唯一の収入であるアフィリエイト収入も減りとても疲れていますが、文章を書かないと収入がゼロになってしまい、生活ができなくなってしまうので、頑張ります。メンタル面と肉体両方の調子が甚だしくよくなく、文章もあまり書けない形で申し訳ありません。

今日は先日に引き続き、音楽の話と、後は村上春樹さんのエルサレム賞スピーチについての話を書こうかと思います。とても良い音楽CDが以前は三千円で売られていたのが、千円にまで下がっているので、ご紹介致します。「ヴィヴァルディ&ピアソラふたつの《四季》」です。amazonだとリニューアル版(内容は同じ)の同CDのタイトルは「ヴィヴァルディ:協奏曲集「四季」 [Limited Edition] 」になっております。このCDの原題(元外国のCDです。外国版で買うといまだ三千円近くするので千円の日本盤の方がお得です)は「Vivaldi and Piazzolla: Eight Seasons」なので、「ヴィヴァルディ&ピアソラふたつの《四季》」の方が原題の訳に近いと言えると思います。

この音楽CDはとても面白い試みが行われているCDです。このCDはヴィヴァルディの「四季」とピアソラの「ブエノスアイレスの四季」をイタリア合奏団がカップリングして弾いているのを収録しており、古典クラシックの四季(ヴィヴァルディ「四季」)と近代音楽の四季(ピアソラ「ブエノスアイレスの四季」)を聴き比べることができる、とても良い意味でユニークな聴き応えがある音楽CDで、僕のお勧めの一枚です。

古典クラシックのヴィヴァルディ「四季」の春夏秋冬の各楽章は極めて調和とバランスの取れたシンメトリックな耳に心地よい反復を重視しているのに比べ、ピアソラの「ブエノスアイレスの四季」はその対極に位置し、計算された優れた不調和、反復不可能な混沌を春夏秋冬の楽章として演奏し、全く対極にある四季が両方とも聴けるというとても面白い聴き応えのある良い音楽CDだと思います。

また、ピアソラの「ブエノスアイレスの四季」はヴィヴァルディの「四季」を意識して書かれたと言われており、またピアソラ自身もヴィヴァルディについて語っておりますが、これがまた短いながらもとても的確な批評で、僕もピアソラに全く同感に思います。幾つか引用致します。

それ(チャイコフスキー、ジョン・ケージ、武満徹などの「四季」)に比べ、ヴィヴァルディとピアソラの四季は、春夏秋冬の四つの(季節を象徴する)独立した曲がひとつのセットになった連作として極めて近い関係にあるといえる。

それにピアソラはヴィヴァルディの《四季》を充分意識したからこそ、《ブエノスアイレスの四季》を作曲したらしい。(中略)ヴィヴァルディはイタリア人だったわけだが、ピアソラもイタリア系――祖父がイタリアからアルゼンチンに渡ってきた移民――であり、南米のなかでも季節がはっきりしているアルゼンチン(出身)であることも(四季の作曲に)無関係とは言えないにちがいない。

余談だが、南米だから雪は降らないなどと先入観はもたないほうがいい。この国(アルゼンチン)は(日本と同じように)かなり南北に長く伸びている複数の風土が共存しているのだ。イギリスと起こしたフォークランド紛争(アルゼンチンではマルビナス紛争という)で少しは映像も移ったフォークランド=マルビナスにはペンギンが歩き回っていたし、ピアソラが最後に関わったフェルナンド・P・ソラナスの映画「ラテンアメリカ 光と影の詩」(原題、EI Viaje ――旅)では、雪に覆われた街の学校が冒頭のシーンを飾っていた。

ただちょっと気をつけるべきなのは、アルゼンチンは北半球(イタリア)と季節が逆になっているということだ。つまり、イタリア(というよりヨーロッパやアメリカ、日本)で春ならば南米では秋、前者が夏なら後者は冬といったぐあいである。それがどうしたと言われればそれまでだが、ヴィヴァルディとピアソラがおなじように四つの季節を扱いながらも、こっちが秋と言っているのに向こうが春だったりするというのは、時間的にねじれていて(曲の季節のモティーフが反転していて)それなりに面白いと感じるのは筆者だけであろうか。
(「ヴィヴァルディ&ピアソラふたつの《四季》」ライナーノーツより)

上記のライナーノーツで書かれている面白さが僕としては本音楽CDには間違いなくあって、とても良い意味でユニークで面白い音楽CDです。また、ピアソラ自身がヴィヴァルディについてこう語っていて、僕も全く同感に思います。アストル・ピアソラの言葉です。

「ヴィヴァルディって奴は千回も同じ曲を書いたが、俺は全部好きだよ」
(アストル・ピアソラ)

僕もヴィヴァルディの音楽には同じように感じます。ヴィヴァルディの音楽は極めてシンメトリックに秩序だった調和的な音楽で、同じ形式の反復なのですが、それでも聴いていて全く飽きずに、ずっと聴いていられる、優れた持続性の見事さがあると思います。イタリア音楽の明るさが調和にとても相性よく合わさっているところにヴィヴァルディの音楽の歴史的にこれからも聴き続けられてゆく見事さがあると思います。

ピアソラの「ブエノスアイレスの四季」も、これはいかにもアルゼンチン音楽という感じで、良い意味で南米的なカオスが感じられて、とても優れた近代音楽であると思います。本CDはヴィヴァルディとの聴き比べなので、実に面白いです。聴き比べといっても、どちらも比較不可能なよさがあって、どちらが上下というものではないです。ベルリン・フィルのヴァイオリニスト、バスティアーンの言葉通り、極めて優れた音楽は、比較不可能な領域に達しています。バスティアーンの言葉を引用致します。

「音楽は、恒久的なものではなく、常に変化していくものです。だから(優れた演奏に上下をつける)比較はできない」
(バスティアーン。「証言・フルトヴェングラーかカラヤンか」より)

ある一定の域を超えた優れた音楽に、上下の評価はできない。これは当たり前のことだと思います。普遍的な優れた芸術は、比較優劣を超えた公共的な価値を持っています。その公共性を担う宿命を、優れた作品は否応無しに持たされる、それが優れた芸術の運命です。

村上春樹さんがエルサレム賞のスピーチで、イスラエルのガザ攻撃を批判しましたが、僕はこれは村上春樹さんの置かれた公共的な立場を考えるに、受賞拒否もしくは受賞時に批判をするのは、その公共性の責務を果たすという点で、その責務を果たしたと思います。もし受賞してなおかつ当たりさわりのないことを言っていたら、世論の批判は免れなかったでしょう。それは、普遍的な優れた芸術の創造者は、それに従った公共性の責務も負うからゆえです。

村上春樹さんは政治的なスピーチをするべきではなかったとか、芸術家の政治的スピーチは偽物の運動とか、意味不明なことを言っているイスラエルシンパの人々が、芸術はあらゆる政治性から解放されている、芸術の価値は商業性にあるとか言っていますが、そんなことがあるはずがありません。商業性が支配する芸術には芸術の進歩を阻む困る点があるのです。なぜなら、商業性が芸術を支配すると困ります。とても分かりやすい例で言えば、お金持ちがフェルメールの絵画とかを物凄い金額で買って、美術館に貸し出しせず、『これは私の所有物だから私以外の誰にも見せない』とかいうことになったら、人類の普遍的財産であるべき優れた普遍的芸術が一部の人間だけに独占支配されてしまうからです。クラシック音楽の原譜にも同じことが言え、先日挙げましたように、ショパンの作品70の1の原譜を個人所有者が公開していてくれれば、ルービンシュタインなどは、原譜を改変したフォンタナ版ではなく、原譜で作品70の1を弾くことが出来たわけです。ショパン好きにとって、複写されていない原譜の公開が遅れたり、作品70の3のように複写されていない原譜が失われてしまっているということは、痛恨の極みです。普遍的な価値のある芸術は人類の普遍的財産であるという意識が商業意識より遥かに大切なことだと僕は思います。

例えば、優れた世界的な絵画の個人所有者で『この絵画は私の所有物だから私以外の誰にも見せない』という所有者がいたら、美術館長さん達や国家のお偉いさん達や学者さん達がその所有者のところにいって、『その芸術はとても優れた普遍的価値を持つ芸術、人類の公共的な普遍的財産であって、個人が独り占めしていいものではないのです』って一生懸命説得して、お金と保険と厳重なセキュリティを沢山かけて、懸命な説得の上、やっと貸し出してもらうわけです。でも、『絶対にどうしても貸さない』という人がいたら、貸し出してもらえず手の打ちようがないのです。これは、芸術の進歩ということについて、商業主義(金銭による所有権独占主義)が齎す巨大なマイナスであると思います。優れた芸術作品を所有者だけが独占していたら研究も出来ないわけです。絵画の場合は絵画研究ができませんし、音楽の複写されていない原譜に至っては、原譜がない故に優れたピアニストがオリジナルを弾くことができないというとても残念な事態が起きてしまいます。

世界的に高い評価を受ける普遍的芸術は、否応なく公共性を担うとはこういうことです。村上春樹さんも、ノーベル文学賞候補者の筆頭の一人で、世界的に大きな影響力を持つ作家であるがゆえ、その言動は否応なしに公共性を持たずにはおれないのです。そこで、その公共性の責任を放棄せず、普遍的な原則(個々の人権)に沿った公共的なスピーチを行ったことは、世界に大きな影響力を持つ普遍的芸術の創り手としての公共性の責務を果たしたといえると思います。

最後に、本CDでヴィヴァルディ、ピアソラが気に入ったら、それぞれボックスセット(「Vivaldi Masterworks」「アストル・ピアソラ メンブラン10CDセット」)聴き比べてみるのも面白いと思います。古典クラシックと近代音楽が深い基底で繋がっているのが感じられると思います。

参考作品(amazon)
ヴィヴァルディ:協奏曲集「四季」
Vivaldi Masterworks
アストル・ピアソラ 【メンブラン10CDセット】
証言・フルトヴェングラーかカラヤンか (新潮選書)

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2009年02月18日 02:36

The Chopin Collection [Box Set]

先日より強力な作用を持つ向精神薬レボトミンを飲んでいるので、一日中頭がふらついてくらくらする感じで、あまり文章が書けそうになく申し訳ございません。

終日非常に頭がふらつき眼が霞み周囲が暗く見えて尿漏れが起き(レボトミンの副作用と思われる症状)、心身も先日からとても辛く、非常に辛い状況ですが、更新しないと収入が一切なく、生活できない状態でして、何とか頑張ります。レボトミンは副作用が強すぎる感じで服用していて辛いので先生に相談してみようと思います。猫は元気です。

久々に音楽の話を致します。僕は現在活躍中のピアニストではアシュケナージが好きなんですが、歴代のピアニストから一人最も天才的なピアニストを選ぶということでしたら、故アルトゥール・ルービンシュタインを選びます。ルービンシュタイン自身は現在ピアニストのTOPに位置するマウリツィオ・ポリーニをとても高く評価していましたが(ポリーニのショパンコンクール優勝時、ルービンシュタインの賛辞「今ここにいる審査員の中で、彼(ポリーニ)より巧く弾けるものが果たしているであろうか」、流石の慧眼です)、僕としては、ルービンシュタインの演奏を20世紀最高の演奏として押したいです。

これは、僕はショパンが好きなので、ルービンシュタインはショパンと相性が良かった(20世紀最高のショパン弾きの一人であることは間違いありません)という点もあります。また、もう一つはポリーニよりもルービンシュタインのピアノ演奏の方が僕個人として好きなので、そういった点があります。ポリーニは技術は凄いのですが、極限的なクラシックの高み(完成度)を求める求道者的な音楽なので、より幅広い人が楽しめるという演奏では、ルービンシュタインの右に出るものはいないと思います。

ルービンシュタインは浮気性の遊び好き、放埓な女性遍歴で知られ、奥さんはいるのですが、奥さんが献身的に彼に尽くしているにも関わらず、多額の演奏収入を使って放蕩の限りを尽くした女性好きの遊び好きの演奏家で、生真面目なポリーニとは相反する部分があります。その辺の違いも演奏にでている感じを僕は受けます。ポリーニが技術の頂点を極めようとする凄い技術の音楽を弾いているのに比べ、ルービンシュタインの演奏は柔らかいユーモア、遊び心があって、そこがルービンシュタインの演奏の魅力に繋がっているように思います。

また、ルービンシュタインのショパンは、これも有名ですが、彼は可能な限り原典に近いショパンを弾いています。これは非常に大きな点で、ルービンシュタインの高名を世界に轟かせた大きな一因だと言われています。

ショパンの作譜にはフォンタナ版(ショパンの友人フォンタナがショパンの遺作の譜を改変・編集して相当に原典と変えてしまったバージョン、作品66〜74)とオリジナル原典作譜があり、前者(フォンタナ版)は、はっきりいって音楽としてダメダメです。フォンタナの作曲家としての才能はショパンに及びもつかない低いものであり、ショパンのオリジナル原典作譜に比べると明らかに劣っています。しかし、フォンタナ版の方が安易で弾きやすい上、こちらが先に大勢に出版されてしまったので、フォンタナ版の方で弾くピアニストが大勢いました。そんな中、ルービンシュタインはショパンのオリジナル原典の方で演奏し続けました。これは、ルービンシュタインのショパンを世界に轟かせた大きな一因だと言われています。それまで、フォンタナ版ショパン(ショパンオリジナルより完成度の低い劣化版ショパン)しか聴いたことの無かった人々は、ルービンシュタインの演奏で始めてオリジナル原典版作譜のショパンを聴き、そのクリアさと演奏の緻密さに驚嘆したと言われています。

余談ですが、極めて残念なことながらショパンの作品70の3は今現在も、自筆譜紛失により、フォンタナが改変してしまったフォンタナ版しか残っていません。ショパンのオリジナル譜は永遠に失われており、オリジナルのショパンの作譜を復元する研究(フォンタナがどのような改変をしたか推測してショパンのオリジナル譜を復元する)もあるようですが、オリジナルが失われている以上、復元しても全ては推測の域にすぎず、我々はショパンの作品70の3の真のオリジナルを聴くことはできません。ショパン好きにとって、大きな悲劇の一つです。

またルービンシュタインのショパン演奏ではRCAの録音が最高峰だと僕は思いますが、RCA録音のショパンも、ショパンの作品70の1については、自筆オリジナル譜をルービンシュタインが手にいれられず、残念ながら作品70の1は原典ではなく、僕の知る限りフォンタナ版による演奏のみです。同作品70の1のもうひとつの自筆オリジナル譜が1967年10月に発見され、オリジナルの復元が成功しました。けれど、ルービンシュタインのRCA時代にオリジナル譜を入手できず(ルービンシュタインは可能な限りショパンのオリジナル原典に当たりましたが、作品70の1はオリジナル譜の所有者が公開してくれませんでした。理由は不明。1957年にこの原譜は公の機関で保管され、また1967年に別の自筆譜が見つかり、作品70の1のオリジナルの復元に成功しました。余談ですが、お金持ちの芸術愛好家・コレクターには、芸術を自分だけのものにして、他の人々から作品を隠すことで優越感に浸るたいへんはた迷惑な芸術愛好家・コレクターもいるので、クラシックの原譜の所有者がそういう人だと音楽という分野においてとても困ります。例えば、作品70の1はオリジナル復元に成功したゆえ、まだしも幸運な作品であり、作品70の3においては、『誰かが原譜をこっそり持っているけど隠している』という可能性もあります。閑話休題。)、残念ながら、作品70の1の原典版ショパンの演奏をルービンシュタインの演奏で聴くことは僕の知る限りではできません。もしかしたら、原典版で弾いているアルバムがあるかも知れません。それだったら申し訳ありません。

ただ、そういったデメリットを鑑みても、ルービンシュタインのRCA録音演奏はとても素晴らしい、出来うる限り原典により、なおかつルービンシュタインの才能が全開で吹き出ているような演奏で、心からお勧めできる演奏です。僕は一枚3200円するRCAの一枚綴りのルービンシュタインショパン音楽CDを過去に買い集め、今は売却してしまったのですが、今、一枚あたり、以前の十分の一程度(300円強)でルービンシュタインのRCA録音盤が「The Chopin Collection」として売られていますので、昔一枚3200円だったことを思うと、驚くべき価格破壊であり、ピアノ曲好きのお方々に心からお勧め致します。

最後に、RCAのマックス・ウィルコックスがルービンシュタインとのRCA時代の録音風景について語っていますので、引用致します。

多くの音楽家と違い、ルービンシュタインはレコーディングが好きだった。彼は録音スタジオをコンサート・ホールに変え、技術者やピアノ調律師や私(マックス・ウィルコックス)を聴衆に変えた。(中略)

一例をあげるために、1965年のある日に戻ってみよう。(中略)(洒落者で知られたルービンシュタインは待ち合わせ場所のエクセルシオール・ホテルに颯爽と姿を現した。)栗色のタートルネックのセーターに、栗色のカシミアのジャケット、粋なつば広の帽子といういでたちもさっそうとしていた。(中略)

(RCAの)スタジオでは、ルービンシュタインのイタリアでのピアノ調律師リッカルド・オルシーニと録音技師のセルジオ・マルコトゥリが私たちを迎えた。30分のドライブでルービンシュタインはすっかり舌の回りがよくなり、続く10分間のあいだはとびきりおかしな話の洪水となった。ルービンシュタインの役者としての(ユーモアの)才能は、彼の音楽家としての才能に優るとも劣らず、限られた観客たちは、数分間笑い転げるのだった。(中略)

(スタジオでのルービンシュタインは満足の行くまで演奏をやり直し)……もう一度弾きなおされ、さらに9テイク(通常の3倍)が録られた。ついに満足のいくものが(10回目の演奏によって)録れ、私は自分の楽譜に「10テイクで完了」と書き込んだ。音楽を純粋に、さりげなくつくりあげてゆく際の(ルービンシュタインのスタジオ録音での)集中力は恐ろしいほどで、最後の演奏(OKの演奏)は最初のもの(彼自身がNGにした演奏)とははっきり考え方の違いが示されていた。
(RCAマックス・ウィルコックス。RCAルービンシュタイン演奏集「ワルツ集」ライナーノーツより)

参考作品(amazon)
The Chopin Collection [Box Set]

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2009年02月17日 04:23

薬のウラがわかる本
こころの治療薬ハンドブック

先日、祖母がなくなり、僕はそれ以後精神の均衡を欠いた形(睡眠障害、過覚醒状態)で、感情が枯渇し胸に穴が空いたような状態です。

全く睡眠が取れなくなり、眠気も全くなくなり、明らかに精神が異常を来たしていると自分で自覚できる状態で、自分の心理が自分で制御できず、発作的に自殺を図りそうな状態なので、精神科で急患で見てもらい、これまでのお薬よりもずっと強いお薬(統合失調症治療薬レボトミン、全く睡眠欲が無くなった時に使う強力な睡眠薬であるアモバン及びドラール。ドラールは特殊な睡眠障害治療薬剤で、お腹が空っぽの状態のときのみ服用可能、また、ドラールを飲んだ状態で途中で起きるのは厳禁)をこれまでのお薬(SSRI、抗不安剤、睡眠薬)と一緒に服用しているですが、やはり睡眠障害が酷く、眠れません。いったん眠っても、三時間くらいで眼が覚めてしまいます。また感情が麻痺もしくは枯渇しており、自らの周囲の全てが周囲の全てが離れたもの、嫌悪的なものとしか感じられません。現在もドラールを飲んで、数時間で起きてこの文章を書いているので、本来はよくない状況なのですが(ドラールを飲んだ後の短時間睡眠は厳禁)、感情が鈍磨している代わりに論理的に頭が極端に冴えて眠れない形です。人間の状態を薬物で完全に制御するのは無理なのだということを自身の状態を鑑みて強く感じます。

論理的な思考をする頭は冷静で冴えている感じですが、感情が麻痺、枯渇、鈍磨したような状態で、今までのように文章を書くことはできません。

常に毎日、生と死について考えることしきりで、人間という、生と死について考え、そして答えを導き出せず苦しむ存在には一体どのような意味があるのかひたすら考えることしきりです。

不老不死を求める人々の気持ちが分かったように思います。それは、自分が死ぬことを恐れるより、自分にとって大事な人に亡くなってほしくないという思いがきっと非常に強くあるのだと思います。

しかし、現代の科学技術で不老不死は不可能であり、いずれ不老不死の技術が完成するにしても、それは二十一世紀中には無理、また万が一、二十一世紀中に不老不死の技術の完成が可能だったとしても、僕のような金を持たない下層階級には全く縁のないことであり、それを思うと、今(二十一世紀の我々、またそれ以前の人間)の人間には絶対的な無と対峙する苦しみしかないのかと思うと、人間の生と死とは一体なんであるのかという思いにひたすら駆られます。考えても詮無いことと分かっていても、考えることが止められません。

現在僕が服用している統合失調症治療薬レボトミンは強力に頭をふらつかさせ思考を鈍らせぼやかすので(通常の精神安定剤とは比べ物にならない強力な鎮静・思考能力低下効果を持つ薬剤です)、生と死についてのみしか考えられぬ苦しみのなかでそれが僅かに苦しみを和らげます。感情麻痺の苦しみが現在大きく強く、少しでも自己を制御できないか脳生理学の本を読んでいます。

僕が理解した限りでは自己の精神状態を自己が制御することは脳生理学的に不可能とみなされているのが脳生理学の大きな定説であるようです。また僕が生存している間に不老不死の技術の完成及び広がりは不可能だと僕は考えるので、脳生理学的に脳(心理)を制御する抗精神薬が発達して、人間の耐え難い精神状態の苦しみを緩和する薬剤の開発が進歩することを願います。以下、脳生理学の立場から精神障害を分析した文章を引用致します。

(脳生理学的観点から精神障害について)大まかにまとめますと、量的な(神経伝達物質の)変動にレセプターの障害、レセプターの後方にある二次メッセンジャー系の障害、それから、セロトニン系やギャバ系による抑制が低下してしまう場合、さらにオピオイド系が亢進している場合などが考えられますね。(中略)

神経伝達物質というのはそれこそ無数にあるのですよ。代表的なものはドーパミン、ノルアドレナリン、アドレナリンで、これはカテコールアミンと総称され、人間の精神活動の主要部分を担う神経系に分布しています。反対にこの神経系を抑制する神経系に分布しているのがセロトニンやギャバですね。オピオイドは脳内麻薬と呼ばれるもので、ドーパミン事態の放出は抑制しますけど、二次的に合成を促進させるために、結果的にドーパミン系を亢進させる働きをすると考えられています。(中略)

ノルアドレナリン系でとくに大切なのがA6神経ですけど、この神経は意識を覚醒させたり、学習、鎮痛、排尿、血液循環、ホルモン系の調節、体温維持、ようするに人間が生きていくための大本になるような機能に関係しています。ですから、ノルアドレナリン系が亢進すると、不安性障害、パニック障害、恐怖症、癲癇、自傷、不眠、ようは過覚醒状態になっていきます。(中略)

ここ数年では、精神症状の理解のされ方は、ドーパミン系からノルアドレナリンやセロトニン系に移ってきているんです。とくにセロトニン系は、脳内の最大の神経系として、カテコールアミン系の神経を抑制する役割を担っていますから、非常に広範囲にわたって精神活動に関与しているわけですね。(中略)

いわゆる抗不安剤や睡眠薬と呼ばれるものは、ほとんどがギャバを強化する薬なんです。ただ、最近の研究では、不安や苛立ち、不眠の原因はギャバの機能低下にあるのではなくて、むしろセロトニンやノルアドレナリンの機能障害にあるのではないかということがだんだんと明らかになってきています。つまり、精神を安定させるためにギャバを操作するというのは必ずしも直接的ではないということですね。それに、ギャバ系に異常がないのに対症療法的に抗不安剤を連用していると、ギャバ系はそれに合わせて機能を低下させてしまうわけです。そうなると、さらに薬の量を増やさないと不安になるというふうに依存性が出てきやすい。

最近は、セロトニンやノルアドレナリンに直接作用する原因療法的な薬剤(SSRI等)に置き換えることで、ギャバ系に作用する抗不安剤から離脱させる動きがあります。ドーパミンを抑制する抗精神薬(メジャートランキライザー)にしても同じですね。従来、精神科での薬物療法は経験的、対症療法的で、患者が不穏な行動を起こす場合には、とにかく(ギャバ系の薬剤を投与して)鎮静化させるのが先決だということで、抗精神薬や抗不安剤、睡眠薬などを大量に投与したりしています。

しかし、患者が不穏だった本当の原因は、ここでもセロトニン系の低下やノルアドレナリンやオピオイド系の亢進にあったのかもしれない。そうした脳内の生物学的状況を想定して、それを直接修正するような原因療法的な発想が(根治に近づくためには)必要なわけですね。(中略)

心理社会的な要因は直接精神障害を生ずるでしょうが、それだけでなく、心理社会的な葛藤が脳の機能障害を引き起こして、その結果として精神障害が出てきます。(中略)

この十年で急激に発展した精神薬理学は、とくにここ数年、臨床面でまた飛躍的に伸びています。すでに、レセプター別のサブタイプ別のクスリまで開発されてきてるわけですね。先ほどは、ひと口にセロトニンのレセプターと言いましたけど、実際には大きく三種類、細かくは六種類のサブタイプに別れていて、その数は研究が進むにつれて更に増えるかも知れない。5HT-1Aは食べることと不安、体温調節と血圧低下、5HT-1CとDは頭痛、5HT-2は抑うつや抗利尿ホルモン分泌と絡むと言われています。セロトニン以外の神経伝達物質のレセプターについても同じですね。この先、ますます原因療法的というか、よりセレクティブに薬を使い分けていくようになるでしょう。

インタビュアー「それだけ薬の副作用も減るということですね」

そうなると思います。それから、向精神薬の今後ということでは、ドラッグ・デリバリー・システムの問題も大きいですね。精神障害の元になっている脳内の特定の部位だけに薬を届けることができれば、より少量で効果を発揮するし、その薬が他の部位に作用することで起こる副作用もなくなる(減少する)わけです。
(精神科医平噴昭一。「薬のウラがわかる本」より)

現在、心理的に感情が枯渇したような状態で、自身の状態を自身で制御できず、薬の助けを借りて、精神を鎮静化させている状態であり、以前のような感情のこもった文章は書けそうになく、心からお詫びいたします。もしよろしければ、現在、生活困窮につき、ギフト券やアフィリエイトでお助けくだされば、心から感謝致します。

参考作品(amazon)
薬のウラがわかる本
こころの治療薬ハンドブック

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2009年02月13日 13:25

人はなぜ屈せねばならないのかという思いで一杯です。胸に穴が空いたようです。

祖母が亡くなり、感情麻痺の死別反応が起きているようで、大変辛いです。完全に情動が麻痺して異常に冷静で胸に穴が空いた状態になっており、自分の心理状態の異常性に認識があるのですが、情動が消失して回復する制御ができません。

今後、立て込みますので、しばらく更新できないと思います。申し訳ありません。

2009年02月12日 14:27

CASIO (カシオ) 腕時計 デジタルウォッチ F-201W-1AJF

現在僕は失業中で、収入はギフト券とアフィリエイトのみなのですが、定期的に毎月ギフト券を贈ってくださるお方がいらっしゃいまして、ギフト券で、食料品等amazonで賄える生活品購入させて頂くことができ、心から感謝しております。さきほど上記の時計「CASIO腕時計 デジタルウォッチ F-201W-1AJF」を買わせて頂きました。とても助かります。腕時計のない生活を送っていたので、非常に不安でしたが、これで腕時計のある生活に戻れます。本当にありがとうございます。救われた気持ちです。

先の更新より更に以前の日々より、先週から腕時計ない生活送っており、腕時計のない生活、外出したら時間が分からなくなる生活というのは始めてだったので、その体験について書かせていただきます。

僕はシチズンのエコドライブ(光充電型)腕時計を五年くらい使用していたのですが、先週、更新していなかった頃、完全に壊れまして、いくら光にあてても完全に動かなくなりました。時計の針はネジを引っ張って回すと動かせるのですが、秒針が動かないので、時計として完全に壊れてしまいました。おじいさんの古時計の歌(「Grandfather's Clock」「大きな古時計」)が頭に浮びました。アナログ時計だったので、「今は、もう、動かない、その時計」という感じで、あの歌の通り、時計の秒針が止まるというのが、何か僕の末路的に感じて絶望的な思いがして、非常に憔悴しました。僕は昔からジンクスが気になるところがあり、うつ病になってからそれが酷くなってしまい、病院の先生は、「時計が壊れたりしても、それと何かが結びつくことはありませんよ」というように、理性的判断で答えてくれるので、それが正しい(理性的判断が正しい)と分かっているのですが、それでもとても不安になってしまい、そういうときは頓服で頂いた抗不安剤をよく飲んでいます。

今回は、祖母の容態が今はよくなってよかったんですが(祖母の入院している病院の先生によると、ご高齢の方で、脳溢血の症状が軽い場合は、手術しないで、入院して絶対安静の生活で点滴とお薬で治療して治しますとのことでした)、ちょうど先週、時計が壊れてしまったのと、祖母の容態で、僕が色々出かけていたのと重なり、腕時計無しで遠出したりしたのですが、これは、祖母がとても心配だったのと僕自身のうつ病もあると思うんですが、時間が決まっている交通機関に腕時計なしで目算で乗って移動するというのは、物凄いとてつもない不安で、動悸が酷かったです。

電車だと、駅に時計があるのと、電車はちょくちょく来るので、なんとか安心なのですが、怖いのがバスで、時計がないと、おおよその時間しか分からないので、目算で3時15分のバスに乗れると思ったら、バスが来ず、あれ、どうしたんだろうと凄い不安になりながら待っていて、結局、実は15分は間に合ってなくて(僕の時間の目算が間違っていました)45分のバスに乗って移動するなどのアクシデントがあり、腕時計がない状態で、交通機関を使って移動するのは物凄く不安です。

昔だったら、おそらく、隣の人(バス停に並んでいる人)に時間を尋ねることができたのですが、今は凄く小心になっている感じで、訪ねようかどうしようか、迷っていたあげく、立ってバスが来る方向を見ながらずっと待っていて、30分が何時間のようにも感じました。

腕時計がないと、交通機関を使って移動するとき、時間を見ながら移動ができないので、例えようのない、始めて味わうようなじわじわとした不安で一杯でした。その時は不安で一杯でしたが、少し落着いた今から考えて逆に言うと、ミヒャエル・エンデの「モモ」に出てくる時間貯蓄銀行に支配された世界(今の日本社会)では、時計がないと不安で一杯になるということで、社会全体が時間に常に支配されているということで、悲しくなりました。僕はモモのように強くないので、腕時計のない生活には耐えられそうにないです。ただ、心の中の時間を客観時間よりも大切にできたら、いいなあとは思います。

時間とはすなわち生活なのです。そして生活とは、人間の心の中にあるものなのです。人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそって、なくなってしまうのです。
(ミヒャエル・エンデ「モモ」)

今回、ギフト券で腕時計買わせて頂き、腕時計がない不安感、時間が分からない不安感から解放されるという思いで、心から感謝の気持ちで一杯です。腕時計がない間中、ずっと不安でした。ギフト券を贈ってくださり、本当にありがとうございます。とても感謝しております。腕時計を買って胸が軽くなりました。食料品などの生活費ともども、深く感謝しております。本当にどうもありがとうございます。

参考作品(amazon)
CASIO (カシオ) 腕時計 デジタルウォッチ F-201W-1AJF
大きな古時計
モモ (岩波少年文庫(127))
モモ [DVD]

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ピアソラへのオマージュ
アストル・ピアソラ 【メンブラン10CDセット】

一昨日まで、非常に忙しく、昨日はひどく疲労がでてしまった形で、一日ぐたっとしてしまい、全く更新できませんでした。昨日更新できず申し訳ありません。祖母が入院しており生活が掛かっており、なんとか頑張ります。どうかよろしければ、よろしくお願い致します。後、一昨日書いた猫の便秘は治って、今日お通じ出ていました。よかったです。

本日は、以前も一度ご紹介いたしました、二十世紀及び今世紀二十一世紀も代表するであろうヴァイオリニスト、ギドン・クレーメルの「ピアソラへのオマージュ」をご紹介したいと思います。本作(クレーメルのピアソラ演奏シリーズ)は僕の知る限り日本では四作品(「ピアソラへのオマージュ」「エル・タンゴ」「トレーシング・アストル」「天使のミロンガ」)出ていると思います。もしかしたらもっと出ているかもしれませんが、うつ病になってから心身生活共に余裕がなく、情報のインプットがほとんどなくなったので、五作目の有無などについては分かりません。申し訳ありません。

クレーメルはクラシックに天才的才能をみせるだけでなく、現代音楽(マイナーな現代クラシック音楽からポピュラーな現代映画音楽まで何でも弾きこなせる天才)を積極的に弾きこなす異才ともいうべきヴァイオリニストの生ける伝説的天才で(1947年生まれなので、まだ60代前半の若さです)、あらゆるヴァイオリン曲をスタイルを問わずに超絶技巧で弾きこなし、マイナーな現代クラシック音楽は、彼がいなければ、もっとマイナーになってしまっていただろうと言われる、僕みたいなクラシカルなマイナー現代音楽好きにとっては神の如き素晴らしいヴァイオリニストです。

以前ご紹介した、バルト三国の音楽でも、単純に見えるようで美しく弾くのは難解なペルトを見事に弾きこなし、この人は天才だ、なんて天才なんだと始めて聴いた時は胸が高鳴りました。

バルト三国と今後の日本。僕のベストアルバム「わが故郷から−バルトの音楽」静謐な美の響き。
http://nekodayo.livedoor.biz/archives/685715.html


僕は上記で書きました通り、「わが故郷から」が一番好きなのですが、クレーメルの魅力が一番間取り広くよくわかるのは、クレーメルのピアソラシリーズの第一作目「ピアソラへのオマージュ」だと思います。僕はクレーメルのクラシックと現代音楽や映画音楽等々色々聴きました。日本の作曲家武満徹さんの曲も弾いています(クレーメルのアルバム「ル・シネマ」の中で弾いています)。彼は形式にとらわれずなんでもかんでも弾きこなせるので(普通のヴァイオリニストは形式を超えてどのジャンルもトップレベルで弾くことは無理です、一般的なヴァイオリニストは形式の中で努力するため、どこか一つの形式に特化してしまうことが多いです)、クレーメルを聴いていると、古典から現代映画音楽までなんでもこなせる天才っているんだなあとじかで感じます。そんなクレーメルの幅広い活動の中でも、一番クレーメルの凄まじい超絶技巧の才能が良くわかって、一番間口が広いのがピアソラシリーズではないかと思います。

僕の知っている限り、クレーメルのアルバムはベストセラーが多いですが(彼はスタイルを問わず、あらゆるジャンルを弾きこなす超絶技巧を持った天才としかいいようのないヴァイオリニストなので、ファンの幅がとても広く、僕のような彼を敬愛するファンがとても大勢います)、その中でも、世界中で一番売れたのは今世紀の始めの時点では「ピアソラへのオマージュ」だったと思います。非常にヒットしたアルバムなのでよく覚えています。確実に一番とはいえない(クレーメルの全アルバムの売り上げの確かな情報がない)のですが、一番である可能性が高いアルバムだと、一クレーメルファンとして思います。

僕はピアソラシリーズの四作、「ピアソラへのオマージュ」「エル・タンゴ」「トレーシング・アストル」「天使のミロンガ」全て聴き比べました。その中で僕が順番をつけるとしたら、「ピアソラへのオマージュ」「天使のミロンガ」が同着で一位、「トレーシング・アストル」最後が「エル・タンゴ」かなと思います。そして、「天使のミロンガ」は非常にダイナミックな感覚があるのですが、クレーメルの素晴らしい腕前を堪能するということにおいては、「ピアソラへのオマージュ」かなと思います。「ピアソラへのオマージュ」の方がスタティックでより古典的なクラシカルに近く、ヴァイオリンの音色を堪能するということについては、こちらの方が間口が広く、ヴァイオリン好きにもクラシック好きにもポピュラー音楽好きにも、幅広くお勧めできる名演ではないかと思います。

「エル・タンゴ」「トレーシング・アストル」もとても良いアルバムですが、個人的には、「エル・タンゴ」には歌、「トレーシング・アストル」には語りが入っているので、聴いていると人間の声が入ってくるところで、集中力、コンセントレーションが乱れる形で、そこがちょっとう〜んな感じです。僕は音楽というのは一つの音楽(アルバムにしても、コンサートにしても、どちらでも)を最初から最後まで一つの有機的な調和として聴きたいので、クレーメルのヴァイオリンを堪能しているところに、歌とか語りが入ってくると、主役のヴァイオリンが脇に引いてしまい、そこでコンセントレーションが乱れてしまうと感じます。特に、歌ならまだしも音楽アルバムに語りは正直入れて欲しくないです。語りは完全に音楽の調和を壊してしまいます。余談ですが、ストラヴィンスキーの歌劇「エディプス王」も語りが入っていない方がいいなと思う僕の好きな歌劇ですが、脚本のジャン・コクトーと作曲のストラヴィンスキー自身が後で、「語りは抜いた方がよかった」と言っているので、語りぬきバージョンで録音して音楽CDとして出たらいいのになあと思っています。閑話休題です。

音楽の調和の話ですが、これはアルバムだけでなく、クラシックのコンサートでも同じです。余談ですが、うつ病になる前は、海外クラシックアーティストのコンサートはときどき行っていました。うつ病になって生活困窮になってからは一度も行けていません。去年のユーリ・シモノフ指揮のモスクワ・フィル・コンサートは、金融危機の影響なのか、オーケストラのチケット三千円と常識的に考えられぬほどとてつもない破格の安さでしたが、それでもお金なくて行けなくて、残念です。閑話休題です。クラシックのコンサートでも、観客が誰一人音を立てないシーンと静まり返ったホールの中で、オーケストラやピアノやヴァイオリンを演奏して、演奏が終わったらブラボーと拍手で、また次の演奏で静まり返るという形式の有機的な調和が、音楽を、一つの曲を超えた形で、調和的、有機的に完成させるものであると思います。余談ですが、フルトヴェングラーのライブ録音とか演奏中に咳とか入っていて、聴いていると心底「なんてことだ!!」と思います。この咳さえなければ、調和的なライブ録音として完璧だったのに…、という思いに駆られます。演奏者は夢中で弾いているので咳でコンセントレーションが乱れることはないですが、ライブで聴いていた聴衆の人々も咳には「パーフェクトなコンサートの最中になんというアクシデント、なんてことだ!!」と感じたのではないかと思います。勿論、咳でフルトヴェングラーの偉大な指揮の価値が下がる訳ではないのですが、この咳さえなければ完璧なライブ録音だったのに…、と聴いていて思うことがよくあります。

ただ、ライブのアクシデントは仕方のない面もあると分かっています。クラシックのアーティストと観客の交流というのもあって、海外のクラシックアーティストのコンサートは、オーケストラとかでサービス精神の高いオーケストラが来ると、言葉が通じるとコンサート後、物凄い大物アーティストがごく普通に後片付けをしていたりしており、ファンが声をかけると吃驚するほどフレンドリーに話せたりするので、その辺もクラシックの楽しみです。ただし、海外アーティストは日本語は話せないので、日本語で話しかけても言葉が通じないので、話しかけるなら英語は必須です。アーティストさんの母国語、ドイツ語、フランス語、ロシア語あたりを話せると、アーティストさんからぐっと好感度UPという感じです。毎年ちょくちょく来日するウィーン少年合唱団あたりは、普通に日本のクラシック好きショタ好きお姉さん達(ごく普通のOLさん、クラシック音楽好きかつショタ好きで外国語のできるOLさんとかです)がパル(少年合唱団の少年の現地世話役を『パル』と呼びます)になって、最終的には普通に結婚しちゃったりするケースもあります。だから、咳もアーティストと観客が対面するライブならではのアクシデントで、仕方ないと分かっているのですが、やはり、音楽的な完成度を鑑みると、ライブで咳は勘弁して欲しいとどうしても思ってしまいます。クラシックの命は、一つにはスタティックな美しさ、静的かつ数学的な調和の美しさにあるので、それをいかに完璧に高めるかというのが、クラシックを極めてゆくことと繋がっていると思います。

そういった静的な美しさという点でもクレーメル「ピアソラへのオマージュ」はお勧めです。美しく、調和されており、静かで心が安らぐ曲が幾つも収録されたとても良い音楽アルバムだと思います。心からお勧めできるアルバムの一枚です。

今、僕は借金生活なので(月末に返済)、とてもコンサートとか行けませんが、いつの日か、コンサートとか行ける日が再び来ることがあったらいいなあと思います。本当は借金とかしたくないので、生活保護を受けさせてもらえない低収入層・失業者・貧困層には国が融資してくれる制度とかあれば助かるなあと思います。信用のない僕みたいな失業者の借金は、民間高金利のクレジットしかなく、返済が万が一滞ると吃驚する利子がつくので、心身的に重いです。せめて、国が貸し出しとかしてくれればなあと心から思います。

最後に、ジョン・アダムズ「ピアソラ賛歌」と「ピアソラのオマージュ」のライナーノーツから文章を引用させて頂きます。

ジョン・アダムズ「ピアソラ賛歌」

深い闇の中に迸るまばゆいきらめきという点で、(アルゼンチン出身の)ピアソラとよく似たラテン・アメリカ的な精神の持ち主であるチリの詩人パブロ・ネルーダの言葉を引用すれば、ピアソラの音楽は「人間の欠陥だらけの混乱状態そのものであり……ちょうど酸の作用を受けたかのように手の労働によって蝕まれ、汗と煙、百合の花の匂いと尿の匂いに満ち、我々の様々な行動――合法、非合法を問わず――が散りばめられている。……古い衣服のように汚く、肉体と同じように、食物の染み、恥、しわ、観察、夢、覚醒、予言、愛と憎しみの宣言、ばかばかしさ、衝撃、牧歌、政治的信念、否定、疑い、断念が染みついている」(パブロ・ネルーダ「不純な詩について」(米ニューヨーカー紙1996/6/24、7/1号に翻訳掲載)。(中略)

ピアソラはJ・S・バッハの和声反復進行の動きに強い親近感を抱いていた。バッハ的な和声的反復進行は、容赦なく終止に向かって進んでいき、あと戻りできないという感覚をもたらすものだが、その終止が訪れる時期を(神聖へ昇華させたバッハとは違い)、もっともひねくれた、苦痛と快楽の入り混じった方法で調整する、すなわち(音楽の昇華、エクスタシーを)遅らせるところにピアソラの芸術の核があったのである。

これは、やっと家に帰り着いたはいいが、家はすっかり変わってしまっていたという状況に似ている。家は取り壊され、子供の頃に遊んだ近所に知らない人ばかり住んでいるという状況(故郷喪失者の状況)である。

ピアソラの音楽は基本的には悲劇的なものの表現だった。(中略)それらのルーツは、スペイン、ドイツ、ユダヤ、インディオ、イタリアといった雑多な文化が入り混じるブエノスアイレスにある。ピアソラの音楽は、自意識によって口当たりをよくされたり去勢されたりしていない。本当の意味での「マルチ・カルチャー(多文化性)」である。そしてそれは、最も素晴らしい発見と同じようにひとつの発見であり、予想外で、多面的で、移ろいやすく、豊饒である。

故郷をはなれ他所の土地で生きるものが自らの内に育むノスタルジーとパッション。これこそはピアソラの音楽の奥深いところにあるものであり、多くのひとの心身を鷲づかみにしてしまう音楽のつよさだ。どんなところにいても<私>はひとりだし故郷から切り離されている。そしてだからこそ一刹那であってもひとを求めずにはいられない――そんな情熱であるとともに受難であるパッションがピアソラの音楽にはある。クレーメルは音楽という亡命者に許された数少ない持ち物についてピアソラに共感を見い出したに違いない。(中略)

(ピアソラの音楽の中にある大きな共感性、)1950年代以後のいわゆる「現代音楽」がしばしば失ってしまったつよさ、どんなひとでも聴いてなにかを感じることができるポピュラリティ。レコードの分類のためにとりあえずつけられたジャンル分けもピアソラの音楽は平然と越境するだろう。(中略)

タンゴが歴史的にどういうものでありどんなイディオムをもっているかなど、このアルバム(ピアソラへのオマージュ)に耳をかたむけるときは脇においておけばいい。そんなことはべつの機会にいくらでも知ることができるだろう。ここでは音楽がふるまうすべての所作を聴きとり心身を浸してくれればいい。クレーメルのファンにはピアソラと出会ってほしいし、ピアソラのファンにはクレーメルの演奏を知ってほしい。
(「ピアソラへのオマージュ」ライナーノーツ)

僕も、失業しており、精神疾患で、生活困窮で、何もかも世界が崩壊したような後の心情なので、上記の心情に、心から共感を感じます。クレーメルのピアソラシリーズが気に入ったお方々は、作曲したアストル・ピアソラ本人の演奏したピアソラ「アストル・ピアソラ」(10枚組)などと聴き比べると、より音楽の豊饒性が開かれて行くと思います。最近はクラシックの驚異的な価格破壊が進み、アストル・ピアソラ10枚組現時点でamazonで1980円と、極限的に安くなっています。

ごめんなさい、最後に追記です。「ブエノスアイレスのマリア」という五作目?のアルバムがあるみたいです。ただこれまだ聴いたことがなくて何も書けません。完全に失念しており申し訳ありません。

参考作品(amazon)
ピアソラへのオマージュ
ピアソラへのオマージュ(2)エル・タンゴ
トレーシング・アストル〜ピアソラへのオマージュ(3)
ピアソラ:天使のミロンガ
ピアソラ/ブエノスアイレスのマリア
クレーメル「ル・シネマ」フィルム・ミュージック
ギドン・クレーメル名演奏集(10枚組)
アストル・ピアソラ 【メンブラン10CDセット】
ストラヴィンスキー:オペラ=オラトリオ「エディプス王」

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2009年02月10日 19:59

バッハ:オルガン作品集(ヘルムート・ヴァルヒャ)
ブクステフーデ:オルガン作品集 1

身の回りが大変な状況で生活が苦しいです。更新できるような状況ではないのですが、更新しないと、生活の糧がなく(ギフト券とアフィリエイトが唯一の収入源です)、状況が悪化するばかりなので、なんとか頑張ります。祖母の容態が、ICU入って人工呼吸器をつけていたんですが、自発呼吸が始ったので、人工呼吸器を外せて、意識もあるので、小康状態になって本当に良かったです。

僕が留守にしてると、僕の飼っている猫は僕がいないと便秘になっちゃうみたいなので(僕が泊りがけでいないと便をしていないことが多い)、猫がまた便秘気味みたいで、それが心配です。今日一日トイレまだしていないみたいなので心配です。

何もかも売り払ってしまった上、図書館に行ったりする時間もないので、手元のもので紹介するということができないのですが、お勧めの音楽CDをご紹介させて頂きます。盲目のオルガン奏者ヘルムート・ヴァルヒャさんの演奏した「オルガン作品集」です。

パイプオルガンの響きとヘルムート・ヴァルヒャさんの演奏が畏怖すべきほどに素晴らしい、果てしない彼方から響いてくるような演奏で、とてもよい作品です。パイプオルガンはクラシック以外の演奏ではあまり使われることのない楽器ですが、ソロで演奏する楽器において、これほど交響的な響きを出せる、ソロでありながら一つの響きあう宇宙を構成できるような楽器は、他に見当たらないと僕は思います。ぜひ、一度、パイプオルガンの名演奏に耳を傾けて欲しいです。

あと、オルガンといえばバッハで、ヘルムート・ヴァルヒャさんのバッハオルガン全集(ステレオ版全集12枚組の方が圧倒的にいいです。古いモノラル版全集10枚組も演奏は素晴らしいと思いますが、こちらは演奏時期1950年前後でオルガンの調整問題と録音問題により音が落ちている感じです…。)が出ていますが、これが廉価になったとはいえ、日本で買うと一万前後しますので(amazonだと新品はなく、中古価格で二万円近くついているので、吃驚です。ヘルムート・ヴァルヒャさんのリニューアル新品全集はHMV(タワーレコード)で一万円弱で買えるのですが…。)、同じ一万円をだすなら、バッハ全集(Bach Edition: Complete Works、155枚組でamazonで現在14000円台)が一万円強で買えますので、そちらの方がコストパフォーマンスはダントツに優れています。

ただ、どちらにしても高いので、「オルガン作品集」か、更に廉価版であるヘルムート・ヴァルヒャさんのもっと安いバッハオルガン演奏音楽CD「オルガン名曲集」(千円切っています)で試し聴きをして、ヘルムート・ヴァルヒャさんの演奏が気に入るかどうか試してから、「この演奏家の演奏はとても気に入る」ということでしたら、ヘルムート・ヴァルヒャさんのバッハオルガン全集をお勧めです。このオルガン全集の場合はamazonで二万で中古を買うよりHMVで買う方が安くつきます。

僕としては、ヘルムート・ヴァルヒャさんは、とてもお勧めのオルガン奏者です。宗教音楽を天才的に指揮できる指揮者のオットー・クレンペラーと同じく、宗教音楽の宗教性を最高度に引き出すことのできる演奏家の一人であると思います。宗教的な背景を何を知らなくとも、聴いているだけで心打たれる気持ちになるのは、本当にとてつもなく凄いことであり、バッハオルガン音楽のポテンシャルを最高度に引き出している凄い演奏家であると思います。

僕は交響曲と共に、ソロ演奏にも関わらず交響曲のような広がりを持つオルガン曲が大好きで、オルガン曲といえばバッハが最高峰に位置しますが、他のオルガン曲ではディートリヒ・ブクステフーデのオルガン曲が好きで、ブクステフーデのオルガン曲全集をよく聴いてました。 僕の持っていたのは海外盤のブクステフーデオルガン曲全集(ブクステフーデ・オルガン・コンプリート)ですが、今は売ってるのかどうかよく分かりません。ブクステフーデ日本盤の全集は僕の知る限りではでていないのではないかと思います。分売されて売っているオルガン作品全集(ブクステフーデオルガン作品集)は日本盤が売っていますので、これも、一枚試聴して、ブクステフーデのオルガン曲が感性にあえば、購入してゆくと、音楽の楽しみが広がってゆくのではないかと思います。

現在生活が大変で、ギフト券、アフィリエイトなどで助けて頂けると心から感謝致します。ギフト券をアフィリエイトのリンクから買っていただくと、ギフト券もアフィリエイト収入になるので、とても助かります。これまで助けて頂いていることを、心から感謝致します。これまで助けてくださったお方々に心から感謝致します。皆様方に平安な日々あることを心から願っております。

最後に、以前紹介しました竹下節子「ローマ法王」より、引用を行わせて頂きます。安らぎについて書かれています。

一度彼(ローマ法王ヨハネ・パウロ二世)が使命(東側の体制に弾圧されている人々と共に力を合わせて東側の体制と戦う)を果たすと(ソビエト連邦崩壊)、人々(冷戦後の人々)はもう以前ほど彼を必要としなくなった。彼の頑迷な「田舎臭さ(愛を唱え続ける真面目さ)」が人々(自らの快楽を求める現代の人々)の求める洗練とあわなくなったのかもしれない。けれども彼は世界を駆け巡って壇上で正論を叫び続けることをやめなかった。殺すな、傷つけるな、愛し合え、わかっていても、多くの人は自分も傷つきながら他人を傷つけて生きているのだ。正義なんか聞きたくない。街頭の宣伝カーで迷惑な自論をぶつ人とどう違うのか。

彼も年をとった。けれども熱意は衰えなかった。自ら老いて苦しみながら、自己の利益を求めず、しかし頑ななまでに自分の意見は変えなかった。彼を見、彼の言うことを聞いていると、人は失いつつある何かの方を振り向かざるを得なかった。自分の生活に追われている人たちの間にたまに、正論を堂々と吐いて迷惑がられるピエロがいてもいい。誰かが、どこかで、いつも、殺すな、傷つけるな、愛し合え、と言い続けている。安らぎは案外そんなところから来るのかもしれない。
(竹下節子「ローマ法王」)

皆様方に安らぎがあることを心から祈らせて頂きます。

参考作品(amazon)
バッハ:オルガン作品集(ヘルムート・ヴァルヒャ)
バッハ:オルガン名曲集(ヘルムート・ヴァルヒャ)
Bach Edition: Complete Works [Box Set]
ブクステフーデ:オルガン作品集 1
ローマ法王 (ちくま新書)
小型聖書 - 新共同訳
聖書名言辞典

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2009年02月09日 07:49

祖母の容態が思わしくなく、病院から連絡があり、タクシーで急いで駅行って病院に行っていますので、今後、今までのような更新ができないと思いますので、お知らせ致します。

絶対安静で意識なく呼吸が乱れているとのことで、とても苦しいです。

生活困窮しており、もしギフト券かアフィリエイトでお助けしてくださるお方がいらっしゃいましたら、心から感謝致します。

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2009年02月07日 21:18

死言状〔文庫版〕 (小学館文庫)
金色のガッシュ!! (1) (少年サンデーコミックス)

私的な状況の全てがよくなく、気が滅入っていて苦しいです。腕時計がないので、電車に乗って移動したりするのもたいへんで、全てが物凄く辛い状況です。

もし、ギフト券・アフィリエイトのご慈悲を下さるお方々がいらっしゃれば、心から感謝致します。

今日の朝日新聞に、政府の今後の施策が発表されていますが、現日本国政府は、贈与税減免及び高額所得者層への相続税減免措置(日本の約4%にあたる日本最大の資産を持つ日本の富裕層の相続税を減免する)と、政府紙幣(第二次世界大戦末期の軍票みたいの作って日本国内にばら撒いてハイパーインフレを起こす制度)の二種類のセット政策を打ち出していて、どちらかやるみたいですが、そんなの軍票こと政府紙幣政策(ハイパーインフレ制度)じゃなくて、高額所得者への減免(富裕層優遇制度)を行うに決まっているじゃないですか。政府紙幣をやるぞって国民を脅かしながら、そちらに目を逸らさせて、高額所得者層への贈与税・相続税減免措置をやるに決まっています。以下、朝日新聞から引用致します。

朝日新聞2009年2月7日朝刊政治面
「手詰まり政権奇策頼み『政府紙幣』『無利子国債(高額相続税減免)』」

自民党の菅義偉選挙対策副委員長が中心となり、景気対策を検討する議会連盟の設立準備会が6日、党本部で開かれた。政府が独自発行する政府紙幣や、相続税減免措置付きの無利子国債、贈与税減免の3項目を検討する方針だ。(中略)

「政府紙幣」は、インフレ懸念から、自民党内でも「マリファナ」(伊吹文明元財務省)など批判が噴出。(中略)「無利子国債(高額所得者層への相続税減免)となるとトーンが変わり、(ネオリベ改革派の)中川氏は「議論自体は否定するつもりはない」」。政府紙幣を「空理空論」と切り捨てた自民党の細田博之幹事長も6日の会見で「無利子国債は読売新聞の渡辺恒雄主筆が一番の主張者。ひとつの考え方ではある」と含みを持たせた。

同党幹部によると「首相も(高額所得者優遇施策を)やりたがっている」といい、09年度予算や関連法の成立が見込まれる春頃、追加の景気対策として構想を打ち上げる(実際に行われる)可能性がゼロではない。(中略)

相続税は一定以上の遺産(私有財産価値が低く見積もって数億〜の高額遺産)にかかるため、実際に課税されているのは、高額所得者や資産家など死亡者の4%の遺族(富裕層血族)に過ぎない。「金持ち優遇」と批判されるのは必至だ。

また、将来の相続税収入が減るため、穴埋めに他の税(貧困者への所得税、消費税など)が増税される恐れがある。政府も(国債の)利払い負担の軽減額より相続税の減収が多くなる危険もある。(中略)

約50年前、フランスが戦費調達のため相続税軽減つきの無利子国債を発行したが、高額所得者優遇への(国民の)不満が高まり、税収も減ったため、途中で通常の国際に強制転換した。(G8で相続税減免の無利子国債を一時発行したことがあるのはフランス一国のみ。実施したフランスは失敗。)

明らかに自民党は『次回の選挙で破れる可能性』を視野に入れて、貧困層や中間層から徹底的に収奪し、それを富裕層にばら撒く無利子国債による相続税減免や贈与税減免の措置をとると思います。自民党が権力を握っているうちに、徹底的に階級社会を築いて、貧困層や中間層からの搾取を激しくして、富裕層の地位の更なる相続世襲による特権化を狙っています。

政府紙幣なんて戯言は、上記の相続税減免・贈与税減免から国民の目を逸らすブラフにすぎません。政府紙幣なんて発行すれば、困るのは貧困層ではなく富裕層だからです。この世界的大不景気のなかでインフレになれば富裕層の資産が目減りしてしまいます。それは自民党政府は避けたいはずです。自民党政府の考えていることは富裕層の財産を如何に守るか、ただそれだけで、ごく僅かな富裕層のために大勢の国民の生命も財産も蔑ろにされて奪われています。

何もかも絶望的な気分です。僕の祖母は、今、脳溢血で入院していて、今は小康状態で生命に別状はないんですが、一時は重い容態で、本当は、病因(脳溢血)であることがはやくわかれば、もっと軽いうちに治療できたのに、お医者さん達が脳溢血だと気づかず、複数の病院をたらいまわしにされて、祖母が症状を訴えているにも関わらず、入院もさせてもらえず、神経痛やうつ病や認知症じゃないかと誤診までされて、僕や親族がずっと側にいて看病して、やっと、先日、精密検査のCTスキャンで脳溢血が分かって、入院治療しています。

日本ではお金がないと、医療でも、ろくな検査や治療がしてもらえず、僕には金持ちだけを特権化して貧困層の生命を蔑ろにする現日本社会に対する憎悪の念しかありません。

この国は金持ちだけを人間と認めて、それ以外の全ての人々を奴隷にしている悪魔の国です。この日本国の現体制の滅亡を心から望みます。

山田風太郎さんが提案したような体制に日本国を変えるべきです。日本国の高額所得者への累進課税は85%だったのが、今は50%、逆に貧困層への課税は三十六万円以上の収入がある場合、前は0%だったのが、今は10%で、『税金のフラット化』を掲げて自民党がずっと金持ち優遇をやってきました。そして相続税減免や贈与税減免が行われ、このままの逆累進課税制度が進めば、日本の大勢の人々が金持ちに滅ぼされて死ぬでしょう。山田風太郎さんは、売れっ子のベストセラー作家になって高額所得者になりましたが、累進課税がまだ75%であり、今ほど累進課税のフラット化(社会の不平等化)が進んでいない時点で、累進課税についてこう書いています。

山田風太郎
『累進課税礼讃論』

私は累進課税推進論者なのである。(中略)

そもそも日本の悲劇は、実に日本人(労働者層)の働き過ぎることにある。

いったい、どうしてこんな困った癖が民族性となったものだろう?それは貧乏のせいだという人もあるかも知れないが、日本より貧乏で、もっとのんびりと、しかももっと文化的に暮らしている国は無数にある。(中略)

(諸外国が日本を)いわゆるガリ勉型、勤勉型の学生を見るような、嫌悪と侮蔑と恐怖の眼で(労働奴隷になることしか考えていないエコノミックアニマルとして)見ていることは、日本人全てが知っていることではないか。(中略)

それじゃあ日本人同士ならいいのかというと、こういう連中(ワーカホリック)のためにお互いが困っていることも、みなイヤというほど身に染みている。みんなキチガイみたいに働くから、オチオチひとりで遊んでいられない気持にかりたてられているのである。(中略)

その原因(日本人の狂的なワーカホリックぶりの原因)は、猛烈なライヴァル意識にある。体外国という点もさることながら、それよりも日本人同士の。(中略)

(日本社会は人々が同一化する集団性を重視するから)おそらくはこの異常な競争心も、おたがいがみんな似たり寄ったり(変わり者は排除される日本社会)だから、かえってそういうことになるのだろう。消極的な方は取り残される恐怖から、積極的な方は自分の特異性(ワーカホリックへの熱狂)を発揮したい欲望から。――とにかく、原因がこれでは、どんなに働いても、もういいということにはならない。

これだけ働いて、しかも世界から嫌われる。いや、その働くことが嫌悪の的になる、というのは悲劇的である。日本ほどの歴史、人口、国力を持っていたら、たとえばイギリスにしてもアメリカにしてもフランスにしても、あるいは中国、インドにしても、その全民族が忽然と消滅したら、どこかにそれを悼む国や人々があるはずだが、日本に限って、その列島一瞬にして海中に沈み去ったとしても、それを悲しむ国など一つもありそうにない。世界じゅうがヤレヤレと胸撫で下ろすだろう、と思われるほどである。

しかも日本人同士がお互いの働きすぎに苦しがっているのだから、いよいよもって馬鹿げている。この悪癖(弱肉強食の自由資本主義に異様に適合する日本人の互いに対する競争心と同一性)ははもうほんとうにやめなければならない。(中略)

そこでこの累進課税という法を用いるのである。これをさらに推進させるのである。(山田風太郎さんがこの文章を書いている時点では累進課税は75%、今は50%、現代から見ると全く逆の事態が起きている)

つまり、(累進課税を推進させて)月給百万円の人間も、十万円の人間も、手取りはほとんど大差ないようにしてしまうのである。もはや累進課税などもったいぶった名目も廃し、はっきりと労働懲罰令と称するべきである。(中略)

(日本の一般庶民が働いても働いても生活が楽にならず苦しんでいるのは)すなわち庶民は、自分の土地を買うつもり(住む場所を確保する行為のためのお金)を大資本に回し、その結果(競争原理の資本システムに自ら参加して搾取されることで)自分の土地が買えない(暮らしがよくならない)という愚行を犯しているのである。この愚行(働けば働くほど一般庶民は資本の競争原理の中で収奪される)にまさる愚行は――無理にいえば自分の首を埋める穴を自分で掘っているにひとしいといえばいえるが――ちょっとほかに譬えも浮ばないほど、筆舌につくし難い。

これを防ぐ方法は一つしかない。

それは(郵便局、銀行、証券会社などの金融機関や投資機関に対する)貯金をやめることである。

全国民――少なくとも一般国民がいっせいに貯金をひき下ろす。そして、一年とはいわない、半年だけでも、その間のささやかな、ママゴトのような利子をあきらめてタンスにしまっておく。その結果――大変なことになる、と国家や大資本はいうだろう。

どういうことになるか、実は私にも見当がつかないが、とにかく政府や大資本は、今までのような庶民を(労働奴隷扱いして)馬鹿にしたからくりをあわててやめることになるだけは確かである。(金融機関・投資機関に)貯金をしないからといって処罰することはできない。

だれか、この運動を起こす人はいないか。
(山田風太郎「死言状」収録)

山田風太郎さんのエッセイのなかでも、僕の好きな掌編、日本の残酷な帝国主義的資本主義体制を批判し、合法的に資本主義体制を打倒することを煽っている一編です。僕は暴力が大嫌いなので、暴力革命ではない、合法的な無血革命を主張しているところがとても良いと思います。僕は上記の趣旨に全面的に賛同します。体制打倒の革命を起こすにしても、暴力革命ではダメで(人を傷つける武力で蜂起しても鎮圧される上、万が一上手くいっても、その後も戦いが続く)、誰も生命を奪われない合法的な体制打倒こそが人々を傷つけ苦しめる体制打倒のためであっても行わなければならないと思っています。余談ですが、子供達に大人気コミックの「金色のガッシュ」などはこのことをエンターテイメントとしても抜群の出来で描いている、良い出来の優れた子供向け作品だと思います。大人が読んでも楽しめる作品だと思います。閑話休題です。

日本の宿痾は、戦前からずっと相続世襲によって、政界・財界・官界・学界に存在する富裕層(親から子への資産が数億を超えているクラス以上のエスタブリッシュメント)が日本の国民大勢を支配して苦しめていることにあって、累進課税は強化すべきです。富裕層に対する相続税の減免や贈与税減免などとんでもないことで、累進課税の強化と法人税の引き上げこそが、貧困と財政危機に陥っている日本のやるべき急務であると僕は思います。そのためにも、自民党政権という政財官学(与党政治家・経団連などの財界人・国家一種官僚・御用学者、全て日本を実質的に支配する富裕層に属する者達)の癒着の温床が打倒されなければ、日本の未来は絶望を超えた地獄、大勢の人間が貧しさで死んでゆく地獄にしかならないと思います。

最後に、現在僕自身がたいへん生活に困っておりまして(出費がかさんで、しかたなく借金して、アフィリエイトで借金生活をギリギリ回しています)、ギフト券かアフィリエイトでお助け頂ければ、心から感謝致します。どうかお助けくださると、心から感謝致します。

参考作品(amazon)
死言状〔文庫版〕 (小学館文庫)
金色のガッシュ!! (1) (少年サンデーコミックス)

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