2008年06月

2008年06月29日 13:39

「チーズスイートホームのDVDが出ました。とても嬉しいです。」のエントリの続きです。僕は、猫昔から大好きで、猫にいつも元気を貰っている感じだったんですね。猫撫でたり、一緒にいるだけで幸せで、生きていく元気を貰えるんです。

これ、うつ病になる前に書いたチーズスイートホームと猫の文章です。

ヤフーでチーズスイートホーム特集 −チーたん!!−

うつ病になってからも、猫にはどれだけ助けられたかわかりません。撫でると、ほっとしますし、最近少し楽になってからは、辛いときは猫の姿のこと考えるようにしてました。そうすると辛い気持ちが少しだけ和らぐんですね。神秘的な猫からの助けを本当に感じました。

正確に統計はしていないので分りませんが、うつ病(と推定されている)として有名な人には、アメリカのリンカーン大統領や、作家のヘミングウェイ、同じく作家の梶井基次郎さんとかいますが(夏目漱石についてもうつの可能性があります)、そういう人がみな猫好きなのは、猫からきっと元気を貰えることを直感的に感じるところもあるんじゃないかなって僕は思っています。オカルトじみたものは絶対ダメという意見もありますけど、人間の神秘的な感覚や直感って、結構あてになるものだと僕は思っているんですね。自分を助けてくれる神秘的な動物に愛情を感じるみたいなのがあるのかも知れないな、と。その辺で、心理学では、フロイトではなく、ユング読むの大好きだったりします。

うつ病のメカニズムはまだよく分っていない部分が多いみたいですが、幾つか本を読んで僕の理解したところでは(間違っていたらごめんなさい)元々脳内にストレスに対処する脳内物質のセロトニンやノルアドレナリンが少なめの人でストレス耐性に対する負荷が低い人がストレスを受ける、または、セロトニンやノルアドレナリンが普通の人でも過度のストレスを受ける、または何らかの原因不明の病因トリガーがひかれると脳内の化学物質のバランスが崩れて発症するらしいのですが、猫っていうのは、そういうストレスに弱かったり、心が感じやすかったりする人を助けてくれる動物だと僕は思っているんですね。逆に、そういう人が猫に愛情を抱いて好きになって猫の世話をする、人間と猫の共生、互いに補える二人三脚みたいな、神秘的なコンビネーションを感じます。

うつ病とはまた違いますが、色々と人生を苦労した人々とその愛猫との関係について愛情こめて書いた好著に「吾輩のご主人」という本があります。素敵ないい本です。この本に出て来る画家の熊谷守一さんの言葉とか、僕はとても好きですね…。

「私は生きることが好きだから他の生き物も皆好きです。猫は飼いましたが、犬はあまりに人間に忠実なので、見るのがつらくて飼ったことはありません。生き物は人間と違って、ウソをいわないからかわいいと思う。人間のほうは、もの心がつくとウソをつくからいやになってしまうんです。」
(熊谷守一。原口緑郎「吾輩のご主人」より)

猫が人間を癒してくれるというのは、科学的根拠もいくつか挙げられています。

「D・モリス博士によれば、ネコを飼っていれば飼わないより長生きできるという。ネコとの単純でいつわりのない関係によって、なぜか解放された気分になり、これが実に健康に好影響をもたらすそうだ。とくに人間関係からくるストレスにはネコとの絆が大きな報酬となる。
(中略)それで実際に「ネコ療法」なるものまで誕生している。これは精神病患者がネコをペットにすることを許されると、いちじるしく症状が改善されるという多数の例を持って証明され、ストレスがもとで心臓病になった人々にとっては、ネコを飼うことで血圧が下がり、心臓の負担が軽減して、文字通り、生死を分かつのだという。
さらにモリス博士は「ネコ療法」を有効とするための驚くべき実験の例を述べている。実験室でネコの飼い主に電極をとりつけて、その生理的反応を調べたところ、ネコを撫で始めると体の各器官系がめだって鎮静し、緊張がとけて体がリラックスしていくというのだ。」
(沼田朗「ネコ 無用の雑学知識」)

これ凄く分るなというのは、うつで辛いことの考えが止まらないとき、動悸が自分でもわかるほど凄く激しくなって、物理的に胸が痛いんですね。だけど、猫なでてると、心がなんていうのかな、ふんわりするんです。安心できるんですね。安心って言葉よりも、深い繋がりを感じます。それで、猫が優しくにゃ〜んって鳴いて、心が本当に暖められます。

医学博士・町沢静夫氏の「ペットが元気を連れてくる」によると、動物は人間にとって、環境を測るバロメーターであり、そのくつろぐ姿はあたりが安全であることを示しているという。したがって、人間の心も体も本能的にリラックスできるのだ。
(博学こだわり倶楽部「ネコに遊んでもらう本」)

これも実感したことあります。以前、温泉地に行ったとき、そこの野良猫が、物凄く人に慣れてて、にゃ〜んってこっち来るんですよ。夜でしたし、首輪もないし、たぶん野良猫だと思ったんですけど、人懐っこくて、ああ、ここの温泉地の人たちはみんないい人達だなって感じました。先日見たアニメ、これも僕の好きな作品なんですが「我が家のお稲荷様」って作品で、温泉旅行の回で、道歩いているだけでどんどんおまんじゅうとか貰えちゃうんですよ。これ実際にそうでして、温泉地ってみんな人懐っこさがあって、猫もきっと可愛がられているんだろうなって思いました。こういう優しさに触れると、ほっとします。

あと、これ、僕は猫の本一杯読んでいるので、どこの本に載っていたかちょっと分からなくて申し訳ないんですが(うつ病の本だったかも知れません)、うつ病でペットが飼えるときは猫が良くて、なぜかというと、犬は人間に忠実なので、人間が元気がないと犬まで辛くなってしまうんですね。両方落ち込んじゃう。だけど、猫は飼い主の状況にあまり影響を受けず泰然自若としているので、辛い心が慰められるんだそうですね。

猫のそういうところもまた僕は大好きで、一緒にいるだけで、ふんわりします。

僕にとって、猫は、物理的なものを越えた、大切な心の繋がり、神秘的な暖かいパートナーって感じがします。猫大好きです。

参考作品(amazon)
原口緑郎「吾輩のご主人」

沼田朗「ネコ 無用の雑学知識」

博学こだわり倶楽部「ネコに遊んでもらう本」

DVD「チーズスイートホーム」

こなみかなた「チーズスイートホーム」

ぬいぐるみ・ホビー「チーズスイートホーム」

おうちがいちばん

アニメ総合一覧



DVD「チーズスイートホーム」

チーズスイートホームのDVDが出ました。嬉しいです。今はお金なくて買えませんが、いずれ必ず買うつもりです。僕はこの作品が、本当に好きで好きで大好きで、うつ病になってありとあらゆるものが辛い一番酷いときも、今もこの本を枕元において、お守りみたいにしていたんですね。

僕の飼っている猫も毛並みとその色がチーそのままで、僕の飼っている猫は性格はお澄ましさんでちょっと高慢(でも凄い可愛い)なので、チーとは性格は違いますが、それでも、大人の猫ですが、子猫みたいなときもあって、チーと重なって、凄く嬉しいんです。あと、さびしがり屋で、そこはチーに似てます。可愛いです。

チーズスイートホームとてもいい作品です。お勧めいたします。この作品読んだり、アニメ見たりしてると心が暖められます。

あ チー! チーだ
みゃーん
チーおうちに帰ろう
みゃーーん
わーい
おうちに
かえう
(こなみかなた「チーズスイートホーム」)

DVD「チーズスイートホーム」

こなみかなた「チーズスイートホーム」

ぬいぐるみ・ホビー「チーズスイートホーム」





どうしてもうまく文章書けないので、まず詩を書きました。暗い詩でごめんなさい。

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「夜」

ひたひたしんしんと迫ってくる黒い影

肺腑を通り抜け いつまでも氷の爪痕を残す

中天から果ての最後まで全てが黒い影

万物空間時間世界全てが黒い影

伸び縮みしながらいつまでも追ってくる黒い影



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今僕は、かなり強い抗不安薬とか飲んでますので文章が散漫になるかと思いますがごめんなさい。頑張って、文章書いてみます。

今、僕がかなり心が助かっているのは、抗うつ薬をずっと飲んできて、最近それが、少しずつ効いているみたいで、まだかなり辛いですが、助かっています。うつ病になると辛いことの恐怖と不安で頭の中が真っ黒に塗りつぶされてしまうのですが、抗うつ剤というお薬はそれに光が差し込んでくる感じで、少しずつ、明瞭に合理的に物事を考える力が戻ってきます。僕は、最初は辛くて他の感情・思考が消えてしまい、かなり酷い状況だったんですが、ずっと飲んでるとある日、合理的な思考みたいのが、少しずつ戻ってくる感じです。本当に薬は大切だと実感致しました。もし、お薬がなければどうなっていたかわかりません…。今も辛いですが、一番酷いときに比べると、かなり助かっています。

命を救うお薬は、身体を救うだけじゃなく、心も救うのだと実感しました。身命心霊を救われる、お医者様と医療に携わる方に感謝の気持ちで一杯です。僕は医学の専門家ではありませんが、僕にお薬が効いたということは云えます。

精神科医で精神薬学者のドナルド・クライン博士がデータを分析し、次のような結論を下した。重症のうつ病患者に対して、薬物療法は、二つの精神療法や偽薬より早く効果が現れ、全体として効果が高い。(中略)
中程度より重いうつ病で、自殺を考え、無力感を抱き、日常生活が困難な状況にある人は、第一の治療として統合療法を選ぶべきでない。処方薬による薬物療法を、真剣に検討すべきである。それでいったん回復したら、その時点で統合療法のアプローチを考えても危険はないし、問題ないだろう。
(ブライアン・P・クイン「うつ」と「躁」の教科書)

お薬と医学の進歩とお医者様・医療に携わる方は本当に貴いと思いました。僕は小説が好きなんですが、うつ病で自殺してしまわれたと考えられている作家の方、幾人かいて、お薬を使ってもっと、はやく助けられれば…と思います。お薬の開発自体が時代的に新しいものなので、古い作家には間に合わないのですが、それでも、お薬があれば、死なずに済んだのではないかと思う作家さん、います。

猟銃自殺したアーネスト・ヘミングウェイは双極性障害(躁うつ病)だったと云われていますし、芥川龍之介さんも、僕の好きな作家ですが、晩年の作品、遺稿の「或阿呆の一生」の最後の文章とか、他人事と思えなくて…(引用します)

青空文庫「或阿呆の一生」 五十一 敗北
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/19_14618.html
彼はペンを執る手も震へ出した。のみならず涎さへ流れ出した。彼の頭は〇・八のヴエロナアルを用ひて覚めた後の外は一度もはつきりしたことはなかつた。しかもはつきりしてゐるのはやつと半時間か一時間だつた。彼は唯薄暗い中にその日暮らしの生活をしてゐた。言はば刃のこぼれてしまつた、細い剣を杖にしながら。
(昭和二年六月、遺稿)

これ、今、読んでて、涙がでてしまって。芥川龍之介さんがうつ病かどうかはわかりませんが、うつ病でもこうなっちゃうんですね。頭がずっとボーっとして、時間の感覚が失われて、ただ辛さ・苦しみだけが唯薄暗い中支配するんですね。全てが苦痛に満ちた強迫観念に支配され、ペン(合理的思考)は刃がこぼれてしまう。僕の好きな作家の梶井基次郎さんも、読んでると、うつ病のように思えますね…。

私は時々堪らなくいやな状態に陥ってしまうことがある。おうおうとして楽しまない。心が明るくならない。そう云ったものに実感が起こらなくなる。ものに身が入らなくなる。考えの纏まりがつかなくなる。ひとと話をしていても、自分の云っていることはみな甲所の外れた歯がゆい空言にしかならない。懐の都合は勿論はっきりした買いたさもなしに、とんでもないものを買ってしまったりするのもその時だ。何かなしひとから悪く思われているような気がするのもそんな時だ。普段喜びを感じながらしていたことがみな浅はかなことにしか思えなくなるのもそんなときだ。私はひどくみじめになってしまう。自分がでに何が苦しいのかと訊きたくなる。たちの悪い夢を背負っているようだ。夢のようなとうとつな凶が不意に来そうで脅かされる。身体は自由でありながら、腐れ水のような気だけはどうにもならない。それだけ残酷な牢獄のように思える。
(梶井基次郎「汽車」)

読んでて、悲しくて、辛くて、特に「普段喜びを感じながらしていたことがみな浅はかなことにしか思えなくなるのもそんなときだ。私はひどくみじめになってしまう。(中略)身体は自由でありながら、腐れ水のような気だけはどうにもならない。それだけ残酷な牢獄のように思える。」とか僕も、こういう感じで、お薬のおかげで少し楽になっていますから、梶井基次郎さんにはそういうものはなかった(お酒を飲んでよけい悪化してしまいました)というのは悲しいです。

僕がとても好きな作家に猫好き&うつ病が多いのは、不思議な感じがします…。ただ芥川龍之介さんの「歯車」みたいに妄想的な共時性とまでは感じませんし、そういう妄想的な共時性みたいな不安もあったんですが、そういうのは抗うつ剤飲んで意識が明瞭になって合理的に考えられるようになると少しずつ小さくなっていくんですね。合理的に考えるということは、考えすぎることの逆で、思考を適切な範囲で考えないでいられるってことなんですね。考えすぎると苦しむ。T・S・エリオットの詩のようです。

わたしは祈る――あまりにわたしが
自分と論じ合い、説明しすぎる問題を
忘れることができますようにと。
(T・S・エリオット「聖灰水曜日」)

もし、芥川龍之介さんの時代に抗うつ薬があれば、どれほど救われて、それからどれほどいい作品を沢山書いたかと思うと(僕は芥川龍之介作品大好きです)、時代というものの、かなしい、運命を思います…。江藤淳さんもそうですね…。頭がボーっとする精神薬もありますが、抗うつ剤は頭が明瞭になるのできっと芥川龍之介さんも助かって…。それでも、今、大勢の患者さんが、進歩してゆく医学と医療をお仕事となされる方々のおかげで救われていることは、本当に良かった…。

辛くて気力とかなくて、ほとんど何も出来ないのですが、それでも、文章だけ書こうという気になれるのは不思議ですね。朝は比較的調子がいいのですが、だんだんお薬が弱まってくるのか、だんだん前のようにかなり辛くなってきますが、前よりかは楽です。

もっと明るい話が書ければよいのですが…、今度は、猫のお話でも書こうかと思います。

お勧めの本という題材からずれてしまってごめんなさい。芥川龍之介さんの晩年の作品、特に「歯車」などは、非常に衝動的で神経的なリアリズムの感覚があって、大変な傑作だと思います。青空文庫で読めます。また、梶井基次郎さんの作品は、青空文庫収録のきちんと完成されている作品より、全集(ちくま文庫から全一冊で出てます)に載っている断片的な未完成の作品の方が、極めて生の感覚を伝えてくる様相で、お勧めです。

後、どうしてもお金に困っておりまして、ご機会があってよろしければ、amazonでお買い物してくださると助かります…。

「うつ」と「躁」の教科書
梶井基次郎全集 全1巻 (ちくま文庫)

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2008年06月28日 23:21

「NHK総合いのちの約束 〜北大病院・澤村先生と子どもたち〜」を視聴しました。とても胸打たれました…。
僕自身がうつ病になってから、新聞読んだりとか(前は丹念に何誌も読んでました)TV見たりすることがほとんどできなくなっていたのですが、この番組はそんなことなく、すっと優しく胸に入ってくる素敵な番組でした。

「NHK総合いのちの約束 〜北大病院・澤村先生と子どもたち〜」
子どもの死亡原因で1位の小児がん。中でも治療が難しいのが小児脳腫瘍だ。年に200人を超える子どもが全国から集まる北海道大学病院には、「ぼくのさわむら先生」と慕われる脳外科医がいる。これまで800人を手術した経験を持つ澤村豊医師(54)だ。小児脳腫瘍と向き合う中で、澤村先生は常に治療の難しさに突き当たる。「腫瘍を摘出すれば、障害が残るかもしれない。しかし、摘出しなければ命が危ない。」厳しい選択肢を前に悩み続ける日々だ。澤村先生は、どんなに幼い子どもでも直接インフォームドコンセントをして、病状や手術方法などを丁寧に説明する。子どもが生きる力を取り戻すために病気を受け入れ、闘う覚悟を持つことが必要だからだ。「生きることを決してあきらめない」という‘命の約束’が交わされる診察室。子どもの人生を背負って病と闘う一人の医師、そして懸命に生きようとする子どもたちの姿から、当たり前に生きられることの尊さが浮かび上がる。

澤村豊先生が、本当に自分の全てを削って子ども達の為に捧げていて、聖人というのは、大仰なところにではなく、世界にちゃんといるんだということを感じました。お医者様(医療に従事される方々)は、人の病を癒し命を救う本当に貴いことをなされていると実感しました。

今の僕がなんとかこうやって気持ちを落ち着けて文章をかけているのも、僕の状態が酷く悪くて食べれず動けないときに、緊急で受け入れてくれて的確な治療をなさって下さっている先生のおかげですし、過去にも病気や怪我のときに助けてもらい、医学とそれによって人を救うことは本当に貴いことだと心から実感しました。いい番組でした。NHK総合7月11日(金)午前3:40〜に再放送しますので、よろしければ、ご視聴お勧めいたします。


先日は動揺した文章を書いてしまいすみません。僕はネットとアルバイトで暮らしていたんですが、先日、ネットの辛いことからブログを閉鎖してしまい、そこからの収入がなくなってしまったのと、心痛が動けなくなって、うつ病になってしまい、頭から辛いことが離れず働くこともできなくなり、不眠とものが食べれなくなり、体重がどんどん減って(10kg近く減りました)、家族に助けてもらって、凄くいい的確なお医者さんに助けられて、今も色んなお薬を飲んでいます。ただ、僕の大事な家族もその後、病気になってしまい、緊急に入院して、今は良くなりましたが、医療費・今後の入院費とかかかって、僕が働けない上に僕の医療費もかかかって、僕がブログ閉鎖して働けなくなって収入を失ってしまったせいで、とりかえしのつかないこと(閉鎖してしまいamazonからの収入も三分の一以下になりました)してしまって貯金崩して生きていますがお金が本当にないんです。(仕事探していますが、うつ病なので、休養するように云われていて)本は図書館が使えてネットでなら、うつ病でも文章を書けますから、やさしくて、みんなの心が豊かになるような文章、頑張って書いていきますから、(まだ、恐怖心とか不安とか強くてうまく文章書けなくて、どうしても書けなかったらごめんなさい)どうか、amazonでお買い物して下さったりして下されば、心から感謝致します。どうか、助けて欲しくて、こちらのサイトやブログにリンクとか張って頂けると、本当に助かります。サイトもブログもどこもリンクフリーです。ご迷惑をお掛けし、本当にごめんなさい。

最後に渡辺昌拓先生の「うつ病は治る」から引用いたします。励まされました。

本書のなかにたびたび引用したピューリッツァ賞受賞作家スタイロンは、自己のうつ病体験記の『見える暗闇』の最終章を次のように結んでいます。

「このはかりしれない試練をもっとも忠実に表現する広大な隠喩」はダンテの『神曲』の書き出しの詩句」であろう。

人生の旅路のなかば、
我は入りぬ、暗き森に。
正しき道を失えばなり。

「鬱病を体験した大部分のものにとって、鬱病の恐怖は圧倒されるほど大きく、言葉ではとても言い表せない」「しかし鬱病は魂を絶滅しないし、その真実を強調するのに嘘めいた、また神がかったひびきをもたせる必要はない」「この病気から回復した男女、しかも数え切れないほどの男女が、おそらく鬱病のただひとつの救いである恵みの証人である。鬱病は征服できるのだ」。「鬱病の暗い森に住んだことがあり、説明のできない苦悩を知っている人たちにとって、奈落の底からの帰還は、詩人ダンテが地獄の暗い底から上へ上へと向かってとぼとぼと歩き続け、ついに、輝ける世界と見えたところへ現れ出でたことに似ていなくもない。そこでは健康を回復した者だれしもが、のどかさと喜びを感じる力をほとんどいつも取り戻す。それが「絶望を超えた絶望」に耐え抜いたことへの、それなりの補償なのかもしれない。「かくしてわれら出で来て、ふたたび星を見ぬ」と。
(渡辺昌拓「うつ病は治る」)


鬱病の人、ほか全ての病に苦しむ人が一日も早く治ることを祈ります。

うつ病は治る―患者さん・ご家族のために


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2008年06月26日 11:51

追記:訳書きました。
色んなことが本当に大変で、凄く困っていて、よろしければ、amazonで買って頂けると助かります。更新できなくなるかも知れませんが、その時はごめんなさい。

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2008年06月24日 14:14

梶井基次郎全集 全1巻 (ちくま文庫)


梶井基次郎全集を読んでいました。心が辛くてまだあまり読めないのですが、梶井さんのとても静かで綺麗で穏やかな哀しさのある話とかは、少しだけ気持ちを落ち着けてくれます。夭折された梶井基次郎さんは残した作品が少ないので、全集一冊で全てが読めるのですが、読んでいて、僕は「瀬山の話」が好きだと感じました。有名な「檸檬」の原型なども入っている物語ですが、「瀬山の話」の方が、いかにも文学作品然としてきちんとした作品に仕上げてある「檸檬」よりも、僕は好きです。夜眠れないときの話とか、眠れない人にとっては面白くて参考になるんじゃないかなと思います。少し引用いたします。

心労は生理的なものになって日がな一日憂鬱を逞しゅうしていたのだが、それが夜になってきて独りになってしまうと虫歯のようにズキンズキン痛み出すのだ。私はしかしその頃私を責め立てる義務とか責任などが、その厳めしい顔を間近に寄せて来るのを追い散らすある術を知るようになった。

何でもない。頭を振ったり、声を立てるかすれば事は済むのだ。――しかし眼近にはやって来ないまでも私はそれら債鬼が十重二十重に私を取り巻いている気配を感じる、それだけは畢竟逃れることは出来なかった。それが結局は私を生理的に蝕んで来た奴等なのだ。

それが夜になって独りになる。つくづく自分自身を客観しなければならなくなる。私は横になれば直ぐ寝ついてしまう快い肉体的な疲労をどんなに欲したか。五官に訴えて来る刺戟がみな寝静まってしまう夜という大きな魔物がつくづく呪われて来る。感覺器が刺戟から解放されると、いやでも応でも私の精神は自由に奔放になって来るのだ。その精神をほかへやらずに、私は何か素晴らしい想像をさそうと努めたり、難しい形而上学の組織の中へ潜り込まそうと努めたりする。そして「ああ気持よく流れて出したな」と思う隙もなく私の心は直ぐ気味のわるい債鬼にとっ捕まっているのである。私は素早く其奴を振りもぎってまた「幸福とは何ぞや!」と自分自身の心に乳房を啣ませる。

しかし結局は何もかも駄目なのだ、――そのような循環小数を、永い夜の限りもなく私は喘ぎ喘ぎ読み上げてゆくに過ぎない。(中略)

そんなことから私は一つの遊戯を発見した。それもその頃の花火やびいどろの悲しい玩具ないしは様々な悲しい遊戯と同様に私の悲しい遊戯として一括されるものなのだが、これはこの頃においても私の眠むれない夜の催眠遊戯であるのだ。

闃として声がないと云っても夜には夜の響きがある。とおい響きは集ってぼやけて、一種の響を作っている。そしてその間に近い葉擦れの音や、時計の秒を刻む音、汽車の遠い響きや汽笛も聞える。私の遊戯というのはそれらから一つの大聖歌隊を作ったり、大管弦楽団を作ることだった。

それはちょうどポンプの迎え水という様な工合に夜の響のかすかな節奏に、私のほうの旋律を差し向けるのだ。そうしている中に彼方の節奏はだんだん私の方の節奏と同じに結晶化されて来て、旋律が徐々に乗りかかってゆく。 その頃合を見はからってはっと肩をぬくと同時にそれは洋々と流れ出すのだ。それから自分もその一員となり指揮者となりだんだん勢力を集め この地上には存在しない様な大合唱隊を作るのだ。

このような訳で私が出来るのは私がその旋律を諳んじているものでなければ駄目なので、その点で印象の強かった故か一高三高大野球戦の巻は怒号、叫喚、大太鼓まで入る程の完成だった。それに比べて、合唱や管げん楽は大部分蓄音器の貧弱な経験しか持たないのでどうもうまくはゆかなかった。しかし私はベートオーフェンの「神の栄光……」やタンノイザーの巡礼の合唱を不完全ながらきくことが出来たし、ベートオーフェンの第五交響楽は終曲が一番手がかりのいいことを知るようになった。しかしヴァイオリンやピアノは最後のものとして殘されていた。 (中略)

寮歌の合唱を遠くの方に聞いている心持の時、自分の家の間近の二階の窓に少女が現われてそれに和している、――そんな出鱈目があった。あまり突飛なので私はこの出鱈目だけを明瞭り覚えている。

しかし出鱈目はかえって面白い。まるで思いがけない出鱈目が不意に四辻から現われ私の行進曲に参加する、また天から降ったようにきまぐれがやって来る、――それらのやって来方が実に狂想的で自在無碍なので私は眩惑されてしまう。行進曲は叩き潰されてしまい、絢練とした騒擾がそれに代わるのだ。――私はその眩惑をよろこんだ。一つは眩惑そのものを、一つは真近な睡眠の予告として。
(梶井基次郎「瀬山の話」)


僕も非常に辛いとき、睡眠薬に頼っても眠れないんですが、そのときに、時計のチクタクという音を、音楽に見立ててゆくというのは、とてもいい感じだなと思いました。眠れないときに、この文章を思い出すと、ほんの少しだけ、ほっとします。

梶井基次郎全集 全1巻 (ちくま文庫)


2008年06月23日 19:36

今日、とても辛いことがあって、僕は以前とても辛いことがあって、それ以降、心身の調子を崩しているのですが、このブログは新しく始めて、それで、辛いことは頭を離れないけど、このブログ楽しかったんですね。でも、今日、凄く辛いことあって、このブログ書くのも、僕は文章書くの大好きで猫が凄く大好きだから、楽しかったんだけど、それでもブログ書くのが辛くなることがあって…。

でも、ブログ止めないで、続けて行きたいなと思います。今までや今日の辛いことが頭をよぎったりすると思うけど、それでも、頑張って書きたいなと思います。楽しいこと、書くのが好きなんですね。だから楽しいことを書きたいと思うし、書くぐらいしか、できることがないので、書いていきたいなと思います。皆さんに少しでも楽しんでもらえたら嬉しいです。

僕の好きな作家のディケンズの作品「大いなる遺産」の好きな台詞紹介します。人間のできることやなすべきことを感じて、好きな台詞です。辛くても書きたいということを、感じさせてくれました。

ジョー・ガージャリ
「なあ、ピップ、世のなかというものは、いろんなものが結びついてできてるといっていいと思うよ。鍛冶屋になるものもあれば、銀細工屋になるものもあるし、金細工師になるものもいる。また銅細工師になるものもあるだろう。こういうふうに、みんなのあいだに分業が生まれなくちゃならんし、また生まれたようにうけとらなくちゃならん。きょう、なにか落度があったとしたら、そりゃわしの落度だ。おまえとわしは、ロンドンでいっしょになるべきもんじゃないんだ。ロンドンばかりじゃない。うちうちで、よくわかりあって、友達同士理解できるところのほかは、どこだっていけないんだ。わしはなにもいばっていっているわけじゃない。ただ正しくなりたいと思ってるだけだ。そして、わしはこんな服を着て二度とお前にお目にかかりはしないだろう。わしが、こんな服を着るのは間違っている。わしが鍛冶屋からはなれたり、台所からはなれたり、いや、沼地から離れるのは、間違っている。
もしわしが仕事着を着て、鉄槌を、いやパイプでもいい、手にもっていたら、おまえはわしにこの半分も落度を見つけはしないだろう。それから、かりにおまえがわしにあいたいと思ったとして、もしおまえがやってきて鍛冶場の窓からのぞきこんで、鍛冶屋のジョーが焦げ後だらけの前掛けをつけて、昔ながらの鉄敷にむかって、昔ながらの仕事をやっているところを見たとしたら、この半分もわしに落度を見つけはしないだろう。わしはおそろしく頭がにぶい。が、とうとうなにかしら正しいことをこれからたたきだしたことと思う。
じゃ、さようなら、ピップ、さようなら!」
(ディケンズ「大いなる遺産」)

僕もジョーみたいに、なにかしら楽しいことできて(書いて)、辛いことが、今はひどいけど、それがだんだん薄れて、楽しいことを楽しめて、それを書いて、皆さんにも楽しんでいただけるようになれたらいいなと思っています。

大いなる遺産 (上巻) (新潮文庫)
大いなる遺産 (下巻) (新潮文庫)


これ、大切な友達に教えてもらった本(本当にありがとう)で、苦しいときに読んでます。うつ病の実践的な詳しいことと辛いときの対処法が載っていて良い本です。ありがとう。

うつ病の人にとって、考えないようにするという努力は必ず失敗する。患者の脳は、そうはたらくしかなくなっているのである。

不快な思考をどうにかしてやろうとする方法は、うまくいかないばかりか、うつ病の人には逆効果である。その理由は二つあり、第一の理由はしごく単純である。つまり、何かを考えないようにするということは、考えないようにすると考えていることで、結局、心はそのことに囚われている。第二の理由はうつ病の人は自己批判的になりすりるというところにある。「問題を考えるのを止めろという友人のアドバイスは間違っている」などとは考えず、「自分に間違ったところがある。私の心は弱いんだ。このパターンから抜け出さなくは」と考えるものなのである。そしてさらに意気阻喪して、憂うつになる。

そこで、もっと穏やかで受動的なやり方のほうがうまくいくかもしれない。仮に以下のやり方がうまくいかなかったとしても、患者のせいではないということを忘れないように。単にこの方法が良いやり方ではないというだけのことかもしれないのだから。

穏やかに「意識を逸らす」アプローチは、基本的に次のように考えるようにするところからスタートする――うつ病が適切に治療されないうちは、頭のなかに非現実的な不安や、しつこい自己不信や、つらい自己批判や、苛立ちや、陰気な考えが浮かんでくるのは防ぎようがない。これはうつ病の症状であって、熱がインフルエンザの症状であるのと同じである。残念な考えかもしれないが、すくなくとも自分でどうにもならないことに対して、不当な責任感を抱かずにすむ。

次に、患者の心の中に、自分が正当な理由もなく落ち込み、心配し、苛立っているということを理解している部分が、ほんのわずかでもなければならない。そのわずかな合理的意識を利用して、気持ちを別の方向に向けるのである。もし全面的に問題を考え続ける気持ちしかないのなら、意識を逸らすことなどできはしない。

自分のなかに不快な思考や感情があることを認め、それがうつ病の症状であると考えられるようになったら、少しずつ、意識の焦点を他に移していくことを試みる。問題の思考が頭の中に浮かんでくることは防ぎようがないだろうが、うまくいけば、ときおり他のことを考えられるかもしれない。注意すべきは、うつ病のときは、心の中の声が、今心配し、落ち込み、苛立っていることに注意を向けるのが大切だと休みなく訴えかけてくることである。この心の声にはとても説得力がある。けれども、少しでもその声を信じてはいけない。不快で強迫的な思考や感情から注意を離せば離すほど、その声は小さくなる――少なくともしばらくは。いったん注意を逸らしたら、それで終わりと思わないほうがよい。最初のうちは、この努力を何度も繰り返さなければならないだろう。意識を逸らしたと思っていても、ふと気がつくと、もとの心配や、不快なイメージや感情が戻ってきているのである。

中程度より軽いうつ病で、何か楽しめることのある人は、その楽しいことや、自分が立派に感じられること、幸福感を高めてくれることなどに意識を向けてみる。子どもがいる人なら、自分が人生で何も成し遂げていないという思いに苛まれているとき、子どもと遊んでみるといい。子どもたちのほほえみ、走り方、たわいのないおしゃべりやしぐさ。そんなちょっとしたことに目を向けてみよう。心配事や、自分のダメさ加減に気持ちが戻ってしまっていることに気づいたら、まず、うつ病のはたらきだからそれはしかたがないことと受け入れ、それから穏やかに注意を子どもたちに向け直す。子どもがいない人や、ほとんど何も楽しいと思えなくなっている人は、日常の雑用に注意を向けてみよう。心配事に気持ちが引き戻されたときは、何度でも注意をむけなおさなければならない。これは正常なことなので、あきらめずに続けること。繰り返しているうちに、だんだん注意を向けなおせるようになっていくものである。

心配したり、憂うつになったり、苛立ったりしているのが、うつ病のせいできちんとした理由もなくそうしているのかどうか、自分でもはっきりしないときには、信頼できる家族や友人、セラピストに話をするといいだろう。うつ病で生まれる考え方は、なかなか巧妙にできていて、その思考や感情が本当はうつ病の症状であることが見抜けないことがある。そんなとき他人の見方はとても参考になる。

適切な治療を受けいていたとしても、うつ病の人というのは、本人が望んでいるほどストレスに強くなく、ストレスのもとで不快な気分を抱きやすい。気分障害とは基本的に、ストレスに対する許容量の先天的な不足であるということを思い出して欲しい。たいていのひとは身体のホメオスタシスのメカニズムが働いてバランスをとっているが、うつ病の人では、このメカニズムに、気分を安定させる仕事をこなす十分な能力が欠けている。脳の生化学機能がわりあい簡単にバランスを崩してしまうのである。人と話すことにより、いろいろなバランスを維持しやすくなる可能性もある。
(ブライアン・P・クイン「「うつ」と「躁」の教科書」)

今日、凄く辛いことがあって、お腹が痛くなって下してしまって、ずっと腹痛が続いてて、凄く辛かったんですが、この本、とても優しく真面目にうつ病の人向けに書かれた医学書でこれ読んで、まだ腹痛ひどくて辛いですが、少し楽になりました。助けてくれる人がいて、本当にどうもありがとう。

「うつ」と「躁」の教科書


今日、朝、凄く辛いです…。
どうしたらいいかわからない…。

辛いこと書いちゃってごめんなさい。
なるべく楽しいこと書きたいなと思います。

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