まず始めにギフト券ありがとうございます。とても助かります。スペースダンディは本当に良い作品でした。ぜひ三期を期待したい作品ですね…。

少し前にライトノベルは馬鹿にされているということが話題になったようなので今回はそのことについて少し書いてみようと思います。

ライトノベルが馬鹿にされがちな三つの理由
http://kazenotori.hatenablog.com/entry/2015/01/31/171831

上記ブログさんのエントリーがこの話題の発端だと思うのですが、僕個人の意見としては、ライトノベルは寧ろ読書家、文芸界隈では、新規の文学として評価されているように見受けられるのですね。寧ろ、その新規な文体の文学的評価は一般にベストセラーになるような純エンターテイメント小説より高く評価されていたりするように思います。

文芸批評家の福田和也さんは、舞城王太郎の斬新さを最も早く見出して評価した論者ですが、舞城王太郎や佐藤友哉のようないわゆるライトノベル界隈の作家の文体(即物的・反写実的・断片的・子供っぽい内容・ミニマルな文体)を評価していて、僕も賛成ですね。以下、少し長いですが引用致します。

舞城王太郎が、平成10年以降を代表する、あるいは象徴する作家であることはたしかなことだろう。舞城の存在、あるいは作品は、明確にある切断を示している。

その断面を分かりやすく言えば村上春樹的なものとの徹底的な決別にあるだろう。村上春樹の特徴が、(小説技法の)技術的な洗練、対象との距離の保持、趣味の良いポピュラリティ、倫理への問い、ストイシズム、成熟だとするならば、過剰と混沌、技術への軽蔑、悪趣味、衝動、幼児性に彩られている舞城作品は、まさしく対極に位置すると言っていいものだ。(中略)

(舞城作品の)その他の登場人物といえば、ほとんどポンチ絵的に類型的な、つまりは中学生が漫画やテレビなどから作りあげたような存在でしかありえない。冒頭のサンディエゴの病院は、著者独特の手数の多い饒舌さで語られるけれども、そのリアリティを支えているのは、あくまですべてを自らの了解の中に閉じ込めてしまう断定と童貞的な、つまりは知らないがゆえの全能感である。(中略)

メディアで問題にされるような事件を主題として考えるならば、幼児性を帯びて現れる舞城作品の暴力こそが、現実的なのだといえるかもしれない。たとえば、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」における、ノモンハンでの皮剥ぎの拷問や、新京の動物園での射殺といった目的を持った暴力は、むしろファンタジーの極みであり、今日における暴力は、舞城の、荒唐無稽にすらなりきれない、未熟さ、認識と想像の欠如に発するものではないか。

だとすれば、舞城作品がまとっている、幼児性、子供じみた、肉親とクラスメートしかいない世界もまた、今日の現実感覚に沿っているのかもしれない。さまざまな他者との接触、親交、対立などを通して、人格なり見識なりを育んでいけるような「社会」などというものは、もはや、存在しないのかもしれない。(中略)

それはただ、社会的訓練ができていないなどと非難される若い人たちのことだけではないだろう。市場とネットワークに適応し、分かりやすい成果を追求する人々にとっても、社会などないのかもしれない。いわゆる経済小説のたぐいに、市場の幻影以外には人らしい人が出てこないことを考えれば、舞城作品は、むしろ社会の不在を忠実に表現しているとも言える。

少なくとも、舞城王太郎は、自作の幼児性については意識的である。それはいわば作りこまれた幼児性であり、成熟の不可能性を認識する遥か手前、ただ子供として癒され、慰められ、満足させてもらうことを求めている、そういった欲望しか抱き得ない存在として「俺」は造形されている。しかしまた、同時に「俺」は、それが安っぽくなさけないことだということを熟知している。(中略)

(おふざけ・ナンセンス・幼児的衝動によるアンチヒューマニティの舞城作品は)だからこそ、推理小説の正当に連なると見るべきなのだ。というのも推理小説というジャンル自体が、人間性の軽視、ヒューマニティの縮減を必然的に要請するからである。

エドガー・アラン・ポーの作品と理論が、ボードレールをはじめとするフランスの詩人達から熱狂的に受け止められたのは、そこにロマン主義が肥大化させきった人間性を、ヒューマニティに対する誇大妄想を、打破する契機を見い出したからに他ならない。(中略)

佐藤友哉作品では、本来もっとも作者が力を入れて書くべき箇所、さまざまな意味でクライマックスとして措定されるべき部分が、故意にか、無意識的にか、もっとも平板に書かれている。(中略)

(佐藤作品の重要箇所での文体は)小説の記述というよりは、むしろ芝居のト書きに近い文章だろう。「ただ動くだけ」というフレーズが、二度使われているなど、文章というよりむしろ記号、あるいは合図といった方がいいのかもしれない。「ここは、こういう場面なんだから、分かるでしょ、まあ、そういうことで」というような。(中略)

こうした事態(文体の反写実性・断片性)はおそらくライトノベルとよばれるジャンル全体に見られるのだろうが、佐藤の場合それは、技巧の欠如とか、煩雑さの回避、情報量の低減による読者への迎合といったことではない、より本質的な事のように思われる。

それはおそらく、写生文が作り出してきた、近代日本小説の時間と内面を解体しようとするような、そこまでいかなくとも対抗しようとする潮流を代表するように思われる。
(福田和也「現代人は救われ得るか」)

ここで述べられてる「写生文が作り出してきた、近代日本小説」というのは、大河ロマン小説なんかが特徴的ですが、登場人物達の行動(=行動と直結した内面)やその舞台に一貫性のある整然とした小説のことです。村上春樹さんの1Q84なんかそうですね。あれはポストモダン風に見せかけた、実は完全にモダニズム長編大河小説という感じでした。

福田和也さんなどの文芸批評家は、もう日本の現代社会においてはそういった行動=内面や舞台=社会の一貫性は解体されてしまっているし、そういった解体後の世界(現代)においては、むしろライトノベル的断片文体の方が、少なくとも読み手にとってはリアリティのある世界を描いていると述べていて、なるほどなと思いましたね。吉本ばななさんや川上弘美さんの作品なんかも、その点でライトノベルに通ずるなと思います。

ドゥルーズ Gilles Deleuze(1925-1995)
http://www.ne.jp/asahi/village/good/deleuze.htm
ドゥルーズは、健全な「欲望」の姿と本当の「私」のあり方を、語っている。以下は、二十代の女性が酔って書く日記の一節。

「私の心と私の言葉の間には、決してうめられない溝がいくつもあって、それと同じくらい、私の文章と私の間にも距離があるはずだ。
 でも一般にみんな、日記に向かうとき素直になっているような気になっている感じがして、気持ち悪いから何となく日記は気取っていて、いやなのだ。
 本当に人を救う尊い仕事をしている男が、ある朝交差点で世にもHなお姉さんの後ろ姿に勃起し、さらにその日のうちに幼い娘に八つ当たりし、妻と話しあって高次の愛に接したら、それはみんなその人で、その混沌が最高なのにみんな物語が好きだから、本人もそうだから、統一されたいと願ったり、自分をいいと思ったり悪いと思ったり、大忙しだ。
 変なの。」(吉本ばなな『アムリタ』)

これは意図的に幼稚な感じの文章で書かれている(吉本自身の文章は名文だ)が、言っていることは誰でも判る。人間の経験は、多様で、「分裂病(=統合失調症)」的であるということだ。にもかかわらず、われわれはそれらを、例えば「立派な先生」といったような、一つの「物語」に統一することを異常に好む。そうであるがゆえに、自分を誤解してしまう。ドゥルーズが批判しているのは、「みんなが好き」な、こうした「物語」だ。そうした「物語」の親分(=元締め)が、フロイトの言う「オイディプス(エディプス)・コンプレックス」である。(中略)

『リゾーム』(『千のプラトー』第一章)

「リゾームになり、根にはなるな、決して種を植えるな! 蒔くな、突き刺せ! 一にも多にもなるな、多様体であれ! 線を作れ、決して点を作るな! スピードは点を線に変容させる! 速くあれ、たとえ場を動かぬときでも! 幸運の線、ヒップの線、逃走線。あなたのうちに将軍を目覚めさせるな! 正しい観念ではなく、ただ一つでも観念があればいい。短い観念を持て、地図を作れ、そして写真も素描も作るな! ピンクパンサーであれ、そしてあなたの愛もまた雀蜂と蘭、猫と狒狒のごとくであるように。」(宇野邦夫他訳)

「リゾーム」とは、「根茎」とも訳されるが、地中でジャガイモの根が相互に繋がりあうように、どこにも中心のない相互関連する組織を言う。これには、同じ一つの幹から順次に枝分かれしてゆく権威主義的な「樹木(ツリー)」が対置される。
『リゾーム』の翻訳は20年くらい前に出たので、その時に読んだ覚えはあるが、その意味がやっと分ったのは、インターネットの時代になってからのことである。

アムリタの上記文章のオマージュを舞城王太郎さんは作品世界の中で述べていますね。

人生は混沌として文脈も主題もなく連続性すら時として失われてしまう。そこにはそもそも理由も原因も根拠も無く結果も帰結も結論も無い。それはまるでとてつもなく眠いくせに妙に興奮している小学生のだらだらした独り言のようなもので注意して確かめればあらゆる種類の馬鹿げたことや驚嘆すべきことや退屈でありふれたことが脈絡なく羅列されてることに誰だって気づく。曖昧さと混乱、それが結構人を疲れさせるのだ。
(舞城王太郎「煙か土か食い物」)

結論としては、ライトノベルは寧ろ文芸畑では、日本のポストモダン文学としてかなり評価されているという感じです(文学フリマなどの影響もある)。特にラノベ独特の文体はまさしくポストモダン文学の潮流と呼べるものと思います。ライトノベルを読みもしないで馬鹿にする人がいたら、その人こそが実は読書家ではないと判断できるという感じでしょうか。ある程度の読書家であれば、ライトノベルを評価するか否かはともかくとして、まずは慎重に個々の作品を読んでから判断する為、ライトノベルを一概にして馬鹿にする人はいないのではないかと思います。

現代人は救われ得るか―平成の思想と文芸
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