2017年01月15日 03:20
「蜘蛛ですが、なにか?」漫画版読了。これってスタニスワフ・レムの「仮面」ですね…。レムの作品と違い、蜘蛛の生理に従うことに全く葛藤しないのが凄いなあ…。
WEBで読める漫画「蜘蛛ですが、なにか?」全話読了(原作小説は未読)。元は人間の女性であったが、人格はそのまま継続性を保ちながら殺戮マシンとしての巨大蜘蛛に変貌するヒロイン(そして蜘蛛になったことで人格もまた変貌してゆくヒロイン)って、スタニスワフ・レムの傑作「仮面」みたいな話ですな…。しかし、レムの「仮面」とは違い、「蜘蛛ですが、なにか?」は女性的人格から殺戮マシンとしての巨大蜘蛛そのものに変貌すること(殺戮マシンである巨大蜘蛛の生理に従うこと)への順応が滑らかでヒロインに一切葛藤がないのが凄い。ううむ…。
ヤングエース公式サイト「蜘蛛ですが、なにか?」(全話)
https://web-ace.jp/youngaceup/contents/1000013/episode/
レムの作品だと蜘蛛になった後の愛が殺戮マシンとしての蜘蛛としての生理機能と葛藤しているところがドラマになっているんですが、「蜘蛛ですが、なにか?」はそういうドラマツルギーが全くなくて、ただひたすら殺戮マシンとしての蜘蛛の生理的本能に従って自己を強化していくことが全てなのが、「蜘蛛ですが、なにか?」の凄いところだなと感じました…。「蜘蛛ですが、なにか?」の場合は元人間の女性の人格を蜘蛛になった後も保持している意味はほとんどないように感じます…。「仮面」に比べると人間性の底が抜け落ちていてぽーんと突き抜けちゃっている…。レムの「仮面」は大傑作ですが、これ(蜘蛛ですが、なにか?)はこれで凄いなあ…。
生命の自己意識は、常にその生命の宿る肉体の生理機能と共にあるということを描いている点で両作品は共通していますが(人間としての自己意識を持つ人間だったものが、人間とは全く異なる肉体と生理機能を持つ存在に変貌したら、人間としての意識も別物に変貌せざるえないということ)、それについて、レムは人間の肉体の自己意識と人間ではない肉体の自己意識の間に共通するものとして、「愛」「理性」そして「理性に基づく愛」というものを持ってきている訳です。
「蜘蛛ですが、なにか?」の場合は、そういう共通する精神性は何もなくて、ただ自己保存の為の戦略的自己強化、自己の生存だけが全ての基軸になっている。ある意味、レムよりもずっとリアル・グロテスクな剥き出しの世界ですね…。「蜘蛛ですが、なにか?」なかなか凄い見事な作品だと感じました。
短篇ベスト10 (スタニスワフ・レム・コレクション)
著者:スタニスワフ・レム
国書刊行会(2015-05-25)
販売元:Amazon.co.jp
蜘蛛ですが、なにか? (1) (カドカワコミックス・エース)
著者:かかし朝浩
KADOKAWA/角川書店(2016-07-07)
販売元:Amazon.co.jp
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ヤングエース公式サイト「蜘蛛ですが、なにか?」(全話)
https://web-ace.jp/youngaceup/contents/1000013/episode/
「スタニスワフ・レム 短篇ベスト10」
http://piaa0117.blog6.fc2.com/blog-entry-2139.html
もちろんこの作品集で注目なのは今回初めて読む短編「仮面」である。これは短編としてはかなり長い作品で、ほとんど中編小説と言っていい分量がある。
中世の封建社会を思わせる世界を舞台に、美しい女性として突如意識を持った「私」は、その「意識」に違和感を持ちながらも舞踏会で知り合った男性アルロードスと愛し合うようになる。ところが自分の体の中に異常な要素を認めはじめた「私」はあるきっかけでまるで昆虫のような凶暴なマシンの姿に変態する。自分がアルロードスを殺害するために国王によって送られた刺客のマシンであることに気づいた「私」はアルロードスを追跡する。殺害という「使命」と愛という「意識」のせめぎあいに疲れた「私」は救いを求めて教会を訪れる。
これはすごい。だって展開がラノベそのもの。上のストーリーだけ読ませられて日本のアニメのストーリーですと言われても全く納得だと思う。今となってはもはやこれがレムでなければ書けないような作品だとは思えない。とは言え内容は「認識」や「実在」に迫るシリアスなもので、特に前半部分の、「私」が確固たるアイデンティティを得ないまま手探りで進むような曖昧な一人称に徹したその描き方などはさすがにレムだとは言えるだろう。これが書かれたのは1974年。時代を考慮すると驚くほど独創的な作品であることに議論の余地はない。レムにしては珍しく、物語に宗教的な光を当てている所も見逃せない。あえて女性らしい「です・ます」調で書かれた翻訳もよい。
彼は考え込み、それからこう言って、私を驚かせました――「わたしはおまえのような機械については、少しも知らないが、お前を見、聞いていると、おまえの言葉の中から、お前が剥き出しの理性として立ち現れてくるように思われる。理性といっても、それを縛りつける強制力に支配されてはいる。でも、このようにして私に話しかけてくるということは、機械よ、おまえはその不自由さと闘っているのだ。そしておまえは、『おまえから殺人の意志が取り除かれれば自由だと感じる』と、言うのだな。どうだ、その意志を抱えているおまえの居心地は?」
私はそれに対して、こう答えました――「神父さま、あるいは、私の居心地はよくないのかもしれません。しかし私は、どのようにして跡をつけるか、追うか、迫るか、覗くか、聞き耳を立てるか、忍ぶか、隠れるか、そして道に立ちふさがる障害を破るか、忍び寄るか、欺くか、回るか、周回の輪を狭めるか、といったことならば、すべて習熟していますし、そういったことを、素早く確実に行うこと、それによって、己を呵責ない宿命の宣告そのものに変えることは、私に満足感を与えます。きっと、それもまた私の内臓のなかに火によって書き込まれているのでしょう」
(スタニスワフ・レム「仮面」「短編ベスト10」より)
レムの作品だと蜘蛛になった後の愛が殺戮マシンとしての蜘蛛としての生理機能と葛藤しているところがドラマになっているんですが、「蜘蛛ですが、なにか?」はそういうドラマツルギーが全くなくて、ただひたすら殺戮マシンとしての蜘蛛の生理的本能に従って自己を強化していくことが全てなのが、「蜘蛛ですが、なにか?」の凄いところだなと感じました…。「蜘蛛ですが、なにか?」の場合は元人間の女性の人格を蜘蛛になった後も保持している意味はほとんどないように感じます…。「仮面」に比べると人間性の底が抜け落ちていてぽーんと突き抜けちゃっている…。レムの「仮面」は大傑作ですが、これ(蜘蛛ですが、なにか?)はこれで凄いなあ…。
生命の自己意識は、常にその生命の宿る肉体の生理機能と共にあるということを描いている点で両作品は共通していますが(人間としての自己意識を持つ人間だったものが、人間とは全く異なる肉体と生理機能を持つ存在に変貌したら、人間としての意識も別物に変貌せざるえないということ)、それについて、レムは人間の肉体の自己意識と人間ではない肉体の自己意識の間に共通するものとして、「愛」「理性」そして「理性に基づく愛」というものを持ってきている訳です。
「蜘蛛ですが、なにか?」の場合は、そういう共通する精神性は何もなくて、ただ自己保存の為の戦略的自己強化、自己の生存だけが全ての基軸になっている。ある意味、レムよりもずっとリアル・グロテスクな剥き出しの世界ですね…。「蜘蛛ですが、なにか?」なかなか凄い見事な作品だと感じました。

著者:スタニスワフ・レム
国書刊行会(2015-05-25)
販売元:Amazon.co.jp

著者:かかし朝浩
KADOKAWA/角川書店(2016-07-07)
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