2016年12月06日 02:29

つるの剛士氏「いくら政権を罵倒しようが、ココロの中の貧しい言葉が有る限り永遠に貧困から逃れられないよ」イエス・キリスト「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」

考えたら、つるの剛士氏って、ちょうどイエス・キリストと逆のこと言ってるんだなあ…。つるの剛士氏の行動、自身が有名芸能人であるという立場から生まれる自らの持つ大きな影響力の自覚の元にツイッター上で現政権に阿諛追従して貧しき人々を蔑視し抑圧する発言を繰り返すその姿はまさに現代日本の律法学者・パリサイ人と呼ぶに相応しい抑圧者ぶりですね。貧しくて気力が落ちている人は、現代のパリサイ人つるの剛士氏の言葉よりも、イエスの言葉を受け止めて欲しいですね…。

禍いだ、お前達律法学者とパリサイ人よ、偽善者どもよ。お前達は石灰で〔白く〕塗られた墓そっくりである。外側は美しいが。内側は死者の骨とあらゆる不浄に満ちている。このようにお前達も、外側では人々に義人らしく見えてはいるが、内側は偽善と不法で満杯である。
(マタイによる福音書)

イエスと律法学者・パリサイ人の違いはなんですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12130548997
律法学者・パリサイ人について、なぜイエス様が否定的だったのかは、マタイによる福音書第23章に長々と書かれていますので、まずはお手持ちの聖書でお読み下さい。長いので、ここには書きません。

イエスと律法学者・パリサイ人の大きな違いは、「そこに愛があるか否か」でしょうね。

本来、律法とは十戒を基本とした正義、慈悲、誠実の為の教えなのですが、パリサイ人は律法を重視するあまり、本質からそれ、律法を守る事のみに執着したからです。

律法を重視するあまり、解釈が細分化し、「せねばならない」項目が248、「してはならない」項目が365と増え、これらの律法を守り抜かなければ天国には行けないとしました。

その為なら人を見捨てる事もありましたし、そもそも貧乏人には律法を守る事は困難なのです。

十戒には、「安息日を心に留め、聖別せよ。主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」とありますが、ユダヤ教では安息日中は調理や明かりを灯す事も労働とされ、これを守ろうとすると食事が出来なくなってしまいますので、お金持ちは貧者を雇い安息日を守りました。(現在は、タイマー付きの調理器具や照明で全て解決)

お金持ちはその財力により律法を守り通し、神殿にたくさんの捧げ物をする事で正しい人、天国へ行く人とされ、貧乏人は生活の為とはいえ律法に背きますから正しくない人、天国には行けない人とされました。

お金持ちの為の宗教になってしまい、貧乏人や弱者が決して救われる事の無い宗教になってしまったのです。
お金持ちにとって都合の良い世になるのは今に始まった訳ではなく、昔からそうだったのですね。

「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」
(新共同訳聖書 マルコによる福音書 第3章4節)

そこでイエスキリストは、罪人を招き、安息日であっても病人を癒されたのです。

これはパリサイ的信仰では正しくない行いですが、律法の本質としては正しい事でした。

神の教えを守る為、パリサイ人の律法をことごとく破り、否定しましたので、人々を惑わし神を冒瀆したと見なされ逮捕、処刑されたのです。

国や宗教により虐げられていた貧者や弱者を取り入れ、急速に勢力拡大したイエス教団は脅威だったのでしょう。
お金持ちにとって都合の良い世を変えられるのは嫌だったんだと思います。

福音書のことば 11心の貧しい人は幸い
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-458.htm
草柳:旧約聖書から新約聖書の福音書の中のイエスのことばを読む解く、というテーマで続けてまいりましたが、今回で十一回目になりました。今日取り上げるテーマ、言葉は「心の貧しい人々は幸いである」という、有名な言葉なんですが、一見しますと、何故心が貧しいと幸いなのか。ちょっと常識からかけ離れた言い方を、何故イエスはしたのか。イエスは、この言葉で一体何を言おうとしたのか。特に「幸い」という言葉を巡って、いつものように上智大学教授の雨宮慧さんにいろいろと話を伺ってまいります。よろしくお願い致します。(中略)

雨宮:そうですね。「貧しい」という言葉の意味が問題なんですけれども、基本的にはやっぱり「困窮している」という意味合いの言葉ですから、だから普通だったらば、やっぱり「豊かな人の方がいい」と考えますから、「何で貧しい人は幸いなのか」ということになりますですよね。「心の」と訳しているんですけれども、これは原文では、「霊」という言葉が使われておりまして、「霊によって貧しい」と訳すことも可能ですし、「霊を用いて、貧しく生きている」という意味にとることも可能です。

例えばフランチェスコのように、神の霊、あるいは人の霊や自分の霊によって貧しい生活を選んでいくわけですよね。で、その中に兄弟としての生き方を見出していく、ということだと思いますけれども、そういう意味に取ることも勿論できます。だけれども、「霊において、霊に関して貧しい」と訳すことも可能です。

「霊」という言葉なんですけれども、日本語の「霊」とはちょっとニュアンスが違うなと思います。日本語で言えば、「気」という言葉がありますね。それに近いんではないか、と思います。何かそのものの本質と関わりのあるものなんですけれども、簡単には捉えられない、と言いますかね。でも本質的な力として捉えられているわけです。それは「神の霊」という場合もありますし、「人の霊」という場合もあるわけです。その「霊において、霊に関して貧しい」というんですから、「元気がない、元気が欠けている」という意味合いになっていくかな、と思います。

だから「消沈している人」と言いますかね。どういう場合に「消沈しているか」と、いろいろな場合が考えられるわけですけれども、多分自分の弱さでようかね、正しく生きたいと思っても、いい加減なことになっていくとか、反省するんだけれども後悔にしかならない。そういう人のことを「霊に関して貧しい人」と言っている可能性があると思います。

草柳:自分自身では何か、例えば事が起こった時に、自分の心の中では、それをどうすることもできない。あるいはもっと言えば、どうすることもできないという自分自身のことについて、こう知っているという、そういう状態、というふうに捉えてもいいでしょうか。

雨宮:いいんでしょうね。ですから自分の現実をまず隠さないで認めているんですね。正直に認めているから、気・霊において、貧しい、元気がない、悄気(しょげ)ている、ということになるかと思います。

草柳:仏教の方の言葉では、例えば「煩悩」という言葉をよく使いますよね。これは一般的な使い方もされるわけですけれども、「心の貧しい人」というのは、ある意味ではそういう「煩悩に苛まされている自分自身、自分の心」ということにも繋がっていく気がするんですがね。

雨宮:繋がっていると思いますね。ですからイエスがあの言葉を語ったとされているわけですけれども、旧約聖書にまったく同じ使い方というのはないんですね。だけども「霊」という言葉との関係でいうと、やっぱり自暴自棄に陥っているとか、そんな意味合いで使っている場合がありますので、ですからイエスは、「霊において貧しい」と言った時に、煩悩も含めて自分の力の限界というものにほんとに力をなくしている、といった意味合いで使っているんじゃないかと思います。 (中略)

私はこんなふうに思いますね。ルカは、「神の国はあなた方のものである」。二人称にしていますよね。あの二人称の方が、多分イエスの言葉に近いだろう、と思うんですけれども、先ほど申し上げたように、二人称使ったということは、どうしてもそう言ってあげたかった、ということなのかなと思うんですよね。それもただ単に、人間としての同情というだけでなくて、神様というのは、そういう方なんだ、ということを、イエスは強く信じていたんじゃないでしょうかね。ですから、「何故心の貧しい人は幸いなんだ」というふうに言われたら、「イエスが言ったから」としか言いようがない、と、私は思います。少なくとも、ルカやマタイは、イエスの言葉の中に、いわば神自身の言葉を聞いている、ということではないか、と思います。

草柳:旧約の精神を、今二人の作者が、どちらが色濃く継いでいるのかな、というふうに考えると、なんとなくマタイの方が継いでいるな、という感じが致しますね。  

雨宮:マタイの方が旧約に近いと思いますですね。例えば「義」というような言葉を好んで使う。しかも「神の義」の意味ではなくて、「人の義」の意味で使っている可能性が非常に高い、と思うんですけれども、そういう使い方からも、旧約聖書に近いのはマタイということになるかなと思います。

草柳:いずれにしても、貧しさとか、飢えだとか、悲しみだとか、そういう人たちが幸いなのだ。マタイの場合には、「何故ならば、天国はその人たちのものだからだ」という形で閉めているということですね。

すべて自分自身を高くする者は低くされるだろう。しかし自分自身を低くする者は高くされるだろう。
(ルカ福音書18-14)

この言葉は、文脈が全く異なる14-11にも見い出されるので、元来はいかなる文脈とも無関係に、単独で言い伝えられてきたイエスの言葉であろう。神の前で自分の正しさを誇示する者は、神によって退けられ、自分の限界を謙虚に認める者は、神によって受け入れられるであろう。

ルカはこの言葉を「徴税人とファリサイ人」の譬えの最後に置き、譬えで語られている次のような事柄の理由を説明する句として用いている。

ファリサイ人と徴税人が神殿境内で祈っていた。ファリサイ人は、徴税人のような不正をしていないことを神に感謝し、週に二度断食をしており、「十分の一税」(毎年、地の産物の十分の一を神殿に捧げる規定。申命記14-22〜23参照)を払っていることを神に誇示した。それに対して徴税人は、自分が「罪人」(当時の通行税徴税人は非常に蔑視され罪人と同列視されている貧しい職だった)であることを認め、神に慈悲を乞うていた。イエスは、自分を義人であると自認し、他人を軽蔑している幾人かの聴衆に向かい、徴税人の方がファリサイ人よりも神に義とされて家路につくであろう、と言い、その理由として冒頭の言葉を語った。
(聖書名言辞典)

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