2011年09月23日 19:09

amazonギフト券を贈って頂き、ありがとうございます。心から感謝致します。テレマンのクラシック・ミニマル・ミュージック。

Telemann Edition

amazonギフト券を定期的に贈って頂き、ありがとうございます。とても生活が助かって、心から感謝致します。僕は収入がamazonアフィリエイトしかないため、生活費が減ってくると、アフィリエイトの収入にあまりならない話題、クラシック音楽の話題とか書きづらくなってしまうのですが(僕のアフィリエイトの収入は1日数百円で、ゲームの話題で1日300円〜200円、クラシック音楽の話題で1日100円〜200円といった収入ですが、生活費がなくて困っていて、1日100円であっても重大問題です…)、amazonギフト券を贈って頂けると、一息ほっとつけて安心できて、自由に好きな話題が書けて、その点でも、生活と共に精神的にもとても助けられており、本当に感謝致します。ありがとうございます。

僕はクラシック音楽とミニマル・ミュージック(最小単位の音を反復させる音楽。日本ではスタジオジブリの音楽で知られる作曲家久石譲さんなどが代表的作曲家)が好きなのですが、クラシック音楽でなおかつミニマルミュージックという、僕の好みにどんぴしゃりな面白い音楽アルバムを聴いたのでご紹介致します。テレマンの「三つの組曲」(Telemann「3Ouvertures」)です(図書館で借りたのですが、残念ながら絶盤のようです…)。最小単位の音での反復が多くて、吃驚するほどミニマルミュージックなんですね…。特にライナーノーツにも書かれているように、組曲「古今の諸国民」の第五曲「モスクワ人たち」は、現代ミニマルミュージックとして提示されたら、「この作品が実は1704年〜1706年の間に作曲されている」なんてことが分かる人はいないのではないかと思いますね…。驚くべき現代性です。18世紀の始めに既にこのような音楽が生まれていたとは驚きであり、面白いことですね。

(テレマン「三つの組曲」の)最初の組曲「古今の諸国民」の各曲の表題、「トルコ人たち」「スイス人たち」「モスクワ人たち」「ポルトガル人たち」などが、(テレマンの音楽のベースであるイタリア・バロックだけでなく)地方色やエキゾティスムの香りを帯びていることは言うまでもない。(中略)

『古今の諸国民』の第5曲「モスクワ人たち」を聴いて、ゾクゾクするような音楽的楽しみを覚えない人はいないだろう。このたった1分30秒の曲には何と不思議な魅力と迫力があるのだろう。たった3音が、等価で順次上行する音型の一糸乱れず執拗に反復される低音の上で、パターン化はされているものの、リズミックにしなやかに自在に動く旋律は、生き生きとアラベスク模様を描いていく。バロック版ミニマル・ミュージックとでも呼びたくなるような、異色の一章である。(中略)

(演奏者の)ラ・ストラヴァガンツァは、バロック特有の「風変わり」、テレマンの「とてつもなさ」を見事に現代に届けてくれた。
(テレマン「三つの組曲」ライナーノーツ)

ライナーノーツには、「テレマンは18世紀の始め1704年〜1706年の僅か二年の間に総数200曲という現存するテレマン作曲楽譜の多くを執筆したが、それらは当時の音楽界である「教会」からの人気(評価)はあまりなかった」と書かれていますが、聴いているとそれが分かりますね。ミニマル・ミュージックを知っている現代に生きる人間が聴くと「おお、ミニマルそのものじゃないか、これは凄い!!」と思いますが、ミニマル・ミュージックの存在自体がなかった18世紀始めの人が聞いたら「なんじゃこりゃ???」と思うでしょうからね…。テレマンはあまりにも「とてつもなく早すぎた」という感じですね…。なんでもありのバロック音楽の中でもさらに200年分先を行ってしまったので、理解者が少なかったんだろうなと感じますね…。

テレマンのこの「三つの組曲」は、ミニマル・ミュージックであり、なおかつバックグラウンド・ミュージック(バッハのような荘厳な宗教性・ドラマ性はテレマンのこの曲集には全くなく、聴きやすい)でして、テレマンの代表曲「食卓の音楽」のように、当時からテレマンの音楽は、一般大衆が何気なく聴くバックグラウンド・ミュージック的な親しまれ方をしたというのは良くわかりますね。当時の教会は「教会で聴く重く荘厳な音楽」を求めていましたが、テレマンの音楽はそれとは対極にある、「家庭で何気なく聴く」まさに現代的音楽です。読書しながらとか、掃除しながら、とか、何気なく聴くバックグラウンド・ミュージックとして優れているというのは、音楽を格式ばらずに聴くようになった現代における最高の特質となっていると思いますね。もちろん、バッハの音楽はとても素晴らしいですが、バッハだけでは肩が凝っちゃいますから、肩の凝らない音楽としてテレマンの音楽はとても良いと感じますね…。

バッハとテレマン――歴史による淘汰?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~ubukata/3u.html
バッハの音楽の重構造性、精神性に対して、テレマンの音楽は「底が浅い」という言い方がされる。しかし、この言い方は「まじめインテリ」の立場からの片寄った評価である。バッハの音楽は農民的であり、それは、彼や彼の先祖が生きた中部ドイツのテューリンゲン地方の風土が醸成したものである。一方、テレマンは商業の風土の中で生涯の大半を過ごした。「まじめインテリ」とは、言うまでもなく、こつこつと勉強し秀才となった人たちであり、基本的気質として、農民同様、緻密さやまじめさを好む。

 こうした「まじめインテリ」たちは、例えば、テレマンが「お堅い教師」をとても勤めきれないため、その職をバッハに譲ったなどという話を聞くと、ますます「まじめなバッハ」に惚れ込み、「商売人テレマン」を軽蔑する。そして「テレマンは当時こそ最大の人気作曲家であったが、歴史の聖なる淘汰作用によって現在では存在価値は薄れ、今評価されるのはバッハの方なのだ」という言い方をする。しかし歴史とはまさに「その当時」を知ることであり、当時なぜテレマンが評価されたかを知ることにより、一八世紀前半という時代の実相を知ることが歴史なのである。

 一八世紀に人々が欲していたのは、一時の気晴らしのための音楽であり、気の利いたおしゃべりの背景に流れる気の利いたバックグラウンド・ミュージックであり、厳粛なセレモニーをより荘厳に演出したり、晴れやかな行事を一層浮き立つようなものにしたりする効果音楽であった。音楽は日常的、実用的なものであり、抽象的な想念をめぐらすための存在ではなかった。そもそも貴族たちの内輪の催しを別にすれば、現代のようなコンサート形式というものは未だ存在しなかったのである。音楽といえば、コンサートホールに行って、二時間以上も物音ひとつさせずに椅子にはりついたまま、何やら難しい顔をして、ありがたい名演奏家の顔を拝みに行くことになってしまったのは、一九世紀も後半になってからのことだ。テレマンの「実用的な」音楽が圧倒的な人気で受け入れられたのは、彼が、それぞれの機会にふさわしい音楽で人の心を楽しませる術(すべ)を最もよく心得ていた作曲家だったからである。

 まるで一八世紀の人々の趣味が現代人より劣っているかのように「歴史による淘汰作用」を語り、「バッハこそ生き残るのにふさわしく、テレマンは忘れられる運命にあった」などと歴史を裁くことは、歴史と人間への冒涜であるとしか僕には思えない。我々は今だに歴史の「発展」という幻想にとらわれている。

最後に、ギフト券を贈って頂いて本当にありがとうございます。生活がとても助かり不安が和らぎます。心から感謝致します。

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