2008年06月

2008年06月18日 17:28

近日、凄く心身が辛いことがあって、外に行けなかったんですが、今日はなんとか頑張って図書館と古本屋さんに行ってきました。

僕は、図書館や古本屋さんで雑多な本をばーっと沢山買って(沢山といっても予算ないので数千円分とかです)それを雑多にどんどん読んでいくのが大好きで、今は、辛いことが頭にずっと残って苦しくて、集中力とかなくて本もなかなか読めない感じですが、それでも、図書館や本屋さんに行って本を手に取ると少し元気が出てくる感じです。普段、なるべく図書館で借りられるものは図書館で借りて、古本屋さんではあんまりお金使わないようにしているんですが、思い切って、以前図書館で借りた吉永さん家のガーゴイルシリーズ全部買っちゃいました。僕はこのシリーズ大好きで、読んでると元気が出てくるんですね。だんだん人間的になるガーくんが良い感じです。

後、フロイトの「人はなぜ戦争をするのか」よしもとばななの「子供ができました」とか、ユングの「創造する無意識」とか、もう色々借りたり買ったりして、後、アンソロジーの「いじめの時間」は買うかどうか、こういうのよむと辛くて、迷ったんですが、ここで買わなかったら、負けたような感じがして買いました。こういうことは、書くかどうか迷ったんですが、僕は、僕の拙い文章を読んでくれる皆さんに、僕の全部出来うる限りを持って、正直に、気持ちを伝えて生きたいと思っています。これは、絶対、お約束します。

他にも色々本を買いました。僕の好きな詩人のアポリネールの「虐殺された詩人」も買いました。なんか凄いタイトルですが、陰惨な怖い話とは違います。なんか凄くシュールで、思わず???みたいな感じで、しかもそれが、なんとも云えない奇妙な味があって面白いんです。特に講談社文芸文庫版の本には、後半にシュールなアポリネールのショートショートが沢山収録されててそれがまたとても面白くてお勧めです。

今、僕は全然お金なくて、こんな風に本にお金使っちゃうのは、本当は絶対ダメダメなんですが、なんか、僕はそういうのもう本に憑りつかれてて(なんか「R.O.D」みたいですが…残念ながら紙使いではないんですね…)仕方ないのかなと思ってます。ただ僕は、今までの生涯、全く借金とかしたことなくて、携帯もないですし、クレジットカードでお金借りたこともないですし、借金をして人に迷惑をかけないってことは決めてます。(僕のサイト・ブログでamazonでお買い物してくれて生活費支えて下さる方々いらっしゃって、それは本当に生活費支えになって助かっていてとても感謝しています。ありがとう)

こういうお金の話の本だと、作家の車谷長吉さんがお金の話を面白おかしく人生談風に語りまくって、僕は好きです。車谷長吉さんの本はお金以外のことも、どれも読んでて、凄くリアリスティックで厳しいこと語っていますが、読んでいると辛い気持ちが少しだけ和らぐ不思議な語り口です。最後に少し引用しますね。

車谷長吉
「倫理的な印象としては、現金な判断を選ぶということは、そこでは負荷を負うということで、生きていくことは、負荷を選ぶということ。選ぶということは、とにかくむごいというか、汚れるというか、そういうことを実感します。現金な判断をしなければ、きれいに死ぬことができるわけです。ところが、生き延びようと思ったら、やっぱり現金に物事を判断しなければいけない。そうすると、自分が汚れを引き受けることになる。
僕は三十歳の時に、無一文になりまして、冬が来てもセーター一枚ないような状態で。そこで、これからどうやって生きていくのかということの選択を迫られました。その時に、まず、どうしても否応もなく金が必要なわけです。生きるということは、結局、ゼニを掴むということなんだけれども。たとえ百円であっても。ラーメン一杯食べるだけの金でも。もちろん私にも、武士は食わねど高楊枝とか、腐っても鯛だとかいう言葉の断片が頭の中にありますけど」
車谷長吉
「(お金がなくて、意識はまだなんとかあって生きている)判断力のある人はだいたい水商売に行くんです。なぜ水商売に行くかといったら、この日本社会では保証人になってくれる人がない限り、水商売以外では、暮らしていけないからです。私も御多分にもれず、水商売、九年やったんですけれども。水商売の場合はタコ部屋というのが用意されてますから、そこでとにかく寝泊りだけは出来るんです。だからそれは判断力のある人は――まあ、私にもたぶんあったんだと思うんです――浮浪者にもならず、ラスコーリニコフ(強盗)にもならず、水商売になって、風呂敷荷物一つで九年間転々としたりするわけです。
日本の作家だと、金のことに目配りが出来てるのは、深沢七郎さんですね。近代でいえば近松だし。金がないことが人を死に追い込んでいくわけです。義理もありますが」
車谷長吉
「逆説的かもしれないけど、志賀さんみたいな人がでてきて、金のことなんか関係ないっていう感じの小説書いているわけですよ。『暗夜航路』なんかに代表されますが。ところが、志賀さんは金に困らない人です。それが尊敬されたところに、僕は根本的な問題があると思いますね。小林秀雄でも誰でもみんな、志賀さんを尊敬する。要するに金のことを考えないで、汚れないところで人間の精神の問題を考えようということでしょう。その汚れないところでというのが、甘ちゃんじゃないですかね」
車谷長吉
「大江健三郎さんは、ディーセント、上品なということをおっしゃいます。勿論、これは人間の中の英智の部分を信じたいということでしょう。しかし人の偉さには限りがあるけど、人の愚かさは底なしの沼です。僕は人間の本質は相当にたちが悪いものだと思うんです。業深いというか。文学の原質は、世俗の中の下品な、血みどろの欲望の渦巻く、煩悩や迷いが流れ出るようなものだと思うんです。なりふりかまわないというか、場合によっては人を殺してしまうというか、そういう世界が流出するのが文学だと思います。だからディーセントななんていうようなことを言っていると、それはきれいごとになっちゃうんじゃないですかね。例えば東横線に住んでいるような人なんていうのは、窓辺にヨーロッパ風に花を飾るような生活してるじゃないですか。ああいうことをやっていると、それはディーセントかもしれないけれども、人間の煩悩というのは――東京の山の手文化というのが、生身の欲望にひと皮きれいなベールをかぶせたような文化ですよね。ところが、ひと皮めくると、たちの悪い生身の色と欲、迷いがあるわけでしょう。文学の素材は、僕は俗なものと思っているんだけれど。それどどう向き合って、痛み、悲しみ……。そこで美学とか倫理とか、そういうことが出てくるんだと思うんだけど」
(車谷長吉「反時代的毒虫」)

車谷さんのいうこと、すごく感じます。だけど、それでも、それだけだとあまりに辛いから、「痛み、悲しみ……。そこで美学とか倫理とか、そういうことが出てくる」ということを、僕は、一生懸命書いていきたいと、思っています。そういう生の苦しみに少しでも助けてくれるのが、嬉しかったり、楽しかったり、そして優しかったりする、人を助けたりする想いで、そういうこととか、書いていけたら、いいなと思っています。よろしくお願いします。
虐殺された詩人 (講談社文芸文庫)
反時代的毒虫 (平凡社新書)
吉永さん家のガーゴイル (ファミ通文庫)


2008年06月17日 20:23

お勧めしていただいた(どうもありがとう)竹宮ゆゆこ「とらドラ!」第一巻読みました。ヒロイン逢坂大河の性格・行動がそのまんま「猫」だったので、思わず読んでてニコっとしてしまいました。ヒロインが気を許してくれていないときの猫そのままの女の子で、野性的な魅力のある子でした。

僕も猫飼ってるんですが、猫って意表もつかない行動するので、さっきも飛び掛ってきて、整理して置いといた本ぐちゃぐちゃにされちゃいました。でも、猫って、怒れないんですよね。猫って、犬と違って、犬のようなしつけ(=支配関係)ができず、仲良くする(=信頼関係を作って友達になる)ことしかできないパートナーなんですね。

ちょうどこの小説のヒロインもそんな猫みたいな、わがままで傍若無人な女の子ですが、猫と同じく、邪気がないです(猫は、意地悪された人のことは怒りますが、猫と優しくしている人のことは、甘噛したりしても、甘えるだけで悪いことはしません)。この子との最後のシーンとか、完全に猫だったな…。

「犬は、本当にはおまえの傍にはいられないんだぞ」
そうなのだ。
犬ではないのだ。犬ではダメなのだ。
犬は呼ばれて来るもので、虎は誰のことも呼んだりしない。
虎は誰も呼ばないから、誰にも助けを求めないから、
だから虎でいられるのだ。そういう獣なのだ。
だから今、ここにいる自分は、犬ではない。
笑ってしまいそうだけど、そして笑われてしまいそうだけど、
それでも竜児は言葉を継いだ。
今、どうしても、それを言いたかった。
(竹宮ゆゆこ「とらドラ!」)

これ、虎でもあり、猫でもあると思いました。猫も、ここで書かれてる通りですよ…。誇り高くて、偏屈で、自分勝手で、そして凄く綺麗な、助けになりたいと思わせる、小さな綺麗な宝石のような誇りの孤独を持っている…。僕はこういう女の子(そして猫)、好きです。

僕の大好きな猫詩集にT・S・エリオットのCATSというのがあります。どれもみんなとても良い詩で、できることなら全部引用したいんですが、流石にそれは残念だけど無理なので、最後の猫に呼びかけるを、少し引用します。僕、この詩大好きです。

T・S・エリオット
「猫に呼びかける」

まず第一に覚えてもらいたいのは次のこと
「猫は犬ではありません」

さて、犬は一見けんか好きだ。
よくほえるし、ときには噛みもする。
とはいえ、総じて犬というやつは、
いわばひとがいいんだよ。
むろんペニキーズとか、
おかしな変種の犬族は別だがね。
町でよくみかけるしゃれ犬だって
なあに、けっこうばかなまねをするし、
プライドも何もあったものじゃなく、
ときにははしたないこともするのだ。
じつに簡単にだまされるしね――
顎のしたをちょっとなでたり、
背中をたたいたり、前足を握ってやったりすれば、
すぐに陽気に跳ねまわる。
とってものんきないなか者なんだ。
どんな呼び方をしたって、ちゃんと返事をするしね。

そこで思い出してもらいたいのは次のこと、
「犬は犬であり――猫は猫である」

猫については、「向こうから話しかけられるまでは、
話しかけるな」が原則だ、という説がある。
ぼくとしては、賛成しかねるね――
やっぱり猫にはこちらから呼びかけなければね。
ただし、せんせいは、なれなれしくすると
怒るってことを、いつも覚えておくことだ。
僕は帽子をとって、おじぎをし、こんなぐあいに呼びかける、
やあ、猫くん!
でも、そいつが顔なじみの
隣の猫である場合には、
(よくぼくの家にも来ることではあるし)
こんなぐあいにあいさつする、やあ、きみかい、猫くん!
たしかジェイムズと呼ばれてるのを聞いたことはあるんだが――
でも、この段階では、まだまだ名前を呼ぶまでの仲にはなっていない。

猫が君を信用できる友だちとして
どうにか認めてくれるまでには、
敬意のしるしとして、たとえば、
クリームの一皿ぐらいはやらなきゃならない。
ときにはキャビアとか、ストラスブルグ・パイ、
雷鳥のびん詰め、鮭のペーストなど、
適当に見はからってやればよい――
それぞれ好みがあるはずだよ。
(ぼくの知っている猫で、兎以外のものを
食べたことがないやつがいて、
そいつときたら食べ終わると、オニオンソースの
着いている前足まで、きれいさっぱりなめつくすのだ)
猫には、このような敬意の証拠を
受ける資格が十分あるのだ――
そのうち目的達成のときが来て、
やっと「名前」で猫に呼びかけられることになる。

つまり、犬は犬、猫は猫、
そこを見極めるのが猫に呼びかけるコツなのさ。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
The Ad-dressing of Cats
○猫ノート まったく、知らぬ猫と仲良しになるのはたいへんだ。呼んだらこっちへ来たといっても安心できない。うれしくなって手を出すと、とたんにひっかかれたりする。「なれなれしくすると怒る」ってこの詩でエリオットは警告しているけれどほんとにその通り。この詩、とてもすてきで、気位の高い女の子と仲良くするにはどうすべきか、それを教えているみたいなところがあってすこぶるおかしい。
(T・S・エリオット「CATS T・S・エリオットの猫詩集」)

僕は「とらドラ!」を読んでいて、この詩を思い出していました。猫好きで小説好き、猫っぽい女の子好きの方ならきっと楽しめる小説だと思います。
とらドラ!1
とらドラ2! (電撃文庫)
とらドラ3! (電撃文庫)
とらドラ! 4 (4) (電撃文庫 た 20-6)
とらドラ! 5 (5) (電撃文庫 た 20-8)
とらドラ! 6 (6) (電撃文庫 た 20-9)
とらドラ 7 (7) (電撃文庫 た 20-10)
キャッツ―ポッサムおじさんの猫とつき合う法 (ちくま文庫)
キャッツ―ボス猫・グロウルタイガー絶体絶命
キャッツ―T.S.エリオットの猫詩集 (1983年)


2008年06月16日 21:08

DVD「ぺルソナ トリニティ・ソウル」

僕の大好きなアニメに「- PERSONA -trinity soul-」っていうアニメがあります。このアニメの素敵なところは、一般的なヒロイック・ファンタジー(超越的力を持った善玉と悪玉が一般人おいてけぼりで戦う)とは違い、主人公側も、敵側も、そしてごくごく一般的な人々として描かれる人も、みんな、一人一人生きている人間として描かれていて、みんな、みんな、傷を負っているんですね…。僕、これを見てるとよく泣いちゃって…。

僕は、凄い力を持った善玉と悪玉が戦って、その余波で一般の人が大勢死んだり傷ついたりしているのに、それを全然気にも留めないような善玉を善玉だとは思っていません。僕はそういうとき、あの爆発で転がったバスの人どうなったのかな、ビルの人はどうなったのかな、みたいなことがどうしても頭に残ってしまいながら画面を見ています。この前、18禁ゲームで「G線上の魔王」という作品をプレイしたときは、主人公達の個人的な因縁で、街の人々が虐殺されているのに、主人公達が全然気にしていなくて、その後も全くケアがなく放置されていて、凄く吃驚しました。でも、こういう作品、沢山あって、有名どころでは、TYPE-MOONのゲーム「Fate-stay night」でも、桜シナリオで虐殺された街の人々も同じように放置されていました…。

僕は、こういうゲームやると、いくら主人公とかが正義感ぶったって、自分の仲間だけが大切で、他の人間を塵芥のようににしか見ないんじゃ、それは、人間として一番ダメな見方だと思います。

僕の好きな主人公に、これも18禁ゲームですが、クロックアップ「Zwei Worter」というゲームのイズモ・キョウシロウという軍人がいます。彼は、戦争で被害を出すことを、どうしても割り切れない軍人です。自分の全力を持って人々を守ろうと一生懸命戦って、それでも被害を出してしまったとき、どうしようもなく、苦しんで、沢山沢山、傷を負って、そしてそれでも自分にできうるかぎり全てで人々を守ろうとする優しい強さを持っている。僕は、彼に共感できるとプレイしていて思いました。彼は、なんといったらいいかうまく云えないけど、いい奴です。

「- PERSONA -trinity soul-」の人々、主役達だけじゃなくて、でてくる全ての人々に、そういう、傷を持って生きている人間の脈動みたいなものを僕は感じます。それは、他の人に対する優しさとして現れて、少しずつ心の傷にかさぶたが生まれていく…。

心的外傷の研究で最も基本的なものであるジュディス・L・ハーマンの研究(心的外傷と回復)によると、心的外傷、傷つけられた心を最後に回復するものは、他者との絆、自分から人への優しさ、自分からの支援などだと云います。人(見知らぬ人も含めた、世界で一緒に命が生きている、我々みんな共世界の生命)に優しくし、人を助けることが、傷ついた心を救ってくれる。感謝と喜びによって、社会との絆を取り戻すことが、最後の大切な回復なんだそうです。

(傷の癒しの途上にある)サバイヴァー(心が傷ついた人)は、しかるべきときは他者を信頼し、そうでないときは信頼を撤回するということができる。過去に受けた残虐行為は帳消しにすることはできないが、それを超越する方法はある。それは、自己の被害体験を他者への贈り物とすべく、公衆の意識を高めることに献身することである。例えば、自分と同じに被害者になった人々を各方面において救済し、あるいは将来被害者がでないようにし、あるいは加害者を法廷に引き出そうとすることである。社会との絆の取り戻しは、「私は一人ではない」という発見をもって始まる。この体験にもとづいて生存者がグループを形成すれば、互酬的な集団有力化の場とすることができる。生存者(サバイヴァー)の回復における治療者の役割は、オープンで共感的な聞き手であり、犯罪の証人=目撃者であることである。治療者は生存者を救済しようとしたり、コントロールしようとしたりしてはならない。独りで外傷と取り組める治療者はいない。治療者は孤立することなく、自分自身にも良質のケアを供給していかねばならない。
(「精神医学の名著50」より、ジュディス・L・ハーマンの項目)

これはかなり大人しめに書いてありますが、ジュディスの文章はいつももっと情熱的で、読んでて、その強さに、僕は本当に尊敬します。心から、敬意を覚える…。

多くの(被害者をケアする)臨床家が対処するすべを身につけなくてはならなかった脅迫と嫌がらせの戦術こそ、長年に渡って、女性、児童、およびそれ以外の被圧迫者の弁護に立った草の根の人達が耐え忍んできたものと同じやり口である。傍にいあわせた者の立場にある私達は、暴力の被害者達が日々奮い起こしている勇気のかけらでも私達の中にあるのかないのか、自分の中を覗き込んでみるべきである。
攻撃のあるものは全く愚劣そのものである。多くは実に醜い。むろん、恐ろしさにふるえながらであるが、こういう攻撃は、目に見えないところで、治療関係の力をむしろ強化している。それは、私達が、被害者がその真実を語れる保護的空間を創造することが一つの解放行為であることを思い出させてくれる。また、被害者と加害者との間の闘争には道徳的中立という選択肢がないことも思い出させてくれる。傍にいあわせたものは皆そうであるが、治療者も、時にはどちらの側に立つかの選択を強いられる。被害者の側に立つ者は、加害者のむき出しの怒りに直面せざるえない。これは避けられないことであるが、私達の多くにとって、これ以上の名誉があろうか。
(ジュディス・L・ハーマン「心的外傷と回復」)

僕は「- PERSONA -trinity soul-」の人々が、一生懸命、傷を負いながらもジュディスのようにみんなを助けようと頑張っているように見えます。本当の優しさを感じます。僕はこの作品が、とても好きです。僕は弱い人間ですが、それでも、できたら主人公達のように勇気を出して優しくなりたいと、できたらいいなと、いつも思っています。

俺は惚れた女はなかせねぇ
自分を信じてくれる奴をうらぎらねぇ
(- PERSONA -trinity soul-)

DVD「ぺルソナ トリニティ・ソウル」
ペルソナ ~トリニティ・ソウル~ Vol.1 【完全生産限定版】
ペルソナ~トリニティ・ソウル~ Vol.2
ペルソナ~トリニティ・ソウル~ Vol.3
ペルソナ~トリニティ・ソウル~ Vol.4
ペルソナ ~トリニティ・ソウル~ Vol.5
ツヴァイウォルター
くろふぁん4GHz
心的外傷と回復
精神医学の名著50

アニメ総合一覧

僕の好きな作家さんに、カレル・チャペックって云う人がいるんですが、この人はファシズムの嵐がヨーロッパに吹き荒れて世界情勢が大変なときに一生懸命民主主義や自由の大切さを説き続けた、そしていい小説や随筆を沢山残した作家さんなんですね。この人の随筆読むの、僕は大好きで、近年もずっと日本語訳刊行されてて嬉しいです。

それで、この人は、いつも何を説いているかというと、全ての根幹、人が人らしく生きるために必要なのは、信頼だってことを一生懸命説いているんですね。信頼が一番大切というのはなんかちょっと「ひぐらしのなく頃に」みたいですね。この人の生きていた時代の社会情勢が人々の信頼を裏切り続けたのは、凄く、無念ですが…。

人間が人間であることの証は、信頼だということを、もうずーっとこの人は延々と真面目な随筆で書いているんですね。そのことを、猫との付き合いに絡めて書いた軽みのあるいい文章があるんで、ご紹介いたします。

「猫」
人間よ、あんたとなら猫は話をする。あなたにニャオーと鳴き、あなたの目を見て言う。「人間さん、ここのこのドアを開けてちょうだい。大食いさん、あんたが食べているものを、あたしにもちょうだい。あたしを撫でてちょうだい。何かお話してちょうだい。あたしを肘掛け椅子で寝かせてちょうだい」あなたに対するとき、猫は、一匹狼的な野獣の影ではない。あなたにとっては、単に家のニャン子ちゃんだ。というのも、あなたを信頼するからだ。野獣というのは、信頼しない動物のことだ。家畜化というのは、単純に、信頼の状態のことだ。
そして人間よ、私たち人間だって、互いに信頼し合う限りにおいてのみ、野獣ではないのだ。もしも私が――例えばの話――家から外に出て、私が出会う最初の人を信頼しないなら、私は彼の方へ近づきながら低くうなり、最初に目が合った瞬間に彼の喉に飛びかかれるように、歩きながら腿を緊張させるだろう。もしも私が、路面電車に乗り合わせた人々を信頼しないなら、私は背中に壁を向けて、威嚇のためにフーッとうならなければならないだろう。そうする代わりに、私は自分の無防備の背中を人々にさらしながら、心穏やかに握り棒に掴まって新聞を読む。私が道を歩くとき、通りがかりの人が私に何をするかを考慮に入れたりせずに、自分の仕事のことを考えたり、あるいは何も考えないでいる。彼らが私を食べようと隙を窺っていないかどうかを横目で注視しなければならないとしたら、それは恐ろしいことだろう。不信の状態は、原始的な野生の状態だ。不信はジャングルの法だ。
不信の育成によって生きる政治は、蛮地の政治だ。人間を信頼しない猫は、人間の中に人間を見ず、野獣を見ている。人間を信頼しない人間もまた、人間のなかに野獣を見ているのだ。相互の信頼の絆はあらゆる文明より古く、それがある限り、人類は人類としてとどまるだろう。けれども、信頼の状態を壊すなら、人間の世界は猛獣の世界となる。
私は今、自分のニャン子を撫でに行く。猫は私に大きな慰めを与えてくれる。それも、猫が私を信頼しているからだ。たとえそれが、プラハのどこかの中庭の蛮地から迷い込んできた、ただの小さくて灰色の動物に過ぎないとしても。猫はニャオーと鳴いて、私を見る。「人間さん」と猫は言う。「頭の後ろを掻いてよ」
(チャペック「犬と猫のお話」より)

僕は最近、こういう信頼ががたがたに崩れているように感じて、とても怖いです。チャペックが、どんどん信頼が崩れていくってことを随筆に恐れて書いて、その後、第二次世界大戦が始りました。今、いきなり戦争が始るとは思わないけど、色んな信頼が崩れて、新しい技術インターネットで信頼も増えてそれはとても良いことだと思うけど、その信頼を壊してしまうような悪意もどんどん増えて、ネットだけじゃなく、世の中全体で、信頼がどんどん消えて、チャペックが、信頼、大切なものがどんどん消えていくって書いた頃より、もっとどんどん消えてしまっている感じがして、とても恐ろしいです。みんながみんなを信じて、少しでも、信頼が大切に貴ばれ、みんなで育て守ってゆくような社会になることを、一生懸命願って祈っています。

いろいろな人たち―チャペック・エッセイ集 (平凡社ライブラリー (90))
こまった人たち―チャペック小品集 (平凡社ライブラリー)
カレル・チャペックのごあいさつ
カレル・チャペックの日曜日
山椒魚戦争 (岩波文庫)
ロボット (岩波文庫)
長い長いお医者さんの話 (岩波少年文庫 (002))
チャペックの犬と猫のお話
未来からの手紙―チャペック・エッセイ集 (平凡社ライブラリー (159))
カレル・チャペックの童話の作り方


「猫の言い分から」
これはあたしの「人間」よ。怖くはないわ。
「人間」はとても力もちだわ。だって、あんなに食べるからよ。
何でも食べているの?ちょうだいよ!
「人間」はきれいじゃないわ。毛がないからよ。唾がたっぷりないから、水で体を洗わなきゃならないのよ。「人間」はだみ声で鳴いて、やたらとおしゃべりだわ。眠っているのに鳴くことだってあるわ。
ドアを開けてちょうだい。
「人間」がなぜ主になったのか、わからないわ。きっと、何か高尚なものを食べたのでしょう。
あたしの部屋の中では、きれいにしていてくれるわ。
「人間」は、黒くてとがった爪を前足にはめて、それで白い紙を引っ掻くの。他の遊びはできないのよね。昼間の代わりに夜中に眠って、暗いところでは目が見えず、楽しみがないのよ。血のことを想うこともなく、狩りと闘いを夢想することもなく、愛のために歌うこともないわ。
あたしが神秘的で魅惑的な声を耳にして、闇の中で全てが活気を帯びてくるのが見える夜中に、「人間」はよく、机に向かって座り、頭を傾けて、黒い爪で白い紙を引っ掻き続けているわ」。あたしがあんたの心配をしているなんて、思わないでよ。あたしはただ、あんたの爪のさらさらいう静かな音を聞いているだけ。時々その音がやんで、哀れで愚かな頭は、どうやって遊べばよいのか、もう分からなくなるのよね。
すると、あたしは彼が可哀想になり、彼のそばに行ってあげて、甘くて悩ましいふさぎの中で、小声でニャオーって鳴いてあげる。すると、あたしの「人間」はあたしを抱き上げて、あたしの毛の中に、自分の暖かい顔をうずめるのよ。その瞬間、彼の中に、一瞬、より高い生活の光がぱっと輝き、彼は至福のため息をついて、ほとんど理解できる鳴き声を出すのよ。
けれども、あたしがあんたの心配をしているなんて、思わないでよ。あんたはあたしを暖めたから、今はまた、夜の声を聞きに行くわ。
(チャペック「犬と猫のお話」より)

チャペックの犬と猫のお話


2008年06月15日 21:59

僕が何度も読む本は江藤淳さんの随筆、論文集とかではなく、日々日常の私的な、プライベートなことを綴った随筆を何度も読みます。何か大事件が起きたりしなくても、読むたびに、胸がはっとなります。江藤さんは、一生懸命、真面目に生きようとするんだけど、それが些細なことからしてなかなかうまくいかない、そして、考えもしなかったような、どうしようもない、悲しいことも起きたりする。江藤さんはそれにどうすればいいかわからない。なんで世界が、頑張っても頑張っても報われない、こんな世界なのか、江藤さんは苦しみをすごく我慢して、奥さんと友達と犬とを大切にしながら、ずっとそれに耐えていく…。そして、江藤さんは、周りの人たちも一杯苦しみがあって、みんな、みんな、それに耐えていることに気づく。そして、いっしょに、耐え続ける…。いつも、読んでて、目頭が熱くなります。江藤さんは、ただひたすら、なんでなんだろう、なんでなんだろう、って考えながら、必死に生きていく。僕は、江藤淳さんと直接の面識ないけれど、尊敬する作家さんです。

どう努めたところで、自分がこういう過去を背負った人間だという事実から逃れることはできない。そのことだけはこの十年のあいだに少し眼に見えて来たような気がする。私はただ書き、自分が書いていることをいくらかは恥じ、書くことがなくなれば書くことをやめるであろう。しかし自分と世界とのあいだのあの違和感が存在しつづけるかぎり、そして自分にどんな逃げ場所もないことが明白なかぎり、私はやはり書きつづけるであろう。
江藤淳コレクション2「エセー」より

江藤淳コレクション〈1〉史論 (ちくま学芸文庫)
江藤淳コレクション〈2〉エセー (ちくま学芸文庫)
江藤淳コレクション〈3〉文学論(1) (ちくま学芸文庫)
江藤淳コレクション〈4〉文学論(2) (ちくま学芸文庫)
江藤淳コレクション 全4巻セット


以下、モンテーニュのエセーの文章です。

わたしは、学識というものを、それを
持っている人々に劣らず愛好し、尊重する。
それは本当の用い方をされるならば、
人間のもっとも高貴で強力な獲得物だ。
しかし、自分達のもっとも基本的な能力、
価値をそれによってこしらえあげている人々、
自分達の理解力を記憶力に結び付けて、
他人の本の影の下に隠れて、本によって
でなければ何もできないような人々にあっては、
わたしは、学識を、愚鈍よりも少しばかりよけいに
憎むのだ。私の国では、そして今生きている
時代では、学問は財布の中身を結構良くはするが、
魂を良くすることはめったにない。
モンテーニュ「エセー」より

今回、応援してくださった方々に励まされて、
真摯に向き合ってくれる大切な方々に、ご恩返しが
できればと深く思いました。沢山の方々に助けられ、
これまでよりも、全て真摯に向き合わねばと
思いました。これまでは、まさにモンテーニュが
云う様に普段、本とかの影に隠れすぎていたところ
が自分にある、そうではなく、真摯に、文章を読んで
くださる皆様方に、しっかり向き合って、文章を
書きたいと思いました。このことを、心がまえとし、
これから文章を書いていきたいと思います。
よろしくお願いします。

エセー〈1〉
エセー 2 (2)
エセー 3 (3)


僕はアン・ライスやタニス・リー、ナンシー・A・コリンズとかの西洋の耽美に美しいヴァンパイア小説群が大好きなんですが、今、日本のアニメで、こういった審美的で観衆を魅了する力のある作品、それはこのアニメ「ヴァンパイア騎士」だと思っています。

ヴァンパイア物の魅力は、ただ単に力を振るうことにあるのではなくて、邪悪な優雅と洗練にあるのだと僕は思っています。吸血行為は弱肉強食ではなくて、「悪の刻印を刻む」という、西洋神学的な、「悪」としてのメタファーがあるんですね。そして、それを振るう者=吸血鬼は、自覚的な悪の行為者としての、アウトサイダー的な位置づけをされているし、また被害者も、傷(吸血)を受けることで、そこに組み込まれてしまう。加害者も被害者もどちらも孤独で、ぞっとするような孤独の系譜する洗練された文化を持っている。

この雰囲気が日本の作品で一番良く出ているのが、「ヴァンパイア騎士」だと僕は思います。まだ見たことないひとは、ぜひ見て欲しい作品です。

ヴァンパイア騎士1 【完全生産限定版】
ヴァンパイア騎士 2
ヴァンパイア騎士 1 (1) (花とゆめCOMICS)
ヴァンパイア騎士 2 (2) (花とゆめCOMICS)
ヴァンパイア騎士 3 (3) (花とゆめCOMICS)
ヴァンパイア騎士 4 (4) (花とゆめCOMICS)
ヴァンパイア騎士 5 (5) (花とゆめCOMICS)
ヴァンパイア騎士 6 (6) (花とゆめCOMICS)
ヴァンパイア騎士 7 (7) (花とゆめCOMICS)


2008年06月14日 13:10

自然に広がる青が好きです。空に広がる明るくて薄い無限の青、海に広がる深々と水を湛えている無限の青、どちらも大好きです。どちらも無限に広がって、豊饒で、空虚であるところが、とても好きです。とても美しいと感じます。海をうたった僕の好きなゲーテの詩を「ゲーテ詩集」より紹介します。

ゲーテ
「海の静けさ」
深き静けさ、水にあり、
なぎて動かず、わたつうみ。
あまりになげる海づらを
ながむる舟人の憂い顔。
風の来たらん方もなく、
死にもや絶えし静けさよ!
果てしも知らぬ海原に
立つ波もなし見る限り。

平家物語の海に身投げするときの「海の底にも都はあります」やシュペルヴィエルの「海に住む少女」とかの美しさ、それは反語であって、海の無限の青(空の無限の青も)には、人間的なものは何もないんですね。豊饒な空虚が広がっている。そういう青が、僕はとても好きです。

ゲーテ詩集 (新潮文庫)
海に住む少女 (光文社古典新訳文庫)


僕はチーズスイートホームの子猫のチーと、スヌーピーが好きですね。両方ともよく読むマンガです。チーは良い意味で動物的でひたすら可愛いくて、周りの動物や人々もみんな底抜けにいい人なのに比べ、スヌーピーは人間的でいっつも哲学的なことを考えている割に、どこか抜けていて、周りの人達もどこかシニカルなところがあるのが、読み比べると面白いなって思ってます。日本のキャラクターはキティちゃんにしてもけろけろけろっぴにしてもとらじろうにしてもみんなまっすぐ可愛くて裏がないですからね。

ひたすら可愛いを求める日本の萌え文化と、西洋の理性とその裏返しのユーモア(ブラックユーモア)の文化の違いみたいのがあるのかなって思います。イギリスのモンティパイソンとかアメリカのティム・バートンとか好きなんですが、西洋の話って、キリスト教の神聖さの裏表としてこういう皮肉さがあるように思えて、キャラクターにもそれが反映している感じです。

僕はどっちも可愛くて好きです。こういう違いを感じるのも面白いですよ〜。

チーズスイートホーム (1) (モーニングKCDX (1943))
SNOOPY〈1〉行くよ!今行くよ! (Sunday Special Peanuts Series)


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